3. グラナート・アナー Ⅰ
グラナート・アナー。
それは、彼がこの世に生まれ落ちたときに授かった名に他ならない。
誉れ高きアナー家の長男として生まれた彼は、全ての栄光を手にするはずだった。
天蓋付きのふかふかのベッドも、十二分にある広い部屋の、細やかな刺繍がその価値を物語る上等な絨毯も、籠いっぱいに積まれた水々しい熟れた果実も、舌先で蕩ける最高級の肉も。望めばフルーツと花の甘い香りのブランド品の紅茶だって、平民の一生分の給料でも手が届かない煌めくダイヤだって、額縁に収められたかの有名な画家の最高傑作だって、世界からの讃美を独占するオーケストラの音色を、モーニングコール代わりにすることだって。なんだって、手に入れられるはずだった。富と名声にあふれたアナー家の跡取りであるがゆえに。
そうならなかったのは、これから起こる惨劇に、もしくは、運命に、彼が翻弄されたからである。
グラナートは今朝のニュースペーパーを粗方読み終え、ほんのりクリームに色付いた壁に掛かる振り子時計に目をやった。
時刻は午前十一時三十一分。
べつに、変わったことなどない、ありふれたただの午前だ。もう数分すれば昼食が運ばれてくるくらいしか、この時間の意味するところなどなかった。
彼は背中からすらりと伸びた真白な翼で、傍らに座る血統書付きの犬の、湿った鼻先をくすぐってやる。しかし忠実で賢い犬はすんと羽毛から顔を逸らすばかりで、じゃれることなどしてこなかった。
グラナートは困ったように微笑むと、カモミールの紅茶が注がれたカップに口を付けた。
星籠はきれいなところだ。余すところなく、そのすべてが。楽園や天国とまで喩えられるこの場所は、グラナートから見ても常世のエデンであった。小鳥とハミングしたり、青々とした木の陰で昼寝をしたり、真夏の湖で水浴びをしたり。万人が思い描く人生賛歌を形にしたような世界を織りなしている。
だけれどそうであっても、楽しいところや面白い場所といった表現を宛てがうには、まったく首を捻りたくなるというものだった。もちろんそれは、グラナート個人の意見であったが、あながち間違いでもないだろう。今だって、まだおとなと呼べるほどに成長しきったわけでもない犬が、ひとつも吠えずに隣に鎮座しているだけなのだから。
――つまらないことだ。
みな、気を遣ってかしこまったことばかり言う。冗談のひとつも、汚い言葉の欠片さえもない。元来俺は、おしゃべりな性格なのに。せめてお前だけは、可愛らしい愛犬らしく振る舞ってくれよ――尻尾さえ揺らしてくれない愛犬に、彼はとうとう嘆息した。
毎日飲む紅茶の、飽いた味さえ面白くなくて、純白のテーブルクロスが敷かれたテーブルに肘をついた。これがマナーのレッスンであったならば、はしたない! と叱咤が飛んでくるだろう。だが今日の予定に、それは組み込まれていない。
昼食の後に待っているのは、社交ダンスのレッスンに、乗馬のレッスン、将来の花嫁候補との食事会と、極め付けはこのだだっ広い邸宅で開かれるパーティー。さて、どれだけ愛想のよい笑みを浮かべていられるか。顔の筋肉が攣る前に終わってくれることを願うばかりだった。顔をすこし俯かせれば、背中まで伸びた豊かな柘榴の髪が、赤い双眸に憂鬱な影を落とした。
こうやって小難しい学問と愛想笑いばかり得意になったって、彼はほんとうは、見てくれも体裁も地位も気にせず、年相応に甘い焼き菓子を頬張りながら友人と駄弁を弄していたかったのだ。
束の間の静寂に訪れたのは、部屋に響いたノックの音だった。コンコンと二回のノック。
――これはマズイ。グラナートは急いで立ち上がるが、その茶塗りの厳かな扉を開けたときには遅かった。
