ⅩⅧ 朝霧に煙る街(2)
「――いやあ、あちこち見て廻っとる間にすっかり夜が明けてしもうた。ほんとは夜の内に帰るつもりじゃったんじゃがのう…」
一方その頃、ジェフティメスと件のメルウトはというと、太陽神殿の下にある秘密の地下空間から、ようやく地上へと戻って来たところであった。
「すみません。あたしなんかのために……」
いまだ自分の進むべき道を見出せず、悶々とした思いのメルウトであるが、どうやらまた迷惑をかけたようなので一応、謝る。
「あ、いや、別におまえさんが謝ることはない。わしも中へ入るのは久々だったんで思わず説明に熱が入ってしまったしの。それに、こんな若くてカワイイ娘さんと朝帰りとは、この歳にしてなかなかに乙なもんじゃわい。ウベンのやつ、さぞかし羨ましがるだろうのう、ハッハッハッ!」
二人は昨晩、真の創世の歴史が描かれた部屋で話を終えた後も、その他に複数あるラー人の叡智が記録された部屋を順々に巡り、結局、太陽神殿の地下で一夜を明かすこととなったのだった。
「ま、明るくなると見つかってしまうかもしれんからの。誰か来る前に早くここからお暇しなくては……よし、持ち上げるぞ? フン…!」
そう言いながらメルウトと一緒に石の蓋を抜け穴の入口に戻すと、その上に砂をかけて見事に隠し、ジェフティメスは町のある方へ向けて歩き出す。
「………………」
その後を、心にわだかまりを抱えたまま、沈んだ顔のメルウトもついて行く。
「なんだか今朝は霧が出てるのう……」
ジェフティメスの視線の先には、ナイル沿いにある河岸神殿の向こう側に、いつになく濃い霧に煙る町が広がっている。
「……え? ああ、確かに……」
同じようにメルウトもそちらを眺め、そう言われてみれば、ここへ来て以来、こんな朝は初めてだな、と思った。
しかし、だんだんと町が近づくにつれ、その霧も次第に薄れてきたかと思うと、そこに奇妙な物体があることに二人は気づく。
「んん⁉ なんじゃ、あれは?」
遠目に見える巨大な牝ライオンの像に、ジェフティメスは思わず足を止め、目を丸くして頓狂な声を上げる。
「セクメト⁉ ……どうしてセクメトがあんなところに……」
初め、それを目にしたメルウトは、自分が〝ある場所〟に隠したはずのセクメトが、なぜかそこに存在しているものと勘違いした。しかし、よくよく見るとその身体は金色ではなく、朝の日の光を浴びてキラキラと銀色に輝いている。
「……あ、でも、なんか色が違うような……」
「そうか……いや、あれはセクメトではない。あれはおそらく、アメン神官団が発掘した
メルウトの言葉でそれに思い至ったジェフティメスが、遠くライオン像を見つめたまま彼女に答える。
「テフヌト? ……あれが、お話に出ていたもう一体の
それを聞き、隠したセクメトが見つかったのではないと安心するメルウトだったが、今度はまた別の驚きと不安が彼女のかわいらしい顔の上に表れる。
「ああ、おそらくの……あやつら、あんなものまで持ち出して来おったか……ヘリオポリス神官団の勢力圏内だというのに……
「おおーい! 師匠ーっ!」
見慣れた風景の一部にしてはあまりにも違和感のあるその巨体を眺め、ジェフティメスが苦虫を潰したような顔でぼやいていると、ちょうどそこへ町の方からウベンが駆け寄って来る。
「ウベン! いったい何がどうなっとるんじゃ⁉」
彼が近くまで来るのも待たず、開口一番、ジェフティメスが尋ねた。
「…ハァ…ハァ……よくわからないんすけど、変な霧が晴れたと思ったら、突然、あの銀色のが町の真ん中にいたんっすよ! …ハァ…ハァ……それで、あれに乗ってる高飛車なねーちゃんがネフェルト…いや、メルウトちゃんが出てこなければ町を破壊するって……」
荒くなった息をなんとか整え、メルウトの顔にちらと視線を向けながら、ウベンは一気にことの顛末を答える。
