ⅩⅢ 仮初の日常

ⅩⅢ 仮初の日常(1)

 その翌日、メルウトの姿はまだジェフティメスの家にあった……。


 といっても、ただ単にもう一晩宿を借り、翌朝出立することにしたというだけではない。


 昨日一日、世話になったお返しに仕事の手伝いを続け、夕刻には早々に出て行こうとするメルウトであったが、思いがけず…いや、彼らの人柄からすれば、むしろ案の定というべきか、彼女はジェフティメス達に引き留められたのである――。




「――まあ、そう急ぐこともあるまい。特に行く当ても決まっておらぬのじゃろう?」


「はい。それはそうなんですが……でも、いつまでもご迷惑をおかけする訳にもいきませんし……」


「迷惑などととんでもない。むしろおまえさんにはいろいろやってもらって大助かりじゃ……のう、もし行く当てがないのならば、ここでしばらく暮らしてみてはどうかの? 今日みたいに仕事を手伝ってもらえれば、いつまでいてもらってもかまわんぞ?」


 ジェフティメスの親切な申し出を頑なに拒み、自分をあくまでも厄介物のように言うメルウトに対して、人の扱いにも慣れた老賢者はそんな提案をしてみせる。


「そうだよ! 俺達は大歓迎さ。君だって俺達といるのが嫌な訳じゃないだろ?」


 そのとなりに立つ下心ありありなウベンも、師に続いて熱心に彼女を説得する。


「嫌だなんてそんな! お二人にはとってもよくしていただいて……でも、わたしがいるとやっぱり皆さんにご迷惑が……かかってしまうような……」


 それでも、いかに自分が厄介な存在であるのか、その理由を語れぬもどかしさを感じながらも、やはり出て行くことを強く決意するメルウトであったが。


「少々立ちいった話になってしまうがの。まあ、悪く思わんで聞いてくれ……おまえさん、これまでの様子から察するに、どうやら何者かに追われておるようじゃの?」


 泣く子供を諭すように、ジェフティメスは穏やかな口調で彼女にそう問いかける。


「………………」


 その質問に、メルウトは俯いたまま是とも否とも答えない。だが、それが肯定を意味するものであるのは明らかだった。


「いや、別におまえさんが罪人やお尋ね者だなどと思うとりゃせん。問い質そうとは思わんが、それには相当に深い理由わけがあるのじゃろう……ただの。もしそうであるならば、この町は身を隠すにも格好の場所だということじゃ」


「格好の場所?」


 その、今の彼女にとっては大変興味深い響きの言葉に、思わずメルウトは反応してしまう。


「そうじゃ。前にも言うたが、この町は交易で商人達が集まるし、流れ者も絶えず出入りしとる。そのためか、ここの者達の気質として、あまり他人の過去に深入りしようとはせん……木を隠すなら森の中、人を隠すなら人の中じゃ。それにここなら食い寝するにも困らん。人気のない場所を頼りもなしに逃げ回るより、この雑多な騒がしい町はきっとおまえさんの助けになるとわしは思うがの?」


 ジェフティメスの話を聞いて、メルウトはしばし心の中で逡巡した。


 昨日、町の人々の中に入って仕事をしてみたが、ジェフティメスの言う通り、確かに自分の過去を根掘り葉掘り聞いてくるような者は誰もいなかったし、名も名乗らぬ彼女を不審がるような様子もまるでしなかった……。


 このたくさんの人間が集まる町ならば、人里離れた場所なんかよりかえって見つかりにくいというのにもなるほど一理ある。


 終わりも見えず、いつ野たれ死ぬかもしれぬ逃避行を続けているよりも、ここに潜伏している方が遥かに安全で現実的な方法なのかもしれない……。


 それに、〝これからの季節〟なら、隠してあるセクメトもそうそう見つかる危険性はなさそうだし、ここはヘリオポリス・ラー神官団のお膝元だ。いくらアメン神官団でも、このもう一つの宗教的権威の勢力圏内には迂闊に手が出せないはずである……。


 ちょっと心苦しいけど、ここはご親切に甘えさせてもらって、しばらくこの町のご厄介になろう……かな?


