ⅩⅣ 夢の醒める時(2)
「――ん? おや、どうしたんじゃ? そんな急いで…」
メルウトが転がるように家の中へ飛び込んで来ると、別用で出ていたジェフティメスがいつの間にか帰っていた。
「……ハァ……ハア…」
だが、不審に思うジェフティメスの問いに答えることもなく、階段を一気に駆け上がったメルウトは、二階に当てがわれた自身の部屋へとそのままの勢いで走り込む。
そして、荒くなった息を押し殺しながら通りに面した壁に身体をへばりつけ、開いている窓の四角い穴から外の様子を密かに覗った。
「………フゥ…」
窓から見えるいつもと変わらぬ町の情景に、メルウトは大きく安堵の溜息を吐く。
ここに隠れていれば、ヤツらの目に触れることもないであろう。あとは誰かが自分を疑って密告しないかの心配だが……その心配が少ない町だからこそ、メルウトはここに留まることにしたのだ。
その上、まだこの町に来て日が浅いために関わった人間も少なく、何よりもジェフティメスという町の人々の信頼厚い人物の親戚ということになっているので、その危険性もおそらくはあるまい。
大丈夫。しばらくこのまま遣り過せば、ヤツらはここでの捜索をやめて、すぐにどこかへ行ってくれるはず……。
だが、メルウトのその考えは甘かった。
「……!」
賑やかに人々の行き交う見慣れた景色の中に、突然、恐怖に満ちた人々のざわめきと、威圧的に通りを闊歩する、棍棒を手にした男達の姿が現れたのである。
そして、瞬く間にそのアメン神官団の兵と思しき男達は数を増してゆき、あちらこちらで店や家の中へと侵入し始めたのだった。
「罪人が潜伏している可能性があるため、各家の屋内も捜索させてもらう!」
「そ、そんな乱暴な……」
「これはアメン大神官アレクエンアメン様のご意思である! それにこの町での罪人捜索については、下エジプト第13
突然の横暴な家捜しに、当然、住民たちは不満の声を口々に上げるが、兵達は有無を言わさず各家に侵入して行く。
「………………」
その様子を窓から眺め、メルウトは誤った選択をしてしまった自分の浅はかさを呪った。
まさか、ここまでするとは……。
ヘリオポリス神官団のお膝元なら、アメン神官団もそうそう大胆なことはできないだろうと踏んでいたのが甘かったようだ。
だが、そのような後悔を今さらしても後の祭りである。そうして無駄に考えている間にも、三軒となりの家……二軒となりの家……通りを挟んで向かい側の家……と、捜索の手は徐々にジェフティメスの家へと迫り来る。
……どうしよう……このままじゃ、すぐにここにも兵達がやって来る……かといって、今さら外に出る訳にもいかないし……いったいどうすればいいの?
「あ、あなた達、突然なんなの⁉」
「うるさい! 我々はアメン大司祭様のご意思を代弁する者だ! 罪人の捜索を邪魔すると、おまえ達も容赦なくしょっぴくぞ!」
額に嫌な汗をかきながら、メルウトは必死でこの危機を逃れる方法を思案する。
だが、敵は考えをまとめる間すら与えてはくれず、二軒となりの家を出ると、今度はすぐとなりの奥さんの家へと強引なやり方で踏み込んでゆく。
「おおーい、ネフェルトちゃーんっ! …ああ! 師匠、帰ってたんですか?」
そんな中、突然走り出したメルウトの後を追って、一足遅れでウベンも家へと到着した。
「いったいどうしたというんじゃ? あの
「な、何言ってんすか! そんなエロジジイの勝手な妄想抱いて人聞きの悪い冗談言ってる場合じゃないっすよ! いや、ほんと、冗談抜きでそれどころじゃないんです! じつはですね――」
困り果て、二階の部屋で茫然と立ち尽くしているメルウトの耳に、そんな二人の遣り取りが階下から聞こえてくる。
その後、彼らは何か小声で相談しているようだったが、何を言っているかまでは聞き取れなかった。
何を話してるんだろう? ……やっぱり、わたしがヤツらの追っているお尋ね者だとわかったのかな? もしかしたら、そうとわかって、わたしをヤツらに突き出す相談してるとか? ……いいえ。二人のことだから、そんなことはけしてしないと思うけど……でも…。
「おーい! 誰かいないのかーっ! 返事がなければ勝手に入らせてもらうぞーっ!」
その時、家の入口で怒鳴り上げる男の大声が木霊した。ついに、この家へも捜索の手が及んだのである。
メルウトは部屋の戸口に近づくと、耳をそばだてて階下の様子を窺う……。
「は~い! 今行きまーす!」
すると、今度は対応に出るウベンの声が聞こえてきた。
「どうしました? なんかものすごく健康そうな身体してますけど、あなたが患者さん? それとも急患で師匠を呼びに来たんすかね?」
「ん? ここは医者の家か……いや、患者ではない。我々はアメン大司祭様の
何食わぬ顔で応対するウベンに向かい、兵士はお決まりの質問を投げかける。
「へえ~そいつは暑い中、御苦労さまっす……さあて、俺はこの町にいる大概の女の子と知り合いですけどね、そんな名前の娘は見たことも聞いたこともないっすねえ」
「念のため、ちょっと中を見せてもらうぞ!」
だが、惚ける彼を押し退けると、それまで他の家でもしていたのと同様、兵士は強引に屋内へも侵入して来るようだ。
「まあ、見てもらっても構わんがの。残念ながら、そんなお尋ね者の娘はおらんよ。いたら速攻で突き出して、ありがたくご褒美にあずかるところなんじゃがのう」
続いて、そんなジェフティメスの呑気な声も微かに響いてくる……どこまで気づいたのかわからないが、やはり彼らは自分を匿ってくれるようである。
ジェフティメス達のありがたい厚意に、心苦しく思いながらもメルウトは正直ホッと胸を撫で下ろした。
「おまえが医者か? ……ここにいるのはおまえら二人だけか? 奥も見せてもらうぞ……」
一方、兵士の声はそんなジェフティメスの軽口に答えることもなく、ドシドシと乱暴な足音を立てて歩き回りながら、一階の部屋を捜索している様子である。
「確かに一階にはいないようだな……では、二階も見せてもらうぞ」
しばらくの後、今度はそんな言葉とともに階段の下で男の立つ気配が伝わってきた。
……!
