Ⅲ ラーの眼の女主人(ネベト・イレト・ラー)

Ⅲ ラーの眼の女主人(ネベト・イレト・ラー)

 ナイル河口のデルタ地帯にあるレトポリスよりナイル川を南に遡り、上・下エジプトを分けるいにしえの都メンフィスをさらに遥か南に上った場所に位置する上エジプト第4ノモスのテーベ……。


 東岸には国家神アメン・ラーを祀る広大なカルナック神殿とルクソール神殿、西岸には王族の墓地〝王家の谷〟が存在する、アメン・ラー信仰の中心地である。


 太陽が西の地平線に沈み、ラー神が夜の世界を船で旅しているであろうその時刻、このエジプト最大の聖地に一艘の早舟に乗ったレトポリスよりの使者が到着した。


 その使者は篝火のとなりで門番と何やら二言三言交わすと、夜の闇にそびえ立つ巨大な塔門を潜り抜け、カルナック神殿内のアメン大神殿へと入って行く……そして、豪華に彩色された壁や黄金の調度品で飾られる一部屋に通されると、そこでアメン神官団の長、大司祭アレクエンアメンに謁見した。


「火急の知らせ故、夜分に失礼いたします」


 膝を突き、畏まって使者の男は断りを入れる。


「構わん。して、どうだ? セクメトは手に入ったか?」


 正装である豹の毛皮を纏い、まるでファラオででもあるかのように巨大な扇を持つ従者を左右に侍らせた大司祭が、ひどく気の急いた様子で男に尋ねる。


 神官として頭髪を完全に剃り上げた彫りの深い老人のその顔は、夜の闇とオレンジ色の燈火に濃い陰影を加えられ、よりいっそう威厳に満ちた人物のように映る。


「それが……ラーの眼イレト・ラー・セクメトの確保には失敗いたしました」


 男は言い淀みながら、とても答えづらそうに報告した。


「なんと⁉ 大神官のジェセルシェプストに逃げられでもしたか……隊長のセネブアペドはどうしておる? この失態の責任は重いぞ!」


「セネブアペド様は……お亡くなりになりました。他の兵達もです。生き残ったのは私一人で……」


 瞬間、目に怒りの色を宿し、激しく恫喝する大司祭に男は震える声で答える。


「何⁉ ……どういうことだ? レトポリスのセクメト神殿はそのような兵を持ってはおらぬはずだぞ? もしや、こちらの動きを察知してギリシアの傭兵でも雇ったか? だが、それにしても捜索隊の兵が全滅というのは……」


 訝しげな様子で男を睨む大司祭アレクエンアメンだったが、彼は目の前の権力者よりも脳裏に蘇った〝その時〟の情景に、よりいっそう身を打ち震わせながら呟いた。


「そ、それが……セクメトが……動いたのです……隠し場所と思しき古い墓まで行ったら……突然、あの巨大な黄金のライオンが現れて……捕えようとした我々は、次々にあの恐ろしいライオンの餌食に……」


「なんだと⁉ やつら、ラーの眼イレト・ラーを動かしたのか⁉ 誰が乗った? ジェセルシェプストか⁉」


 大司祭は男の言葉に驚くもすぐに状況を呑み込み、恐ろしい記憶に目の焦点も合わなくなっている彼に続けて尋ねる。


「わ、わかりません……セクメト神殿の大神官は誤って殺してしまいましたし……若い女性神官が一人、アンクと古文書を持って逃げましたので、その者かもしれませんが……ですが、私もあのライオンに殴り飛ばされて気を失い、なんとか命だけは助かったようなものでして……」


 暗がりにいたのでそれまで気づかなかったが、よく見るとその男も頭や腕などに白い亜麻布の包帯を巻いている。彼自身、かなりの重傷のようである。


「わかった。もう下がってよい。詳しいことはまた後で聞く」


「ハッ……」


 大司祭にそう言われると、男は重い身体を引きづって、ふらふらと大司祭の部屋を退いて行った。


「誰か! レオントポリスのウセルエンの所へ作業を急ぐよう遣いを出せ! わしも近々そちらに行くと言ってな。それから〝アメンの従者〟のアルセトを呼べ!」


 男を見送るか見送らない内に、大司祭は静かな夜の神殿に響く大音声を張り上げて、部屋の近くに控えるお付きの者にそんな指示を飛ばす。


 するとしばらくして、男の代わりに今度は一人の若い娘が部屋の中へと入って来た。


「お呼びでございますか? 大司祭アレクエンアメンさま」


 プリーツ入りの袖が付いた長衣ドレスを纏い、ドレッド様に編んだセミロングの鬘に頭を一周する環状の金の髪飾りを載せた娘は、床に膝を突き、勝気な笑みを浮かべながら大司祭に問う。


 歳の頃は18歳くらいだろうか? 歳相応のかわいらしさもあるが、そのアイシャドーで縁取られる自信に満ちた瞳からは、大変な負けず嫌いで、とても気の強そうな彼女の性格が覗い知れる。


「我が優秀なる弟子アルセトよ! そなたにはいよいよ〝ラーの眼イレト・ラー〟に乗ってもらうこととなった」


「まことでございますか⁉」


 その言葉に、アルセトはパッっと表情を明るくする。


「うむ。現在、レオントポリスで発掘中のラーの眼イレト・ラー・〝テフヌト〟にな」


「テフヌト? ……確か、我々候補者の中で最初に選ばれた者はセクメトに乗るよう承っておりましたが……」


 一旦は喜んだアルセトであったが、そのことが意外だったのか、すぐに怪訝な色をその顔に浮かべる。


「そのつもりであったが少々事情が変わった。我らより早く、セクメト神殿の何者かがセクメトを動かしてしまったようだ。そこで、そなたにはテフヌトを使って、セクメトを奪い返してほしい。生身の人間だけでラーの眼イレト・ラーを捕えるのは不可能だからな」


