籠中クライアウト
海
1. 誰が為のアンセム
「アンセム。アンセムってば」
身体を揺すぶられ、呼びかけに応じて薄目を開けば、くすんだ青い瞳が長い睫毛の間からこちらを覗いていた。濁った瞳の奥に秘密裏に仕舞われたうつくしい虹彩が、自分の姿を映しこんでいるのが見て取れるほどに、その距離は近い。宝玉のようなその瞳は二、三度まばたきを繰り返した。
「近ェよ」
起こされたアンセムは顔を仰け反らせ、赤いめだまを眩しそうに細めた。彼を揺り起こした少女の持つエコウブルーの瞳には、それがまるで嫌がる素ぶりに見えてしまったらしく、彼女は柔らかな頬に空気を溜め込んで風船のように膨らませた。
「こんなところで寝てたら風邪引くと思って起こしてあげたのに、その言い方はないじゃないか」
むくれた顔が幼い印象を与える少女は、名をエコーといった。そのエコウブルーの瞳にちなんでエコーと名付けられただけの、至極単純で分かりやすい名前である。
かくいうアンセムにも、グラナートという立派な名前があるのだが、覚えやすさから姓のアンセムとしか呼ばれてこなかった。しかしアンセムはそれを楽しんでいる節があるようで、気を悪くするどころか、自らアンセムと呼ばせることが間々あった。
「そいつはどうも。こんなところで悪かったな。下がってよし」
「なんだいその言い方。ぼくは犬じゃないぞ」
エコーが悪気なく『こんなところ』と称したのは、アンセムの家であった。壁も床も天井も、無機質かつ殺風景な打ちっぱなしのコンクリートのせいで、夏はサウナ、冬は冷凍庫といって過言ではない。置かれた家具はベッド代わりの分厚いマットレスに、ボロが目立つテーブルと、座るたびに嫌な音が軋む木製の椅子だけ。備え付けのシンクはカビが繁殖しているのか、半分ほど使いものにならないようで、五回に一回しか火の点かないコンロはおそらく、ホットミルクを作るためだけに酷使されている。衛生的にどうとかいう問題さえ考えなければ、それらのおかげでこの空間は家と呼べる体裁を保っていることに違いはなかった。
たしかにお世辞にもスイートルームと呼べるような家でないにしても、彼にとってはここが生活の拠点であり始まりだ。こんなところと呼ばれた礼にと、小型犬のように吠えるエコーの額を指で弾いた。
そう呼ばれるこの国は階級制度が根強く残る特異な国であった。縦三層に隔てられたそれぞれの『籠』の中で、揺られ、微睡み、ときに転げ落ち、人々は生活していた。
最上層の『
中層の『
そして、最下層。『
もちろん、この三層の行き来は可能であったが、屑籠から花籠へ行くには特別な通行許可証が必要で、更に星籠へ行くには翼が必要となるため、そう滅多なことでは叶わない。上から転げ落ちるのはケーキを食すより簡単なことだが、這い上がるにはそれ相応の対価が必要であった。
アンセムとエコーが住むのは、まさにそこが最下層である屑籠だった。
屑籠には何でもある。
自転車も車も、家も服も粗末な食べ残しも。運が良ければテレビだって冷蔵庫だってある。どれも大抵は壊れて使えないものばかりだが、味気のない生活を彩るオブジェとして一役買ってくれていた。
エコーはコンクリートに囲まれたこの家がお気に召さないようで、もっと良いところに移りたいと駄々をこねることが何度かあったが、正直こんな街では廃墟同然のここであってもかなり良い物件と言えよう。元来アンセムが住む場所に無頓着なこともあり、彼女の願いは右から左であった。
