ⅩⅣ 夢の醒める時

ⅩⅣ 夢の醒める時(1)

 その翌日、メルウトがこの町に来て早や10日が経とうとしていた日のことである。


 この日も、メルウトはウベンと二人で書記の仕事をしに町へと出かけていた……。


「………………」


 昨日、勢いとはいえ思わずあんなことを言ってしまった手前、彼の顔をまともに見ることがメルウトにはできない。


 ……気まずい……思わず〝お気楽に生きてる軽い人間〟なんて言っちゃったからなあ……ウベンさん、きっと怒ってるだろうなあ……表面では感謝してるふりして、命の恩人をずっとそんな風に思っていたのかと、あたしのこと軽蔑したかもしれない……まあ、正直、そう思ってることもないわけじゃないんだけど……あたし、マアトにもとるなんて悪い子なんだろう……。


「………………」


 そんな訳で、メルウトはとても気まずい想いを引きづりつつ、ウベンの後を黙って歩いていたのだったが。


「ふあぁ~今日もいい天気だねえ~…って、エジプトは滅多に雨降らないけどね、ハハハ。ん? どうしたの? そんな浮かない顔して?」


 当の本人はまるで気にしていない……というか、昨日のことをまるで憶えてすらいないようである。


 ほんと、このウベンという少年はどこまでも軽いチャラ男のようだ。


「ハァ……」


 その呆れるのを通り越して尊敬の念すら覚えるような彼の性格と、まったく無駄な気遣いをしていた自分の愚かさにメルウトは脱力して溜息を吐く。


 このような人間を見ていると昨日、彼が言っていた通り、本当は悩むことなどせぬ方が案外、道は開けていくものなのかもしれないな…などと、納得はいかないながらも思えてきたりしてしまう。


 ……だが、その時のことだった。


「…ん? なんの騒ぎだ?」


 大通りが交差する町の真ん中の辻に、けっこうな黒い人集りができている。


 普段でも大勢の人々が行き来している場所ではあるが、そんないつもの光景とは明らかに何かが違う……そこにいる人々は皆、その場で動きを止めているのだ。


「なんだろ? ちょっと行ってみよう」


 そう言ってそちらへと足を向けるウベンについて、メルウトも怪訝な顔で再び歩き出す。


「皆の者、静まれーい!」


 近づくにつれ、そんな男の怒鳴り声が人垣の向こうから聞こえてきた。


 どうやら人集りの真ん中には役人らしき者がいて、何かの〝お触れ〟を人々に知らせようとしているらしい。


「我は、テーベのカルナク神殿警備隊の特務部隊隊長ウセルエンである!」


 ……!


 聴衆の頭越しに筋骨たくましい上半身が覗く、若い軍人みたいな者の発したその言葉にメルウトは思わず愕然とした。


 彼らは紛れもなく自らの敵――アメン神官団と関わりのある人間だ……まだ断定はできないが、とても嫌な予感がする……。


 メルウトは早鐘のように脈を打ち始める心臓イブの音を聞きながら、次の言葉に注意深く耳を傾ける。


「現在、我々はアメン大司祭アレクエンアメン様のめいにより、ある謀反人の行方を捜している! その者の名はメルウト! レトポリスのセクメト神殿の女性神官にして、大神官のジェセルシェプストとともにアメン・ラー神及びファラオに対して謀反を企てた国家の大罪人だ!」


 嫌な予感は的中した……ついに、こんな予期せぬ突然の形で敵の追手がここまでやって来たのである。


 メルウトは遠くなる意識をなんとか繋ぎとめ、倒れそうになる身体を必死で支える。


「歳は15。細身で身長は3キュービット(※約156㎝)ほど、おかっぱ頭の黒い髪の娘だ! 目撃情報によると、どうやらナイルを下ってこちらの方向に逃走しているらしい! このヘリオポリスの町に潜伏している可能性もある! もし、このメルウトなる娘を知っていたら、もしくはそれと思しき娘を見かけたという者がいたならば、ただちに我々に申し出よ!」


 何事かと立ち止まるたくさんの聴衆を見回しながら、ウセルエンは高々と来訪の理由を人々に告げる。


「もう一度繰り返す! このメルウトなる者は、偉大なる我々の神アメン・ラーをないがしろにし、このエジプトを我が物にしようとした大罪人である! もし万が一、この罪人を匿うような者あらば、その者も仲間と見なし同罪に処する! 少しでもこの娘の疑いある者を知っていたならば、隠さず速やかに申し出るのだ!」


 その嘘八百な濡れ衣に憤りを覚えながらも、メルウトは冷静に今の状況を確認する。


 少なからず覚悟はしていたが、まさかこんなにも早く来てしまうとは……しかも、彼らはすでに自分の名前や容姿を特定している。


 おそらくはレトポリスで聞き込みをして自分のことを割り出した後、それを頼りに一人旅の女の目撃情報を辿って、わざわざここまで追って来たのであろう。


 だが、同じセクメト神殿の女性神官達は、大神官を虐殺した憎き仇に対して、けして自分の名を教えようとはしなかったはずだ。もしかしたら、拷問まがいのことまでされたのかもしれない……。


 かつての仲間達の身を案じつつも、メルウトは人混みから静かに一歩後退る。


 こうなってしまっては、いつまでもこんな所にぼうっと突っ立っている訳にはいかない。一刻も早くこの場を去らなくては……。


 ありふれたものすぎて、あまり参考にはならないだろうが、身体的特徴も知られているので誰かに気づかれる可能性だってある。本名を伏せていたのは本当に正解だったと思う。


 とにかく、早く行動に移らなくちゃ……でも、どうすればいいの?


 もう一歩、足を後に退きながらメルウトは考える。


 現在、自分に与えられている選択肢は二つ……ジェフティメスの家に戻って隠れるか、それとも、すぐに荷物をまとめてこの町を出るかだ。


 敵がこんな目と鼻の先にいる町などからは早々に逃げ出したいところではあるが、ここで妙な行動をとれば、かえって見つかってしまう可能性の方が高い。


 今、口上を述べている指揮官らしき軍人の背後には、10名ほどの兵士が控えている……しかし、それだけということはないだろう。もっと大勢の兵が近くに待機しているはずだし、もしかしたら、すでに町の出入り口を封鎖しているかもしれない。そんな多くの兵達の目を掻い潜って、密かに町を脱出するのは至難の業だ。


 ここは、しばらくジェフティメスさんの家に隠れていた方がよさそうかな……さすがに家捜しまではしないだろうし……たぶんだけど。


 数瞬の間にそう判断をすると、メルウトはさらに二、三歩、前を向いたまま後退り、不意にくるりと振り返るや、なるべく目立たぬよう早足で歩き出した。


「……ん? あ、ねえ! ちょっと、急にどうしたんだよ⁉」


 いきなり視界から消えたメルウトの姿を追い、それが少し離れた場所にあるのを確認すると、ウベンは呆気にとられた様子でそちらに手を伸ばす。


 だが、そんな彼のことなどまるで気にかけず、メルウトは人混みが見えない所まで来るとさらに歩を速めて、一目散にジェフティメスの家へと取って返した――。

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