第二十三話 西萩相談事務所、午前一時
「目が痛い……眼鏡かけてるのにこんな痛いっておかしいよ……ブルーライトカットって嘘でしょ……」
「喋ってられる余裕があるなら手を動かせ、手を」
「……これじゃどっちが所長か分かんないんだけど」
「なんか言ったか」
「なんでもないよ」
僕は画面を見つめすぎて疲れた目を、眼鏡を外してこすりながら言った。船江も疲労が顔色に浮かんでいるが、作業を行っている手を休めるつもりはないらしい。時刻は既に午前一時を過ぎており、窓から見える溝の口の街はすっかり静かになっていた。
「少し休憩しよう船江。疲れてるでしょ」
「休憩するならひとりで行け。俺はまだやれる」
「……そこ、打ちミス」
猫背になりながら船江が入力している画面の一か所を指さして教えると、船江は嫌そうな顔をして僕を睨んだ。そんな表情をしたところで疲れが取れるわけでもないのに。僕は肩を軽くすくめて船江の空になっているマグカップをひったくり、給湯室に逃げ込んだ。
「焦るのは分かるけどさあ、それで止めに行くとき倒れたりしたら本末転倒じゃない?」
「……うるせえ」
「根詰めすぎるのって良くないよ」
インスタントコーヒーの粉末をマグに入れ、保温してあったポットからお湯を注ぐ。溶けていく粉をスプーンで混ぜながら、僕は凝った肩をほぐすように腕を回した。
「はいこれ。十分でもいいから休んだ方がいいよ」
「ん」
船江は大きく伸びをしてから僕の手からマグカップを受け取った。一口すすってからぐったりと作業椅子に体重をかける。眉間に刻まれた皺は深く、目を閉じても治りそうにない。
何せ、船江は昼から今までろくに休憩も取らずぶっ続けでパソコンと格闘していたのだ。眼精疲労も僕の比ではないだろう。
「船江もパソコン用に眼鏡買ったら? 眼鏡屋さんで結構安く売ってるよ」
「……考えておく」
こういう返事が返ってくるときは大体考えていない。僕はため息を残して事務所の扉に向かった。
「おい、どこ行くんだ」
「屋上。ちょっと煙草吸ってくる」
西萩相談事務所は五階建ての雑居ビルの四階にある。僕は階段を登って屋上の扉を開けた。重たい鉄製の扉を開けると、生温い夜気が頬を撫でた。なるべく音を立てないように扉を閉めてから、空を見上げる。綺麗に晴れた夜空だ。星座に詳しくないから僕には良く分からないけど、いくつもの点が瞬いているのは単純に美しいと思う。
飛行機の赤いランプが点滅しているのを眺めながら僕は煙草とライターをポケットから取り出そうとした。だが、手に触れたのは僕が気に入っている煙草のパッケージの感触だけだ。ライター、事務所のデスクに忘れてきた。取りに戻ろうと踵を返すと、屋上の扉が開いた。
コーヒーが入ったマグカップを片手に、船江が開けたのだ。目を丸くする僕を見て、船江はいつも通りの不機嫌な顔をした。
「え、どうしたの」
「お前ライター忘れただろ」
ほら、と放り投げられたライターを慌てて何とか受け止める。確かに、僕が忘れたオイルライターだ。
「あ、ありがとう」
「ふん」
鼻を鳴らして、船江はコーヒーを飲み始めた。僕は少し迷ったが、戻りそうにない船江の横で煙草に火をつける。船江は何も言わない。
ぼんやりと紫煙を吐き出した。穏やかな風に薄められた煙が夜空に溶ける様子を見て船江はやっぱり文句を言った。
「やっぱそれ臭いな」
「嫌なら戻ればいいのに」
「休憩しろっていったのはお前だろ」
「まあそうなんだけど」
嫌煙家のくせに、変なこともあるものだ。僕はポケットの中のプラスチックで出来たライターを手の中で転がした。
ふと、船江が口を開いた。
「お前、今日丹田さんの墓参りに行ったんだろ」
「うん」
「もういないって分かってて行くんだな」
「……うん」
そう。船江には、もう丹田さんがいないことが視えている。だから船江は彼の墓前に行かないし、花を供えることもしない。
僕がまだ所長になって間もない頃、船江に聞いたことがある。
「船江。丹田さんって、まだいるのかな」
