等価交換

宇津木 草太

第1話

朝起きると、エラが生えていた。顎の尖っているところのことではない。魚がパクパクしている、あれだ。しかし、息ができないわけではない。肺は元通りきちんとあって、その上でエラができたのだろう。息をするとパクパク動くので、ちょっとくすぐったい。

「お兄ちゃん、それ、どうしたの?」

起きてきた妹は、うがいをしている僕にそう言った。エラから水が漏れるので、襟元が冷たい。

起きたら生えていた、と説明すると、彼女は首を傾げ、なんか変、と言った。

小学五年生の彼女によると、人間というのは基本エラなんて持っていないものらしい。従って僕は人間でない、或いはエラ人間第一号なのだと、彼女は強く主張した。

「でも、エラが付いていても、そう不都合はないだろう?」

尋ねると、妹はぶんぶんと首を振る。

「だって、さっき水が漏れていたじゃない。声もなんだかハスキーになってるし。それにお兄ちゃんはカナヅチなんだから、エラがあったって仕方がないわ」

第一見た目が変だと声を大にして、彼女は僕のエラを指差した。

「気持ち悪い」

朝から少し落ち込んでしまう。失敬な妹だ。

顔を洗って食卓につくと、キッチンから母が出てきた。僕を見て、母はおはようあれ?と言い、そして口をへの字にする。彼女はそのまま僕のエラをじっと見つめた。妹がああなのだから、もっと酷いことを言われるかもしれない。急いで心の準備をしたが、母の第一声は、

「人混みの中でもすぐ見つけられるわねえ」だった。

ショックでないのかと聞くと、彼女はふんと息を漏らし、砂糖と塩を間違えた時の方がショックだと言い放った。流石は台所の女王、妹などとは格が違う。

感心していると母は、大体あんたは特徴というものに欠けていたのだと言って包丁を手のひらでくるくる回した。髪型普通、背も普通、アタマも普通でエラ生えた、と言って彼女は爆笑する。側から見たら明らかに危ない人間だが、やはり彼女も、少々動揺しているのかもしれない。悪いことをしたものだ。


