Ⅰ 血に染まる神殿

Ⅰ 血に染まる神殿(1)

 紀元前527年、エジプト第26王朝(サイス朝)イアフメスニ世の治世・増水期アケト第1月(※7月中旬)某日……。


「――ハァ、ハァ、ハァ、ハァ…」


 少女は走っていた。


 乾き切った岩山の谷間をその華奢な足で一生懸命に。時折、足を止めることなく振り返っては後方を気にしながら。


「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ…」


 少女は走っていた。


 必死にそのおかっぱの黒髪を振り乱し、胸が張り裂けるくらいに息を切らしながら。


 細い肩紐で胸元から吊った亜麻の長衣ドレスの裾をはためかせ、あらん限りの力で走りながらも彼女は何度となく後を振り返る。


「おい! いたぞ! あそこだっ!」


 もう何度目になるだろか? そうしてまたも背後を振り向いたその時、遠くでそんな叫び声が響くとともに、弓や槍などで武装した男達の姿が岩陰に小さく映った。


「……!」


 それを見た瞬間、彼女の顔は石に刻まれたレリーフのように固く強張る。ついに追手の兵達がそこまで迫ったのだ。


「待てーっ! もう逃げられないぞ!」


「急げっ! 逃がすなっ!」


 乾いた岩肌に反響しながら、荒くれた男どもの声が少女の鼓膜にも伝わってくる。


「ハァ、ハ……きゃっ!」


 恐怖に動揺したのか、再び前を向いて走り出そうとした彼女はうっかり小石に躓いて転んでしまう。


「うぅ……」


 硬い地面に打ちつけた身体の痛みに加え、この突然に起きた理不尽に対して、少女の目には大粒の涙が込み上げてくる。


「グスン……グスン……」


 だが、こんな所で突っ伏して、子供のように泣いていたとてなんの解決にもなりはしない。ただ悪人達が自分を捕える手助けとなり、自分に託された使命も果たせず、最愛の人の無念も晴らせないままに終わるだけだ。


「くうっ……」


 少女は両の拳を強く握りしめると、歯を食いしばり、再び足を前へと踏み出した。


 少し大人びて見えはするが、今年15になる少女の名はメルウト。下エジプト第二ノモス・州都レトポリスのセクメト神殿に仕える女性神官である。


 ほんのつい先程まで、彼女は普段と変わらぬ穏やかな神殿での生活を送っていた。


 このまま平凡な死が訪れるまで、ずっと続くと信じて疑わなかったその安らかな日々が、まさか突然に終焉を迎えることとなるとは……。


 セクメト神殿が、なんの前触れもなくアメン神官団の警備兵達に襲われたのだ――。


※挿絵↓

https://kakuyomu.jp/users/HiranakaNagon/news/16817330667755710199

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