第十二話 月光に燻る紫煙

 西萩相談事務所は、あくまで相談所であって託児施設ではない。なのでここには子供用のおもちゃは愚か、絵本の類すらないのだ。小さな女の子の面倒など見たことのない僕は、とりあえず彼女がご所望だったぬるめのホットミルクを出すしかなかった。


 ゆきちゃんはそれに満足したようで、マグカップを両手で握り時間をかけて飲んでいる。足をぶらつかせながらご機嫌な様子でマグカップを傾けている彼女を見ながら、僕は胸をなでおろした。何度も言うが、僕に育児の経験はない。


「しょうた」

「どうしたのゆきちゃん」

「これ」

「猫缶? 今食べる?」

「ん」


 彼女が指差したのは先程コンビニで買ってきた猫缶だ。ちょうどいい時間だし僕も何か食べるか、と冷蔵庫に入れておいたコンビニ弁当をレンジに移すと、どうやらレンジに興味があるらしい。ゆきちゃんがマグカップをテーブルに置いて僕に近付いてきた。


「レンジ、興味あるの」

「ん」

「これはね、ボタンを押すと温かくなるんだよ」

「ぼ?」

「ボタン。これ」


 適当な時間をセットしてボタンを押す。起動したレンジを見てゆきちゃんは飛び上がった。俊敏な動作で給湯室を出ていき、ソファの裏に隠れて少しだけ顔を覗かせている。


「怖くないよ。びっくりした?」


 おいで、と手で招くと、おっかなびっくりな様子で近付いてくる。金属の箱の中で弁当が回っているのは面白いらしく、大きな黄色い目でそれを追いかけていた。

 温めが終わった電子音で、ゆきちゃんがまた逃げ出したのは言うまでもない。





「いただきます」

「い? だき、す」


 湯気の立つ弁当の前で手を合わせる僕を真似するように、ゆきちゃんも手をあわせる。僕が弁当を食べ始めたのを見て、彼女も猫缶に手を付け始めた。

 スプーンは使い方を知らないようで、そのまま手でつかんで食べている。人の形で美味しそうに猫缶を頬張るゆきちゃんはかなり異様だったが、本人は喜んでいるので気にしない事にした。辺りを汚さずに綺麗に食べているだけ、船江よりお行儀がいい。


「しょうた」

「むぐ? ……どうしたの」

「みるく」

「はいはい」


猫又の子供はどうやらわがまま娘らしい。





 それから時間は経ち、事務所の外からは酔っ払いの笑い声が微かに聞こえるようになった。僕は書類を整理する手を止めて腕時計を見た。短針はいつの間にか頂点を指していて、自分の集中力に我ながら驚く。


電気代を抑えるために、必要のない場所は全て電源を切った。点灯しているのは僕の机のデスクライトだけなので、事務所内は一気に薄暗くなる。


 作業机から離れ、来客用のソファを背もたれ側から覗き込むと、そこには、猫又の子供が静かな寝息を立てていた。薄手のブランケットに包まり、僕のリュックを器用に枕にして横になっている。仮眠のために常備していたブランケットがまさかこんな形で役に立つとは、と小さく笑った。


 来客用のデスクには、空いた猫缶や冷めた牛乳がわずかに残ったマグカップが置いてある。僕はそれを給湯室のシンクに持っていき、手早く洗って乾布で拭った。猫缶は次のゴミの日に捨てに行けばいい。弁当の容器はビニール袋に入れて適当に口を縛った。


 僕はまた作業机に戻り、椅子に深く腰掛けてため息を吐いた。今日は朝から色々起きすぎて、情報を整理するのに頭が追い付かない。全体重を背もたれに掛けて脱力する。


「シャワー浴びたい……」


 思わず独り言まで飛び出て、いよいよ疲れがピークのようだ。冷蔵庫に入っているミネラルウォーターを取りに行くことすら億劫で、僕はただ椅子に力なく座るしかなかった。


 ふと、作業机の引き出しに目が留まる。中には書類整理のための事務用品のほかに、以前吸っていた煙草が一箱だけ残っていた。なんとなく物部が吸っていたのを思い出し、無性に煙草が恋しくなった。


