第十一話 Return to Hometown

「早く行った方がいいんじゃないですか、西園さん。二十分なんてあっという間ですよ」


 僕はさやの言葉にはっと我に返った。確かに、急行に乗れれば、二十分で目的地に着ける。でも僕は、彼女から目が離せなかった。その笑顔が、どこか寂し気に見えたからだ。


「というか、私一人になりたいんです。放っておいてって言ってる女の子にずっと付きまとってるなんてちょっと無粋じゃないですか」

「あ、うん……」


 ここで彼女と別れたら、希望の日の出の情報は出てこない。絶好のチャンスなのに、と歯噛みしながら僕は踵を返した。


「さよなら、西園さん。今度会った時は本当の名前を教えてくださいね」


 その言葉に弾かれた様に振り返るが、既にさやは影も形もなくなっていた。ただ残されたのは多摩川の流れる音と、少し寒い風だけだった。






 改札を走り抜け、なんとかホームに到着していた快速に駆け込む。周りの人間からは胡乱な目で見られたが、この際仕方ないと自分のなかで言い訳をした。胸を押さえながら乱れた息を整える。


「次はぁ溝の口。溝の口でございます」


 ノイズでがさついた車掌のアナウンスを聞きながら僕は大きく息を吐いた。



 山火さやは、僕の本名が西園ではないと確信していた。偽名はバレていたのに、彼女はずっとそれを知らないふりをしていたのだ。彼女も船江と同じだ。僕よりずっと多くの物をその目で視ている。僕には視えていない何かで、物事を判断しているのだ。


「溝の口、溝の口でございます」


 車掌の声と、車窓から見える見慣れた景色で帰ってきたことを実感する。二子玉川と溝の口なんて電車に乗ればたった三分なのに、何故かすごく懐かしい感じがした。

 正面口の改札を出て、ゆきちゃんがいなくなったイトーヨーカドーまで走る。歩いても間に合う計算だが、やっぱり誰かが待っていた方が心細くないだろうと思ったのだ。

階段を駆け上がり、南武線と田園都市線の利用客が交差する広場を横切る。いつも慈善団体の署名活動やティッシュ配りをしている人の影が、今日は何故かなかった。珍しい事もあるものだ、と思ったが今はそれどころではない。僕は、通行人にぶつからないよう注意しながら足を速めるのだった。


 灯りの少ない、イトーヨーカドーの裏手。僕はそこに駆け込んだ。腕時計を見れば、さやから言われた時間から十九分だ。歩いていたら間に合わなかった、と安堵に胸をなでおろす。あとは、ここでゆきちゃんを待てばいいだけだ。


 今日はやたらと走ったな、と見当違いなことを考えていると、風に乗って知った匂いが漂ってきた。


 ビャクダンだ。間違いない。


「ゆきちゃん、いる?」


 少し声を大きくして呼びかけるが、返事はない。ただ風が木の葉を揺らす音が響くだけだ。不安になって、もう一度呼んだ。


「ゆきちゃん、いるかい?」


 何も聞こえない。まさか、僕は騙されたのか? いや、でも山火さやは「約束は守る」と確かに言った。どうしよう、と頭を抱えると。


「にゃあ」

「……君が、ゆきちゃん?」

「にゃあ」


 足元にすり寄ってきたのは、真っ白い毛並みが美しい子猫だ。僕を見上げる瞳は黄色く、薄暗いこの場所でもはっきり見える。


「ゆ、ゆきちゃん!」

「にゃーあ」


 思わず抱き上げると、嫌がるように身体をよじった。慌てて降ろすと、白猫は何度か僕の周りをぐるぐると周り、匂いを嗅ぐ。しゃがみこむと、驚いたように背の低い生垣に入り込んでしまった。


「ごめんね、びっくりさせちゃったかな」


 できるだけ優しい声色を作り、話しかける。すると、微かに揺れた生垣の向こうから一人の少女が顔を出した。黒いおかっぱ頭が特徴的だ。


「だれ?」

「僕は西萩。お母さんから君を探してくれって頼まれたんだ」

「おかあさん、さがしてる?」

「そう。君のお母さんのしろさんが探してるんだよ」

「おかあさん!」


 その単語に反応して、ゆきちゃんが僕の胸に飛び込んできた。甘えるように頭を押し付けてくる。小さな手が白くなるほど、僕のスーツの裾を握りこんでいる。不安だったんだろうな、と思い僕はその背中を優しく撫でた。


 しろさんに連絡を取らなければ、と思いスマートフォンを手に取るが、生憎彼女の連絡先を今持っているのは船江だ。しかもその船江は今日無理やり帰らせたばかりである。また呼び戻すのは忍びない。


 つまり僕は、明日船江が来るまで彼女を事務所で保護しなければならないのだ。


「……ごめんね、ゆきちゃん。今日は僕と事務所に来てもらっていいかな」


 そう言うと、目の前の少女はおかっぱ頭を少しだけ傾げてから頷いた。





 雑居ビル四階、西萩相談事務所。僕はその扉に以前も使った「臨時休業」の札を張り付けた。既に事務所の中に入っていたゆきちゃんは、珍しそうに部屋を見ている。


「夕ご飯はあとで買ってくるからね。何か飲み物飲む?」

「みるく」

「牛乳かぁ……あったかな」


 事務所の鍵を内側から閉め、その足で給湯室に向かった。冷蔵庫の中にはある程度飲料をストックしてあるが、保存の効かない牛乳はあったかどうか怪しい。ゆきちゃんは僕が気になるのか、音もたてずに後ろからついてきた。


