ⅩⅩⅢ 暴走

ⅩⅩⅢ 暴走

「隊長……」


 テフヌトともどもナイルの水面に消えていったウセルエンに、残された兵達は呆然と立ち尽くし、ただただ雄大な流れを見つめるばかりである。


「……おい、俺達これからどうすりゃいいんだ?」


「どうするかって、そりゃあ、やることは一つしかねえだろ?」


 しかし、しばし時が経つと、その内の何人かはセクメトの存在をふと思い出す。彼らの目的はセクメトの捕獲であり、その任務はまだ継続中なのである。


「そういや動かねえな……今がチャンスかもしれねえぞ?」


 幸い、そのセクメトは先程来、少し離れた場所に神像の如く突っ立ったままである。もしかしたら、向こうも損傷がひどくて動けないのかもしれない。


「でも、俺達だけじゃあ……隊長もいないし……」


 が、そうは言っても、生身の人間がラーの眼イレト・ラーと闘える訳もない。しかも、陣頭に立って指揮を執るウセルエンまでを今は欠いている状態なのだ。


「だけど、そうは言っても、このまま手ぶらで帰ったらアメン大司祭様に……」


「じゃあ、俺達だけであんなバケモノとやりあえってぇのかよ⁉」


 そうして、アメン神官団の兵達が今後の身の振り方について不毛な協議をしていたその時。


「………………」


 ビュゥゥン…と再び響く、巨大な何かが高速で空を切る音……。


 それまでセクメトを動かさず、冷徹な瞳でじっと兵達を見下ろしていたメルウトが、突然、彼ら目がけて多節鞭を振ったのである。


「うわあっ!」


「ひえぇっ!」


 鞭の先はギリギリ兵達を逸れ、ドガァッ…! と低い地鳴りを上げて河原の地面を大きく抉る。


「お、襲って来たぞ!」


「だ、駄目だ。に、逃げろおっ!」


 その攻撃に、兵達は蜘蛛の子を散らすかのようにして四方八方へと一斉に逃げ出す。


「うぐぁ…!」


 それでもメルウトは彼らを許そうとはせず、逃げ惑う兵達に向かってさらにビュン…と鞭を振るう……今度も的は外したものの、その衝撃と吹き飛ばされた土石を食らい、意識を失って倒れる負傷者も中には出てくる。


 何度も繰り返されるビュゥゥン…という風切音と、ドガァッ…と砕かれた岩石と粉塵が地表より勢いよく舞い上がる音……。


 その後も、メルウトは兵達を執拗に追いかけ、何度となく巨大な鞭を振い続ける。


 ただ、それは正確に目標を狙って攻撃をしているようには見えず、なんというか……何かに取り憑かれてでもいるかのような感じである。


「ちょっと、メルちゃん。そりゃあ、少しやりすぎってもんじゃないかい? いくら憎っき敵だからって、もう向こうは完全に戦意を失ってるようだしさ……」


 その様子を遠くから眺めていたウベンも、まるでネズミを玩具にする猫の如く、無力な兵達をいたぶっているようにしか見えないその行為にはさすがに眉をしかめていた。


「もしかして、気が高ぶってて戦闘の終わったのにも気づいていないのかな? だったら教えてあげなきゃ……おおーい! メルちゃーん!…」


 そう叫んでセクメトの方へ走って行こうとするウベンだったが、その腕をジェフティメスが咄嗟に掴んで止める。


「いや待て! ありゃあどうにも様子がおかしい……おそらくはセクメトの戦闘本能活性化システムに取り込まれておるの」


「ええっ⁉」


 師の言葉に、仰天した顔でウベンは振り返る。


「あれだけ深くセクメトのアクと結合していたのじゃ。そうなったとておかしくはあるまい……今の彼女はセクメトの意思と融合して、自分自身の心を完全に見失っておる……このままだと、誰彼かまわず敵と見なして暴れ回るやもしれん……」


 険しい表情でそう語るジェフティメスの言葉通りに、セクメトの眼を通して外界を覗うメルウトの冷たい瞳が、遠巻きに見守っていた聴衆達の姿を獲物を見るかのようにして捉える。


 わずかの後、…ドオォォーン! ……ドオォォーン…! と今度は腹の底へ響くような重低音の足音と振動が逃げ惑う人々を襲う。


「お、おい、なんか、こっちへ向かって来たぞ?」


「ま、まさか……ひょっとして……俺達のことも……」


 そして、大きな足音を響かせながら、ジェフティメスやウベンも含む群衆の方へと近づいて来きたセクメトは、天高く、手にした多節鞭を大きく振り上げたのだった。


「に、逃げろおぉぉぉ~っ!」


 頭上を覆う悪魔のようなその巨影に、人々は先程のアメン神官団の兵達同様、脱兎の如く一斉に走り出す。


 …ビュゥゥン……ドガァァッ…!


