Ⅰ 血に染まる神殿(2)
「――キャァーっ!」
「いったい、これはどういうことですか……ああっ!」
普段は静謐な石造りの神殿に、女性神官達の悲鳴が騒然と木霊している……。
それは、本当に突然の出来事であった。
「逆らう者には容赦せぬぞ! 大神官はどこだ⁉」
「かの者には国家神アメン・ラーや他の神々を否定し、セクメト女神だけを唯一の神として王家や国家の信仰に反逆を企てた疑いがある! 隠しだてすると、その方らも同罪に処するぞ!」
予告もなしに神殿へやってきたアメン神官団の兵は、そう語るや神聖にして犯すべからざる彼女達に刃を突きつけ、このセクメト神殿の長たる大神官ジェセルシェプストの身柄引き渡しを強引に迫ったのである。
「そんな……ジェセル様に限ってそんなことはけしてございません! 何かのお間違いではございませんか?」
「ええい、うるさい! そこをどけいっ!」
「キャア!」
当然、ジェセルシェプストに仕える女神官達はこの理不尽な行為に強く抗議したが、兵どもはそれを聞くどころか、乱暴に彼女らを押し退けると、我が物顔で神殿奥へと踏み込んで行く……。
その時、メルウトはというと、自身が仕える主人であり、また彼女の師でもあるジェセルセプストの指示により、〝
「⁉ ……なんの騒ぎ?」
だが、どこか様子のおかしい神殿内の空気を肌に感じ、仕事の手を途中で止めると急いで大広間の方へと向かう。
「ジェセル様、これはいったい……」
その途中、神殿の最奥に位置する至聖所の手前、神話の一場面やヒエログリフの描かれた列柱の並ぶ大廊下で、侍女から報告を受けているジェセルシェプストに彼女は出くわした。
「ああ、メルウト。ちょうどよいところに来ました。今、あなたを呼びに行かせようと思っていたところなのです」
メルウトの声に気づくと、ジェセルシェプストは純白の
「わたしを? ……それよりもこの騒ぎは……何が起きたというのですか?」
主人の言葉に、メルウトは怪訝そうに眉をひそめてもう一度訊き返す。
「アメン神官団の兵が押し入ってきたのです」
「アメン神官団が⁉ ……でも、なぜ……」
アメン神官団――それは上エジプト第4
エジプトの支配者はファラオであるが、その権力はファラオも一目置くほどのものがあり、遡ること500年ほど前の第21王朝の頃には、アメン大司祭がまるでファラオのように振る舞い、上エジプトに〝アメン大司祭国家〟を開いていたこともあった。
また、この時代においてもファラオは王女を〝
そのアメン神官団の神殿を守るべき警備兵が、なぜ、こんなことを……。
そんな疑問を抱きつつ驚いているメルウトに対し、ジェセルシェプストはそれを見越していたかのようにして告げる。
「あの者達の目的はわかっています……ですから、あなたを呼ぼうとしていたのです」
「…………いったい、どういうことですか?」
「時間がありません。とにかく、わたしについてきてください……ああ、あなたも早く身を隠すのです」
いっそう怪訝な表情を見せるメルウトであったが、女主人はまるで気にすることもなく、侍女にも逃げるよう指示を出しながら彼女を至聖所の中へと誘う。
「……は、はい」
その切迫したただならぬ態度に、何がなんだかまったく状況が呑み込めぬという顔をしたメルウトも、とりあえず主人について至聖所内へと足を踏み入れた。
至聖所というのは神殿の最深部、本尊である神像の祀られている空間である。
毎朝、神像を清め、その神前に供物を捧げるこの最も重要な場所には神殿の長である大神官や高位の神官といった一部の者しか入ることを許されていなかったが、ジェセルシェプストの一番の弟子であるメルウトもその選ばれた者の内の一人であった。
「………………」
至聖所内は、それまで聞こえていた外の喧噪がまるで嘘であるかのように静かであった。
二人の正面には、牝ライオンの頭を持った女性の、人の背丈ほどもある黒い石の像がそびえ立っている。
それが〝愛〟と〝戦い〟という相反する二つの要素を司る女神――セクメト女神である。
セクメト女神は上・下エジプトの境目に位置する重要な都市、下エジプト第1
「………………」
至聖所に入ってから一言も口を聞くことなく、ジェセルシェプストは真っ直ぐそのセクメト女神像のもとへと進んで行く……そして、両手を掲げてセクメト女神に一拝すると、その神像の載っている、像と同じ黒い閃緑岩でできた四角い台の裏へと回り込み、側面を埋め尽くす
「…⁉」
主人の奇妙な行動を見守っていたメルウトは、その目を大きく見開かずにはいられなかった。次の瞬間、カタンと何か音がしたかと思うと、神像の足下、台の上面前方部が蓋のようにせり上がったのである。
「その仕掛けはいったい……」
もう幾度となく神像を清める儀式に参加してはいるが、そのような仕掛けがあることをメルウトはまったく知らなかった。
自分は一番弟子であるというのに、なぜ、ジェセルシェプストは今まで教えてくれなかったのだろうか?