「牛乳、牛乳っと……うーん、切らしてるな。ほかに飲めるものとかある?」

「みるく」

「だよね。困ったな……」


 どうしたものか、と悩んでいると、ゆきちゃんが僕のスラックスを指先でつまんだ。大きな黄色い視線が刺さるようだ。彼女はもう一度、今度はさっきより少し大きな声で言った。


「みるく」








 切らしているなら補充するしかない。僕はゆきちゃんを連れて、事務所から一番近いコンビニで買い物をすることにした。決してあの無垢な瞳に絆されたわけではない。


 子猫の好奇心は凄まじかった。少し目を離すだけであっという間に違うところをふらふら歩いている、なんてことはしょっちゅうだ。仕方なく、僕はゆきちゃんの手を引いて移動することになった。傍から見れば親子に見えるんだろうな、まだ僕独身なんだけどな、などと遠い目をしながらかごの中に適当な総菜を入れる。


「これ」

「うん? これ食べたいの?」

「ん」


 ゆきちゃんが指差したのはキャットフードの缶だ。人間の形を取っても、やはり猫は猫らしい。僕は言われた猫缶を、自分の総菜と同じようにかごに入れた。ゆきちゃんはそれを見て満足したように、またきょろきょろと辺りを見渡した。すぐどこかに行こうとするから油断ならない。


「っと、そうだ牛乳……」


 最初の目的である品を忘れそうになっていた。僕はゆきちゃんの手を引きながら、飲料コーナーを覗く。何種類かあったのでとりあえず、所望する本人に聞くことにした。


「ゆきちゃん、どれがいい?」

「んーと……」


 初めて見るパッケージが多いのか、目の前の少女は真剣な顔つきで陳列棚を見ている。その様子を横で見ていると、背後から女性の声が聞こえた。


「えっ……西萩さん……隠し子……?」

「えっ」


 振り返ると、そこには食パンを持ったまま唖然としている明日香の姿があった。今日の髪色は頭頂から毛先に掛けてのアッシュグレーとピンクのグラデーションだ。また髪色の変わった明日香は、口を押えて大袈裟に息を呑んだ。


「嘘……西萩さんに子供だなんて、船江さんが泣きますよ! 修羅場じゃないですかいいぞもっとやれ! というか西萩さん彼女とかいたんですか? 私何も聞いてないんですけど! あ、それとももしかして、その子船江さんとの子供だったりします? やばくないですか? 推しカプに子供出来たとか今日赤飯じゃないですか。食パン買ってる場合じゃねえ」

「落ち着いて明日香」

「これが落ち着いてられるかってんだ!」


 妙にテンションの高い明日香にげんなりしていると、ゆきちゃんが僕の手を引っ張った。その腕には一リットル入りの牛乳のパックが抱えられている。


「これ」

「これにするの?」

「ん」


「はーめっちゃ仲いい親子じゃないですかやだあ! 子連れの西萩さん、正直めっちゃ面白い絵面ですよ。これ写真撮っていいやつ?」

「よくないやつ。明日香聞いて、この子は捜索の依頼を受けてた猫又なんだ」

「え? ……あー、ほんとだ。迷子になってた猫ちゃん」


 納得したようにぽん、と手を打つ明日香を見て、僕は精神的な疲れがどっと出たような気がした。そんな僕の心労も知らず、明日香はゆきちゃんに視線を合わせるようにしゃがんで話しかける。


「こんにちは、あなた猫又の子ね? 私、島永明日香っていうの」

「しまなが、あすか」

「そう! 頭いいね」


 優しくゆきちゃんの頭を撫でる明日香を見て、僕は思わず目を見張った。そんな僕の視線に気が付いたのか、明日香は勝ち誇ったような目で僕を見る。


「私これでも結構幼女から好かれるんですよ」

「幼女って……」

「何でか知らないけど昔からそうなんですよね」


 ひとしきり撫でて満足したのか、明日香は立ち上がった。ゆきちゃんは少し不満げな顔をしたが、文句を言う事は無い。


「ところで船江さんはどうしたんです?」

「体調悪そうだったから家に帰した。事務所で寝るくらいなら家で寝た方が休めるしね」

「これが愛……やっぱお二人結婚してます?」

「ちょっと」

「あはは、冗談ですって。それじゃ、私この後用事あるんで先に失礼しますね」


 そう言い残して、明日香はレジに向かっていった。嵐のような女だ、と僕が思っているとゆきちゃんが僕の手をさらに引っ張る。


「あ、ごめんね。すぐ会計しよう」


 僕はそのまま牛乳を受け取ってレジに並ぶ。ゆきちゃんの表情はどこか煮え切らないものだった。





 事務所に到着した僕は、とりあえずジャケットを脱いでハンガーに掛ける。そのあと冷蔵庫に買ってきた夕飯の弁当と、その他の飲み物を適当に入れた。牛乳はゆきちゃんが飲むので、マグカップと一緒にシンクに置いておく。

 やっぱり暖かい方がいいのかな、とレンジの電源を入れようとすると、突然ゆきちゃんが口を開いた。


「ちがう」

「え?」


 思わず手を止めて聞き返すと、ゆきちゃんは僕を見て言う。


「あすか」

「あぁ、うん。さっきの人は明日香だよ」

「にしはぎ」

「僕は西萩だけど」

「ちがう」


 少女の言いたいことが理解できず、首を傾げる。なかなか言いたいことが伝わらない苛立ちで唸りながらゆきちゃんは繰り返した。


「あすか」

「うん」

「にしはぎ、なに?」

「……もしかして、僕の下の名前?」

「ん」


 伝わって満足したように少女が頷く。僕は彼女の前に歩み寄り、しゃがんで目を合わせる。


「僕は西萩昇汰って言うんだ。よろしくね、ゆきちゃん」

「しょうた!」


 嬉しそうに笑う少女に、僕も釣られて微笑んだ。

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