「……今日くらいはいいか」


 僕は引き出しから少しひしゃげたパッケージとライター、携帯灰皿を取り出して窓を開けた。ブラインドも開け、スラットが夜風にぶつかる音でゆきちゃんが目覚めないよう配慮するのも忘れない。


 安物のオイルライターで煙草の先端を炙り、静かに吸い込んだ。久しぶりに嗅いだ香りに、神経が緩むような気さえする。鼻を抜けるメンソールと煙草の匂いを感じながら、深く息を吐いた。


船江は重度の嫌煙家だ。何やら煙草には嫌な思い出があるらしく、僕が吸っているのを見ると問答無用で蹴りを飛ばしてくる。さすがに蹴られてまで吸うのは嫌なので、一緒に仕事をするようになってからはほとんど吸わなくなっていた。

 美味いわけではない煙を、フィルター越しに何度も吸う。携帯灰皿に吸殻が溜まっていくのを眺めながら、僕はぼんやりとゆきちゃんが眠っているソファに視線を向けた。


 山火さやは、何故ゆきちゃんを開放したのだろう。一度攫った標的をわざわざ帰すなんて事、普通では考えられない。怪異の撲滅を謳う団体の、恐らく重要人物が意味もなくそんなことをするとは思えなかった。


 意味もなく。


 その言葉が頭に引っ掛かった。さやはゆきちゃんと引き換えに、僕の写真を持って行ったはずだ。あの時は少女を救えるという言葉に思わず食いついてしまったが、もしかしてかなりやばいのではないか。そう、意味はあったのだ。





 写真は、呪いの依代に多く使われる。特定の人物だけ呪いたい場合、標的を定めるのによく用いられる道具だ。対象の髪の毛や血液とは違い入手が困難ではないため、術者には広く知られている代物である。相手の象徴として用意した人形などに写真を貼りつけ、そこに怨嗟を向けて害を与える呪いなんて、初歩の初歩だ。



 やらかした、と頭を抱えた。少し冷静になって考えれば分かることだったのに、すっかり失念していた。船江にバレたら怒られるだろうな。僕は相棒の吊り上がった眼と飛んでくるであろう罵倒、蹴りを想像して軽い頭痛に襲われる。

 気を落ち着かせるために、新しい煙草に火をつけてまた吸った。明日の朝に船江が来たらきっと文句を言われるだろうが、これだけ吸ってしまえば一本増えたところで怒られるのに変わりはない。僕は心労による胃痛と頭痛を感じながら、紫煙をゆっくりと燻らせた。


 山火さやからどうやって写真を回収するか。窓の外から入ってくる月光を見ながら、僕はそんなことを考えた。夜は長いし、考える時間はまだいくらでもある。会話相手のいない沈黙の中、僕はただ吸殻を増やしていった。





