Ⅹ 油断ならぬ老賢人
Ⅹ 油断ならぬ老賢人
アメン大司祭の一行がレオントポリスを訪れた日より二日後の朝、ヘリオポリスのジェフティメスの家では……。
「おはようございます」
二階に用意してもらった寝所から下りてきたメルウトが、ここへ運び込まれた時に寝かされていた診察室で恩人のジェフティメスと朝の挨拶をかわしていた。
「おお、おはよう。今朝はずいぶんと顔色も良くなったの」
先に起床し、薬の調合を行っていたジェフティメスは、いつもの笑顔で振り返ると、返事代わりにそう診断をする。
一日と半、この家で静養と栄養をゆっくりと取ったメルウトは、本来の健康をようやく取り戻していた。
「はい。お蔭さまでもうすっかり良くなりました。あいがとうござました」
「おお、そうかね。そうかね。そいつはよかった……じゃが、となると、もう出て行ってしまうんかいのう?」
改めて深々と頭を下げるメルウトに、薬草を捏ねる鉢に視線を向けたまま、ジェフティメスが尋ねる。
「いや、体調が回復するまでという約束だったからの。止めやせんよ。おまえさんにはいろいろと事情もあるようだしの。ま、せっかくなんで最後に朝食だけでも…」
引き留めるとまた嫌な顔をされるとでも思ったのか? 先にそう断りを入れるジェフティメスであったが、予想外にも彼女の返事は違っていた。
「いえ、今日一日、まだここにいたいと思います」
ジェフティメスは思わず顔を上げて彼女の方を見返す。
「これほどお世話になっておいて、何もせずに出て行く訳にはいきません。わたしは何もお返しできるような物を持っていませんが……その代わり今日一日、わたしをここで働かせてください! 掃除でも洗濯でもなんでもしますから!」
メルウトは真剣な眼差しでジェフティメスの顔を見つめ、頼み込むようにしてそう告げた。
アメン神官団の追手から逃れるため、すぐにでも出立しなければならない身の上ではあるが、見ず知らずの自分を助けてくれたジェフティメスとウベンの二人に、なんの恩返しもせずに旅立つのは
「ふむ……こちらの好きでやってることなんで、別にそんなことしてくれんでも構わんが……まあ、その方がおまえさんの気がすむというのなら、そうしてもらおうかの」
ジェフティメスは再び優しげな笑みを浮かべて、メルウトの願いにそう答えた。
彼女のあまりの真剣さに、無碍に断るのもなんだなとジェフティメスの方も思ったのである。
「ハァ……ありがとうございます!」
それを聞き、メルウトは顔色をパッと明るくすると、もう一度深々とお辞儀をする。
「それじゃあ、何をしてもらおうかのう……おまえさん、文字が読めるの?」
だが、老人が次に発したその言葉に、彼女はそれまでとは一変、瞬時に表情を強張らせてしまう。
「………………」
メルウトはその瞳に警戒の色を浮かべ、ジェフティメスの好々爺のような顔を凝視する。
古代の社会ではどこでもそうであるが、当時のエジプトにおいても識字率は非常に低かった。文字の読み書きができるのは、今でいう役人に当たる〝書記〟や神官、あるいは文字を刻む職人など、ごくごくわずかな人間に限られていたのである。
つまり、〝文字が読める〟と知られるということは、彼女が神官であったことがバレる危険性を孕んでいるのだ。
「なに、この前、タマネギの効能について書かれたパピルスを見せた時、おまえさんの反応からして読めない訳ではないようじゃったからの」
構えるメルウトに、言い訳でもするかのようにジェフティメスはそう述べたが、やはり彼女の心配は的中していた。
「おそらく……もとはどこかの神殿の神官じゃったな?」
「………どうして……それを?」
驚きと恐れ、それに疑いのない混ぜになった眼差しでジェフティメスを睨みつけながら、メルウトはやっとのことでそれだけを問い質す。
「それはほら、そん時におまえさん、スープにタマネギが入っとると知って食べるのをやめたじゃろ? タマネギはミイラの眼の窪みや包帯の間に入れるなど、非常に魔力の強い野菜として知られている半面、神官達からは食することを忌み嫌われているものでもあるからの。加えて文字を読めるとなれば、まあ、神官だったと考えるのが妥当じゃろう……あ、いや、別に詮索するつもりはないんで、そんな警戒せんでくれ。ただ、読み書きができるならば、こちらとしては大助かりと思うただけのことじゃ」
