Ⅷ 医者の食卓

Ⅷ 医者の食卓

 その晩、ヘリオポリスのジェフティメスの家では……。


「……モゴ……モグ…ング…」


 ウベンの作ってくれたスープと大麦のパンにメルウトは必死で食らいついていた。


 家の前で再び倒れ、またもベッドの上で寝かされる羽目になったメルウトであったが、目が覚めるとウベンがすでに食事の用意を整えていてくれて、そこへちょうど帰って来たジェフティメスを加え、三人で食卓を囲むこととなったのである。


 いっそ、あのまま死んでしまえばよかったのに…などと思いもしたメルウトではあるが、いざこうして何日ぶりかの食べ物を目の前にすると、やはり人間、旺盛な食欲に駆られてしまうものだ。


 まあ、死後、霊体カーも食物を得なければアクを維持できないということであるから、生きている人間がそうなるのも至極当然のことといえよう。


「これこれ。そんなに急いで食べると腹を壊すぞ? ここ何日も腹に物を納めていなかったようじゃからの。飯はどこへも逃げていかんから、もうちょっとゆっくり食べなされ」


 無我夢中でスープを口に運ぶメルウトを眺め、対面の席に座るジェフティメスが笑みを浮かべながら言った。


「ま、自慢じゃないが俺のスープはうまいって評判だからね。食欲そそられるのも無理ないよ。それに美味いだけじゃなく栄養も満点だ。そのニンニク入りのタマネギとヒヨコ豆のスープを飲めば、すぐに元気を取り戻せるって」


 ジェフティメスのとなりでは、なんだか得意げにウベンが胸を張っている。


「えっ⁉ これ、タマネギ……なの?」


 だが、タマネギと聞いて、メルウトは驚いた顔をすると不意に匙を持つ手を止めた。


 ウベンの自慢するように、クミンとコリアンダーのよく効いたスープはたいへん美味しく、そんなことも気にせずに夢中で食していたのであるが、落ち着いて燈火の明かりでよくよく見てみれば、琥珀色の液体の中には確かに透き通ったタマネギの切片が浮かんでいる……。


 別に嫌いというわけではないし、無論、不味くもないのだが、彼女はある理由からタマネギを食べることを避けていたのだった。


「なんじゃ、タマネギは嫌いかね? タマネギはとても身体によい野菜じゃぞ? ほれ、この書物にもたくさんの効能が書かれておる」


 そう言うとジェフティメスは椅子から立ち上がり、棚から一巻の医学について書かれたパピルスを持って来て、メルウトにその部分を開いて見せる。


「はい。それはよくわかってるんです……けど……」


 灯に照らし出されたパピルスを見つめ、メルウトはそこまで答えると言い淀んでしまう。その話をすることは、自分の正体を明かすことにも繋がるからだ。


「そっか。そんならもっとパンを食べなよ。エジプト人と言ったら、やっぱりパンだからね」


 困った顔をしているメルウトを見て、ウベンが助け舟を出した。


「なんじゃそりゃ? なんでエジプト人がパンなんじゃ?」


 だが、弟子のその言葉にジェフティメスは怪訝な顔をして尋ねる。


「やだな師匠。エジプト人って言ったら、パン好きで有名じゃないっすか。知り合いのギリシア人にも〝エジプト人はパン食いだな〟ってよく言われますよ?」


「ああ、そういえば、わしもそんなこと異国人から言われたことあるような……わしもパン好きじゃしの……」


 眉をひそめて答えるウベンに、ジェフティメスも腕を組んで考え込む。


「ええ。俺もパン大好きっす……」


 そう言うと、自身もテーブルの中央に盛られた丸いパンを一つ掴み、ウベンはそのままパクリと大口にかぶりつく。


「…モゴ…モゴ……うん! やっぱ、あのオヤジんとこで売ってるパンはいい味してるな。なんせ、あそこのパン屋は王家お墨付きの観光ガイド・パピルス『ミシュ・ラムセス』でも三つ星付いてる、知る人ぞ知る隠れた名店中の名店だからね。さ、君も遠慮なくどんどん食べなよ」


