第二十四話 それは今夜の出来事

 水がタイルを叩く安っぽい音が響く。髪の毛を伝って落ちる水滴をそのままにしながら、僕はぼーっと排水口を渦巻く流れを視界に入れていた。備え付けの鏡は湯気で白く曇って何も見えない。煙草の煙とは違う視界の悪さに目を細めながら、僕は大きく息を吐き出した。狭い浴室に、嫌にその音だけが響く。

 水垢で軋むコックを捻った。耳障りな高い音を鳴らして水量を減らしながら、僕は濡れた髪の毛をかきあげる。ドアを開ければそこから湿気が逃げるので、あらかじめ浴室の外に置いていたタオルで適当に身体を拭った。


 部屋中に転がっている発泡酒の空き缶を足で退けながら下着とスラックスを履き、干しっぱなしのシャツを羽織ってベランダに出る。転がったサンダルに足を引っかけて新しい煙草のセロファンを剥ぎ、一本取り出して火をつけた。


 事務所で働くようになってから禁煙できたと思っていたけれど、すっかり吸う癖が戻ってきてしまった。僕は煙とため息を一緒くたにして吐き出す。僕が住むアパートの部屋は一階なので、手すりに肘をついて外を見れば、いつも通り平和な様子が見れた。穏やかな夕方の風景で、あと十分もすれば五時を知らせるチャイムが聞こえるだろう。


 誰も、今夜溝の口から怪異が消えるなんて思ってない。僕も大して実感があるわけではないが、妙な緊張感が背筋に走っている。吸殻と灰が山になった灰皿に無理やり吸いさしをねじ込み、次の煙草を吸おうとパッケージに手を伸ばした。

 視界の端をひらりと白い何かが動いた。視線で追いかければ、それはベランダの塀を飛び越えて入ってきた猫だ。真っ白い毛並みと黄色い目には見覚えがある。


「……えっ、もしかしてゆきちゃん?」

「そう! しょうた、こんにちは!」


 瞬きをする間に、目の前の白猫は人間へと姿を変えた。僕は慌ててシャツの前ボタンを留めて、部屋の窓とカーテンを外から閉める。僕の部屋は言ってしまえば汚いので、さすがに見せるわけにはいかないと思ったのだ。


「何でここに? というか、何で僕の家……」

「あ、それ私が教えたんです!」


 塀の外から聞こえた声に驚いて、そちらを見ればそこには見慣れた黒コートと眼鏡を掛けた情報屋が手を振っていた。今日の髪の毛はシルバーブロンド。いつも思うのだが、どうして毎回会うたびに髪の毛の色が変わるんだろう。


