Ⅳ 彷徨

Ⅳ 彷徨

 レトポリスのセクメト神殿にアメン神官団の兵が押し入った日より10日の後……。


 太陽神ラーの聖地、下エジプト第13ノモスヘリオポリス郊外のナイル川沿いを、メルウトはただ独り、北に向かって歩いていた。


「……ハァ……ハァ……」


 ジリジリと真昼の太陽が照りつけ、行く手には陽炎の立ち上る灼熱の大地を、メルウトは頭から白いローブをすっぽりかぶり、まだあどけなさの残るその顔を隠すようにして歩いている……歩調はあまりにも遅く、弱々しいその足取りは今にも倒れてしまいそうな気配である。


 彼女はそのようにして、ここ数日間、ナイルの川沿いを彷徨い歩いていた。


 無論、金目の物は何も持っていないし、アメン神官団の追手がかかっているだろうから、そもそも市や店に立ち寄ることもできない。


 ろくに食べ物も得られず、ほとんど飲まず食わずの辛い旅である。


「不審な旅の少女がいた」などと証言されれば、確実に神官団は自分の足取りを辿って来ることだろう……極力、人と接するようなことは避けねばならない。


 一人孤独に、朝、東の地平線より日が昇ると、そうやって行く宛のない放浪を続け、夜、ナイルの西岸に日が沈むと、打ち捨てられた古い墓や遺跡の隅で人の目を逃れて野宿をする……。


 いつ果てるともない、永遠に続くかと思われる逃亡の旅路……ファラオは死後、天を航行するラーの船の船員となって、ラーとともに昼と夜の世界を永遠に旅することを望みとするが、このような永遠の旅ならば、メルウトは死んでもしたくないと思う。


 住み慣れたレトポリスの街を発ってから、もう何日、こうして歩き続けているのだろうか?朦朧とする彼女の意識は、それすらもわからなくなってきている。


 あの日、セクメティウムで犯してしまった〝罪の記憶〟とともにレトポリスを発ったメルウトは、あの恐ろしい〝戦の女神〟をある安全な場所に隠しつつ、まずはナイルを南して川上(※ナイル川は南から北に流れている)へと向かった……その方角には、プタハ神の妻として同じくセクメト女神信仰の盛んなメンフィスもあるということで、なんとなくそちらへ足が向いたのである。


 しかし、とりあえず南へは向かったものの、川上の上エジプトへ行けば行くほど、アメン神官団の本拠地であるテーベが近くなる……。


 それに気づいたメルウトは、ナイルが二手に枝分れする分岐点――ちょうどクフ、カフラー、メンカウラーという古のファラオ達の造った三大ピラミットのそびえ立つギザの地より少し南の位置まで行くと、レトポリスのある西側のラシード支流から反対の東側を流れるダミエッタ支流へと移り、今度は180度方向転換して、流れに沿って北することとしたのだった。


 そして現在、水系は違えど東西方向でちょうどレトポリスと並ぶような場所に位置する下エジプトの大都市・ヘリオポリスへと彼女は到っている。


 こちらへ向かったのは、ただ単に敵の本拠地からなるべく離れようとしたからだけではない。今でこそさすがに引けは取るものの、アメン神官団も一目置く、遥かいにしえの時代より太陽神ラーを奉じてきたヘリオポリス・ラー神官団の勢力圏内であれば、敵もなかなか手が出しにくいのではないかと考えてのことである。


 ……だが、もうそんなことどうでもいいくらいにメルウトは疲れ切っていた。


 眼前に揺らぐ陽炎に合わせ、朦朧とするメルウトの脳裏に過去の幻影が浮かび上がる――。




 レトポリスを発つ寸前、彼女はナイル西岸にあるミイラ作りの工房〝ウアベト〟へと運ばれて行く、今は亡き主人ジェセルシェプストの葬列を人混みに紛れて密かに見送った。


 アメン神官団は今回の一件をジェセルシェプストに謀反の疑いがあったためと主張したが、あのような理不尽な仕打ち……なんの証拠もなしに、しかも事故とはいえ、その場で大神官を射殺してしまうようなことが許されるはずがない。


 セクメト女神がヘリオポリスで信仰されていることもあり、レトポリスのセクメト神殿が抗議したのはもちろんのこと、ヘリオポリス神官団もサイスの王朝に訴え出たことなどから、ジェセルシェプストは罪人ながらも、冥界の神オシリスの聖地・上エジプト第8ノモスのアビドゥスに立派な神殿付大型貴族墓トゥームチャペルを造り、大神官に相応しい埋葬方法で葬られることとなったのである。


 オシリス神に守られたアビドゥスの地に葬られることは万人の憧れであるが、罪人は無論、庶民ばかりか有力者であっても、諸々の事情によってなかなかその願いはかなわないものである。


 それが今回、ジェセルシェプストに許されたということは、稀にみる破格の待遇であるといえよう。


 それにジェセルシェプストは生前、セクメト女神に仕える大神官として、正義マアトに適う人生を送って来た。きっとこれで彼女のアクは死後の楽園〝イアル野〟に行って、すばらしき第二の人生を送れることであろう……。


