第十五話 生霊の行く末は

 図書館から事務所への道のりには、溝口神社がある。天照大御神を祀った神社で、たまに俺がお参りに行く場所でもある。依頼が思うように進まなかったり、むかつく人間に会った時に心を落ち着かせる俺なりのパワースポットだ。


 今は、物部の煙草の匂いで気分が悪い。事務所に戻る前に立ち寄っていこうと俺は神社に行くことにした。


 神社の境内はいつも通りの静けさに包まれていた。足を踏み入れると分かる厳かな雰囲気を肌で感じながら、手水舎に向かった。

 冷たい水が張られた水盤に近付いて、並んでいる柄杓の一本を手に取る。左手、右手、口をゆすいでまた左手。柄杓の柄にも流しかけて、元の位置に柄杓を戻した。

 すっかり慣れた手順で手水を行い、濡れた手はそのままに境内をぶらつく。


「船江さん。こんにちは」

「……あぁ、どうも。ご無沙汰しております老嶺おいねさん」


 背後から声を掛けられ、振り返るとそこには青年が一人立っていた。彼の垂れた目の下には、引っかいたような傷が三本ついている。寒くもないのに首に巻いた緑のマフラーに、顔を埋めながら老嶺は目を細めた。


「随分物騒なものをお持ちなんですね、今日は」

「少し野暮用で。老嶺さんも今日は体調がよさそうですね」

「ありがとうございます。最近は調子がよくて、境内を歩けるようになったんですよ」 


 マフラーを抑えて少し咳き込みながら、老嶺は嬉しそうに笑った。

 この老嶺という青年は、人間ではない。彼はこの溝口神社にある御神木、親楠の木霊が人の形を取ったモノだ。樹齢三百年のこの御神木は家内安全の御神徳としてこの境内に祀られていて、今でも近辺に住む人間を見守っている。ただ人の姿は未だに不慣れらしく、しょっちゅう体調を崩しては御神木の中で眠っているのだ。


「最近は少し冷えるので、老嶺さんが表に来るとは思っていませんでした」

「ご心配ありがとうございます。でもやっぱりたまには外に出ないと気が滅入りますから」


 力こぶを作るような仕草を見せ、老嶺は俺の笑いを誘った。顔色こそ悪いが、調子がいいというのは本当の事らしい。


「それにしても船江さん、今日はいつもに増して神経が張り詰めてらっしゃる」

「……やっぱり、分かりますか」

「当然ですよ」


 お仕事大変そうですねぇ、と呑気な声で笑うその表情は柔らかい。俺はそんな老嶺の本体である御神木に近付いた。静かな境内には俺しかいないため、一人分の革靴の音が響く。


「煙草の匂いですか。煙草嫌いのあなたにしては珍しい……以前仰っていた所長さんですか?」

「あいつの煙草じゃないです。仕事の……取引先みたいな、そういうのが吸うんですよ」


 物部の胡散臭い笑みを思い出し、また眉間に無駄な力が入るのを感じた。ため息を吐いて眉間を揉むと、老嶺が苦笑する声が聞こえた。


「そういった感情は溜め込むと体に毒です。どうかこの境内で厄を落としてください」

「いつもすみません」

「ボクの仕事は皆さんの安全な暮らしを見守ることですから」


 俺の横を静かに通りすぎ、親楠に老嶺は触れる。俺はそんな彼の後姿を見てふと浮かんだ疑問を口にした。


「老嶺さん。最近、溝口神社で気になることってありましたか」

「気になること、ですか? と言うと……」

「些細な事でもいいんです」


 すると、俯いて考えていた老嶺はあ、と何かに気が付いたような声を上げた。思わず身構えるが、そんな俺の事は知らずに老嶺は言葉を続ける。


「気になると言えば、最近うちによく来てくれる赤子が大きくなってきてるんです。本当に可愛らしい女の子で、成長を見るのが楽しみで楽しみで……」


 思ったよりも平和な変化だ、と思ったが口には出さない。だが、どうやら老嶺には見透かされていたようで彼が咳き込みながら笑った。


「この神社は平和なんですよ。それこそ、船江さんたちの事務所にお世話になる必要が無いくらいに何も起きないんです」

「それに越したことはありません」

「えぇ、全くで……こほっげほっ」


 言葉を途切れさせて何度も苦しそうに咳を繰り返す老嶺に駆け寄って背中をさする。彼はお礼をするように頭を軽く下げた。


「やっぱり無理をなさらないでください」

「すみません……長く外に出るのはまだ難しいですね……」


 困ったように眉尻を下げる老嶺は、明らかに顔色が悪くなっている。早く帰さなければ、と焦る俺を見て、老嶺が突然俺のネクタイを強く引いた。予想しなかった力につんのめると、老嶺は俺の耳元に顔を寄せて小さく囁いた。