学校に着いて教室に入ると、クラスメイト全員が僕を見てどよめいた。

「なあ、あれ……」「そうだよな」「ああ、間違いない、エラだ」

遠巻きにざわつかれ、なんだか酷く落ち着かない。深呼吸すると、エラがパクパク動いた。

「あ、動いた」「やっぱり」「エラだな」

全く落ち着かない。珍獣にでもなったような気分だ。

もじもじしていると、

「な、なあ」

遠巻きの中から、いつも遊んでいるタイスケが話しかけてきた。

「それって……エラだよな……?」

「うん、エラだよ」明るく答える。この状況で話をしてくれるとは、流石タイスケだ。ありがたい。

「エラだ」「エラ星人だ」「エラーマンだ」

また周りがざわつき始める。ちょうどその時ようやくチャイムがなって、クラスメイトはざわざわしたまま席に着いた。隣のカオリが僕に囁く。

「それ、どうなっちゃったの?」

「分からないんだよ、寝てたら生えてて」

寝てたら生えてて、と繰り返して、カオリは首を捻る。

担任のサカタ先生が入ってきて、おはよう!と元気よく言った。みんなはうにゃうにゃと、はっきりしない挨拶を返す。

「よし、みんないるな」

先生は教室を見渡し、満足げに頷いた。と、その視線が僕に再度向けられる。

「……なんだ君、そのアゴ!うちはタトゥーを、つまり入れ墨のことだが、禁止しているぞ。つまり校則違反だ!」

「違うんです、先生」

怒り心頭の先生に、タイスケが反論してくれた。

「あいつのは入れ墨じゃあありません」

「じゃあなんだ?」先生が聞いた。タイスケが答える。

「エラです」

「エラ?」

「はい、エラです」

先生はエラのラという口のまま、二秒間固まった。続いて教卓に一番近い生徒に、生徒手帳を出すように言う。

「すいません、忘れました」

「なんだと、このバカタレ!」

結局その隣の生徒の手帳を借りて、先生はそれをぱらぱらめくった。

「ふむ、ふむ……なるほど」

手帳をパチリと閉じて、先生は言った。

「確かに校則にも、エラを生やしてはいけないとは書いていない。校則違反じゃないな」

なんだか申し訳なくなってしまった。

「すいません、先生」

「いや、謝ることはないさ。生えてしまったものは仕方がない。……そうだ、良いことを思いついたぞ!」

「なんですか、先生」生徒の一人が聞いた。

先生は胸を張って答える。

「本日のホームルームで、彼のエラについて考えてみよう!」

おお、と教室がどよめいた。帰りたい。


ホームルームの時間。先生は上機嫌で指示を飛ばす。

「はい、みんな六人ずつの班になって、机を合わせて……そうだ、君は教卓の横に立ってなさい。この時間の主役なのだから」

まるで公開処刑ではないか。恥ずかしい。しかし逆を言えば、みんなに注目されるということだ。母が言っていたような平均人間の僕からすれば、これは快挙と言えるのではないだろうか。

「はい、みんなできたな。ではまず、班の中で彼のエラについて議論や想像をしてみるんだ。絵を描くのも良いし、歴史的意義について考察しても良い。とにかくなんでも良いから話し合うんだ。ではこれから十分間、スタート!」

