Ⅵ ラーのお膝元

Ⅵ ラーのお膝元

「――もうやめてぇぇぇーっ!」


 そこで、メルウトは自身の叫び声とともに悪夢から目覚めた。


「……ハァ……ハァ…」


 額を手で拭うまでもなく、ぐっしょりと寝汗をかいているのがわかる。


 ……目が覚めてよかった……なんて恐ろしい悪夢だったんだろう……。


 一瞬そう思うメルウトだったが、その感想はすぐに訂正される。


「うっ……」


 いまだ鼻腔に残る、人の肉が焼ける幻臭に胃から喉へと熱い物が込み上げてくる。


 ……いいえ。あれは悪夢なんかじゃない……あれは、実際にわたしがやったことなんだ……。


 段々と意識がはっきりしてくるにつれ、思い出したその現実に、彼女の心はむしろ沈んでいった。


「…………?」


 しかし、自分の犯した過ちに対する懺悔の念は、何気に目に映っていたものによって不意に遮られる。


「ここは……?」


 彼女は、まるで知らない部屋に寝ていたのだった。


 壁際の床を一段高くして作られたベッドの上でメルウトは上半身を起こし、周囲をゆっくり見回してみる……。


 薄暗いその部屋は、庶民の家によく見る日干し煉瓦で造られたものであるが、ベッドのある側以外の壁には棚が設けられており、そこにはたくさんのパピルス文書が置かれている。


 また、棚の一部には薬や香油の名が記された小さい壺が並べられていて、近くにある机の上にもそれらの壺や薬を調合したと思しき皿が散乱している……メルウトには、そこが一目で医者セウヌウの家であるとわかった。


 その証拠に、壁の一角に設けられた祭壇にはギリシア起源の医術の神アスクレピオスと同一視される大昔の建築家イムヘテプの像が祀られている。


 そのイムヘテプ神と同じく、彼女のいた神殿に祀られるセクメト女神も疫病を司る医術の神であり、そこに仕える神官は同時に医者セウヌウである者も多かった。


 そのような関係から、多少なりと医術についてもかじったことのあるメルウトにとっては、どこか馴染みのある風景でもあったりなんかする。


 ……でも、なんでこんな所に寝ているんだろう? 確か、ヘリオポリスに入った辺りまでは憶えているんだけど……。


「おお、ようやく目が覚めたかね?」


 メルウトがそんな記憶の混濁に首を傾げていると、突然、年老いた男の声が脇の方から聞こえてきた。


 見ると、膝まで丈のある貫頭衣チュニックを着けた一人の老人が、いつの間にやら部屋の入口の所に立っている。


 白い髭を口と顎に蓄え、微笑みを湛えてメルウトを見つめるその眼差しは、まさに好々爺といった感じの人物である。


「どれ、まずは水でも飲みなされ」


 その老人は部屋の隅に置かれた水瓶に近づくと、素焼きの碗に水を一杯掬って、メルウトの方へと差し出す。


「ありがとうございます……」


 素直にその碗を受け取り、彼女は一気にそれを飲み干した。


「…コク…コク………はぁ~」


 乾いていた喉に、冷えたその水は殊の外おいしかった。


「これこれ、そんなに急いで飲むと空きっ腹に障るぞ。しばらくろくに食事もしてないんじゃろ? 今、何か食べ物を用意してやるから待っておれ」


「あの……ここは? ……わたしはいったい……どうして……」


 一息吐き、ようやく頭も正常に働くようになると、一番初めに知りたいことをメルウトは口にする。


「ここはわしの家じゃ。おまえさんは町外れの川岸で行き倒れていたんじゃよ。それを偶然見つけて、ここまで連れて来たんじゃ。といっても、おまえさんを拾ったのはわしではなく、わしの弟子なんじゃがの」


「そう……だったんですか……どうも、ご迷惑をおかけしました」


 優しげな笑みを浮かべて答える老人に、メルウトは少々気まずそうな面持ちでぺこりと頭を下げた。


「なあに気にするな。倒れた者の面倒見るのが仕事のようなもんじゃからな…ああ、わしはジェフティメスといってな、この町で医者や書記の真似ごとなんかをして暮らしている者じゃ。おまえさん、名前は?」


