ⅩⅨ 女神、再臨

ⅩⅨ 女神、再臨(1)

「――さて、セクメトの女主人ネベト・セクメトは果たしてやって来るかな?」


 その頃、テフヌトの足下では、ウセルエンが不機嫌そうにメルウトの現れるのを待っていた。


 その周囲には、彼の他に20名ばかりのアメン神官団の兵達もいる。


 彼らは何者かに魔術をかけられていた兵の証言を頼りに、昨夜の内に再び周辺の疑わしい町や村を端から調べ廻り、ついにこのヘリオポリス内にお尋ね者が潜んでいると特定したのだった。


 そして、現れた彼女の身柄を拘束すべく、テフヌト共々、先程の霧に紛れて密かに町へ侵入していたのである。


 しかし、この作戦に対してウセルエンはあまり乗り気ではない……。


 もしも追い詰められた敵が投降するのではなく、セクメトに乗って攻撃でもしかけてくれば、アルセトはテフヌトでそれと闘わなくてはならない……そのような恋人を危険に晒す作戦にウセルエンは反対であった。しかし、アメン大司祭アレクエンアメンより本作戦の全権を任されているその恋人が、どうしてもそうすると聞かなかったのである。


 無論、ウセルエンは必死に説得を試みたが、自身の手でセクメトを捕えようと息巻く彼女を止めることはできず、結局、彼は気の強い恋人の指示に従って、こうして今、彼女の足下に突っ立っている。


「おとなしく投降してくれるか……さもなくば、逃げ出してくれればいいがな……」


 ちなみに獲物が住民達を捨てて逃走を図った時のことも考え、町への出入り口付近には見張りの兵を潜ませてある。もし不審な人物が町を出ようとしたら、すぐさまそちらに向かって捕える手筈だ。


 恋人を闘わせるより、むしろそうなってくれた方がウセルエンとしては気が楽だ。


 そんな、ぼんやりとした不安と不満をウセルエンが感じている中、ついに傲慢な恋人が待ちくたびれる時がやってきた。


「……さあて、そろそろあたしも待つのに飽きたわ。約束通り町は破壊させてもらうわよ? かわいそうな住民の皆さん、恨むんだったら、我が身かわいさにあなた達を捨てて逃げたメルウトなる大罪人を恨むのね……ウセルエン、邪魔だから兵達を下がらせなさい!」


 そんな機械的に音量を増幅させた声が聞こえてきたかと思うと、突然、それまでスフィンクス像のように微動だにしなかった巨大なテフヌトの右前脚が、ゴゴゴゴゴゴ…と、奇怪な音を響かせて動き始める。


「う、動いたぞっ!」


「に、逃げろーっ!」


 それを見て、テフヌトの周りを輪になって囲んでいた野次馬達は、一斉に悲鳴を上げて逃げ始めた。


「相変わらず乱暴だな……皆、踏み潰されぬよう後方へ下がれ!」


 ウセルエンも大声で指示を出し、兵達も安全な場所へと慌てて避難する。


 ドオォォォーン…! と、一瞬の後、兵達のいなくなったちょうどその場所へ、地響きを立てて重たいテフヌトの右前脚が踏み下ろされる。


「フフフ…愚民達よ、思う存分逃げ惑いなさい。このテフヌトの女主人ネベト・テフヌトさまの力を思い知るがいいわ」


 ……ドオォォーン! ……ドオォォーン…! と大きな足音を響かせながら、テフヌトは辻の角にある店の一つへと近づいて行く。


「フフ…まず手始めはこの店からよ!」


 狂気じみたアルセトの声とともに、テフヌトの鋭利な爪の生えた前脚が高々と振り上げられる……そして、大きな影を建物の上に投げかけ、その眩く輝く凶悪な大質量の塊が振り下ろされようとしたその瞬間。


「待ちなさい!」


 テフヌトの耳に内蔵される収音装置を通して、少女の叫ぶ声がアルセトの耳に聞こえた。


「ん?」


 テフヌトの前脚を建物の直上で止めたまま、アルセトはジェド柱室の中でそちらの方向を振り返る。


「……ハァ……ハァ……わたしが、セクメトの女主人ネベト・セクメトのメルウトよ!」


 そこには、肩で息をしながら、自分の方をキッと睨む一人の少女がいた。


「……ふーん。逃げなかったのね。小娘のわりにはなかなか度胸あるじゃない。でも、あなたが本当にセクメトの女主人ネベト・セクメトかどうかはわからないわ。それを証明するものは何かあるの?」


 メルウトの姿を確認すると、アルセトは自分の霊体カーと繋がったテフヌトの瞳孔を収縮し、ジェド柱室の透明な壁の一部に彼女の拡大画像を映し出しながら尋ねる。


「証拠はこれよ!」


 その問いに、メルウトは首にかけたアンクを胸元から取り出すと、それを顔の前に掲げてアルセトに示す。


「ああ…その金色に輝くアンクはまさしくラーの眼イレト・ラーの……」


 アルセトはさらにメルウトの手元を拡大し、目の前のパレットに刺さる銀色のアンクとそれとを見比べて、興味深そうにその猫のような目の色を輝かせる。


「これからセクメトを隠してある場所に案内するわ! ついて来なさい!」


 すると、アルセトが確認するのを待っていたかのようにメルウトはそう告げて、ナイルの流れる町の外れへと全速力でまた走り出した。


「しまった! おい! 早く捕まえろ!」


 その急な動きに遅れをとったウセルエンと兵達が、我に返ってその後を追い始める。


「フフッ…なんとも忙しない子猫ちゃんだこと……」


 さらに彼らの背を追うようにして、ジェド柱室内の銀色の玉座に腰かけ、口元に愉しげな笑みを浮かべるアルセトも、巨大ながらも優美な猫科の脚を前に踏み出し、獲物の逃げた方向へとテフヌトを向かわせた――。

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