Ⅰ 血に染まる神殿(3)
男達の声とともに、バタバタと何人もの足音がこちらへ向かって近づいて来る。
「メルウト、早く!」
「は、はい!」
主人に叱咤され、メルウトは事態を呑み込めぬまま、巻物とアンクを抱えて抜け穴の中へ入ろうとする。
「いたぞ! あそこだ! 何か持ってる!」
「あれが大司祭様のおっしゃられていた例の物か? おい! おまえ達、そこを動くな!」
だが、彼女が行動を起すよりもわずかに早く、神殿において最も神聖なこの場所へ、野蛮な男達がずかずかと足を踏み入れて来た。男達は全部で八名、皆、物騒な得物をその手に携え、しかも内二人は弓でメルウトに狙いを定めている。
「無礼者! 神官でもない者が至聖所に入るとは何事ですか! かような
その乱暴な行為にジェセルシェプストが毅然と怒りの声を上げるが、アメン神官団の兵達はまるで耳を貸そうとはしない。
「フン。我らはこの国の最高神アメン・ラーに仕える者。
彼らの隊長と思しき若く屈強な体躯の男が、その外見に相応しい自信に満ちた態度でそうジェセルシェプストに凄んだ。
「くっ……メルウト、ここはわたしがなんとかします。あなたは早く行きなさい」
ジェセルシェプストは口惜しそうに唇を噛みしめると、ほんの少しだけ背後のメルウトの方を振り返り、兵達に聞こえぬよう小さな声でそう指示を伝える。
「で、でも……」
「いいから行きなさい! 早く!」
それでも足踏みをするメルウトに彼女は思わず声を荒げ、自身の愛弟子を鋭い眼差しで睨みつけた。
「は……はい!」
いつにない師の剣幕にようやく抜け穴の中へ入ろうとするメルウトだったが、その動きを神官団の兵達は見逃さない。
「かまわん。放てっ!」
ビュッ…ビュッ…! と微かな風を切る音……隊長の号令一下、二本の矢が躊躇なくメルウトに向けて放たれた。
「ひっ……」
振り向いたメルウトの黒い瞳に、これから自分を待ち受ける〝死〟に対する恐怖の色が浮かび上がる。
「危ないっ!」
………だが、次の瞬間、真っ赤な血の色に染まったのはメルウトではなかった。
「くっ……ハッ! ジェセル様っ!」
何かが肉に突き刺さる音が聞こえた後、固く瞑った目をおそるおそる開いた彼女がそこに見たものは、自分を庇い、代わりに二本の矢を背に突き立てたジェセルシェプストの無残な姿だった。
矢の先端は背中から身体の前面へと貫通し、溢れ出る鮮血が彼女の純白の
「チッ…大神官は生かしておけというご命令だったのに……」
予期せぬ事態を招いてしまった神官団の隊長も、マズイという表情で舌打ちをする。
「ジェセル…さま……」
その想像だにしなかった主人の惨たらしい姿に、メルウトの震える瞳には困惑と悲哀の思いとともに涙が込み上げてくる。
「ゴホッ……メルウト、無事でよかったわ……ゴホッ…わたしのかわいいメルウト……必ずやセクメトを守るのです…ゴホッ……あなたが、最後の希望です……」
「ジェセルさまあぁぁぁーっ!」
目にいっぱいの涙を溜め、親愛なる主人に近寄ろうとするメルウトだったが、そんな彼女をジェセルシェプストは抜け穴の中へと強引に突き放す。
「きゃっ…!」
そして、メルウトが穴の中へ入ったのを見届けると、ジェセルセプストは最後の力を振りしぼり、先程押したものとは反対側の、左の牝ライオンのレリーフを握り拳で思いっ切り叩いた。
すると、上方にあった壁の石がずれ落ち、大きな地鳴り至聖所の床を震わすとともに、今しがたメルウトの入った抜け穴の入り口をすっぽりと覆ってしまう。
「……じぇ、ジェセルさま! ジェセルさまぁーっ!」
突然、目の前に立ち塞がり、瀕死の主人との間を隔てた壁にメルウトは擦り寄って泣き叫ぶが、その巨大な石は華奢な少女の腕ではぴくりとも動かない。
「くそっ! 往生際の悪いことを! おい、早くその石をどかせっ!」
「……だ、駄目です。びくともしません!」
壁の向こう側からは兵達のそんな慌てふためく様子が伝わってくるが、ジェセルシェプストの声はまるで聞こえてこない。
「ジェセルさまっ! ジェセルさまっ! ジェセルさまっ!」
メルウトは石を拳で叩き、何度も何度も主人の名を呼ぶ……だが、それにも愛する人の返事は返ってこない。
「おい! 大神官はどうだ? まだ生きているか?」
「いえ、もう事切れています」
その代わりと言ってはあまりに残酷すぎることにも、そんな兵達の会話だけははっきりと彼女の耳にも届いた。
「…っ! ………ジェセルさまあぁぁぁーっ!」
図らずも確信してしまったその現実に、メルウトは石の前に泣き崩れる。
「これは我々だけでは無理ですよ。鑿か何か道具も必要です」
「よし! 全員ここへ呼んで来い! なんでもいいから道具も持ってくるんだ。それから縄もだっ!」
だが、主人の横たわる壁の向こう側では、彼女の張り裂けそうな心など気にも留めることなく、兵達が自分を捕えようと入口を塞ぐ石の排除に乗り出している。
一瞬、メルウトは兵達が早くこの石をどけてくれればいいのにと思った……そうすれば、自分の慕っている主人の顔をもう一度見られるのにと……。
しかし、そんな彼女を非難するかのように、先程、ジェセルシェプストが言い残した言葉が脳裏に蘇る。
〝必ずやセクメトを守るのです……あなたが、最後の希望です……〟
「………グスン……わたしが……やらなきゃ……ジェセル様の望みを……わたしが……果たさなきゃ……」
最後に見た主人の必死に訴える顔を思い出し、メルウトは気力を失った身体に鞭打って強引に立ち上がらせる。
そして、床に転がった『セクメトの書』とアンク、それから燈明を手に取ると、真っ暗な抜け穴の中を前に向かって一歩、また一歩と歩き出した――。
https://kakuyomu.jp/users/HiranakaNagon/news/16817330668055824175
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