「幽霊でって事か?」
少し驚いたような表情で僕を見た船江は、すぐにその顔を曇らせてそっぽを向いた。構わずに、僕は話を続ける。
「そう。ここで働いてた経理の……えっと、白根さんみたいに事務所にいないのかなって」
「いねえよ。白根さんも、丹田さんがいなくなってから辞めた」
「そう、だったんだ」
「ここのスタッフは俺とお前だけだ」
そう言った船江は、どんな顔をしていただろうか。今となってはよく思い出せない。
「……幽霊ってのはな」
「え?」
突然話し出した船江に驚いて顔を上げると、黙っていろと言わんばかりの視線が飛んできた。仕方なく肩をすくめて煙草のフィルターを咥えると、船江は満足したのかまたしゃべり始めた。
「幽霊ってのは、確かに人騒がせなこともしでかすし生きている人間の害になることもある。だけどな、「まだそこにいてくれるかもしれない」って思いが残された人の心を支えることもまたあるんだよ。だから、そういうモノを何もかも消そうとするなら希望の日の出を止めようと俺は思ってる」
独り言のように呟く船江の視線は、ある方角を向いていた。恐らく儀式場の方向だろう。僕には視えていない何かが、きっと彼の三白眼には映っている。
「僕には良く分からないよ。幽霊だってまともに視えないし、正直怪異が消えたところでこれからどんな影響があるのかも実感ない」
深呼吸するようにフィルターからメンソールの香りがする煙を吸い込み、船江の方を向かないようにしてからそれを吐き出した。船江の視線が刺さるような気がするが、それは無視して新しい煙草をパッケージから出す。
「でもさ、最近分かったんだけど僕は意外とこの仕事と生活が好きなんだ」
のっぺらぼうの女性が顔を受け取って安心したような表情を見せた時。好きな女性にピアスを渡せた幽霊の去り際を見た時。ゆきちゃんとしろさんが再会できた瞬間。僕は確かに怪異の手伝いというおかしな仕事に遣り甲斐のようなものを感じた。
「だから僕も、希望の日の出を止めたい」
その言葉を聞いて、船江が少し笑った。その声に驚いて振り返ったが、もう船江は屋上の扉に歩き始めていた。引き留めようと思ったが、別にいいかと思いとどまる。
「コーヒーが冷めた。俺は戻る」
「え、あ、うん」
「それ吸ったら戻って来い。まだ仕事は残ってるからな」
マグカップの取っ手を握ったまま人差し指で僕を指す。そのまま扉の奥に引っ込んだ船江をぼーっと見てから、僕は咥えた煙草をタイルに落とした。スニーカーで踏みつけ、火を消して吸殻を拾う。灰皿の代わりに使っている空き缶にまだ長い煙草の残りかすを投げ込んでから僕も後を追うように足を進めた。
高津区役所前、午前四時。車も通らない交差点の真ん中で、少女が鼻歌を歌いながら道路にペットボトルから液体を撒いていた。道路の脇には液体が詰まっているペットボトルがまだ数本残っていて、中身が空になる度に新しいボトルを取りに戻る。
「ふんふんふんふーん……」
液状の物質が跳ねる音と、少女の鼻歌だけが聞こえる。模様を描くように、時折場所を移して彼女はひたすらに液体をこぼし続けた。足取りも軽やかに、楽しむように。
「ふんふんふんふーん……よし、これでこっちはオッケーっと」
ナトリウム灯に照らされた艶やかな黒髪が風に煽られて揺れた。羽織っている黄色のジャケットには撒いている液体がところどころ付着しているが、それに関心が無いのか拭うこともしない。
ジャケットのポケットから取り出した札を、あらかじめ決めていた箇所に張り付けていく。全ての準備が終わったのを確認してから、少女は道路の真ん中に立って一度、大きく靴のかかとを踏み鳴らした。
地面に撒かれた液体も、電柱に貼られた札も、その音を合図にして溶けるように跡形もなく消えた。少女はそれを確認し、成功を確かめて微笑んだ。
「これで、本当に準備は整った……やっと、やっと私は普通になれるんだ……」
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