ⅩⅧ 朝霧に煙る街

ⅩⅧ 朝霧に煙る街(1)

 翌早朝、ジェフティメスの家がある、ヘリオポリス・ナイル沿岸の町……。


 この日、住民達が目を覚ましてみると、町は辺り一面、濃い朝霧に白く覆われていた。


「しっかし、こんな霧が出るなんて珍しいな……」


 井戸の水を汲みに出たウベンは、その一寸先も見えぬような霧に向かって呟く。


「ほんとに。あたしもこんなの見るの生まれてこの方初めてだよ」


 同じく井戸端に来ていたご近所のおばさんも、周囲を見回しながら訝しげに答える。


「ほんと、珍しいわねえ」


「長生きしとると、いろいろ珍しいものを見るのう」


 周りにいた他の人々も、異口同音に町を覆い尽くす霧について語っている。


「確かに今までお目にかかったことのないような現象だ。こりゃあ、天変地異の前触れかもしれないっすねえ……そんじゃ、お先に」


 水を入れた甕を持ち上げると、そんな冗談とも本気ともとれぬ軽口を叩きつつ、ウベンはジェフティメス達のまだ帰らぬ家へと向かった。


 彼一人に留守番をさせておいて、彼の師とメルウトの二人は、昨夜遅くに太陽神殿の地下にある秘密の施設を見に行ったきりなのだ。


 しかし、井戸端を離れ、家への道を半分ほど来た時のことである。


「ん? なんか急に見通しが利くようになってきたな……」


 ふと気づくと、辺り一面を覆っていた濃い霧が、次第に薄れ始めていたのだった。


 ナイルから吹いて来る風に流され、まさに「霧散」という言葉通りに白い水の粒子はだんだんと空中より消え去ってゆく……そして、霧に煙る初めて見るような景色がいつもの馴染みある朝の町に戻ったその時、ウベンの目にはとんでもないものが映し出されていたのだった。


「な…⁉」


「なんだあれはっ⁉」


 驚きの声をウベンが上げようとしたその瞬間、あちらこちらから同じような叫び声が聞こえてくる。


「ら、ライオンだっ! 大きな牝ライオンの像だ!」


「め、牝ライオンの神さまだっ!」


 そこには、いつの間にか牝のライオンがいたのだった。


 大通りの交差する町のど真ん中に、一階建ての家ならば優に超えるほども背丈のある、巨大な銀色に輝く牝ライオンの像が立っていたのである。


「まさか、これって……」


 離れた位置からでもよく見える、その巨大な物体にウベンは心当たりがある……というよりも、石像とは明らかに違う、このような金属でできた、しかも人の何倍もあるような大きなライオン像……話に聞くくだんのアレ以外にはウベンの頭に浮かぶものがない。


 その、まさに彼が予感したもの――イレト・ラー・テフヌトの中で、アルセトは満足げな笑みを浮かべていた。


「テフヌトは〝湿り気〟の女神……その神性は、この霧を自在に操る隠密性能に由来する。フフ…テフヌトが突然現れて、町の住民どももさぞかし驚いていることでしょうね」


 自身を驚愕の表情で見上げる人々の顔を、外界が透けて見えるジェド柱室の壁に拡大させて映し出すと、アルセトはひとしきり優越感に浸りながらそれを眺める。


 そして、それにも飽きたのか、テフヌトに装備された拡声器を通し、町全体に響き渡る大きな声で彼女は告げる。


「あーあー…この町に潜めし、レトポリス・セクメト神殿の元女性神官メルウトに告ぐ! 我が名はカルナク神殿のアメンの従者にしてテフヌトの女主人ネベト・テフヌトアルセト。偉大なるアメン・ラー神とアメン大司祭アレクエンアメンさまの忠実なる僕よ! そこまで言えば、こちらの要件はわかるでしょう? あなたが奪ったラーの眼イレト・ラー・セクメトをおとなしく渡しなさい! さもなくば、このテフヌトを駆って、この町ごと住民どもを抹殺するわよ?」


「な、なんだって⁉」


「何言ってんだかぜんぜんわかんねえぞ⁉」


 その唐突な要求に、町のあちこちで驚きと疑問の声が沸く。


「ああ、それからこの町の住民どもにも言っておくわ! もし今言ったメルウトなる女を匿っている者がいるとしたら、今すぐ引き渡した方がいいわよ? その女が出てこない限り、あなた達の命が長らえる道はないんだからね! もう一度だけ言うわよ! アメン大司祭さまに逆らいし愚か者のメルウト! とっととセクメトをこちらに渡しなさい! さもないと、この町を徹底的に破壊してやるわ!」


「誰だそりゃ? そんなやつ知らんぞ!」


「それって、この前、アメン神官団の兵が捜してた娘じゃないか?」


「それじゃ、俺達にはぜんぜん関係ねえじゃねえかよ!」


 突然、そんなことを言われても、事情をまったく知らない住民達は口々に不平の声を上げるばかりである。


「そうね……あたしが待ちくたびれるまで待ってあげるわ! それまでに現れなかったら、この町と住民がどうなるかわからないと思いなさい!」


「んな滅茶苦茶な……それじゃ、いつまで待ってくれるのかもわからねえじゃねえかよ!」


「でも、このままじゃ町が壊されちまうぞ? おい! 誰かそいつのこと知ってるやつはいるか?」


「知ってるやつがいたら、早くあいつに引き渡しちまえ!」


 そのあまりにも横暴すぎる脅しに納得はいかないものの、それでも住民達の間では己が身の安全を図るために犯人捜しの動きが出始めている……普段は互いに要らぬ詮索はせぬ、流れ者にとっては非常に都合のよい町なのだが、反面、こんな脅しを受けてまで、お尋ね者を庇ってやる義理もまた彼らにはないのだ。


「……なんか、中に乗ってるヤツは果てしなく自己中っぽいな。しかも権力欲強そうだし……気の強いツンなは好きなんだけど、高飛車な女は好みじゃないねえ」


 そうした中、そのお尋ね者を知る数少ない人間の一人であるウベンは、とてつもなく強引な相手の手口に呆れ返っていた。


「ってか、ラーの眼イレト・ラーで町ごと人質にとるなんて、いくらなんでもそいつは反則ってもんじゃあないっすか?」


 しかし、そんな軽口を叩いて呆れている場合じゃないほどに、これはメルウトにとって危機的状況である。


「こりゃあ本気ガチでマズイな……こいつは早く師匠達に知らせなきゃ!」


 ウベンはその場に水瓶を捨て置くと、メルウト達のいる太陽神殿目がけ、いつにない全速力で走り出した――。


※挿絵↓

https://kakuyomu.jp/users/HiranakaNagon/news/16817330669232519818


https://kakuyomu.jp/users/HiranakaNagon/news/16817330668645980578




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