2. ため息とシロップ
「なんだっけ? グレート・アンセム?」
「グラナート」
つい数刻前とおんなじようなやり取りをするハメになるのは、いつものことだった。
グラナートという名が覚えづらいのかは、生まれたときからその名を持つ本人の知り得たことではないが、アンセムはやはり覚えやすいようだ。それにしたってグレート・アンセムとは、とんちんかんもいいところだ。惜しい気がしなくもないのだから、もう少し頑張れば正解に辿り着けたのではないか。そんな不毛な思考さえ煩わしくて、アンセムは首を振った。こういったことが日常茶飯事とは言え、その度に毎回名乗っていては骨が折れる。
「アンセムでいいよ。みんなそう呼ぶ」
「そうそう、アンタのことを教えてくれたおっちゃんも、なんたらアンセムって言ってたよ」
そういえばこの女は自分に用があったのだったな、思い出したようにアンセムは緩く首を捻ってみせた。
「それで? 俺を探してたって?」
「そうなんだ。アンタが一番、この街で物知りだって聞いて」
「ああ、そりゃ間違いないな。星がよく見える場所も、女をべらぼうに口説く話術も、美味いホットミルクの淹れ方も知ってる」
「どれも役に立ちそうにないな」
「俺はロマンチストでね。美味いだろ?」
「シロップがあれば百点満点だ」
「あるよ。俺も甘党なんだ」
どこから出したのか、彼は手品師のように繊細な指の上でガムシロップを転がし、そっとテーブルに置いた。その手つきになんら感動するでもなく、女は切り口を乱雑にこじ開けて、とろりとした透明なそれを全てカップへ落とす。そうして、白濁とした液体と混ざり合わないシロップを見つめて、ゆっくりとマドラーでかき混ぜると、シロップとミルクの境界が曖昧になったあたりで、彼女は一つ息を零した。
「ところでお嬢さん、お嬢さんのことについて訊いてもいいかな」
「そうだな。今の気分で名乗るなら、ミザリーかな」
「それだけか?」
「他に紹介するような自己がない」
今度はミザリーが肩をすくめる番だった。簡潔過ぎる自己紹介を終えて彼女は軽く笑う。どうやら自嘲というわけではなさそうだった。舌に馴染む単語を反芻して、アンセムは嘲った。
「ミザリーとは、また随分な名前だね」
「私は気に入ってるよ。良い響きだろう」
「ああ。惨めったらしく良い響きだ」
「アンタ友達いないだろう」
こいつのこういうところはどうしてなかなか嫌いではない、ミザリーは呆れを含んだ笑みを浮かべて、ちらりとエコーに目をくれた。
エコーは珍客に興味津々といったふうにミザリーに釘付けだった。アンセムに待てを喰らわされて大人しくしているが、ひとたびその口を開けば、今に言葉の濁流が押し寄せてくることは明らかである。
ミザリーはトーンを落とし、声を潜めて問いかけた。
「あれは彼女かい?」
「まさか! ただの同居人さ」
「それを聞いて安心したよ。アンタをロリコンと呼ばなきゃいけないところだった」
「アンタも友達いないだろ?」
「お名前は?」
ミザリーがエコーへ向き直ると、久々の客人に興奮しきった彼女は、待ってましたと言わんばかりに前のめりになりはしゃいだ。その口からは予想通り、聞いてもいない情報が雨あられのように飛び出てくる。
「ぼくはエコー! アンセムの友達だよっ! すきなものはちょこれーと! ときどき降る雨もすきだよ! かえるさんがゲコゲコ鳴いてね、ぼくも一緒にお歌を歌うの! 嫌いなものは、ううんと、ええと」
「ストップ」
アンセムが再び待てをかけると、エコーは自身の手を口に押し当てパタリと中断した。そういったところは忠犬のようであるが、まだ話し足りないと訴えるようにアンセムの目を見上げる彼女は、年相応にすこしわがままなようであった。
このでこぼこなコンビを目の当たりにして、ミザリーは興味深そうに顎に手を当てた。
「驚いた。友達がいたのか」
「アンタは黙っていれば綺麗なのにな」
「はは! よく言われるよ」
彼女は快活に笑うと、酒豪を思わせる飲みっぷりで残りのミルクを飲み干し、空になったカップをテーブルに置いて本題だ、と前置きをした。
「ここから出る方法を教えてくれ」
「玄関から出られるよ」
「ほんとうに食えない男だ。私が言いたいのは屑籠からの脱出方法だよ」
冗談を真顔で突き返され、アンセムはやれやれとこうべを振った。もうすこし乗ってくれてもいいじゃないと思うけれど、彼女の真剣さを無下にも出来ない。
「通行証は持ってないのか?」
「それはどうやったら手に入る?」
「アンタは顔や身なりは綺麗だから、てっきり“上”から来た人間かと思ったんだが。持ってないなら自分の意志でここへ来たワケじゃなさそうだな」
アンセムの言う“上”というのは、屑籠より上、人間として認められた者たちの域。つまるところ花籠や星籠を指していた。地理的な意味か、身分的な意味かはさて置いて、屑籠の人間はそのあたりを“上”、星籠や花籠の人間は屑籠を“下”と呼んでいた。
「お察しの通り。私は元々上の人間だ」
「花籠か? いや、本名を名乗らない用心深さは星籠だろうな。なんだってわざわざこんなところに?」
「没落したのさ。元貴族」
「あっはは! 貴族の没落然り、他人の不幸はどうしてこう面白いんだろうね。人の不幸は蜜の味だなんて言葉、考えた先人を称賛するよ。全くもってその通りだ」