「船江さん、できるだけ早くここから離れてください。この神社は何者かに視られています」

「っ、何」

「今はこちらに目が向いていませんが、そのうちこちらにも監視が向きます。早く」


 そこまで呟き、顔をあげて微笑んだ。よいしょ、と年寄りめいた声を合図に体を起こし、老嶺は俺のネクタイから手を離す。


「掴んでしまってすいません、ご迷惑をおかけしました」

「あ、いえ……」

「それじゃあ、お言葉に甘えてボクは少し休みます。またいらしてくださいね、船江さん」


 風に溶けるように老嶺は姿を消した。俺は少しの間親楠を見上げていたが、彼の忠告通り早足でその場を離れることにした。


 監視の目は、希望の日の出なのだろうか。聞きそびれてしまったことに後悔をしながら、事務所に向かう足を急がせた。溝の口に広がる不穏な空気に、どうしようもない苛立ちを隠せない。俺の舌打ちだけが、溝口神社の境内に残った。






少し駆け足で事務所に戻ると、いつものように西萩が間抜けな笑顔で出迎えた。作業机でパソコンを眺めていたらしく、ブルーライト遮断のために掛けている眼鏡をはずしてこちらを見た。


「おかえり。思ったより遅かったね」

「何かあったか」

「何もないよ。今日の溝の口は平和そのもの」


 大きく伸びをしながら欠伸までこぼす西萩の横には、俺が事務所を出た時と変わらず例の生霊が立っている。


「一応買ってきた弁当は冷蔵庫に入れておいたけど食べる?」

「その前にやることがある」


 俺は自分の机の引き出しから、カッターナイフを取り出した。音を立てて刃を押し出し、その刃先を自分の左親指の腹に近付ける。少し力を込めて押し当てれば、先端が肉に沈んだ。赤い球が傷口に浮かんで痛みに顔をしかめるが、我慢できないほどではない。


「ふ、船江⁉ 何してんだ!」


 慌てたように西萩が駆け寄ってくる。俺はそれを無視して胸ポケットから物部にもらった札を抜いた。

 血の浮いた指を白紙の札に擦り付ければ、もう片方と似た術式がぼんやりと赤く浮かび上がる。


「何考えてるんだよお前……!」


 西萩が俺の左手首を掴んだ。俺は西萩の後ろにいる男を確認して近付こうとするが、それを目の前のポンコツが阻む。


「どけ」

「止血が先だろ」


 睨みつけても道を譲ろうとしない西萩に、俺はため息を吐いた。


「止血より先にやることがあるんだよ」


 そのまま手を払って西萩の肩を掴み押しのける。俺は背後にいる男に持っていた札を近付けた。男は無言のままだが、険を含んだ目でこちらを見ている。今までのこちらを馬鹿にしたような表情が変わったのを見て、知らずのうちに口角が上がる。

 手に持った札をそのまま生霊に押し付ければ、目の前の霊は苦痛に満ちた顔を残して姿を消した。今度こそ気配はない。


 俺はもう一枚の札に視線をやった。術式は正常に作動したらしく、札に書かれた紋様がうごめいて追跡を開始していた。


「あ、あの、船江、さん?」


 おそるおそる、と言ったように西萩が俺を見ている。俺は目の前にいる鈍感でどうしようもなく無能な所長に腹が立った。


「いたい! 今朝といい今といい、なんなんだよ!」

「間抜け面に腹が立った」

「だからってそうやってすぐ頭殴るか⁉」


 生霊に憑かれていたことも知らずに、西萩が喚いている。耳をふさいでその喚き声を無視しながら、俺は手元の札をスラックスの尻ポケットにねじ込んだ。




 そうだ、昼飯がまだだった。

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