Ⅱ 墓に眠る女神(3)

 一方、その頃、地上ではメルウトの心配していた通り、アメン神官団の兵達がマスタバ内に侵入し始めていた……。


「ガウォオオオオーン!」


「お、おい、なんだ? 今の声は?」


 突如、足下から響いてきた不気味な獣の声に兵達は不安な顔を突き合わせる。


 

 と、そんな間もなく、今度はドォォォォーン…!と地面を突き上げるような激しい衝撃が彼らの身体を突き抜けた。


「な、何が起きたんだ⁉」


「今のは裏手からか……おい、外に出て墓の裏に回れ!」


 余震で揺れるマスタバに、隊長はそう叫ぶと自身も音のした方向目指して走り出す。


 それを見た他の兵達も追随し、彼らは黒い塊となって、入口から転がるようにして外へと出た。


「いかがなされたのですか⁉」


「これはいったい⁉」


 飛び出して来た仲間達に、外で待機していた残りの兵がこの状況の説明を乞う。


「わからん! とにかくこの裏だっ!」


 答えて隊長がマスタバを回り込むと、少し向こうに行った場所を中心にして、辺りにはもうもうと砂煙が舞い上がっている。


「いったい、何が起きた……」


 状況をまるで掴めず、隊長以下全員が唖然とした顔でしばし様子を窺っていると、立ち込める砂塵の向こう側で黒い大きな影が不意にぐらりと揺らいだ。


「………………」


 皆が固唾を飲んで見守る中、谷を吹く風に砂埃はゆっくりと薄らいでゆく……。


「な…⁉」


 そして、そこに彼らが見たものは、陥没した地面の中から這い出そうとする、一頭の巨大な黄金の牝ライオンだった――。




「――痛つつっ……」


 自分の身に何が起きたのかわからず、メルウトは頭をどこかにぶつけたような痛みを感じながら、セクメトの中で周囲を見回す。


 どういう原理なのかは知らないが、やはり水晶のように透き通ったジェド柱室の壁面には、さっきまで見えていた地下室の石の壁ではなく、砂塵に煙る岩山の風景が映し出されている。


 やがて、その砂煙も風に流されて視界が鮮明になると、透明な壁を通して、彼女の足下には陥没した地面の縁にかかるライオン像の大きな前脚が見えた。


 それから首を捻って玉座の後方へ視線を移すと、ライオン像の下半身は地面に開いた大穴の中にすっぽり埋まっている。


 こうした状況や先程のことを考えるに、どうやら飛び跳ねたライオン像は地下室の天井――つまり地上から見れば地面を突き破り、地表へと身体半分だけを現したらしい。


 再び前方に目を向けると、少し行った所にマスタバが見えるが、長い地下階段を斜めに下って進んだため、いつの間にか地上施設のマスタバからは離れた位置に来ていたようだ。


「あれは……」


 また、そのマスタバの脇には五十人程の人間が固まっているのが覗える。


 メルウトは、ライオン像の玉座に座ったまま目を凝らす……すると、彼女の目の筋肉の動きと連動するかのようにして、透明な壁に映る景色もその場所に焦点が絞られ、人間達の姿が大きく映し出された。


 この景色は……もしかして、このライオン像の目が見ているものなの?


 そのことに気づくメルウトだが、そのような不思議な仕組みに驚いている暇はない。その50名にも上る人影は案の定、メルウトを追ってきたアメン神官団の兵達だったのだ。


「こ、これが、大司祭様のおっしゃられたラーの眼イレト・ラー……」


 その兵の中の一人、隊長と思しき者の呟いたその声が、ここまでは少し距離があるというのに、まるで耳元ででもしゃべっているかのようにライオン像の中に響く……これも、壁の景色同様、ライオン像の耳が捉えたものなのだろうか?


「お、おい! あのライオンが大司祭様のお求めになられているものだ! 皆、ぼやぼやせずにあれを捕えるのだっ!」


 隊長らしき者の声が、耳元で今度はそう叫んだ。


「……お、オーッ!」


 わずかの間を置き、他の兵達も気を取り直して鬨の声を上げる。


 そして、彼らは各々手にした弓や投げ槍で、いきなりライオン像相手に攻撃を仕掛けてきたのだった。


 ……カッ! …カッ! ……ガン! …ゴン…! と、矢や槍が像の表面を叩く鈍い金属音。


「痛っ…!」


 ライオン像の硬い表面が傷付くことはなかったが、それらの鋭利な穂先が像の腕や胴に当たった瞬間、なぜかメルウトの身体の同じ個所にもチクリと針で刺されたような痛みが走る。