ストップウォッチを押して、先生は嬉しそうに叫んだ。


十分後、ストップウォッチがぴぴぴと鳴った。よし止め!と先生が言う。みんなのざわざわが収まるのを待って、先生はまた話し始めた。

「よし、みんなよく話し合えていたな。では今度は自由発表の時間だ。誰でも良いから発表したい奴は挙手して、教卓の所で発表しよう。じゃあ、発表したい奴、手を挙げて!」

足が痛い。十分も立ちっぱなしだったからだ。椅子を要求したいけれど、先生だってずっと立っているから言いにくい。こうして考えると、やっぱり先生は凄い。

そんなことを考えているうちに、三、四人の手が挙がった。先生がじゃんけんしろ、と言って、挙手した生徒がじゃんけんする。

よし、勝った、と言って教卓にやってきたのは、漢字博士のヤストモだった。いきなり卓をばん、と叩いて、みんなの視線を引きつける。ヤストモは話し始めた。

「みなさん、エラというのは、どんな漢字か知っていますか?」

「そんな感じ」タイスケが僕を指差す。

「違います、カンジ違いだ!」ヤストモはタイスケを睨んで、そして黒板に腮と書いた。

「この通り、エラは漢字でにくづきにおもうと書きます。みなさん、これが何を指し示しているか、分かるでしょうか」

みんながまたざわざわし始める。興味が無いようだ。

「漢字にこれほど興味を示さないとは、嘆かわしい……」

ヤストモは溢れる涙を拭い、また続けた。

「にくづきは体を意味し、おもうという言葉はそのまま思いを表します。つまり、その人の心を映し出す体の部位、それがエラなのです!」

なに⁉︎なんだと!と、クラスが驚愕に打ち震える。一気に興味を取り戻したヤストモは、自慢げに続けた。

「つまり、彼のエラを観察することによって、彼の気持ちも分かってしまうということです。見てください、彼のエラ!」

みんなが僕を見る。緊張する。

「ご覧の通り、赤くてゆっくり動いています。思春期のもどかしさ、恥ずかしさ、つまり彼は恋をしている!」

うがあ!と誰かが叫んだ。みんなが息を呑み、教室がしんとする。うがあって、なんだろう。

「そうでしょ、ねえ、合ってますか?」ヤストモが尋ねてきた。

足が痛いと考えていただけなのだけれど、否定するのも悪いと思い、ああ、ええと、と曖昧に答えておく。

「うん、素晴らしい考察だ。みんなヤストモに拍手!」

先生が言って、クラスは満場の拍手で満たされた。

ヤストモが誇らしげに席に戻った後、続いて教卓にやってきたのはユウタ、妖怪大好きな変人だった。何か起こりそうな雰囲気に、教室が不穏な沈黙で満たされる。

ユウタは教卓に着いて、しばらく僕を見つめ、うんうんと頷いた。こいつ……思わず後ずさりしてしまった。先生も隣で若干引いている。

「よし」何かを勝手に納得して、ユウタはみんなの方を向いた。

「みなさん、人魚を知っていますか?」

みんながざわつく。

「人魚?」「ヒトザカナ」「エラ人間」

「人魚は半人半鳥のヨーロッパの妖怪、セイレーンから転身した、海の怪物です」

どよめきを遮って、ユウタは言った。

「あ、ちなみにセイレーンの鳴き声はとっても危険で、英語のサイレンの語源になったって、知ってます?」

「知るかボケ」「はよ言え」「帰れ」

妖怪好きって風当たり強いのね、とぼやいて、ユウタは続ける。

「西洋の人魚は下半身が魚、上半身が人間で、更に美しい女性として描かれることが多いです。人間よりタイプかもしれない」

完全に失言だ。自分が何を言っているか分かっているのだろうか、こいつは。クラスの空気が凍りついてしまっている。全員言いたいことがあるのに誰も口を挟めないまま、ユウタの独演会は続いた。

「さて、そんな人魚ですが、日本に伝わるものは少し様子が変わっています」

ユウタは黒板に大きな絵を描いた。

「このように、全身がウロコに覆われ、顔も恐ろしく、腕はあるものの水掻きが発達しています。西洋のものより魚に近い姿ですね。……つまり」

ユウタが満面の笑みで僕を見る。嫌な予感がする。

「彼はまさに、現代に蘇った日本の人魚!妖怪は今まさに、復活期を迎えようとしているのです!」

「……」「……」「……」

みんな沈黙している。というか、何も言えないようだ。

「あれ、みんな反応薄いね。……あ、そうか、感動を覚えて何も言えないのか。これが感激、沈黙の間隙」

「訳分かんね」「日本語?」「とっとと戻れ」

「酷い」ユウタが膝から崩れ落ちる。

「いや、えっと、面白い話だったね」

なんだか気の毒なので助け舟を出すと、

「そうでしょう!」喰いついてきた。

「いやあ、やっぱり本人だけあって分かってらっしゃる。理解してくれて嬉しいよ。……どうだい、今夜僕の家に」

「やっぱ帰れ」


その後も独創的な意見や侃々諤々の議論が続き、その中で僕は魚になったり人になったり宇宙人になったりした。チャイムが鳴って、先生が机を元に戻させる。

「いやあ、今日はみんな、本当に良いホームルームだったな。こんな風に身近な出来事から様々な発想を生み出すことは、きっと将来の財産になると、先生は確信している」

嘘つけ、ユウタの話にどん引きだったじゃないか。

先生が僕の方を見て、にっこり笑った。気色悪い。

「おまえもこれから、そのエラを誇りに思って生きるんだぞ。……さあ、号令」

気をつけ、礼と委員長が言って、みんなばらばらにお辞儀をした。

エラを誇りにって……釈然としない。


家に帰ると、エラがなんだかひりひりしていることに気がついた。喉が乾燥している、あの時の感じに似ている。

もしかしたらと思って、朝と同じ様にうがいをしてみた。肺の方には水が流れず、口の中に溜まるはずの水がエラを抜ける。

また襟元が濡れてしまったが、エラのひりひりは治った。どうやら乾燥していたらしい。僕はほっと息を吐き、エラをゆっくり撫でた。


部屋の中でごろごろしていると、自然とエラのことが頭に浮かんでくる。要は暇なのだけれど。

考えてみれば、エラが生えて特になることってあるだろうか。妹の言う通り僕はカナヅチだから、水中で息ができても泳げない。それに不器用だから、水を吸ったら肺の方にも入ってしまうだろう。うがいをするみたいに口だけ開けて猛スピードで泳げば、或いは水中でも生きていけるかもしれないが、そんなマグロみたいな生活はごめんだ。

みんなから注目される、というのはどうだろう。今日はみんな驚いていたし、なかなか盛り上がったホームルームだったけれど、しかし、マンガやアニメでさえ一年くらいで飽きるのだから、エラなんて一ヶ月も経たずに見向きもされなくなるに違いない。