 鈍痛を感じる。頭が痛い。でも頭痛というわけではなく、どちらかと言えば外から叩かれた衝撃のようだ。


「おい西萩、起きろ」

「ん……?」

「お前なぁ、人には事務所で寝るなとかガタガタ抜かしてやがったくせに何寝てんだよ。死ね」


 焦点が合わない眼をこすると、目の前に不機嫌そうな船江がいる。咄嗟に腕時計を見ると、とっくに事務所を開ける時間だ。


「え……僕、寝てた?」

「寝てた。しかもお前煙草吸ってたな? くせぇんだよ」

「いたっ、ごめんって……」


 もう一度僕の頭を叩いて、船江は眉間に皺を寄せた。彼の目線は僕の頭ではなく、もっと下だ。


「というか、お前それ猫又だろ。どうしたんだよ」

「え?」


 指差した先は僕の膝。見れば、いつの間にか猫になっているゆきちゃんが丸くなっていた。二人の視線を受けて目を開けた白猫は、大きく欠伸をして黄色い瞳をこちらに向けた。


「にゃあ」








「ゆき!」

「おかあさん!」


 急いで事務所に来たしろさんが、大きく手を広げてゆきちゃんに駆け寄る。人の形をした少女は、母親の姿を見て一目散に走っていった。そのまま彼女は母の腕の中に飛び込む。


「心配したのよ、ゆき……!」

「おかあさん、おかあさん!」


 もう離すまいと、しっかり抱き合う親子を見て僕はほんの少し涙腺が緩んだ。船江はそんな僕を見てあざ笑うように鼻を鳴らす。


「よかったね二人とも……」

「泣いてんのか」

「泣いてないよ!」


 船江が来た後、僕たちはすぐにしろさんに連絡してゆきちゃんを迎えに来てもらうことになった。しろさんの依頼を受けてからかなり時間が経っていたので、どうやら彼女も相当心配していたらしい。電話を切ってからしろさんが事務所に到着するまで、そう時間はかからなかった。


「この度はなんとお礼を言っていいのか……お二人とも、本当にありがとうございます」

「いえいえ。ゆきちゃん、よかったね」

「ん!」

「これからは人間から不用意に物を受け取らないように娘さんにお伝えください」

「はい。これでゆきも懲りたでしょうから……」


 そういってしろさんが娘の頭を撫でる。ゆきちゃんは久しぶりに母親の感触に、嬉しそうに目を細めた。


 僕は、ジャケットの胸ポケットから名刺入れを取り出した。緑を基調とした、シンプルなデザインの紙を一枚出して、手帳に付属しているボールペンで僕の個人的な携帯番号を書き加える。船江にそれを渡せば、僕の意図を察して彼も自分の電話番号を追加した。それをまた受け取って、今度はしろさんに手渡す。


「もしまた何かあったらここに連絡してください。僕らの携帯ならいつでも出れるので」

「なにからなにまで……感謝してもしきれません」

「しょうた!」


 ゆきちゃんが僕を呼ぶ。彼女を見れば、名刺入れを指さしていた。


「これ!」

「こら、ゆき。西萩さんたちに迷惑をかけたらだめよ」

「あぁ、いいんですよ」


 僕はもう一枚名刺を出すと、それをゆきちゃんに差し出した。


「これ、僕の連絡先。困ったことがあったら相談してね」

「ん」


 少女は大事なものを扱うように、丁寧にワンピースのポケットに名刺を入れる。ゆきちゃんはそれで満足したようで、しろさんの手を引いた。


「おかあさん」

「そうね。そろそろ帰りましょう」


 しろさんが僕らに向き直り、深々と頭を下げる。ゆきちゃんも真似をするように拙くお辞儀をした。


「本当にありがとうございました。このご恩はいつか必ず返させていただきます」

「これが俺たちの仕事なので、気にしないでください」

「ありがとうございます……さぁ、ゆき」


 しろさんが娘の手を引いて、事務所の扉を開けた。ゆきちゃんは最後に一度振り返り、僕を見て手を振る。


「しょうた、ありがとう!」


 不覚にも、泣きそうになった。









「さて、これでひと段落だな」

「そうだね……船江も一晩寝て体調良くなった? 昨日より顔色いいよ」

「おかげさまでな」


 二人で親子を見送り、事務所の中に戻る。船江は来客用のソファに乱暴に座り込んで、デスクに足を乗せた。行儀が悪い、と窘める前に険しい瞳と目があい、つい黙ってしまう。


「じゃあ早速だが、西萩」

「は、はい」

「どうやって猫又を見つけたか、説明してもらおうか。





 あと、その纏わりついてる陰の匂いについてもだ」


 本気で怒っている船江を見るのは久しぶりだ、と的外れな事を考えて現実逃避するしかなかった。物部にナイフを突き立てられた時よりも、山火さやに出会った時よりも明確な恐怖を感じる。冷や汗を流しながら、僕はただ誤魔化すように笑うしかなかった。


 船江、怖い。

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