 人々の逃げ去ったその場所の地面を、セクメトの鞭が激しく打ち据える。


 最早、彼女の標的に敵味方の区別はない……やはり、メルウトは戦闘本能活性化システムにすっかり取り込まれてしまっているようだ。


「心配していた事態が起きてしまったの……万が一と思い用意しておったが、どうやら無駄な用心に終わらなったようじゃの……ウベン、ちょいと手を貸せ。前に話した例の〝アレ〟を使うぞ」


「えっ! 例のあれって……例のアレ・・ですか?」


 暴れ回るセクメトを避けながら、そう話しかけるジェフティメスに、ウベンは間抜けな口調で聞き返す。


「そうじゃ。ブツはほれ、もうここに持って来てもらっておる。あとはそいつをセクメトに飲ませてやるだけじゃ」


 言うとジェフティメスは背後を振り返り、そこにいた人物の方を目で指し示す。


「ヘヘヘ、仕込みは上々。いい飲み頃になってますぜえ」


 するとそこには、どこか見憶えのある赤ら顔の禿げオヤジが、口に封をした素焼きの壺を見せつけるようにして掲げていた。


 いつからそこにいたのか? 例のホルアクティ・ビール工房の親方である。


「ああ、それで、ここへ来る前にわざわざ一旦、町の方に……」


 それを見たウベンは、首を幾度か縦に振り、何か納得した様子である。


「ウベン、こいつをセクメトの口へ放り込むことはできるか? 機会は一度きりじゃ。確実に壺が口の中で割れてくれないと意味がない。それ相応の腕が必要となるぞ?」


「なんか、人に手を貸せと頼むにしちゃあ、ものすごくプレッシャーかけてくれますけど……ええい、愛しのメルちゃんを助けるためだ! このおとこウベン、やってやろうじゃないっすか!」


 真剣な表情で尋ねる師に、ウベンはいつになく気合に満ちた様子で拳を握りしめてみせる。


「でも、それには誰かセクメトの気を逸らしてくれる役がいないと……老いぼれの師匠じゃあ、ちょっと荷が重そうだし……」


「何を言うかっ! この青二才のバカ弟子が! わしとてまだまだ若いもんには負けんわい!それに……わしらの他にも、この親方をはじめとして〝同志達〟がおるしの」


 真面目な顔でものすごく失礼なことを言う弟子を怒鳴り飛ばすと、ジェフティメスは目だけを動かして、親方のさらに背後を指し示す……。


 他の群衆は皆、町の方へと一目散に逃げ去り、ひどく寂しくなったように感じるその広い河原には、強い意志を秘めた表情で、セクメトの方を見つめる10名ほどの人物が立っていた。


 性別は全員、男であるが、その容姿も、年齢も、服装も、それぞれてんでバラバラである。


 そんな彼らはジェフティメスの視線に気づくと一斉に身体をこちらへ向き直らせ、威儀を正して声を揃える。


「我ら〝トトの弟子〟の長老ジェフティメスよ。なんなりと我らに御命令を」


「うむ……」


 それを聞き、ジェフティメスははっきりとよく通る声で淀みなく彼らに指示を飛ばす。


「我が同志達よ! これより人の血の臭いに我を忘れ、狩りに夢中になっておるセクメトを酔い潰させる! ここにいる我が弟子ウベンが〝赤きビール〟を彼女に飲ますゆえ、その間、皆でセクメトの気を惹きつけておいてもらいたい。皆、かねてからの申し合わせ通り、〝トトの弟子〟たる我らの武器は用意できておるな?」


「ハッ! 滞りなくここに!」


 長老――ジェフティメスの問いに、彼ら結社員達はまたも声を揃えてそう答えると、いったいいつ用意したものか? てんでに奇妙な物体をその手に携えている。


 何やら昨晩、ジェフティメスの使っていた照明器具を身の丈以上に大きくしたものや、長くて太い把手の付いた金属製の筒、はたまた馬のいない四輪の〝戦車〟の籠に、〝はずみ車〟のような輪っかのついた乗り物を手で叩いて示している者もいる。


「長老、鳥形グライダーはあちらにご用意してあります」


 また、一人の結社員が大河の方を手で指し示すと、そこにもこれまたいつの間にやら、小舟よりも大きな身体をした、垂直の尾羽を持つ木の鳥が水面に浮いている。


「どこまで通用するかわからんが、やってみるしかないの……これは極めて危険な任務であるが、この世に正義マアトの秩序を取り戻すため、是非とも力を貸してほしい! 皆、どうかわしに命を預けてくれ!」


「ハッ! 偉大なる知恵の神トトの弟子の名において、我ら、長老の仰せのままに!」


 各々の用意した超古代技術の遺産を見回し、改めて頼み込む老賢者の言葉に、やはりトトの弟子の結社員達は声を合わせて唱和してみせる。


「うむ。皆、よろしく頼む。トト神のご加護があらんことを」


 彼らの忠誠に答えてジェフティメスは大きく一つ頷くと、ウベンの方を振り返って作戦の開始を告げる。


「ではウベン、始めるぞ」


「了解! …あ、いや、ちょっと待った! ええと、何か使えそうなものは……」


 歯切れよく返事をしたウベンだったが、そう断りを入れると辺りを見回し、逃げた猟師が忘れていったのだろうか? 川岸に泊る小舟の中に一本の釣り竿を見つける。


「よし! あれをちょっくら借りるとするか。んじゃ、親方、その壺を!」


 そして、ビール工房の親方より壺を受け取ると、それを持って釣り竿のある小舟へと駆け寄った。

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