「………………」
その話に、メルウトは慄然とした。
自分のせいで町全体を争いに巻き込んでしまったのだ……少し考えれば、こうなることは容易に予測できただろうに。
「なるほどの……古文書にあったテフヌトの霧を操る能力というやつか……にしても、なぜ、この町にいることがわかった? もしや、わしの魔術に誰ぞ気づく者でもおったのか? じゃが、あれはそんじゃそこらの者が見抜けるようなもんじゃないぞ? ……いや、今はそんな詮索をしとる場合じゃないの。メルウトさん、今すぐここから立ち去るのじゃ!」
彼女の所在がバレたことに疑問を抱くジェフティメスであったが、不意にメルウトの方を振り返ると、険しい表情で彼女に逃げるよう告げる。
「で、でも、そんなことしたら町のみんなが……」
「なあに、そこら辺はわしらでうまくやるから心配せんでもいい。さあ、おまえさんは早く行くのじゃ! おまえさんが捕まれば、セクメトもあやつらの手に渡ることになるぞ!」
無論、自分だけ逃げることなどメルウトは躊躇するが、〝セクメト〟の名を耳にすると彼女の心は揺らぐ。
……ここでわたしが捕まったら、ジェセルさまに託されたセクメトが……。
「ああ。任しときな」
救いを求めるように視線をウベンの方へ向けると、彼も普段のチャラ男とは違い、いつになく頼もしい笑顔を見せてメルウトに頷く。
「……コクン」
思い悩み、しばらく迷った挙句、メルウトは黙って頷くと、何かを振り切るようにその場から走り去ろうとした。
「………………」
……だが、一歩足を踏み出したところで、彼女はまたぴたりとその足を止めてしまう。
こんな時、ジェセルさまなら、どうしただろうか? ……この判断は、わたしにセクメトを託したジェセルさまが本当に望んだものなんだろうか?
そんな疑問に捉われたメルウトの脳裏に、幼き日の記憶が不意に蘇る――。
「――ジェセルさまぁ。〝
それは、まだメルウトが年端もいかぬ幼女の頃、ジェセルシェプストに読み書きの勉強を見てもらっていた時のことだった。
「ほら、ここに書いてあるの」
お手本のパピルスの中に出てきたその言葉の意味を、幼き彼女は目をキラキラと輝かせながら師に尋ねる。
「
「ほうそく?」
「うーん……簡単に言うと、みんなが守らなくちゃいけないお約束って感じかしらね」
「おやくそく?」
「そう。みんなが守らなくちゃいけないお約束。わたしもあなたも。それにファラオや神さまもね。みんな
純真なメルウトの問いに、若き日のジェセルシェプストは優しい言葉でそう説明をした。
「ええ! 神さまもぉ⁉ ねえ、どうして、みんなそれを守らなくちゃいけないのぉ?」
「それはね。みんなが幸せになるためよ。
さらに突っ込んで尋ねてくる無邪気なメルウトを慈しみに満ちた眼差しで見つめ、ジェセルシェプストは諭すように答える。
「うん。そんなのメルウトやだ!」
「だからね、みんなが悲しい思いをしないよう、そのお約束を守って生きていかなくちゃいけないの。メルウトもちゃんと
「うん! メルウトも
汚れのない笑みを満面に浮かべて、メルウトは元気よくジェセルシェプストに頷いてみせた――。
「……そうだ。こんなの、ジェセルさまがわたしに望んだことじゃない」
幼き頃のその記憶は、忘れかけていた確かな何かをはっきりと彼女に思い出させた。
「…………よし!」
メルウトは両の拳をぎゅっと握りしめ、強い決意を持った顔でジェフティメス達の方を振り返える。
「ごめんなさい。わたし、やっぱりこのまま逃げることなんてできません。わたし、もう一度、セクメトに乗ります!」
「ええっ⁉」
「なんと⁉」
そして、驚く彼らに慌しく頭を下げると、テフヌトの待つ町の中心目がけて走り出した――。
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