「こんにちは西萩さん! ところで、煙草吸われるんですか? 意外ですね! 攻めっぽくていいと思います!」

「明日香……僕、明日香に住所教えたことあったっけ」

「ないですね! 調べればわかりますし!」

「プライベートがない……」

「それ、私使って色々調べる西萩さんが言います?」

「ゆき、あすか、たのんだ! しょうた、あいたいおもって!」


 嬉しそうに跳ねる少女と、楽しそうに塀の外で笑う情報屋を交互に見ながら僕は頭を抱えた。よりにもよって、今日来るなんて。


「ゆきちゃん、僕に何か用事?」

「ん! しょうた、おかあさんしらない?」

「……しろさん?」


 嫌な予感がする。僕は胸中に渦巻き始めた重たい感覚をできるだけ無視しようとした。


「そう! おかあさん、かえってこないの……」


 不安げに視線を落とすゆきちゃんを見て、僕は嫌な予感が正しいと確信した。間違いなく、希望の日の出の今夜の儀式が関係している。


「……分かった。ゆきちゃん、僕と船江が探してくるから、今日はおうちに帰って」

「いっしょ、だめ?」

「今日はダメなんだ。……そうだな、明日香と一緒に家に戻ってくれないかな」

「なんで?」

「何でって……それは……」

「あ、もしかして希望の日の出の儀式ですか?」


 事も無げに放たれた言葉に瞠目して、僕は明日香を見る。視線がかち合った情報屋は、不思議そうな顔をして言葉を続けた。


「なんです? 儀式があることくらい知ってますよ? 怪異消滅のための儀式でしたよね、確か」

「詳しい事知ってるの?」

「詳しくはちょっと……儀式の概要と、それに向けて人が溝の口に集まってきてることくらいしか……」

「じゃ、じゃあ妨害策とかは? 船江も調べてるみたいなんだけど」

「ごめんなさい西萩さん……私、情報は売れても知識は売れないんです。売れる知識なんて同人誌くらいしかないんで……」


 歯切れの悪い返事だったが、良い返事はあまり期待していなかったので仕方がない。


「そっか。ありがとう明日香。あと悪いんだけど、ゆきちゃん連れてちょっと離れたところまで行ってくれないかな? できれば、今晩は溝の口に近付かないで欲しい」

「そうなりますよね。まあ良いですよ」

「? あすか、いっしょ?」

「そうだよーゆきちゃん。今日はお姉さんと一緒に遊びにいこっか」

「……うん」


 ゆきちゃんは俯きながら僕から離れ、そのままベランダの柵をよじ登り始めた。止める間もなく、足を縁に掛けてそのまま下に飛び降りる。猫のような身のこなしで(実際猫なのだが)着地したゆきちゃんは、そのまま明日香の隣に歩み寄り、控えめにコートの裾を掴んだ。


「しょうた」

「うん?」


 手すりから身を乗り出して返事をすれば、ゆきちゃんは僕を見た。


「おかあさん、かえってくる?」

「……うん。必ず」


 そう言えば、ゆきちゃんは頷いて僕に手を振った。不安げな顔を隠すように無理に作られた笑顔が痛々しい。


「明日香、お願いね」

「分かりました。依頼料はいつもより多めに取りますからね?」

「ありがとう。よろしく」

「任せてください! この手の依頼は普通は受けないんですが、西萩相談事務所さんはお得意様なので頑張らせていただきます!」


 シルバーブロンドをなびかせて明日香が笑いかける。

 二人が歩いていく後姿を見て、僕は部屋の窓を開けた。部屋に入れば、充電器に繋がっていたスマートフォンの画面が点滅しているのが見える。表示されている文字は「船江」だ。


「う、わ、もしもし?」

「遅い。何やってんだ」

「ごめんごめん、ちょっと煙草吸ってた」

「ふざけんな。シャワー浴びるだけって言ってただろお前。着替えたら事務所戻ってこい」

「分かった分かった」


 言いたいことだけ言って、船江が通話を切る。僕は仕方なく身支度を整え、荷物をまとめて部屋を出た。


 事務所に到着すれば、船江がコーヒーを飲んで待っていた。扉をくぐった僕を一瞥して、作業椅子から立ち上がる。


「護符はそこにまとめてある。そっちの束はお前が持っていけ」

「……なんか、僕の分多くない?」

「視えてないなら護符で守るしかないだろ」


 さも当然のように言う船江に、僕は肩をすくめてその束を手に取った。


「避難勧告は終わった?」

「なんとかな。今日は誘拐されてない奴らは全員溝の口の外だ」

「そっか。お疲れ様」

「うるせえ。お前がまともに働けばもっと早く終わった」


 嫌味のようにそっぽを向いて給湯室に逃げ込んだ船江を目で追いながら、僕は自分のデスクに近付く。机の引き出しには、物部からもらった煙草が入っている。見慣れないパッケージから一本取り出してしげしげと眺めていると、船江がマグカップを二つ持って戻ってきた。


「ここで、吸うなよ」

「うん」


 僕の前にマグカップを置いて、船江はパッケージに向けた視線を険しくさせる。


「それ、物部のか」

「あれ、なんでわかったの?」

「見覚えがある銘柄だったからな。それにその煙草から陰の匂いがする。そんな器用な芸当ができる奴を俺は物部しか知らない」


 僕は火のついていない紙巻煙草に鼻を近づけて匂いを確かめてみたが、やっぱり船江の言う陰の匂いは分からなかった。諦めて煙草を箱に戻す。机に置かれたマグカップに口をつけてコーヒーを啜れば、事務所にかかっている時計が夜を告げた。