 しかし、この葬儀における格別な待遇と引き換えに、絶大な権勢を誇るアメン神官団に対して、ヘリオポリス神官団もサイスの王朝もそれで手を打ってしまった。


 管轄区内であのような無法が行われたのであるから、本来、一番に抗議すべきレトポリスの市長ハアティ州知事ノマルコスに至っては、はなから賄賂でまるめ込まれて、だんまりを決め込んでいる始末だ。


 だから、もうこれ以上、この正義マアトに反する行いをしたアメン神官団を糾弾することも、無実のジェセルシェプストの汚名を晴らすこともできないのだ……。


 泣き喚くセクメト神殿の女神官達に見送られながら、舟に乗せられ、ナイルの雄大な流れを渡って行くジェセルシェプストの遺体に、メルウトは思わず人混みから飛び出して抱きつきたい衝動に駆られた。


 彼女の主人であり、神官としての師であり、そして、親代わりでもあった彼女の冷たくなった肉体に……。


 だが、この場にもアメン神官団の見張りの者が潜んでいるに違いない……ここで捕まれば、ジェセルシェプストが自らの命と引き換えにして託したことがすべて無駄になってしまう。


「ジェセルさま………」


 メルウトはすっぽり頭からかぶった布の下で目に涙を浮かべながらも、その逆らい難い衝動を必死で抑え込み、人混みの中、ただじっと悲しみに耐えていたのだった。


 そして、主人を乗せた舟の一団が、死者の地であるナイル西岸に見えなくなるまで見送った後、メルウトの辛く、厳しい放浪生活が始まった――。




 どこに行く訳でもなく、なんの目的も持たずに、ただただ鉛のように重くなった両の足を一歩、また一歩と乾いた大地の上に踏み出しながら、メルウトはぼんやりと思う。


 いっそこのまま死んでしまえば、あの世でジェセルシェプストとまた一緒に楽しく暮らせるんじゃないか……と。


 しかし、今ここで自分が死んでしまっては、ジェセルシェプストから託された使命を全うすることができない……そんな自分が楽になるために死を選ぶような人間は、死後、オシリス神の前で行われるという裁判で正義マアトに反する者とみなされ、きっとジェセルシェプストの向かったイアル野に行くことはできないだろう。


 それに、こんな所で行き倒れ、死後にミイラを作ってもらえなければ、肉体ばかりか人格バー霊体カーも消滅してしまう。ミイラがなければ、人は死後に復活できないのだ。


「……生きなくちゃ……あたしは……まだ……生き続けなくちゃ……」


 だが、死の誘惑に打ち勝った彼女の意識とは裏腹に、今度は彼女の肉体の方が限界を迎えようとしていた。


 目の前に上る陽炎が、さらにゆらゆらと揺らいで視界がぼやけてくる。


「……こんなところで……あたしは……まだ……」


 そう呟いたのを最後に、メルウトは力尽きてその場に倒れた。


 ここは街から少し離れた人気のない河岸で、メルウトの他に人影は人っ子一人見当たらない……このような場所では行き倒れた彼女を見つけてくれる者もなく、きっと明日、再び太陽が東の地平線から昇る頃には、それと交替するかのようにメルウトの魂は西の国に旅立っていることであろう。


 ………………………………。


 だが、意識を失ったメルウトが熱い大地の上にその身を横たえてしばらく経った頃、幸いなことにも陽炎の向こう側に、揺らぐ黒い人影が一つ現れたのだった。


「ハァ~ぁ……魚一匹釣れやしない。やっぱ、誰もこっちに来ないだけのことはあるな……」


 現れた人影――釣り竿を手にした上半身裸の少年は、項垂れ、大きく溜息を吐きながらボヤキを口にする。


 歳はメルウトより2、3上くらい、得物が得られず凹んではいるが、茶髪のさらさらな鬘(※当時のエジプトでは皆、髪を短く刈り込み、おシャレさんは鬘を着けてます)の下に覗く鼻筋の通った顔はなかなかの美形であり、丈の短い腰布キルトだけを腰に巻いた肉体はよく引き締まって、ナンパな風貌ながらも快活な印象を与える男子である。


「手ぶらで帰ったらまた師匠にバカにされるな……しょうがない。帰りに市場で魚買ってくか……んん?」


 独り言を呟きながら歩いて来たその少年は、少し行った所の地面の上に何か人らしきものの転がっているのに気づく。


「じーっ……んん⁉」


 少年は目を細めてその物体をよりよく見つめると、訝しげに眉をひそめながら、そちらの方へと早足で近づいて行く……。


「ああっ!」


 すぐ傍まで来た彼の目に映ったのは、乾いた土の上に横たわる、一人の可憐な少女であった。


 疲労の相を浮かべてはいるものの、その儚げな顔はなんともカワイらしく、さらに捲くれ上がったローブの裾からは、感受性豊かな思春期の少年の目には眩しすぎる、艶やかな乙女の太腿が覗いている。


「魚の代わりに、女の子一匹獲れてしまった……」


 ローブと編み上げサンダルの狭間に〝絶対領域〟を惜しげもなく披露するその少女を、大きく見開いた眼でまじまじと見つめながら、少年はそう、ぽつりと呟いた――。


※挿絵↓

https://kakuyomu.jp/users/HiranakaNagon/news/16817330667845670876


https://kakuyomu.jp/users/HiranakaNagon/news/16817330668191463019

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