Ⅻ 偽名

Ⅻ 偽名

「―ああ、よく来てくれましたね。おや? 今日は先生じゃなくて、かわいらしい娘さんとですか?」


 着いた先の裕福そうな若い主人が、挨拶代わりにそう尋ねてくる。


「ええ。あんな弟子を弟子とも思わないクソジジイの代わりに、心優しい可憐な乙女を相棒に連れて来ました」


 ウベンは先程のことをまだ根に持っているらしく、皮肉たっぷりにそう答えた。


 今度の仕事は、やはり交易を生業としている商人の帳簿をつける手伝いであった。


 その商人も神官文字ヒエラティック民衆文字デモティック程度はわかる者だったが、読み書きができる人手がもっと欲しいということでの依頼である。


 ここでもウベンとメルウトは仕事をそつなくこなし、少し時間はかかったものの、お昼を少し回った頃には全部片付けることができた。


「フゥー…終わったぁー! …さてっと。そんじゃ、そこらで昼メシにでもすっか」


 無事仕事が終わると、二人は商人の家の裏手にあるナイル河畔へと降りて、近くの店で買った三角形のパンで昼食を取ることにした。


「ハァ……」


 しかし、ウベンの表情はどこか沈んでいる。


「いつになく豪勢な昼飯にありつけそうだったのに、やっぱりいつもの貧しい昼飯かぁ……」


 実は、今しがた出てきた商人の所で昼食を食べて行くように勧められ、最初、ウベンもその申し出を快くお受けするつもりでいたのであるが――。




「――ごめん! 市長ハアティ様の使いで参った者である! ご主人はご在宅か?」


 間の悪いことに、ちょうどそこへ役人の来客があり……。


「大事なお客さまなのにお邪魔してはいけません。あたし達はこれで失礼いたしましょう」


「え…?」


 と遠慮するメルウトに促され。


「おや、そうかい? すまんね、それじゃ、食事はまたの機会ということで――」


 主人も取り立てて引き留めることをしなかったため、ウベンはしぶしぶ、そのありがたい申し出を諦めざるを得なかったのだ。


 ちなみにウベンや主人は知る由もなかったが、メルウトがその誘いを辞退したことの背景には、来客が役人であったという彼女自身の都合も含まれている。メルウトとしては、役人などとの接触は極力避けておきたいのだ。




「――ハァ……なんか、今日はツイてないな、俺……」


 ビールに続き、今度は裕福なその商人が出してくれたであろう豪勢な昼食を食す機会までをも逃したウベンは、深い溜息混じりに安価な硬いパンに噛りつく。


「まあ、いいじゃないですか。わたしはこのパンが食べられるだけでも満足です」


 そのとなりにちょこんと座る、数日前まで行き倒れ寸前だったメルウトは、対照的にも大変ありがたそうにパンの苦みある味を噛みしめている。


「んもう、っとに君はどこまでも健気な女の子だねえ~。今すぐにでも強く抱きしめてあげたいくらいだ……んま、それはそうとアレ・・はなんとかしなきゃならないな。毎回ああだと、さすがに変に思われるからね」


 落ち込みながらもそんないつもの軽口を叩くウベンだったが、ふと思い出したかのようにメルウトの方を向くと、少し真面目な調子になって話を切り出す。


 今の商人の所でもそうだったのだが、仕事中、どこにおいても大変困ったことが一つあった……それは、ウベンがメルウトの名を知らないということだ。


「さすがに仕事仲間の名前知らないっていうのもなんでしょ? 仕事先で君のこと紹介すれば必ず訊かれるし……ねえ、せめて名前だけでも教えてくれないかな?」


「………………」


 ウベンのその問いに、メルウトはパンを噛む口の動きを不意に止め、暗い色をした瞳で地面を見つめると、そのままじっと黙り込んでしまう。


 お世話になった人達に名前すら明かさないのは大変心苦しく思うのであるが、今のメルウトにとって、それだけはどうしてもできない相談なのだ。


 ここ数日の間、多少なりと日常を取り戻しつつあった彼女は、ジェセルシェプストが自分に託した使命の重大さと、そのあまりにも苛酷な運命を再び思い出した。


「うーん……ま、どうしても教えられないなら仕方ないけど……んじゃ、こういのはどう? それでもやっぱり名前ないと不便だから、何か仮の名前をつけて呼ぶってのは?」


 悲痛な表情で沈黙を続けるメルウトに、困り果てた様子のウベンはそんな提案を試しにしてみる。


「え? ……あ、はい。それなら別に……いいですが……」


 すると、彼女は顔を上げ、少々呆気にとられた様子で案外あっさりと了承した。

言われてみればものすごく簡単なことだ。これまで、なぜそのことを思いつかなかったのだろう?


 そうだ! 偽名を使えばいいんだ! 身元は割れないし、その方が訊かれた時にも不審に思われなくてすむ。こんな簡単な解決方があったんじゃないか……。


「そうだなあ……ネフェルトってのはどう? 〝美しい者〟って意味だ。美人の君にはぴったりの名前だよ。うん。君のつぶらな瞳を見ていると、もうそれしか考えられない。あ、もしかして、本名だったりして?」


 愚かにも気づかなかったその妙案にメルウトが感心していると、ウベンはその黒い瞳を正面から覗き込み、いつものナンパな口調でそんな響きのよい仮の名を候補に挙げてみせた。


 この端正な顔立ちをした少年にじっと見つめられ、〝美しい者〟などという名前をつけて呼ばれたりなんかしたら、大抵の女子はうっとりと頬を赤らめ、もうすっかりその目をハートにしてしまっているところであろう……だが。


「はい。それでいいです。じゃ、まだ仕事が残ってますから、そろそろ行きましょうか? ジェフティメス先生も待ってることでしょうし…はむ…もぐもぐ……」


 偽名を使う利便性については感心したものの、その名前自体は何であろうと別にかまわないと思っているメルウトは、素っ気なくそう答えると、まだ一口ほど残っていたパンを急いで頬張り、早々に昼休みを切り上げるべく、すくっと立ち上がる。


「……え? …ああ! ちょっと待ってよ! …モゴ…モゴ…」


 そのまま土手を登って行こうとするメルウトを呼び止め、慌ててウベンも食いかけのパンを一気に口の中へ放り込む。


「……もしかして……天然?」


 振り向きもせずに行ってしまう彼女の背中を追い駆けながら、苦笑いを浮かべるウベンは誰に言うとでもなくそう呟いた。


※挿絵↓

https://kakuyomu.jp/users/HiranakaNagon/news/16817330668799143212

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