メルウトは「しまった」と思った……まさか、そんなところで自分の素生にういて気づかれるとは……。
となると、もしかして医学用パピルスをあの時見せたのも、文字を読めるかどうかを確認するための探りだったのだろうか? このジェフティメスという老人……一見、のほほんとした温和な好々爺のように見えて、実は鋭い観察眼を持った、かなり頭の切れる人物のようである。
……マズった…かな? ……さすがにレトポリスのセクメト神殿にいたことや
メルウトはうっかり犯してしまった大きなミスに、今の己が置かれている危険な立場を改めて認識させられる……だが、ここ一日と半。この老人やあの少年と一緒に過ごしてみるに、彼らが自分のことをアメン神官団や役所に密告したり、周囲に言い触らすような人間にはとても思えなかった。
ましてや神官団と繋がっているというようなことは万に一つもないであろう。もしもそうであるならば、今頃とうにヤツらに引き渡されているか、アンクと『セクメトの書』を奪い取られているに違いない。
「ハァ………」
そこに思い至り、メルウトは胸のアンクに手をやると、ようやく安堵の溜息を洩らした。
「ふむ。なんとか信頼してくれたようじゃの」
「よっこらせっと…」
信用を取り戻し、ジェフティメスが再び満面の笑みを浮かべたところへ、今度はウベンが手にスープの入った鍋を持って部屋の中へ入って来る。彼は先程まで、家の一番奥の部屋に設けられた竈で朝食の用意をしていたのだ。
ちなみにメルウトの〝身の危険〟を案じた師匠に二階の部屋を追い出されたウベンは、ここ二晩、野ざらしの屋上で寝泊まりする羽目になっていたりなんかする。
「やあ、おはよう。もう起きてたんだね……ん? どうかしたの?」
二人の間に漂う奇妙な空気に、ウベンは怪訝な顔をしてメルウトとジェフティメスを交互に見比べる。
「なに、この娘さんが今日一日、わしらの手伝いをしてくれることになったんじゃよ」
「えっ! ほんとっすか⁉ おおっとと……」
師のその言葉を聞くと、ウベンは小躍りするかのように喜んで、危うく鍋のスープを溢しそうになった。
「ということで、バカ弟子も賛成しとるようなのでよろしく頼むの。でだが、おまえさん、文字は何が読める?」
慌てて鍋を持ち直す弟子から視線を移すと、ジェフティメスは話をもとに戻してメルウトに尋ねた。
「はい。
「へえ~そりゃすごいな。こんなカワイイ上にそれほどの秀才とは……本気で恋をしてしまいそうだ」
メルウトの答えを聞いたウベンは、鍋を台の上に置きながら、いつものように軽口を叩く。
いつもの軽口なのでそれ自体はどうでもよいのだが、〝文字を読める〟ことに関して、なぜか彼が微塵も疑念を抱かなかったことはメルウトにとって都合がよい。
「うむ。それは確かに優秀じゃの……」
ジェフティメスも白い顎鬚を撫でつけながら、感心したように頷く。
当時のエジプト語には
ほとんどの女性が読み書きできなった時代にあって、女性神官として師のジェセルシェプストに厳しく教え込まれたメルウトは、その三書体すべてを使いこなせたのである。
「ならばますます助かるの……実はの。前にも言うたが、わしは医者の他に書記の真似ごとのようなこともしていての。ちょくちょく町の者に請われて、字を読んだり書いたりもしておるんじゃよ。おまえさんにはウベンと一緒にそっちの手伝いもしてほしいと思っての」
「はい。なんでもやりますんで言いつけてください!」
メルウトは両の拳を小ぶりな胸の前でぎゅっと握りしめ、溌剌とした顔でそう答える。
こうして久しぶりに誰かの指示を受けて仕事をするのは、なんだか神殿にいた頃の日常が思い出されて妙に懐かしかったのである。
「ま、何はともあれ、腹が減っては戦はできぬ。まずは朝メシにでもしましょうかね」
そんなメルウトとジェフティメスの間を割って、ウベンが炊事場から取って来たパン入りの籠を、どかりと食卓の上に置いた――。
※挿絵↓
https://kakuyomu.jp/users/HiranakaNagon/news/16817330668948600761
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