第十七話 二人きりの飲み会
「疲れた……事務所の掃除ってこんなに大変だったっけ……」
「お前が普段からやらないのが悪いんだろ」
疲れた様子も見せない船江を見ながら、僕は少し痛む腰をさすった。慣れない段ボールの運搬で、身体が悲鳴を上げているのが分かる。
今日は、事務所の大掃除だ。
そもそも大掃除をしようと思ったきっかけなのだが、これは僕が事務所に来た朝に遡る。
雑居ビルにそろそろエレベーターが欲しい、などと考えながら僕は事務所の扉を開けた。珍しく船江が既に来ていて、いつもの不機嫌そうな表情で僕を出迎える。
「あれ、今日は早いんだね」
「目が覚めた」
「そりゃ珍しい」
引き出しからパソコン用の眼鏡を取り出し、日課になったメールボックスの確認をした。安物のスーツは皺になりやすいので、椅子に腰かける前にジャケットを脱ぐのも忘れない。
「特に連絡はなし。いつもながら平和だね」
「暇で暇で仕方ないがな」
「事件がないのは良い事じゃない?」
船江はそれに答えず、ため息を吐いて給湯室に消えた。どうせ船江も暇な日は、ソファで本を読んでいるのだから構いはしないだろう。僕は気にせずにパソコンの画面を見つめた。
しばらくして、船江が湯気の立つ自分用のマグカップを片手に出てきた。行儀悪く歩きながら飲む姿は毎朝見る光景だ。自分の机に置いてある新聞を手に取り、船江は来客用のソファに身を沈める。
「船江、僕のコーヒーは?」
「自分でやれ」
「一緒に淹れてくれてもいいのに」
「自分でやれ」
同じ言葉を繰り返すだけの船江に僕は肩をすくめて、大人しく自分のコーヒーを淹れることにする。船江が淹れた方が美味しいのに、と思ったがまた「自分でやれ」と返されるのがオチだ。
棚に収納された僕のマグカップを取り出し、インスタントコーヒーの粉末を粗雑に放り込んだ。既にお湯が沸いているポットから音を立ててマグカップに注いでいると、応接室から何かが崩れる轟音がした。思わず肩をすくませる。
微かに船江のうめき声が聞こえた。マグカップを置き慌てて給湯室から顔を出す。
「ど、どうしたの!」
そこで僕が目にしたのは、ソファの脇に積んであった廃棄する予定の書類の山に埋もれる船江の姿だった。
「え、本当にどうしたの?」
「見りゃ分かるだろ……崩れたんだよ」
こめかみに青筋を立てた船江が、怒りを押し殺した声で呟く。僕が差し伸べた手に掴まって立ち上がり、スーツに付いた埃を払いながらも、彼は無言を貫き通していた。
「怪我無い?」
「……ちっ」
「大丈夫そうだね」
僕は船江から離れ、すっかり散らばってしまった書類に目をやった。適当に積んでいたのは悪いが、この量を回収するのは骨が折れそうだ。
「……あ、これ懐かしい。幽霊の新居探した時の契約書だ」
目についた契約書の一枚をしゃがみこんで手に取った。大きく赤いハンコで「完了」と押してある紙面を見ながら、僕は懐かしさに口角が上がるのを感じる。依頼のために走り回った事を思い出していると、船江が僕の頭を鷲掴みにした。指先がこめかみを的確に刺激して、端的に言えばものすごく痛い。
「お前は、何を、呑気に、そんなものを」
「いてててて船江痛い」
「眺めてないで片付けろ」
「分かった、分かったから離して」
渋々、といった様子で船江が僕の頭を離した。僕が立ち上がったのを見て、船江は鼻を鳴らす。
「今日は仕事がない。掃除するぞ」
「掃除って……本気で言ってる?」
「もちろんだ。徹底的にやる、文句あるか?」
威圧感のある船江を相手に、僕は黙って頷くしかなかった。
こういった経緯で、僕と船江は一日かけて大掃除をすることになった。まず棚に入っている資料をすべて取り出すところから始まり、廃棄する書類は全て段ボールに詰め込んだ。すっかり埃を被っていたファイルも綺麗にして、床も気合を入れて雑巾がけまでした。日が沈む頃にはすっかり事務所も綺麗になり、船江の表情も今朝とは違い満足そうだ。
僕は次のゴミの日に業者に持って行ってもらう予定の段ボールを眺めた。思ったよりも量が多い。これだけ片付ければ、もうしばらくは何もしなくていいだろう。僕がアルバイトの時は、小遣い稼ぎに定期的に掃除していたが、今はそんなバイトはいない。
「棚の掃除くらいは毎日やれよ」
「えっ、そんなやらなくてもよくない?」
「お前、家汚いだろ」
「否定はしないけど」
船江は僕に呆れたような視線を放っただけだった。しかし彼も少しは疲れているようで、深くため息を吐くと自身の作業椅子に座り込む。僕も自分の机に戻ってメールを確認するが、やっぱり新しい依頼はなかった。
今までは、少なくとも週に一回は何かしらの相談が入っていたが、不思議なこともあるものだ。僕が知らない間に溝の口は随分と平和になったらしい。こちらとしては商売あがったりだが、問題が無いのは良い事だと納得することにした。
「夕飯どうしようかなぁ」
「自宅で食え」
「ちょうど昨日カップ麺なくなっちゃったんだよね」
「自炊しないのか」
「しない事は無いけど、そんなにいつもやらないかな。計算して食材買うのも面倒くさいし」
