Ⅺ 賢者の高能力値(ハイスペック)(2)
そうして、そこはかとない疑問をメルウトに抱かせたまま、三人は午前中にさらに二つほどの仕事をハシゴしてこなした。
一つはあまり文字を書くのが得意でない商人のために、遠隔地の得意先へ注文の手紙を書く仕事で、もう一つはこれまでとは一変、今度は医者の方の仕事である。
一応、家に診察室を設けてはいるが、こうして頼まれて出張することも度々だし、書記の仕事で留守にしていることもしょっちゅうのため、家で診察することはほとんどないらしい。
それでも、留守中に急患が尋ねて来た場合困るので、その時は自分を探して伝言してくれるよう、となりの家の奥さんに頼んであるのだそうだ。人は多いが案外狭い町なので、そんなものでも大丈夫なのかもしれない。
ちょうどこの日も、そうした急患が出先のジェフティメス達のもとへ飛び込んで来た。
今日、予定していたのは石材を運ぶのに肩や腰を痛めた石工達の往診であったが、そこへとなりの奥さんが、具合の悪くなった子供を診てくれるよう、急患があった旨を知らせにやって来たのである。
「――先生、この子の具合はどうですか?」
「うーむ。まあ、ただの風邪じゃな」
心配そうな面持ちで尋ねる母親に、ベッドに寝かされた子供を診ながらジェフティメスは答える。
「身体が温まるからヤシ酒を飲ませるといい。二人とも、ちょっとそこらで材料を調達してきてくれ。それから何か柔らかくて香りのよい物と、もしできたら男児を産んだばかりの母親の母乳もの」
そして、メルウトとウベンの方を振り返ると、二人にそんな指示を出す。
「用意できたら、それをこの子の鼻の穴に入れるのじゃ。これはの。鼻詰まりに効くというのもあるが、母乳を混ぜることによって、この子をイシス女神が乳を飲ませて救ったホルス神に見立てるという〝マジナイ〟でもあるのじゃよ」
再び患者の方へ向き直ったジェフティメスは、母親にその薬の効能について説明する。当時の医術は、そうした科学的な療法と魔術的な俗信とが融合したものであった。
「そんじゃ、ちょっくら行ってきます」
そう断りを入れてから家を出て行くウベンに従い、メルウトもペコリと頭を下げると、後について材料の調達へと走る……。
そんな感じで、メルウトはウベンとともに雑多な用をこなすだけであったが、医者としての仕事においても、彼女はジェフティメスの優秀さに感心することとなった。
医術の知識に加えて、さっきのギリシア語までわかる語学力……ほんとにただの町医者なの? これほど博識な人だったら、高い地位の神官や役人になっていてもおかしくないはずなのに……。
前を行くウベンの背中を速足で追いながら、メルウトは再びそんな疑問をジェフティメスに対して抱く。
一見のほほんとして見える好々爺のような顔をしたあの老人は、そんな勘繰りをしてみたくなるくらいの、ほんとに高度で広範な知識を持った人物なのだ。
だが他方、確かにジェフティメスが高位の神官や役人でない証しには、目的地へ向けて町中を歩いている最中、方々で彼は気軽に声をかけられていた。
「やあ、先生。こないだはどうも、うちの息子がお世話になりました」
別のある時には……。
「先生! 最近、体調が良くないんだけど、今度、暇な時に診てくれよ」
はたまた、さらに別の所では……。
「せんせーい! 早く『シヌヘの物語』の続き読んでおくれよーっ! みんな、楽しみに待ってんだよーっ!」
と、町に住む奥さん連中から、人気の小説の読み聞かせを頼まれたりもしていた。
文字の読めぬ平民達にとって、そのように小説を耳で聞くことが一つの楽しみとなっていたが、どうやらそんな娯楽関連のこともこの老人はやっているらしい……。
ともかくも、こうして半日、一緒に歩いてみてよくわかったことであるが、このジェフティメスという人物は町の人々から大変頼りにされており、老若男女を問わず、誰からも慕われている様子だ。なんというか、町医者というよりは〝町の老賢者〟である。
