第十六話 ちょっとした昔話

 これは、僕がまだ相談事務所の所長ではなく、アルバイトだった頃の話。






 買い換えたばかりのスマートフォンがポケットの中でメッセージの受信を知らせた。僕は妙に傷が無い画面に違和感を覚えながらも、その表面に軽く指を滑らせた。


「こんにちは西萩くん。今日はこれから事務所の留守番を頼みたいのだけれど大丈夫ですか」


 可愛いのか不細工なのか判断しがたい絵柄のスタンプがついでのように添えられていた。このメッセージは、今の僕のバイト先で丹田相談事務所から送られてきたものだ。送り主は事務所の丹田さんで、名前の通り事務所の責任者である。


「大丈夫です。これから向かいます」


 都合がいい事に、今日は一日空いている。特にやることもなかったから二子玉川に映画でも見に行こうかと思っていたが、アルバイトならと僕は目的地を変更した。

 目指すのは家から近い溝の口の事務所。雑居ビルの四階にこじんまりと存在する人外専門の相談事務所だ。




「あ、西萩くんいらっしゃい。来てくれてありがとね」

「暇だったのでなんてことないですよ」


 扉を開けて事務所に足を踏み入れれば、作業机でパソコンと向き合っていた初老の男性が顔を上げた。少し皺の寄った目元には優し気な笑みを浮かべた彼が丹田所長である。


「ごめんね、遠方の護符屋さんが急に来てくれって言うから行かなくちゃいけなくて……」

「そういう事だったんですね……分かりました。所長が帰ってくるまで事務所で待機してればいいんですか」

「うんうん。できるだけすぐ帰ってこれるようにするから」


 丹田所長はニコニコと人の好さそうな顔で笑う。よく笑う人だ、というのが彼に対する僕の第一印象だ。所長は荷物をまとめながら、空席のはずの作業机に話しかけた。


「えっとね、西萩くんがいてくれるから白根さんはその作業が終わったら帰っていいよ。それは右の棚の奥にしまってくれればいいから。……うん、そうそう。それ、ああ、ありがとう。鍵は一応持って帰って」


 無人の空間に話しかけている姿は、傍から見れば頭がおかしい人だ。だが僕は、ここに僕には視えない誰かが仕事をしているという事を知っていた。確か名前は白根さんで、主にここの経理を任されている人、らしい。人と呼んでいいのかは不明だ。


「西萩くん。余裕があったらでいいんだけど、私が帰ってくるまでに事務所の掃除を頼めないかな? 最近は仕事にかまけて全然掃除出来てなくてね……あぁ、ごめんよ。白根さんを責めてるわけじゃないんだ」

「掃除ですね。分かりました」

「ありがとうね。給湯室のジュースは好きに飲んでくれていいから」


 荷物とスーツのジャケットを抱えて、丹田所長は事務所の扉をくぐっていった。残されたのは僕だけ、いや、僕と視えない白根さんだけだ。

 しばらくその場に立ち尽くしていたが、白根さんが作業しているであろう場所の椅子が動いた音で我に返った。机に視線をやっても何も視えないが、このようなポルターガイスト現象はこの事務所ではよくあることだ。


「あの、僕今から掃除しますね」


 机に向かって声をかけるが、もちろん返事はない。首を傾げると、背後の棚が音を立てて開いた。


 あ、白根さんそっちでしたか。






 丹田所長が言っていた通り、事務所はかなり汚れていた。パっと見た様子では整頓されているが、書類を収める棚や窓の桟には埃が積もっている。汚れて困るような上等な格好はしていない。僕は背負っていたリュックを適当な場所に放り、腕まくりをして掃除を開始した。


 事務所には一応だが、一通りの掃除道具が揃っている。この事務所の雑用アルバイトを初めてから日が浅いが、掃除を任されることは多いので大分要領は掴めてきた。


「えっと、雑巾は……」


 独り言を呟くと、背後で流しの下の収納が派手な音を立てながら開いた。振り返れば、そこに雑巾が数枚かかっているのが見える。


「あ、ありがとうございます」


 恐らくそこにいるであろう白根さんにお礼を言うが、やはり返事はなかった。返事がなくて困ることは特にないので、そのまま雑巾を手に取る。バケツは既に見つけていたので、その中に水を張って雑巾を軽く浸した。