だが、驚き訝しむメルウトを気にかけることもなく、ジェセルシェプストは暗い神像の影からすぐに這い出ると、再び神像に一拝して、その秘密の隠し場所に入っていた物を素早く取り出してみせた。
「メルウト、これを」
「これは……?」
その隠されていた物を手渡す主人に、彼女はさらに頭の中を混乱させる。
見ると、それはかなり古いパピルス紙に書かれた巻物一巻と、金色に輝く、上端が握り拳よりも大きな楕円になった十字架――生命を象徴する形〝アンク〟を象った金属製品だった。
「セクメトの書……」
巻物の表には、
「時間がないので詳しい話はできませんが、そこにはあなたを驚かせるようなセクメト女神についての秘密が書かれています」
その聞いたこともない直接すぎる経典の題名を不思議そうに見つめるメルウトに、ジェセルシェプストが告げる。
「セクメト女神の秘密?」
「ええ。その古文書を開いて見てみなさい。とにかく今は時間がないので最初に記されている〝導きの章〟だけでも……」
「はい……」
突然の展開についていけないメルウトだったが、それでも言う通りに巻物を開き、一番初めの章に目を通してみる……。
まず初めには、レトポリス郊外の谷にあるセクメト女神の墓と伝えられる宗教私設〝セクメティウム〟への道を示す地図と、その場所に〝
「これはあの谷にある古いお墓の……でも、特に驚くようなことは……それに、これとこの騒ぎとはなんの関わりが?」
どこか奇妙な記述ではあるが、その小さな宗教儀礼上のお墓のことは彼女も前から知っているし、これといって驚かされるような内容でもない。
「神官団が欲しがっているものは、その墓所に眠っているラーの眼(イレト・ラー)・セクメトなのです。実は以前から、そのような要求の手紙がアメン大司祭より内々に送られて来ていました」
巻物を読んでもなお話の筋が見えてこないメルウトに、ジェセルシェプストはそう説明を付け加える。
「セクメト女神を? ……確かにそんな伝承はありますが、じゃあ、あそこには本当に神さまの…セクメト女神のミイラが納められているのですか?」
「神さま……か。そうね、我々からしてみれば、確かに〝アレ〟は神にも等しい力を持った存在かもしれないわね……でも、それはあなたが思っているような神さまではないの。ましてやミイラなんかでもね」
どこか遠くを見つめるように虚ろな目をし、意味深長なことを言う自分の主人に、メルウトはますます訳がわからなくなってしまった。
だが、そんな彼女にジェセルシェプストはさらにとんでもない命令を下す。
「説明しても今のあなたには理解できないでしょうけど、それは代々このセクメト神殿の大神官に受け継がれてきた太古の遺産なのです……とにかく、やつらの狙いはこのセクメトです。どんなことがあっても、けして、アレをやつらの手に渡すわけにはいきません。だから、よく聞いてメルウト。あなたはこの古文書とアンクを持ってそこへ赴き、セクメトとともに逃げるのです。そのアンクがきっとあなたを導いてくれるわ」
「わたしが……ですか?」
「ええ。もうこうなってしまっては、このまま隠しておいても、いずれやつらの手に落ちることは必至。だから、その前にあなたが、どこかもっと安全な場所へ移してしまうのです。とても大変な使命だけど……これはあなたにしか頼めないことなの。わたしはここでやつらを足止めするから、その間にあなたがセクメトを動かすのです」
言い終えると彼女は神像脇の壁際へと歩み寄り、そこに描かれた向き合う一対のライオン像の、右側に座る牡ライオンのレリーフに手を添えて強く押した。
すると、今度は壁の一部がバダン…! と向こう側へ倒れ、ポッカリと人一人が通れるくらいの四角い穴が現れたのである。
「こ、こんな隠し扉が……」
「有事の際の抜け穴です。ちょうどセクメティウムのある谷に出るようになっています……さあ、時間がありません。この道を通って早く!」
またも驚きの表情を浮かべるメルウトに、ジェセルシェプストは壁にかかる燈火を一つ手に取って渡しながら急かす。
「こっちだ! 至聖所の中だ!」
と、その時、部屋の外から男の怒鳴る声が聞こえてきた。
※挿絵↓
https://kakuyomu.jp/users/HiranakaNagon/news/16817330667949965274
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