弾かれた少女の額は赤みを帯び、恨みがましい目で睨みをきかせる彼女を捨て置いて、アンセムは伸びを兼ねて椅子から立ち上がる。細身の華奢な背中からはバキバキとあられもない音が響いた。昨夜、ホットミルクを淹れて飲んでいるうちに微睡んでしまったらしい。テーブルに置かれたマグカップは冷え切っていて、飲めたもんじゃないと、アンセムは流暢な動作で白濁とした中身を外へ捨てた。
「うわっ⁉︎」
運悪く、というよりアンセムの不注意が原因なのは明白だが、ちょうど二階から顔を出した彼の真下で、冷たいミルクを被ってしまった人物が声をあげた。
不幸中の幸いと言っていいものか、全身びしょ濡れにはならなかったにしても、一晩置かれた乳臭い液体は気分を阻害するには充分だった。
シャンパンのように透き通るブロンドの髪と、整った顔にミルクを存分に浴びた女は、不幸だと言わんばかりの表情で天を仰ぐ。そうして、そのうつくしいシャンパンブロンドとかんばせに不釣り合いな汚らしい言葉を、空に唾を吐く如く放ってみせた。
「イカれた野郎だ。ファックユー」
「アンタに男を犯す趣味があるなら、どうぞ俺を犯してくれ。やれるもんならな」
「食えない男だ」
苦虫を噛み潰したような顔で、女はアンセムを睨み上げた。
「さっきは悪かったな。だがまあ憎まれ口を叩き合った仲だ、俺たちもう友達だろ」
「アンタの友達の定義を疑うよ」
「詫びと言っちゃあなんだが、ホットミルクでも飲むか?」
「そりゃ嫌味か?」
女は手渡されたタオルを広げて、再び顔を歪めた。真新しいとは正反対の、黄ばんだそれは、ごわごわとしていて肌触りなんか最悪だった。あちこちほつれていて、こんなものを使わせるなんて正気かと、虫食いのように空いた穴から嫌悪を瞳に乗せてアンセムを睨む。しかし、再三断りを入れたにも関わらず、淹れたてのホットミルクをほとんど無理矢理に押し付けられたことで、その眼光はすぐに引っ込んでしまった。
げんなりした様子で頭や顔を拭い、いや仕方なくミルクを喉に流し込む彼女は、口や態度こそ悪いが見れば見るほど綺麗な顔立ちで、こんな屑籠でくすぶっているには勿体ないように思えた。
「なんにもないところだが、好きなだけ居てくれていいぜ」
「冗談じゃない。こんなところ」
「我が家の悪口を言われたのは今日二回目だ」
わざとらしく肩をすくめてみせるアンセムの背後で、蜘蛛が這うのを視界の隅に捉えた女は、ことさら早いうちにここを出ようと決意した。
考えてもみれば、知らない男の家へ上がり込むなど、なんとも思慮に欠ける行動だ。しかもこの、怪しさ満点の男の家へ。物腰は柔らかいようだが、やたらと口が回るおかしな男である。
女はアンセムへ視線を滑らせ、そのかんばせを疑ぐるように観察した。
アンセムの容貌は人目を引く上、一度見たら忘れられない特徴的なものであった。
右目を覆い隠す大きな革の眼帯に、完熟した柘榴を思わせる、毛先の不揃いな髪と左目。不細工の部類には入らないにせよ、きれいな顔立ちと形容するには些か品が足りない。
そんな評価を下されているとも知らず、急にまじまじと見つめられた彼は、にんまりと口の両端を吊り上げた。その口が道化師のような言葉を放つ寸前、女がようやく溜め込んだ沈黙を破った。
「その赤い目と髪……アンタもしかして……。ええと、なんだっけ? ガ、ガ……ガーネット・アンセム? いや、グレート・アンセムだったっけか?」
「アンセムは確かに俺の姓だが、そんな変てこな名前じゃない」
「悪い。今思い出すよ。ええと……」
難しい顔で眉間に皺まで作って唸る彼女を尻目に、アンセムはエコーにウィンクをしてみせた。随分と小慣れたその動作。エコーは彼の意図を正確に汲み取り、くすくすと笑い声を漏らした。
「思い出せたなら、褒美になんだってくれてやる」
「おねーさん、頑張って!」