 掃除を続けて早数時間、気がつけば事務所の外はすっかり暗くなっていた。いつの間にか白根さんも帰ったらしく、事務所には来客用のソファで僕がコーヒーを啜る以外には音もない。丹田所長はいつ帰ってくるんだろうか。送信したメッセージは既読すらついていなかった。


「所長遅いな……」


 思わず独り言を呟くが、返事をくれる人はいない。明日は朝から用事があるから、あまり帰りが遅くなるのはそれなりに困る。

 どうしたものか、と悩んでいると事務所の扉が開く音がした。所長か、と視線を送ったがそこには誰もいなかった。白根さんが戻ってきたのだろうか。


「あの……白根さん、ですか?」


 返事を期待したわけではないが、一応確認のために声をかけてみる。案の定返事はなく、ただ扉の蝶番が軋む音が響くだけだ。

 何だったのだろう、とソファに戻ろうとした時、今度こそ階段を上がってくる足音が聞こえた。


入ってきたのは、所長ではなく所員の船江だ。僕と年が近いということで呼び捨てにしているが、どうやら船江は僕に対してはかなり不親切で不愛想だ。出会ったその日にいきなり背中を蹴られたのも鮮明に覚えている。


「あ、船江。どうしたの?」

「忘れ物。丹田さんいないのか」

「うん、急用でちょっと出てる。そろそろ帰ってくる頃だと思うけど」


 僕がそう言うと、船江は興味なさげに眉を上げて自分の作業机に向かった。僕はアルバイトなので、専用の机は用意されていない。船江から全くコミュニケーションを取る意思が感じられなかったので、仕方なくソファに戻ると唐突に彼が口を開いた。


「ところで西萩」

「なに?」

「お前の後ろにいる人は依頼人か?」

「は⁉」


 思わず振り返ったが、僕には誰もいない事務所しか見えない。


「え、誰かいるの?」

「……そうか、お前視えないんだったな」


 なんでここで働いてるんだか、と小声で漏らす船江は、パソコンから必要なデータをコピーし始めた。忘れ物とはデータの事だったらしい。作業が完了したのか、そのままパソコンをシャットダウンしてから僕の方に歩いてきた。そのまま僕の横を素通りして、少し離れたところで立ち止まる。


「お客様ですか」


 所長もそうだが、人ならざるモノと会話している人を見ていると不思議な気持ちになる。僕の知らない世界がここにあって、僕はその末端に触れているのだと思い知らされるのだ。


「なるほど。それでは俺が駅までお連れします」


 視えない誰かを先導するように、船江が事務所の扉を開ける。そのタイミングで僕と目が合って、彼は僕を鼻で笑った。


「……何ビビってんだよ。冗談に決まってるだろ」

「冗談って……全然冗談に聞こえないよ」

「うるさい。俺は帰る」

「いっ……! なんでわざわざ蹴るんだよ!」


 船江は僕に蹴りを入れてから、事務所から出ていった。不愛想だが、それなりに良い奴なのは知っている。でも、やっぱり理不尽に振るわれる暴力には納得がいかない。僕が蹴られた尻をさすった。本当に痛い。


 また、扉が開いた。来たのは、今度こそ丹田所長だ。


「ごめんねー西萩くん! すっかり遅くなっちゃった!」

「しょ、所長、お疲れ様です……」

「思ったより話し込んじゃってさ……ところで、さっき船江くんとすれ違ったけど何か話とかした?」

「いえ、蹴られはしましたけど」

「あの子は素直になれないんだよ」


 そんなことを言いながら、所長はジャケットを脱いでパソコンを動かし始める。忙しない人だ、と思っていると所長は嬉しそうに話し始めた。


「そういえば掃除、ありがとうね。お給料は振り込んでおくから」

「白根さんが掃除道具の場所とか教えてくれたから助かりました。今度お礼を伝えておいてください」


 そう言うと、丹田所長は不思議そうな顔をして首を傾げた。


「ん? 白根さんは私が出て行ってからすぐに帰ったよ?」

「え?」

「え? だって帰りますって連絡来たし」


 事務所の空気が固まった。じゃあ、雑巾の場所を教えてくれたのは誰だったんだ?



 ふと、船江が虚空に話しかけている姿を思い出した。もしかして、本当はあそこに誰かいたのではないだろうか?


 青ざめる僕を労わるように、所長がそっと肩に手を置いた。







 これは、僕がまだ相談事務所の所長ではなく、アルバイトだった頃の話。僕、西萩昇汰が人ならざるモノに慣れる前の記憶である。

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