青褪めた少女の隣で、メイド長である女性が恐ろしい形相をしていた。少女が口を開くより、また、女性が怒気を孕んだ声で叱責するよりも先に、その行為は行われた。パシン――頰を打つ乾いた音が長い廊下に響く。ノックは四回がマナーだ。雇われたばかりの少女の些細なミスであるが、気高いアナー家のメイド長が許すはずもなかった。
グラナートは苦い顔をして目を伏せる。
「グラナート様、ご無礼をお許しください。後ほどお伺いさせていただきます」
「いや、いい。許してやってくれ」
深々と頭を下げるメイド長と少女は、彼の慈悲を受け
星籠から屑籠へ、月に一度、定期的に救済船が送り込まれていた。くじらのようなその巨船が泳ぐのは大海ではなく、綿雲の
屑籠へ巨船を沈めれば、そこから始まるのは漁のようなものだった。五体満足の、出来れば若い男女を、彼らが望むと望まないとに関わらず攫ってゆく。それを『救済』と
そうして、屑籠から救済された家なき子を、星籠で奴隷同然に働かせる。この屋敷も例外ではなく、グラナート自身、数までは把握しきれていないが、翼を持たない少年少女を見かけることがあった。こんな広大な敷地であっては、使用人などいくら居ても足りないくらいなのだ。
グラナートの手前で昼食の準備を淡々と進める少女は、つい最近連れてこられたばかりで、ぶたれた頰は痛々しい血色を露わにしていた。
ここで礼を欠けば、どんなに謝罪をしようが意味をなさない。教育や躾などの耳触りの良い言葉を並べて、体罰を受けるだけだ。この少女にしたって、アナー家の名に恥じぬよう上等な衣服を着せられているが、その布の下にどれほどの傷があるか知れなかった。
「ありがとう」
グラナートは精一杯優しく微笑むが、萎縮した少女の強張りはほぐれなかった。深く頭を下げ、逃げるように部屋を後にした少女の後ろ影を見送る。
――恨んでいるのだろう、この家を。屑籠がどんな劣悪なところにしろ、ここへ来たことを後悔しているに違いない。きっといつか、彼女に恨みつらみのナイフを突き立てられるのならば、それは自業自得なのだろうとグラナートは思う。
彼は暗い面持ちで椅子に深々と腰かけた。
腕の良いコックが作った、豪華な昼食が冷めていくぐらいたっぷり長い沈黙の後、窓の外で小枝に留まった白い鳥が羽撃いていった。
あの鳥はどこへ行くのだろうか。星籠から出たことさえない彼は、遠く、まだ見ぬ地へ想いを馳せた。翼があったってどこへも行けやしない。それが先の鳥と自分を画する大きな違いだった。籠の中の鳥とはまさに、自分のためにあるような言葉だとさえ思えた。
「この家はほんとうに……」
窮屈だな。ぽつりと零した言葉に、やっぱり忠犬だって応えてくれなかった。
「ほんとうに窮屈だ……」
今日二度目のその言葉は、なにも精神的な意味ではなかった。今夜のパーティーのためだけに特注した豪奢な衣装を纏って、彼はあまりの動きづらさに辟易とした。腕を軽く回してみて、どうしてぎこちない心地に思わず嘆息する。
正確に時を刻み続ける振り子時計を仰いで、こうしちゃいられないと、グラナートは急ぎ外へ出た。
広いロイヤルガーデンの一角、花のアーチがあしらわれた薔薇園。
そこはグラナートのお気に入りの場所であった。彼はべつに、薔薇や、ひいては花の類が好きなわけではない。ここへ足を運ぶ理由はたったひとつ。
薔薇園へ足を踏み入れた彼はきょろきょろと何かを探し始め、ようやく見つけた人物に満面の笑みを咲かせた。
うつくしく咲き誇る、四季咲きの情熱の花園に、それにだって引けを取らないうつくしい女性。
「オネスティ」