「ちょっと待てよ、静かにしてくれ。あとすこしで思い出せそうなんだ」
「グラナート」
「そう! グラナート・アンセム! ってアンタ、褒美なんか取らせるつもりなかっただろ」
先に答えを言われてはどうしようもない。彼女は褒美が欲しかったわけではないが、クイズの醍醐味を奪われては流石に面白くなかった。アンセムがしてやったりと言うふうな顔で満足に浸っている隣で、エコーはきゃらきゃらと笑っている。
「残念ながら時間切れだ」
「時間制限なんか設けてなかったろ」
「で、俺の名前を知ってるというのは、俺のファンってことでいいのか?」
「ファンに名前を忘れられるとは、哀れなスターも居たもんだ。だが探してたのは事実だ。アンタに聞きたいことがあって」
「話はあとで聞こう。悪いがちょいとばかり待ってくれ。仕事の時間だ」
アンセムが話を遮ると、女は怪訝な顔をした。女の懐疑心は真っ当なもので、この屑籠へ来てからというもの、時計すら見たことはなかった。この冷たいコンクリートにだってやはりそんなもの飾っているわけもなく、時間なんて分かるはずもない。その仏頂面の眉間に刻んだ皺をなおのこと深めて、彼女は問うた。
「こんなとこでも仕事があるのか?」
「見れば分かるさ。エコー」
「はーい!」
呼ばれたエコーは犬のように尻尾を振って――そんなものは勿論ないが、見えると錯覚しそうなほど上機嫌に返事をし――アンセムの後ろをついていく。好奇心の勝った女は、遅れながらもそれに倣って続いた。
窓と呼べるような桟もガラスもありはしないが、恐らく窓がはめ込まれていたであろう今はがらんどうの四角い穴。仮にそれを窓と呼ぶとして、アンセムは窓枠に両手をついた。
「今の気分はアレグロだな」
「りょーかいっ」
エコーがおもちゃの兵隊のように敬礼をしてみせる。なんのことかと首を傾げる女に、アンセムは目配せをしてやった。その顔に「まあ見てな」と書いてあったものだから、意図を汲み取るのは容易かった。
「――……〜〜♪」
「〜〜♪」
アンセムが歌を口ずさむ。甘ったるい鼻唄のように。それに合わせてエコーも声を重ねる。アカペラだというのにひどくうつくしかった。平素のアンセムからは想像も出来ない、否、想像という行為さえしようだなんて思わないだろう。それは
女は懐かしさを覚えて目を伏せた。たった数分に満たない短い時間であったはずなのに、永遠に揺籠に揺られているような安らかな心地に耳を澄ませる。歌が終わってなお、聴き入っている様子の彼女にアンセムが声をかけた。
「気に入ってもらえたようでなにより」
そっと瞼を持ち上げれば、眼前にいるのは聖歌隊でも、ボーイソプラノを持つ儚げな美少年でもない。アンセムの姓を持つ、やや信用に足らない狂言回しの男であった。この男からあの美しい歌が紡がれるなど、誰が信じようか。
「良い歌声だね。信じられない」
「目の前で見たものを信じられないなんて、とんだ捻くれ者だな」
「言うことは小憎たらしいのに。一体、どこでそれを?」
「憎まれ口は生まれつきさ」
「そっちじゃないよ。アンタ、わざとだろ。その歌を、どこで習ったんだい」
アンセムは肩をすくめる。いやにその動作が似合うのだから、やっぱり小憎たらしいことこの上ない。
「昔天使に教わった」
「アンタなんかに教えるとは、酔狂なこって」
「そんなに褒めるなよ」
「毎日歌っているのかい」
「ああ。言っただろ? 日課だって」
「さっきは仕事だって」
「それはウソ」
女はタオルを力任せに投げつけた。
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