 美味しそうにパンを頬張る彼の笑顔に、メルウトは内心、ホッと胸を撫で下ろした。


 何かを察してくれたのか? どうやら彼のおかげで話が逸れたようだ。


 しかし、安心すると同時に、自分がこの人達にものすごく世話になっていることに彼女は今さらながらに気づく。


 空腹に負けて思わず親切に甘えてしまったが、行き倒れたところを助けてもらった上に、遠慮もせずに食事までご厄介になるとは、我ながらなんと図々しい者であろうか。


「あ……あの!」


 メルウトは不意に立ち上がると、姿勢を正してペコリと二人に頭を下げた。


「すみません! 助けていただいた上に食べ物までいただいてしまって……でも、わたし…何もお礼に差し上げられるものが……」


 今の彼女はアメン神官団の手から逃れるために、その身一つで彷徨い歩く一文無しの放浪者である。持っているものといえば、あの黄金のアンクと『セクメトの書』だけであるが、無論、それを彼らに渡す訳にもいかない。


「これ以上、お世話になる訳にはいきません。わたし、今すぐ出て行きますから……」


 申し訳ない想いに表情を歪め、すぐにでも彼らの家を出て行こうとするメルウトだったが。


「……なあに、気にするな」


 ジェフティメスは優しげな微笑みを白髭のある口元に浮かべて言うのだった。


「前にも言うたじゃろう? 倒れた者の面倒見るのがわしの仕事じゃとな。体力が戻るまでここでゆっくりしていくがいい。いや、医者として、わしがいいと言うまで是が非にもここにいてもらうぞ? またどっかで行き倒れでもされたら、それこそ、こっちの寝覚めが悪いからの」


「そうだよ。さっきも倒れたばっかだろ? 君はまだ本調子じゃないんだから。それに、君のようなカワイイがいてくれると俺もうれしいしね。とにかく、今日はもう日が暮れたことだし、ここに泊っていきなって」


 ウベンも冗談混じりにそう言うと、メルウトにウインクをしてみせる。


「………………」


 二人の温かい言葉に、メルウトの眼には自然と涙が溢れてきた。あの一件以来、このように人から優しくされるのは初めてだったからである。


「……なるほどの。ウベン、そういう親切な振りをしておいて、おまえやはり、娘さんが寝入るのを待ってから夜這いでも仕掛けようと企んでおるの?」


「ブッ! …な、何、いきなり人の好感度どん底に突き落とすようなこと口走ってるんすか!んなことするわけないでしょう⁉」


 しかし、そんなメルウトの様子に気づく素振りも見せず、子弟はまたしてもくだらぬ言い争いを彼女の前でし始める。


「どうかのぉ……怪しいもんじゃ。いやあ、危ない危ない。おまえこそ食事が終わったら早々に家を出て行って、朝になるまで帰って来ること厳禁じゃ」


「ああ、もう! どうしてそう弟子を信用できないんすか? …ってか、なら今夜は俺、どこで寝ればいいんです⁉」


「わしが知るか。どっかその辺の道端ででも寝ればいいじゃろ?」


「道端て……それが、かわいい愛弟子に言う言葉っすか⁉」


「フン。どこがかわいい愛弟子じゃ。わしはかわいいなどと思うたことは一度もないぞ。それにおまえは愛弟子ではなく、ただのバカ弟子じゃからな」


「ああ、そういうこと言っちゃうんですか⁉ だったらね、こっちだって…」


「ありがとうございます!」


 彼女を元気づけようとわざとしているのか? おどけた調子で言葉の応酬を続ける老人と少年に、メルウトは潤んだ瞳で礼を述べるのだった――。


※挿絵↓

https://kakuyomu.jp/users/HiranakaNagon/news/16817330668708199530

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