呼ばれた女性が行儀よくお辞儀をする。にこりと微笑む彼女の白磁の肌や宝石のようなブルーアイ、艶やかな唇にもう何度、心を射止められたことだろうか。
「グラナート様」
澄み渡るソプラノの声が、自分の名前を呼ぶたびに惑溺する感覚に陥る。彼ははにかんだ。
「やめろって、ふたりのときくらい」
「ええ、でも、誰かに見つかったら困りますもの」
「誰も聞いてやしないさ」
「今晩のパーティーに?」
「ああ。堅苦しいったらありゃしない」
彼女はグラナートの整い過ぎた身なりを上から下まで見下ろして、恍惚を浮かべた。そうして、宝物を愛でるふうな具合に、感嘆の声を漏らした。
「とても似合っているわ」
グラナートは肩をすくめた。どんな素敵な衣装を身に纏っていようと、どんな美女とダンスを踊ることが出来ようと、彼にとっては幸福になり得なかった。なぜかって、この女性が居なければ、彼の幸福は成り立たないのだから。
「君も来ればいいのに」
「わたしはただの声楽家よ。そんな資格ないわ」
彼女――オネスティという名がその全てを体現する、純潔なばかりの心の持ち主――は、グラナートに声楽のレッスンを施すアナー家の専属教師であった。持ち前の心の清らかさが彼女に優しい雰囲気を纏わせ、その出で立ちや立ち居振る舞いはまさしく天使や女神を連想させるが、彼女自身、花籠の出身で、良い家柄の出というわけでははない。アナー家にその才能を買われて雇われているに過ぎない。
だけれど、ふたりは誰がどう見たって、恋に落ちていた。誰かに見られようものなら、彼女がクビになることは間違いないのだが――それはやはり身分の差から、許されざる恋であった。
今でこそ燃え上がるふたりも、最初はほんの好奇心から、グラナートが彼女の故郷である花籠の、賑やかな祭りや思い出話なんかを聞くだけであった。それが終いにはすっかり虜になっていて、彼女も星籠以外に興味を示すグラナートが不思議だったようで、ふたりの距離が縮まるのにそう時間はかからなかった。
有翼人というのは、見目麗しいことに異議を唱える者などいないくらいに優美であったが、いかんせん高慢ちきで、花籠や、特に屑籠を見下している節があった。例に倣って彼もその一人かと思われたが、どうしたことか、彼は飽くなき好奇心で楽しそうに話を聞いてくれたのだった。
「もう戻って。せっかくのお召し物が汚れてしまうわ」
「どうせ一度着たら捨てるんだ」
「まあ、贅沢ね」
相手が彼女でなかったなら、グラナートは嫌味か皮肉のひとつでも返していただろうに、彼ときたら甘く蕩けるような笑みを浮かべるばかりで、ちっとも言葉を返さなかった。
返事の代わりに、彼はオネスティの、丸く膨らんだ腹を撫ぜる。この薄皮一枚の向こう側に眠る、愛しい我が子を思い描く。彼女は妊娠していた。赤ん坊はふたりの間に出来た子どもで、そんなことを知られては、屋敷の者に非難されるのは火を見るより明らかだった。だからこそ周囲には隠して育てていこうと決めていた。出産の予定日はもうじきで、彼女はしばしレッスンを休んでいるが、こうしてたまに密会をするのがなにより愛しい時間であった。
自分がこの家を継げば、古いしきたりなんかぶち壊して、彼女を花嫁として迎えられる。そんな夢物語のような甘い幻想が打ち破られるだなんて、思ってもいなかった。
「……じゃあ、また」
彼女は微笑んだ。手入れの行き届いた花の、成熟した美しさなど遠く及ばない、薔薇色の頬を緩ませて。
それが、グラナートが最後に見た、彼女の清廉な姿であった。
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