ほんとに賢者っていう称号がぴったりの人だな……学識がある上にこの人徳。もしかして、ぢつは身分を偽って町医者の振りをしてる、どこぞの王族に連なる貴族のご隠居さんだったりして? で、ウベンさんがその貴族の紋章入りの印籠を持っていたりとか……。
そんなことで、この知性溢れる老人の正体についてますます興味を覚えつつ、こどもの往診を終えたジェフティメスとともに、とある壺のたくさん並んだ工房の前を通りかかった時のこと……。
「おおーい! ジェフティメスの先生ーい!」
一行は、口髭を生やした赤ら顔の禿げた男性に大声で呼び止められた。
「先生、今ちょうど仕込んどいたビールができ上がったとこなんだよ。品評会でホルス・ビールやスフィンクス・ビールにも打ち勝った、うちの一番人気、ホルアクティ・ドライ・プレミアムだ。もうじき昼の時間だし、ちょっくら寄って飲んでいかないかい?」
どうやらそこは、パンを発酵させて作るビールの工房であるらしい。
店頭に並べられた各々の壺には、朝日を背負った太陽神ラーの〝日の出〟時の姿――隼の頭をしたホルアクティ神の絵と、
「おお、そうかね。それじゃ、せっかくのお誘いを断るのもなんだし、ご相伴に与るとするかのぉ……」
その工房の親方と思しき男の申し出に、ジェフティメスはうれしそうにそう答えた。
「イイっすね! やっぱ、エジプトと言えばパンにビールっすからね!」
師の言葉に、ウベンも諸手を挙げて一も二もなく大賛成する(※当時はOKだったけど、現代社会では「お酒は20歳になってから♪」)。
「じゃが、午前中に約束してた仕事がもう一つあったの……そんじゃ、ウベン。わしらはご馳走になってくから、後はおまえ一人でやっといてくれ」
だが、無慈悲にもジェフティメスは弟子の糠喜びを一瞬にして粉砕する。
「ええーっ! そんなあ~! そりゃあ、あんまりですよお!」
「フン。何があんまりなものか。弟子を独り立ちさせてやろうという、師の偉大なる愛がわからぬか? ちゃんとサボらずにやっておけよ。ということで、わしらは寄らせていただくとしよう」
ウベンは泣きそうな顔で抗議するも、ジェフティメスはそれを問答無用で斬って捨てると、メルウトを誘ってビール工房へ入って行こうとする。
「あ、あの……わたしもウベンさんと一緒に仕事の続きをします。これまでお世話になったお返しだというのに、わたしが遊んでる訳にはいきませんから」
しかし、メルウトは立ち止まると、そう言ってジェフティメスの誘いを遠慮がちに断った。
「ええっ! ほんと!」
俄かに表情を明るくするウベン。
「いや、別にそう固く考えなくともいいて。おまえさんにはもう充分にお返しをしてもろうたからの。こんなに手伝ってもろうて、むしろこちらこそ気が引けるというものじゃわい。だから後はそこのバカ弟子に任せて、おまえさんは一緒に休んでいきなされ」
「いいえ。好きでやらせていただいていることなんで気にしないでください。それにウベンさん一人じゃ大変でしょうし。二人で行ってきますから先生は休んでいてください」
だが、申し訳ないという顔でもう一度誘うジェフティメスの言葉にも、メルウトは首を横に振って再び辞する。
「カーっ! なんて心優しい娘っ子なんだ! それに比べて、うちの血も涙もない師匠ときたら……この鬼っ! 人でなしっ!」
「やかましいわっ! ……そうか。まあ、おまえさんがそうしたいというのならば、その好意に甘えるとするかの。じゃ、わしは少し休ませてもらうんで、バカ弟子のことをよろしく頼むの。昼は二人で適当にとってくれ」
大袈裟な素振りで感動し、続いて師を罵るウベンを一喝すると、ジェフティメスはメルウトの方を向き直り、眉根を「ハ」の字にして彼女の申し出を受け入れた。
「はい。それじゃ、行ってきます」
こうして、ビール工房にジェフティメス一人を残すと、メルウトはウベンと二人で次なる仕事場へと向かうこととなったのだった。
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