ⅩⅢ 仮初の日常(2)
その日も、夕食前の空いた時間に抜け出して来た彼女は、河原の隅で膝を抱え、夕日に染まるナイルの雄大な流れを眺めながら、自分のこれまで歩んできた人生について考えていた。
きらきらとオレンジ色の光を反射させて輝く大河の畔では、洗い物をする主婦達や水遊びをする子供らが長閑に戯れている。
夕飯の迎えに来たのだろう、幼い子供の手を引いて目の前を通り過ぎる母親の姿に、今は亡きジェセルシェプストとの思い出がメルウトの心に蘇ってくる。
ジェセルシェプストは彼女の主人であり、女性神官の師であるとともに、また母親代わりの人物でもあった……物心ついた頃から、メルウトには親がいなかったのだ。
当然、本人は憶えている訳もないのだが、聞くところによると、何か事情があって逃げていた若い夫婦が、レトポリスのセクメト神殿に赤子だった彼女を預けていったのだという……その赤子を直接手渡されたのが、まだ大神官ではなかった当時のジェセルシェプストだったのである。
いつだったかジェセルシェプストが聞かせてくれた話では、彼女が外で用事をすませて帰って来たところ、ちょうど神殿の塔門の前にその夫婦が立っていたのだそうだ。夫も妻も疲労の相をその顔に浮かべ、ひどく追い詰められた様子で抱きかかえていた赤子のメルウトを若きジェセルシェプストに託そうとしたらしい。
何か大罪を犯した者なのか? それとも権力闘争に敗れた貴族か何かなのか? 今となっては知る術もない……だが、その必死さにとても断ることができず、気づくとジェセルシェプストは赤子を受け取っていた。
その子の扱いについて、神官達の間では「神殿で捨て子を預かるわけにはいかぬ」、「そんなものどこか他所へやってしまえ」と主張する者も多かったが、それにはジェセルシェプストが強く反対し、受け取った責任もあって彼女自身が自らの養女として、神官の後継に育てることとなったのだった。
ちなみに〝メルウト〟という名前は、もともと本当の親がつけていたもののようである。
「ジェセルさま……」
大河の向こうに沈み行く眩い太陽を眺めながら、夕風に消え入りそうなか細い声で、メルウトは大切な人の名を呼ぶ……その人はもう、あの夕暮れの太陽〝アトゥム・ラー神〟と同じように、西の国――死者の世界へと旅立ってしまったのだ。
唯一の身寄りとも言うべきジェセルシェプストはこの世におらず、いわば生まれ育った故郷であるレトポリスからも追われ、彼女にはもう自分との繋がりを持ったものが何も残ってはいない……ジェフティメスやウベンも実の家族のように接してはくれるが、ここでの暮らしは仮初めのものであり、メルウトにとっては一時の夢を見ているかのような感じなのである。
独り、こうして夕日を眺めていると、なんだか自分も早く向こうの世界へ行ってしまいたいような気分になってくる……最早、この世で生きていることに、メルウトはなんの価値も見出せないのだ。
それに、自分のこの手はもう、真っ赤な血の色に染まってしまっている……。
「くっ…」
赤く染まるナイルの景色に、あの日、自分が生み出してしまった凄惨な地獄絵図を重ね合わせ、メルウトは苦しげに眉をひそめる。
もう何もかもを忘れて、罪業に穢れた不浄なるこの身を、いっそナイルの流れに沈めてしまいたいと彼女は思った。
「………いや……それは……だめだ……」
しかし、ジェセルシェプストから託された
もし自分が死ねば、あの恐ろしい力を秘めた殺戮の女神がどうなってしまうことか……いや、今のままここで生きていたとしても、いつまでもヤツらに見つからぬという保証はどこにもない……だが、だからといって、今の自分には他に行くような所もない……ならば、自分はどうすればいいというのか⁉
「ああ、やっぱりここにいたんだ」
子供らの元気にはしゃぐ声が響く夕暮れの景色の中、そうやって、ぽつんと独り膝を抱えていた少女の背中に、突然、聞き覚えのある軽やかな声がかけられる。
ゆっくりとした動作で彼女が振り向くと、そこには、にこやかな笑顔を浮かべてウベンが立っていた。
「……ああ! すみません! もう夕食の時間ですよね。すぐに帰って手伝います!」
迎えに来たウベンの姿にそう判断すると、メルウトは慌てて立ち上がろうとする。
「あ、いや、今日の当番は俺だし、もう用意はすんでるからそれはいいんだけどね。それはいいんだけど、ただ……」
そんな彼女を手で制すると、ウベンは少々言葉を溜めてから、おもむろに口を開く。
「君は時々、そうやって淋しげな顔で物思いに耽っているよね? ……いったい何がそんなに君を悩ませているのかって、ちょっと気になってね」
「え……?」
思わぬ言葉に、メルウトは少し驚く。
「よかったら俺に話してみないかい? もしかしたら力になれるかもしれないし、そうじゃなくても、誰かに話せば少しは楽になるかもしれないよ?」
「それは……」
親切な申し出ではあるが、それに彼女は答えることができない……話したところで誰もこの問題を解決はできないだろうし、それ以前に話すことすらできないのだ。
話せば自分の身を危うくするかもしれないし、彼らとて危険に巻き込むかもしれない。
「そっか。なかなか話しづらいことなんだね……」
言い淀むメルウトに、彼女の心を解きほぐそうとウベンは言う。
「まあ、話したくないなら別にいいんだけどね……でも、どんな悩みを抱えているのかは知らないけど、くよくよしてても道は開けないよ? それにせっかく君はそんなカワイく生まれついたんだし、若い身空で暗い顔してるだなんてもったいない。人間、泣こうが笑おうが人生は一度っきり。死んだら後はミイラになるだけだ。たった一度の人生、もっと明るくパーっと…」
だが、励まそうとするウベンのその言葉が、メルウトの癇に障った。
「そんなこと……そんなことできるわけないじゃないですかっ!」
突然、大声で怒鳴るメルウト。
「へっ……」
初めて激しく感情の起伏を見せた彼女の様子に、ウベンは間抜けに口を開いたままその場で固まってしまう。
「わたしは、そんな風に生きる訳にはいかないんです! ……いいえ、今のわたしにはもう、そうやって生きている資格もないんです……あなたみたいな、お気楽に生きてる軽い人間にはわからないことでしょうけどね……」
勢い余ってずっと思っていた彼の悪印象までをもメルウトは口に出してしまうが、それでもウベンは何も言わず、ただただ驚いているだけだ。
「……失礼します」
そんなウベンに一礼すると、メルウトは踵を返してさっさと家の方へ土手を登って行く。
「……ヒュ~…驚いたねえ。初めてあんな怒った彼女見たよ。怒った顔もなかなかカワイイじゃない。ますます惚れてしまいそうだ……んま、こんなお気楽な野郎でも、お気楽な野郎なりにいろいろと考えてたりはするんだけどねぇ」
いつかと同じように去り行くメルウトの背中を見送りながら、ウベンは人知れず、なんだか妙に感心した様子で独り言を口にした――。
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