「アンタほんとうに性格が歪んでるな」
ミザリーの嫌味を聞き流して、ひとしきり笑ったアンセムは、腰に下げたワイヤーからひとつチュッパチャプスを引きちぎる。器用なことに棒の先端に穴を空けているようで、そこにワイヤーを通して常備しているらしい。いまいち掴めないこの男の、甘党という情報はどうやら嘘ではないようだった。嘘だったからと言って、別段腹を立てるようなことでもありはしないけれど。
彼は何度かキャンディーを舌で転がすように舐めると続けた。
「
「救済船?」
「ま、廃品回収車みたいなもんさ。世間様に見捨てられた社会的地位のない俺たちがここで暮らすワケだが、たまに廃品を回収しに“上”の人間が来るのさ。まだ使えそうなものを見繕いにね」
曰く、大きな翼を持った船が、子どもや若い男女を助けに来るというのだ。ろくな食いものも住処もないこの街の住人からすれば天国のような話であったし、事実ミザリーだって今すぐ飛び付きたいくらいには美味しい話だった。
しかし、アンセムの言い方には棘や毒を孕んだような違和感があった。喉元にひとつ引っかかったことを率直に吐き出すならば、彼女の見解はこうであった。
「人を物みたいに言うんだね」
ミザリーはアンセムを根っからの善人とは思っていないが、騒ぎ立てるほど悪人でもないと思っていた。それなりに生きるための知識もあるようだし、しゃんと背筋を伸ばして言葉さえ謹んでいれば、小指の甘皮くらいはまともに見えるだろうに。
「ここはゴミ捨て場だぜ?」
はん、と鼻で笑うような。実際にはそこまでしていないのに、そう思わせる口を真横に引き結んでいたなら。と、ミザリーは先程のリストに脳内で付け加えた。
「生憎、私にはまだプライドがある。ゴミでもガラクタでもない」
「惨めなプライドだ」
素っ気なく言い放ったアンセムの、常に上向き気味に緩んだ口角のせいか、彼から感情を読み取ることは難儀であった。しかしミザリーにとっておかしかったのは、ニヤついた表情などではなく、先のような冷たいことを平気で言うくせに、その目が光を失って死んでいないことだった。この街の人間はいつだって疲弊した顔で死んだように生きているのに、この男はそうではない。生きている自覚を持って、息をしている。
けれど彼女は、なにが彼を生かしているのかだなんて考えることはしなかった。こういった類の人間は、生だとか死だとかそんな大層なものには関心がない、というのがミザリーの認識であった。
「それで? 救済船ってのはいつ来るんだ?」
「月に一度」
彼女は愕然とした表情で腰かけていた椅子から立ち上がった。あまりに勢いがよかったものだから、椅子は安いっぽい音を立てて倒れてしまった。
アンセムは顔を顰めると、悲壮感溢れるミザリーより先に、埃を舞わせてひっくり返った古い椅子の心配をした。
「おいおい、壊さないでくれよ。代えの椅子はないんだ」
「それじゃなにか? 私はひと月もこんなところで待たなきゃいけないのかい。椅子無しで!」
「そう焦るなって。アンタは運が良い。ちょうど明日来る予定さ。それから椅子も、まだ壊れちゃいない」
「それを先に言ってくれ。……しかし、運が良いのか悪いのか分からないな。こんな屑籠にまで落ちぶれちまって……救いようがないよ」
胸を撫で下ろしたミザリーは椅子を立て、反転させると背もたれに抱きつく形で座り直す。彼女は退屈を訴える子どものように萎れた様子で、アンセムの指の上でくるくると回され弄ばれるチュッパチャプスを眺めた。その視線に気付いたアンセムは、彼女に一瞥をくれた。
「屑に価値はないと思うか?」
「価値がないから屑なんだろ」
「いいや、違うな。見ようによっては価値があり、誰かにとっては綺麗なものさ。アンタはさしずめ、星屑ってとこだな」
没落した貴族の、元星籠という生い立ちを揶揄ってか、星屑という言葉は的を射ていた。それを承知した上で、ミザリーは皮肉げに唇を吊り上げる。
「物は言い様だな」
「悪くないだろ? 星屑も花屑も、屑だがすこぶる、綺麗なもんさ」
「おねーさん、きれいだよ!」
そこへエコーも同調して、ミザリーの真綿のようにふわふわなシャンパンブロンドの髪を触ってくる。意外にも無遠慮に髪束をつままれ、見れば、一生懸命に三つ編みを作ろうとしているらしかった。エコー本人の髪は編めるほどの長さはなく、きっと珍しいのだろう、と少女の可愛らしい仕草に思わず顔が綻んだ。
この世界には星と花と屑しかない――しかしどうやら、うつくしいものがうつくしい場所にあるとは限らないようだ。
類い稀な歌声を持つ柘榴の彼は、チュッパチャプスを口の中で転がして、呑気に鼻唄なんぞを歌っている。味わっているのか、ただ口内で弄んでいるだけなのか、それだけに限らず、彼には謎が多い。唯一分かったのは、お気に入りのフレーバーはアメリカンチェリーということだけだった。もっとも、これはエコーがこっそり教えてくれた情報である。
でたらめなことばかり言っているような、そうでもないような、そんな胡散臭さしかない男だが、彼が持つうつくしい歌声は本物であった。
どれだけ知ろうが、このアンセムという男の謎はきっと深まるばかりなのだろう。ミザリーは見えない彼の素性に目を細めた。
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