一時は安堵したメルウトの心と身体に、一瞬にして緊張が蘇る。
「いや、二階には誰もおらせんよ」
「ええ。残念ながら、ここにいるのは俺と師匠のむさ苦しい野郎二人だけっすよ」
「フン。それは自分の眼で見て判断する。そう言うヤツに限って罪人を匿っているものだからな……」
ジェフティメスとウベンが否定するも、兵士はその言葉だけで二人を信用することなく、その無遠慮な足を最初の一段へかけようとする。
安心するのはまだ早かった……ここまで執拗な捜索を行うヤツらのこと。二階を見ずに帰ることなどないのはわかりきっていたはずだ……。
この部屋には隠れる場所がどこにもない。このままここにいたら、見つかるのは考えずとも明らかである。
また、もしこの部屋から出たとしても、二階にはこの部屋を合わせて同じような寝室が三部屋ほどしかなく、一階へ下りるにも兵士が今まさに上ってこようとしている階段しかない。
逆に屋上へ行ったとしても時間稼ぎになるだけで、特に状況は変わらないであろう……つまり、逃げ場はどこにもないということだ。
いっそ、窓から飛び降りて逃げてみる?
振り返り、ポッカリと壁に四角く開いた窓を眺めてメルウトはそう考える。
だが、そうしたところで、外にも多くの兵達が自分を捜して歩き回っている……そんなことをしても、無駄にわざわざ捕まりに行くようなものだ。最早、どう動いても逃れる術は残されていないのである。
……もしここで見つかったら、兵士に疑いを持たれるのは確実だろう。歳格好からしても、彼らの知るお尋ね者の風体にぴったりだ。とてもシラを切り通すことはできまい。自分は捕まり、セクメトはヤツらのものとなってしまう……それだけはなんとしても避けなければ……。
それに自分が捕まれば、自分ばかりか匿ったジェフティメス達も罪に問われることとなってしまう……。
こうなったら一か八か、アンクと『セクメトの書』をどこかに隠し、ヤツらに投降するか……ジェフティメス達は自分に脅されて匿っていたことにすればいいし、自分が殺されたり、万が一セクメトが見つかったとしても、アンクがない限り
……いや、そんな危険を冒すくらいなら、いっそあの時と同じように……もう二度とあんな過ちは犯すまいとは思っていたけど、もう一度、あの日と同じようにセクメトに乗って、追手の兵達を……。
完全に追い詰められたこの危機的状況に、ただただ胸のアンクを強く握りしめ、メルウトがとうとうその禁断の手段に出る覚悟を決めようとしていたその時である。
「いや、二階には誰もおらぬと言うておろう」
再びそう述べるジェフティメスの声が、力強く階下から響いてきた。
「だから、それは自分の眼で確かめる!」
当然、兵士はそんな言葉を聞く耳を持たない。
「わしが言っておるのだ。嘘ではないぞ。ほれ、わしの目をよく見て……二階には誰もおらん……おまえさんもそう思うじゃろう?」
もう一度、兵士を引き留めようとジェフティメスの声がそう告げるが、そんなことを何度言ってみたところで同じことだ。
……ところが。
「……ああ、そうだな。二階には誰もいない……よし。ここの捜索は終わりだ。協力感謝する」
なぜか兵士はそれで納得すると、満足して家を出て行ってしまったのである。
「………………」
その予想外の展開に、肩透しをくらったメルウトはホッと胸を撫で下ろすどころか、唖然と目をパチクリさせて呆けてしまう。
……おかしい……簡単に納得しすぎる……いや、そのおかげで助かったけど、さっきまでの言動からして、どう考えてもあれで納得するなんてことありえない……なのに、どうしてあんなにもあっさりと帰ってしまったんだろう?
そんな当然の疑問に捉われ、困惑したまま立ち尽くすメルウトのもとへ、ジェフティメスとウベンの二人が階段を上ってやって来た。
「兵は帰ったからもう大丈夫じゃ。ちょいと入ってもいいかの?」
「……あ、は、はい!」
何やら魔術にでもかかったかのような感覚に囚われながら、彼女は訳のわからぬまま返事を返す。
仕切りの布を上げ、部屋に入って来た二人はなぜだかニヤニヤとおかしそうに笑っていたが、彼らは鼻を手で覆い、よく見るとジェフティメスの右手には香炉が握られている。
「いったい、これはどういう……」
不思議そうな顔で尋ねるメルウトに、ジェフティメスがひどく愉快げな声で答えた。
「なあに、ちょいとあやつに〝鼻薬〟を嗅がせてやったんじゃよ。といっても、金品じゃなくて、本物の薬なんじゃがの――」
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