「わたしはメ……」


 問われて自分の名を答えようとしたメルウトだったが、言いかけたところで彼女は急に口を噤む。


 もしかしたら、アメン神官団はすでに自分のことを特定して、エジプト全土に探索の手を広げているかもしれない……誰かに自分の名をさらせば、それが発端となってヤツらに居場所を知られる可能性だって充分考えられる。


 少々神経質のように思われるかもしれないが、あの強大な権力を持つ…そして、あんな正義マアトにもとる行為も辞さないアメン神官団に対してはわずかの油断も禁物なのだ。


「まあ、言いたくないのならば別に言わなくともよい。人にはいろいろ事情があるからの。強要はせんよ。わしはそんなデリカシーのある爺じゃからの。フフン」


 俯いた顔を曇らせ、じっと黙り込んでしまうメルウトに、老人――ジェフティメスは努めて明るく、おどけた調子でそう答えた。


「…………ハッ! アンクと古文書!」


 しばし、そのまま沈黙を守っていたメルウトだったが、思い出したかのように胸に手をやると、首から下げていた黄金のアンクと、懐に隠し持っていた『セクメトの書』がないのに気付き、慌てて大声を上げる。


「ああ、これかね? 寝るのに邪魔になると思っての。ほれ、ここに置いておいた」


 動揺するメルウトの姿を見たジェフティメスは、そう断って棚の隅に置かれた小箱の中から彼女のアンクと巻物を取り出す。


「…!」


 それを見るや、メルウトはむしり取るようにして、ジェフティメスの手からそれらを取り返して胸に抱いた。


「……どうやら相当に大事なものらしいの……ああ、心配せんでもいい。パピルスの中身は見とらんし、それのことを知っとるのもわしとわしの弟子だけじゃ。ちなみに自分で言うとなんの説得力もないが、わしはすこぶる口が固いときとる。鑿で抉じ開けようとしても、そう簡単には開かんくらいじゃ、ハハッ!」


「あ、あのっ! ……わたしが……ここにいることも……」


 ミイラ作りの工程を引き合いに、エジプト人にしかわからぬ冗談めかした口調で彼女を安心させようとするジェフティメスを、メルウトは真剣な眼差しで見つめ返して問う。


「ああ、わしら以外には知らん。別に行き倒れを拾ったと役人にも届けてないし、おまえさんが望むなら、ここにいることは近所にも秘密にしといてやる。というか、この界隈には外から来た商人や外国人が多いからの。流れ者が一人や二人増えたとこで誰も気になどせんわい。かく言うわしも似たようなもんじゃしの。ハッハッハッ!」


「ハァ……ありがとうございます」


 愉快そうに答えるジェフティメスの笑い声を聞き、ようやくメルウトも安心したように溜息を吐いた。


「師匠っ! 女の子は……ああ! 気がついたみたいっすね!」


 と、そんなところへ、今度は若い男が一人、息急く無遠慮に部屋へ入って来る。そう。倒れているメルウトを見つけたあの少年である。


「おお、戻って来たか。こいつがおまえさんを見つけた弟子のウベンじゃ」


「あなたが…………」


 命の恩人であるその少年を、メルウトは複雑な表情で見つめた。


「魚を釣りに行った帰りにおまえさんを拾って来たんじゃよ。その代わり、魚は一匹も捕ってこなかったがの」


「またそれを言いますかあ? それじゃあまるで、俺が最初っから女の子引っかけに行ってたみたいじゃないっすかあ」


 師の説明に、ウベンという若者は眉をしかめて文句をつける。


「みたいも何も、おまえがどっか出かける時はいつだってナンパしとるではないか」


「いや、まあ、そいつはあんまし否定できませんが……んでも、いつもナンパばっかしてるわけじゃないっすよ! やるべき仕事はちゃんとしてます」


「果たしてどうかの? 疑わしいものじゃ……」


「な、なんすか、その目は⁉ ちょ、ちょっと、誤解を招くようなこと言わないでくださいよお~!」


 メルウトの心を和ますためなのか? おどけた調子でそんな会話を交わす二人だったが、見ると当の彼女はまるで感心がないように暗い目をして俯いている。


「………あのまま放っておいてくれれば楽になれたのに……」


「……⁉」


 消え入るような小さな声でぽつりと呟いた彼女の言葉に、その場の空気は一瞬にして凍りついた。


 しばしの重い沈黙……その気まずさを吹き飛ばすかのように、思い出した伝言をウベンは師に伝える。


「ああ! そうだ。うっかり忘れるところだった……さっき舟で着いたビブロスの商人の一行に病人がいるらしく、師匠に診てもらいたいって言ってました。他にビブロスの舟はなかったから、船着き場に行けばすぐにわかると思います」