そうすると、水につけないとひりひりするし、ぱくぱく動いてくすぐったいしで、あまり良いことは無いのではないだろうか。今朝の教室みたいに、事情を知らない人達に不気味がられるのも嫌だ。うがいもできないし。

なんだか一日経っただけで、エラが嫌になってしまった。

そんな風に考え事をしていると、妹が僕を呼ぶ声が聞こえた。

「何?」

「なんか、お兄ちゃんに用だって」

「誰?タイスケ?」

「いや、なんか……セールスマンだって」

「セールスマン?」

何の用だろう。エラに関係しているのだろうか。


玄関のドアを開けると、スーツ姿の男の人が立っていた。肩に大きめのバッグを提げている。彼は僕にこんにちはどうも、と継ぎ目なく挨拶し、そして自分はセールスマン、マルタだと名乗った。

とりあえず挨拶を返し、ここにきた理由を尋ねてみる。

「えっと……僕に用があると聞いたのですが、何の用件でしょうか?」

「ええそうですねご説明しましょう」

セールスマンマルタは淀みなくそう言い、僕のエラを指差した。

「私はいろいろな商品を取り扱うセールスマンですので常に面白いものはないかと探しておりましてですね。そうするとつい三十二分前にタレコミがありましてですね。自分の同級生にエラが生えた奴がいると」

何ということだろう。

「誰が漏らしたんですか」

「トオミタイスケくんです」

「あの野郎!」許せない、友達を売りやがって!

「いえいえ別に金を払ったわけじゃないですし貴方に何かしようと思っているわけでもありません。私はセールスマンですから貴方のエラをいただきたいと思って来ただけですから」

聞き取りにくい。しかし、エラをもらいたいという話には驚いた。

「え、欲しいんですか?ていうか、このエラって取れるんですか?」

「はい。そのエラ、横のぴろぴろ引っ張ったら取れるので」

そんな簡単に取れるものなのか、これは。というか、エラってそんなことで良いのだろうか。

僕の動揺も知らず、セールスマンマルタは続ける。

「もちろんタダでくれなんてことは言いません。私はセールスマンですから」

「じゃあ、お金をくれるんですか」

「いえいえ私はセールスマンですからお金を取ることはあってもあげることはないです。セールスマンがあげるのはものです、もの」

なるほど、道理だ。

「じゃあ、何と交換してくれるんですか?」

マルタはバッグをまさぐり始める。

「カエルの尻尾とかニワトリのトサカとか色々ありますが。……そうだ『俺』なんてどうでしょう」

セールスマンマルタは、バッグから誇らしげに『俺』を取り出した。

「え、俺になるんですか、僕ではなく」

「はい俺になりますね。僕ではなく」

少し考える。どうだろう。母が言うように僕には個性というものがない。俺ならば少しは変わるものだろうか。まあ確かに、僕よりは俺の方が強そうだし、そう、かっこよさそうでもある。

「分かりました、じゃあ、俺とエラを交換してください」

「はーい了解いたしましたあ!」

セールスマンマルタは僕に俺を渡し、俺はエラをお返しに渡した。

「はいありがとうございましたあ」


セールスマンマルタはあっという間に俺の目の前から姿を消した。逃げ足の速い奴だ。

玄関の戸を閉めると、妹が俺のアゴを見て目を見開いた。

「あ、エラ」

「おう、無くなったんだ」

「なんかお兄ちゃん、喋り方が変」妹は首を傾げる。

「ま、人間は変わるもんさ」

ぽかんと口を開けた妹を尻目に、俺は部屋に向かって歩き出した。

無くなってから考えてみれば、あのエラもまあ、面白くはあった。しかしなかなかに不便だから、手放したのは正解だろう。エラの代わりに俺をもらい、また新しい特徴を手に入れたわけだ。クラスメイトも驚くだろうし、ホームルームも開かれるかもしれない。だが……

俺はふと不安になり、鼻から息を漏らす。

俺が嫌になってしまうまで、一ヶ月持つか、否か……


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等価交換 宇津木 草太 @yumeQ315

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