 儀式の時間が、ゆっくり近付いてくる。




 深夜三時前。僕と船江は事務所から区役所までの道を歩いていた。既に人の影はなく、いつもの喧騒が嘘のように静まり返っている。船江も落ち着かないのか、辺りをしきりに見渡していた。


「気味が悪いな」

「そう? 夜の溝の口なんてこんなもんじゃない?」

「……お前には視えないから分からないと思うが、夜だろうが普段なら何かいるんだよ」


 眉間に皺を刻んで、船江はそう呟いた。その不機嫌な表情が緊張からきているのか、あるいは本当に不機嫌なだけなのか、僕にはわからない。


「あ、そうだ。煙草吸っていい?」

「は?」

「これ。物部さんに「いいかい、その煙草は大勝負の前に吸うんだ」って言われたんだ」


 物部の真似をするように言えば、船江はため息を吐いて「好きにしろ」と言った。ありがたく、ポケットに入れてあるライターで火をつけ、いつもと違う匂いを吸い込む。


「んぐっ、ぐ、けほっ」

「それ、やっぱり臭いな。物部の匂いがする」

「そんなこと言ったって……」


 咳き込みながら船江を見れば、何も言わずにただいつも通り鼻を鳴らすだけだった。船江はスラックスのポケットに手を突っ込んで僕の先を歩き始めた。


「え、ちょっと」

「早く来い」

「歩きたばこになるって!」

「どうせ誰も見てない」


 船江にしては珍しい発言だ。僕は仕方なく、煙草を吸いながら船江の後を追いかけた。









「ようこそ、船江鶸さん。西萩昇汰さん。希望の日の出の儀式場へ」


 ナトリウム灯のオレンジに照らされた少女が、スカートの裾を持ち上げてお辞儀をした。中世の貴族のようなその素振りに、僕の背中に緊張が走るのが分かった。目の前にいる少女は、以前会った学生ではない。

 彼女の背後には、目測で二、三十人程の人間が立っている。どの人間も黄色いジャンパーを羽織っていた。


「……うっ」

「船江?」


 突然聞こえた呻き声に隣の相棒を見れば、船江は目を細めて口元を押さえた。


「どうしたの?」

「お前こんなのも視えないのか……ここ、怪異と怨念の吹き溜まりになってるぞ……」


 青ざめた表情で船江が絞り出したような声を出す。こんな船江の顔、今まで見たことが無い。


「西萩さん、お久しぶりです。本当のお名前、西萩さんだったんですね」

「西園じゃないってバレちゃったんだ」

「えぇ。どうしても気になって調べちゃいました」

「調べた?」

「島永明日香さん……でしたっけ? あの情報屋さん、とっても仕事が早くて驚きました」


 思わぬところで明日香の名前が出てきたが、別段驚きもしなかった。彼女はあくまで情報屋なのであって、西萩相談事務所のスタッフではない。だが隣の船江は違ったようで、驚いたように目を丸くしていた。


「あのクソアマ、俺たちを売ったのか」

「僕たちをっていうか、僕たちの情報を、でしょ。明日香もそれが仕事だし」

「あは、西萩さんって意外と薄情なんですね。船江さんの方がよっぽど情に厚いのかな?」


 ふふ、と口に手をやってさやが笑う。


 術者の微笑みを湛えた少女は黄色の集団を侍らせ、スカートを翻して道路の中心に立った。


「それじゃあ、儀式を始めましょう。この街に、私の世界に平穏を取り戻すんです」


 その言葉を合図にしたように、荒い風が吹き始めた。怪異が視えない僕の目にも映る程、黒々とした靄が風に乗って舞う。


 ここが正念場だ。僕はスーツの懐に入れた札を強く握りしめた。

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