「なるほど。そういうことでしたか……了解いたしました。このアルセトにすべてお任せください。必ずやセクメトをアメン神の御前に捧げてみせます」


「さすが〝ラーの眼の女主人ネベト・イレト・ラー〟候補者の中でも最も優秀であっただけのことはある。なんとも頼もしい返事だな。だが、ある意味、テフヌトはセクメト以上にその操縦が難しい……そなた、もちろんテフヌト女神の脱走に関する神話は知っておろうな?」


 自信たっぷりにその命令を引き受けるアルセトだったが、大司祭はなぜか古の神話について語り出す。


「はい。ラーの眼イレト・ラーとしての自身の立場を忘れ、ラー神のもとからヌビアの砂漠へと逃げ出した話ですね」


「そう。その後、脱走したテフヌト女神を知恵の神トトと狩猟の神オヌリスが追い、トト神の魔法で虜にされたテフヌト女神はラー神のもとへと帰る。だが、既にラーが新たな眼を作ってしまっていたために彼女の収まる場所はなく、それに怒ったテフヌト女神は炎を吐く蛇となって暴れ回った……」


「そこで、困ったラー神は彼女を自分の額に乗せ、それがファラオの象徴である〝ウラエウス〟の起源になったと」


「そうだ。その後、テフヌト女神はトト神によってナイルの水で清められ、優しき女神へと生まれ変わるのだが……アルセト、この神話の裏に隠された真実は知っておるか?」


「真実?」


 アメン神に仕える女性神官として、その神話は熟知しているアルセトであったが、さらに突っ込んだ質問をする大司祭に彼女は再び訝しげな表情を作る。


「この神話にはな、太古の昔、実際に起きたラーの眼イレト・ラー・テフヌトを巡る史実が語られておる……テフヌト女神がラーのもとより逃げ出したというのは、最初に造られたラーの眼イレト・ラーであるテフヌトの戦闘本能活性化システムに取り込まれた搭乗者が暴走し、制御が利かなくなってしまったという事件の記憶なのだ」


「暴走……」


「そうだ。また、新たなラーの眼イレト・ラーが作られ、テフヌト女神の収まる場所がなくなってしまったという話は、その後、強力すぎるシステムを調整してセクメト以下の後続機が造られたことを意味しているが、炎を吐く蛇になって暴れ回った云々という下りは、名誉挽回にとテフヌトを製造した魔術師達が改めて投入した人類抹殺計画において、大いにテフヌトが活躍したことを物語っている……」


「つまり、それほどにテフヌトは扱いづらく、その力は強力だということですね?」


 飲み込みの早いアルセトは、大祭司の言いたいことをすぐに理解した。


「その通りだ。まあ、神話の最後でも語られている通り、今はテフヌトのシステムも調整されて危険は少なくなっているはずだがな。とはいえ、ラーの眼イレト・ラーが危険な兵器であることに変わりはない……それでも、そなた、テフヌトに乗る気はあるか?」


「フフ…ええ、もちろんですわ。その話を聞いて、むしろテフヌトに乗るのが楽しみになりました」


 鋭い眼光で睨みつけ、脅すようにして尋ねる大司祭に対し、逆にアルセトは笑みを浮かべてその返事とすると、再度、自信ありげに頷いてみせる。


「フン。それでこそ、わしが見込んだ者だけのことはある」


 それを見た大司祭も口元を奇妙に捻じ曲げ、はかりごとを大いに好む人間であるかのような、なんとも悪どい微笑みをその老齢な顔に浮かべた。


「しかし、ラーの眼イレト・ラー同士の闘いとなれば、セクメトを無傷で手に入れるのは難しいかと存じます。多少、壊してしまうかもしれませんが、それでもよろしいですか?」


「かまわん。我らアメン神官団に伝わる秘密の伝承によると、ラーの眼イレト・ラーは損傷を直す自己修復機能を宿しているはずだ。セクメトもテフヌトの方も多少の傷は構わん。それに一旦、ラーの眼の女主人ネベト・イレト・ラーとして登録されてしまった者を解除するには、その本人の意思で解除させるか、あるいはその者を殺すか、もしくはラーの眼イレト・ラーを活動停止に追い込み、再起動させるしかない。最悪、完全破壊してしまわない限りの被害ならば許す」


「それを聞いて安心いたしました。これで心置きなくテフヌトを駆ることができます。ま、あたしが使う以上、テフヌトが傷つくことはないでしょうけれどもね」


「フン。また減らず口を利きおって……少々、待っておれ」


 勝気な瞳で生意気を言うアルセトに、大司祭は頼もしそうに彼女を眺めると、席を立って隣接する奥の部屋へ入って行く……わずかの後、彼は手に見事な装飾の施された木製の小箱を持って帰って来た。


「これをそなたに与えよう」


 大司祭は跪くアルセトの前まで近寄ると木箱の蓋を開け、中の物を自らの手で彼女に授ける。


「これは……」


 中には、銀色に光るアンクと古いパピルス紙に書かれた『テフヌトの書』という巻物が一巻入っていた。


「これがテフヌトを動かす鍵だ。アルセトよ、これを使って、なんとしてでもセクメトを取り返すのだ!」


「ハッ! このアルセトの命にかけても、その任務、見事果たしてご覧にいれます。偉大なるアメン・ラー神と大司祭アレクエンアメン様のために!」


 銀のアンクと巻物を受け取ったアルセトは、力強く、そう大司祭に宣誓した――。


※挿絵↓

https://kakuyomu.jp/users/HiranakaNagon/news/16817330667992636775

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