「おお、そうか。では、さっそく行ってやるとするかの……それじゃ、ウベン。わしの代わりにこのお嬢さんに何か食べ物を用意してやってくれ。ちょうど今、食事の支度をしようと思うとったとこじゃ」


 弟子の言伝にジェフティメスはそう答えると、棚から何やら医療器具でも入っているらしい袋を引っ張り出し、それを肩に担いで出口の方へと向かう。


「はい。了解しました。俺に任せといてください!」


「ウベン……くれぐれもその子に変なことはするなよ?」


 部屋を出るきわ、よい返事をする弟子をまったく信頼していない目つきで見つめ、ジェフティメスは釘を刺す。


「しませんよ! ったく、信用ないんだからなあ……」


 ウベンは出かけて行く師を不服そうな顔で見送ると、振り返ってメルウトの方をもう一度覗う。


 しかし、彼女は相変わらずの暗い表情で、どことも知れぬ宙をぼんやりと見つめていた。


「……さ、さてと、んじゃあ、俺はちょっとそこら辺行ってパン買ってくるから…」


 気まずさを覚えながらも、そう断って自身も出かけようとするウベンだったが、その時、予期せずメルウトがベットから下り立ち、音もなく彼の方へと歩み寄って来る。


「い……⁉」


 思いがけぬその行動に、というか、唐突に迫ってくる可憐な美少女に、図らずもドキリとして動きを止めるウベンだったが。


「……えっ? ええっ⁉」


 彼女は彼に目をくれることもなくその脇を通り抜けると、先程、ジェフティメスの出て行った家の入口の方へと向かう。


「……あ! ああ! ちょ、ちょっと、どこ行くんだよ⁉ まだ、そんな急に動いちゃ…」


 下心に満ちたそこはかとない予想を裏切られたウベンは、我に返ると慌ててその後を追いかける。


「……!」


 そんな彼を置き去りに表へ出たメルウトは、思わずそのつぶらな瞳を見開いていた。


 そこには、彼女がこれまでに生きてきた静かな神殿での生活とはまるで違う景色が、見渡す限りに広がっていたのである。


 家の前の通りには、野菜やら織物やら様々な物を道端に広げて売る露店が立ち並び、傾いた太陽に染められたオレンジ色のその町には、家路を急ぐ地元の者やこの地にやって来た商人達が大勢行き交い、がやがやと猥雑な騒音を奏でている。


 いや、エジプト人だけではない。さすがラー信仰の聖地ヘリオポリスといおうか、それともここが交易の盛んな場所であるためなのか、ヌビア人やリビア人、ユダヤやシリアなどの西アジアの民族、果てはギリシア人なども人混みの中にちらほらと見受けられる。


「………………」


 現在、自分がどんな場所にいるのか確認しようと外に出たメルウトだったが、想像していたものとはまったく違うその光景に、思わずその場で立ち尽してしまう。


「どうだい? 賑やかなとこだろう? ようこそ。俺達の町、ヘリオポリスへ」


 そんな彼女のとなりで、後を追って出てきたウベンが彼女の驚きを見透かしてでもいるかのように笑顔でそう尋ねる。


「はぁ………」


 まるで異国にでもいるかのようなその風景と、頭をくらくらとさせるその町の賑やかな音に、メルウトは激しい眩暈めまいを覚え、再びその場で気を失った。


「ああっ! おい! どうしたんだよ⁉ ……ああ、もう、だからまだ動いちゃいけないって言ったのに……」


 夕暮れの匂いがする町の喧噪の中、倒れるメルウトを慌てて抱きかかえたウベンは、眉根を「へ」の字にしてそう独り文句を口にした。


 とはいえ、その言葉とは裏腹に、不可抗力という一応、正当な理由で可憐な少女を抱きしめることとなったウベンは、まんざら悪い気もしていなかったりするのであったが……。


※挿絵↓

https://kakuyomu.jp/users/HiranakaNagon/news/16817330667910148719

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