「……な、何? ……痛っ…!」


 奇妙な痛みに驚くメルウトだったが、再びガン! ゴン…! と矢や槍がライオン像に当たったかと思うと、またしても同じように彼女の身に痛みが走る。


 それはまるで、ライオン像とメルウトの感覚が繋がっているかのようだ。


「なんと硬い皮なのだ……もっとどんどんと射かけよ! 弱らせて捕えるのだ!」


 隊長のその指示に、ピュン、ピュン…と空を飛ぶ矢の風切音はさらにその数を増してゆく。


「や、やめてっ!」


 それを証明するかの如く、なおも続く攻撃にメルウトが顔を手で覆うようなイメージを抱いて牧杖ヘカ殻竿ネケクを握りしめると、そのイメージ通りにライオン像も右前脚を上げて自身の顔を覆う。


 どうやら感覚が繋がっているだけではなく、メルウトがそう思うと、あたかも自分の身体を動かすようにしてライオン像も動くらしい。


「う、動いたぞ!」


「怯むなっ! 脚だっ! 脚に綱を巻きつけて動きを封じるのだ!」


 突然、巨大な前脚を振り上げたライオン像に恐怖を感じる兵達だったが、隊長の号令で気を取り直すと、再び攻撃を仕掛け始める。


 ヒュン……ヒュン……と高速で振り回される縄が空を切る音。


 今度は先端に錘の付いた太い麻縄が二方向よりライオン像目がけて投げつけられる……縄を操る兵の腕はよく、それらは的確にライオン像の前肢を捉え、錘の作用で左右の脚にぐるぐるとおもしろいように巻き付いた。


「よし! 引っ張れっ!」


 そして、20名づつ二手に分かれた兵達が、それぞれの方向にその大縄を渾身の力を込めて引き絞る。


「うっ……」


 すると、メルウトの両の腕もまた、何か強い力で引っ張られるかのような感覚に捉われた。


 と、その時、ガンっ…! と一際大きな金属音がライオン像の内部に木霊する。


「痛ぁぁぁぁーっ!」


 さらに一人の兵の投げた槍が、運悪くもライオン像の右目に当たったのだ。これまで同様、ライオン像が傷つくようなことはなかったが、瞬間、メルウトの右目には本当に何かで突かれたような激痛が走る。


「ガォオオォォーン!」


 その痛みにメルウトが呻き悶えると、ライオン像もそれに呼応するかのように咆哮を上げて身体を捩じらせる。


「うわあっ!」


 突然強烈な力で脚を動かされ、大綱を握る兵達の何人かは吹き飛んで地面に叩きつけられた。


「ハッ…!」


 右目を痛そうに瞑りながらも左目でそれを見たメルウトは、このような危機的状況下であっても、人を殺してしまうかもしれないという恐怖に思わず身体を制止させる。


「怯むなーっ! もっと強く引けぇーっ!」


 だが、そんな心優しき彼女の感情など理解することもなく、兵達は体勢を立て直すと、大縄を再び強く引き絞る。


「うっ……」


 また、ピュン…ピュン…となおも射かけられる矢の雨が、ライオン像へ当たるたびにメルウトの身体をチクチクと痛めつける……。


 その痛みから逃れようとメルウトが下手にライオン像を動かせば、縄を引く兵達がどうなるかわからない……しかし、下半身がまだ地面に埋もれたこの状態では逃げることもできず、このままだといつまでもなぶられ続け、無駄に体力を失っていくだけだ。


「………でも、このままじゃ、この像も、あたしも……なんとかしなくちゃ……」


 メルウトがそう思ったちょうどその時、どこからともなく、またも女性の声が聞こえてきた……。


〝殺せ!〟


「えっ!」


 メルウトは思わず周囲を見回す……今度も女性の声ではあるが、先程の淡々としたものとは違い、冷たくも威厳のある、どこか恐ろしい女の声だ。


 しかも、それは耳にではなく、直接、頭の中に響いてくるようである。


〝殺せ! ……己が敵を抹殺せよ!〟


「こ、殺せって……そんな、わたし人を殺すことなんか……」


 その声に、メルウトは反論を試みる。しかし…


〝殺せ……死にたくなければ、目の前の敵を殺するのだ!〟


「…っ⁉ ……死……わたしの死……」


 その言葉を聞いた瞬間、命の危機を感じ始めたライオン像の中で、メルウトは自身の意識を失った――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る