 これまで、絶望的な未来しか見出すことのできなかったメルウトにとって、ジェフティメスの提示してくれたその生き方は、わずかながらも希望の光を与えてくれるものであった。


「……本当に、ここに居させてもらってもよろしいんですか?」


 メルウトはおそるおそる二人の顔を交互に見比べながら、遠慮しがちに改めて確認をする。


「もちろんじゃとも」


「もちろんさ」


 老賢者と若い弟子は、はっきりとした声で同時にそう答える。


「よ…よろしくおねがいします……」


 メルウトは頬を赤らめ、なんだか少し気恥ずかしそうにぺこりと頭を下げた――。




 そんな訳で、メルウトはジェフティメス、ウベンとともにこの町で暮らすこととなり、彼らの医者や書記代わりの仕事を手伝って過ごす日々が始まったのだった。


 仕事は三人一緒にすることもあれば、ウベンが何か他の用事でジェフティメスと二人だけの時もあり、また逆にジェフティメスが別用でいない時はウベンと二人きりという場合もあった。


 医者であるジェフティメスがいれば、メルウトも幾許いくばくかの医術の知識を活かして患者の手当てなどを手伝うこともあったが、医術に関してはまだ半人前のウベンと二人だけの際は、もっぱら書記の仕事をするのが常である。


 にしても、ウベンはジェフティメスの弟子だという話だが、どうにも医者や書記を真剣に目指しているようにも思えない……彼はいったい、なんのために弟子としてここにいるのだろうか?


 だが、そんなよくわからない老賢者の弟子ウベンも、ここでは師と同じくらいけっこうな人気者で、一緒に街中を歩いていると、やはりよく声をかけられているのを聞いた……ただし、若い女の子ばかりに。


 ある時は……。


「ウベンくーん! 今度また一緒にお芝居見に行きましょー!」


「ああ、また今度ね~♪」


 また別の時には……。


「あ、ウベンくん。あたし今、パン作りに凝ってるんだあ。今度、あたしの焼いたパン、一緒に食べてくれる?」


「もちろんさ。エジプト人といったら、やっぱパンだからね。それに君の作ったものなら、なんでも喜んでいただくよ」


 さらにまた違う時は……。


「ウベン! 最近ぜんぜん誘ってくれないじゃない! どうしてたのよお⁉ もお!」


「いやあ、ここんとこ忙しくてさあ~。ごめん。今度、絶対この埋め合わせはするからさ。そんな怒らないでくれよ、僕のカワイイ、バステト女神のような子猫ちゃん☆(ウィンク)」


 取っ替え引っ替え声をかけてくる不特定多数の女の子達に、ウベンはその都度、いつもの軽い調子で適当な返事を返している。


 この小さな町の中で、いったいどれだけの女の子にちょっかいを出しているのだろうか?


 やはり、このウベンという少年は初めて会った時の印象通り、ナンパでどこまでも軽い、かなりのチャラ男のようである。


 ま、彼に対して特に興味を抱いてはいないメルウトとしては、この男がどんな人間であろうと別にかまわないのであるが。


 そして、メルウトがウベンと二人だけで仕事に出た時にはこんなことも……。


「ちょっとウベン! 誰なのよ、その⁉ まさか、あたしに隠れて浮気してたんじゃないでしょうね!」


 ものすごい形相をした同い歳くらいの女の子に、メルウトは突然、往来の真ん中で睨みつけられた。どうやらあらぬ誤解を受けて、ヤキモチを焼かれたらしい……。


「い、いや、この子はうちの師匠の遠い親戚のでネフェルトって言って、別にそんな関係じゃあまだないというか、そうなりたいというか……」


 悋気溢れる眼差しで女の子に詰め寄られ、ウベンはたじたじになりながら慌てて彼女に言い訳をする。


 いや、言ってることは偽名以外全部真実なのだが、どうにもその素振りがいかにも言い訳臭い。


「まだあっ⁉」


「い、いや、ぜんぜん、そんな関係じゃないです……はい……」


「ふーん……本当はどうなんだか……あなた! ジェフティメス先生の親戚だかなんだか知らないけど、あたしのウベンに手を出したりなんかしたら承知しないからね!」


 やはり信頼なく、なおも疑いの眼差しをウベンに注ぐ女の子は、再びメルウトの方へ顔を向けると敵意剥き出しに宣戦布告する。


 そんな敵愾心を持たれても、ほんと、この男をどうとも思っていないメルウトにとっては甚だ迷惑なこと限りない。


「い、いえ、わたしはほんと、まったくそんな気は……」


 その烈火の如き凄まじい勢いに、メルウトも困惑気味にそう答えるのであったが、そうした迷惑なヤキモチも彼女に平和な日常を感じさせ、次第にメルウトはここでの生活に溶け込んでいった。


 これまで神殿という聖なる閉ざされた空間だけで生きてきたメルウトにとって、この流れ者達が集まる雑多で俗な町での生活はまったく馴染みのないものであったが、自分も同じ流れ者となった今、むしろそれが居心地よかったのかもしれない。


「……そう……そんな気は、ぜんぜん、ないので……」


 しかし、ジェフティメスやウベンとも打ち解け合い、時折、微かな笑みを彼らに見せるようになっても、メルウトはふと、この仮初かりそめの生活の中にあって、忘れかけていた苛酷な現実を不意に思い出してしまう……自分の背負った重すぎる運命と、まるで先の見えないその行く末を。


 そんな時、決まってメルウトは家から近いナイルの河原まで下り、独り物想いに耽るのであった。

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