「そのうち身体壊すぞ」
「大丈夫だって。カレーうどんって結構野菜入ってるんだよ」
「そういう話じゃない」
船江は眉間を軽く揉みながら疲れたようにそう言う。僕はふと気になって船江に聞いた。
「船江は? そういえば自炊するの? 僕船江がお弁当とか持ってきてるの見たことないけど」
「一通りな。作り置きを冷凍しておけば料理する回数も減らせる。外食するよりはずっと経済的だしな」
「そんなマメなことしてるの? 主婦みたいだね」
「うるせえ」
そっぽを向いた船江に、僕は苦笑いをこぼした。
それからしばらく、綺麗な事務所で待機してみたもののやはり依頼客は来なかった。僕と船江は事務所を閉める準備を始める。
「今日もお客さん来なかったね」
「そうだな」
さしてがっかりした様子も見せず、船江は自分の荷物をまとめている。夜も深まり、外は仕事帰りのサラリーマンで賑わいを見せていた。僕はブラインドを閉めながら階下を眺め、ふと思ったことを口に出した。
「今晩飲みに行きたい」
「は?」
「いや、だってなんか楽しそうだし」
窓の外を指さしながら言うと、船江は少し考える素振りをしながら頷いた。
「分かった」
「あ、いいんだ」
「今日くらいはな」
まさか船江が誘いに乗るとは思わなかったが、行くと言うなら行くしかない。僕はブラインドを閉めて荷物とジャケットを手に取った。
僕と船江が晩酌に選んだのは、溝の口にも店舗を置くチェーンの居酒屋だ。時間帯を考えると満席になっている可能性もあったが、幸運にも二人分の席は空いていた。
席に着き、僕が荷物を置いている間に、船江がジャケットを脱ぎながら店員に声をかける。
「とりあえず、生二つ」
「はぁいかしこまりましたぁ」
間延びした返事を残して、僕たちを席に案内した店員が個室から出ていった。
おしぼりで手を拭きながら僕はメニューを手に取る。船江は見ているのは「今日のおすすめ」と書かれているコピー用紙だ。
「何にする? 僕焼き鳥食べたい」
「魚」
「刺身好きだもんね」
そう会話していると、先程と同じ男性店員がビールの注がれたジョッキを二つ持ってきた。
「おまちどおさまでぇす」
「あの、注文いいですか」
「はぁい」
「串焼きの盛り合わせ、味はタレでお願いします。あとネギ塩牛タン」
「はぁい」
「あと俺は刺身七点盛りと枝豆、酒蒸しも一つ」
「かしこまりましたぁ」
ハンディに僕たちの注文を入力して、店員がまた個室から出ていく。船江がジョッキの取っ手を握ったのを見て、僕も同じようにジョッキを持ち上げる。ぶつかったジョッキがごつ、と重い音を立てた。
「乾杯」
「かんぱーい」
お互いに声をかけてから一気にビールを流し込んだ。まず炭酸が腔内を刺激し、そのあとを追うように苦みが舌の上に広がる。大掃除で疲れた身体に染み渡るような感覚に、思わず小さく唸った。目の前の船江も、いつもより少し嬉しそうな表情をしている。
「こうやって飲むの久しぶりだね」
「俺は普段飲まないからな」
船江は少しビールジョッキを揺らした。汗をかいたグラスから水滴がわずかに落ちる。僕はもう一度ジョッキを呷った。
「最近さあ、本当仕事来なくなったよね」
「平和なのがいいって言ったのはお前だろう」
「それにしても、なんか変っていうか。それに、溝の口駅の広場の勧誘を見ないのも気になるんだよね……」
「それは俺も思った。うるさくなくていいから放置していたが」
「うるさくないってそんな」
船江の変わらない言動に苦笑していると、さっきとは違う店員が入ってきた。爽やか系、とでも言うのだろうか。明るそうな男性店員だ。
「お待たせしました、お料理お持ちしました!」
「あ、どうも。適当においてください」
「はい!」
仕事をするのが楽しいと言わんばかりの笑顔だ。両手に乗せた皿を器用に机に置き、店員は一つお辞儀をして出ていこうとしたところを船江が呼び止めた。
「ビール、おかわり」
「あ、僕も」
「はい、ありがとうございます!」
にっこりと笑いながら、今度こそ店員は出ていく。制服のズボンのポケットから覗く黄色いストラップがやけに目についた。
「なんか明るい店員さんだったね」
「そうだな」
ジョッキの中身を今度こそ空け、船江は刺身を箸でつまんだ。醤油とわさびをあらかじめ混ぜ入れていた小皿に刺身を入れてから、それを口に入れる。咀嚼しながらも、船江の頬は緩んでいた。珍しい表情だ。
「本当に刺身好きだよね、船江」
「美味いからな」
言葉の合間にも刺身をつまみ、ビールで流し込む。僕も真似をするように焼き鳥を串から外して一つずつつまむ。それを見た船江は眉間に皺を寄せた。
「それ、直接串から食わないのか」
「え、うん」
「そうか」
いつもより言動に棘が無い。柔らかくなった船江の雰囲気を感じ取りながら、僕はビールを少し口に含んだ。
二人っきりの飲み会は、まだ始まったばかりだ。
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