第十話 山火さやという少女
微笑みを浮かべる目の前の少女は、掴んだ僕の腕を手放した。すぐさま後ずさりで距離を取るが、彼女は気にしていない風にため息を吐いた。
「あーあ。せっかく入念に準備を重ねてあの女の人を引き入れようとしてたのに、西園さんの所為で台無しですよ。どうしてくれるんですか」
「な、に」
「恋人を亡くした悲劇のヒロイン。時間をかけて心の傷を癒し、新しい恋を見つけた彼女の前に現れるのは死んだはずの恋人。幸せに生きる女を襲う怨霊は彼女の新しい恋人を殺して、藤井かえでは怪異を恨むようになり、私たち希望の日の出と共に世界を浄化する……こういうシナリオだったんですよ? なのに西園さんが思い出の品なんて渡すから、これじゃあフェイクの怨霊をけしかけても引っ掛からないじゃないですよ」
さやは昨日の天気の話でもするような気軽な口調で、とんでもないことを言い放つ。その話を聞いて、僕は物部から聞いた希望の日の出の実態が正しいと分かった。
どうやら僕は知らないうちに、希望の日の出の計画を邪魔していたらしい。
「やっぱりお前たちは、怪異の撲滅を企んでるんだな」
「うちの事、随分ご存じなんですね。興味持ってくれました?」
「まぁね」
敬語が崩れた僕を見て、さやはさらに笑みを深める。目を合わしてはいけない、と目線を落とせば、さやの服装が目についた。
少し背伸びをしたヒール。足首を留める黒いバンドは白い肌を引き立てている。左右非対称なベージュのフレアスカートは膝辺りで柔らかく揺れ、腰に巻かれた革のベルトがアクセントになっていた。ファーが付いた紺色の短いダッフルコートの下から覗く白のインナーが妙に眩しい。
僕は女性服に疎いが、この服装が可愛いし彼女によく似合っているのは理解できた。以前見た地味な学生服とは違った「今どきの女の子」という印象を受ける。どこかに出かけるのだろうか、と思ったがさやに質問するつもりはない。どう逃げようか、と考えているとさやが口を開く。
「本当はね、西園さん。今日は私、あの藤井かえでさんに入信してもらおうと思ってここに来たんですよ。だからせっかくオシャレしたのに」
「っ」
「どーせ「どこに出かけるんだろう」とか思ったんでしょ? 頭の中覗いたりしなくてもわかりやすいですよ、顔」
トントン、と自分の頬に指で触れるさやを前に、僕はただ困惑するしかない。いくら術者とはいえ、恐らく学生である少女に翻弄されて情けないとまで思った。
「……それで、なんで僕に何の用なんだ。計画を邪魔されて報復にでも来たのか」
「は? なんでそんなみみっちい事しなきゃいけないんですか」
「そうじゃ、ないのか」
「藤井かえで一人を逃したところで、ターゲットなんてごまんといます。いちいち報復とかやってられませんよ」
さやは心底不思議だ、と言わんばかりの顔をしている。
「じゃあなんで」
「まあでも報復? って物騒なものでもないですけど、腹いせは半分くらいあるのかな。藤井かえでを逃して私、暇になっちゃったんですよねえ。
だから、責任取って私と今日デートしてください」
「……はぁ?」
思わず聞き返した。信じられない一言を言われて、思わず聞き返した。あまりにも唐突な言葉に理解が追い付かない。
「だって、気合入れておしゃれしてきたのにこのまま何もしないで家に帰るって馬鹿らしいと思いません? 私の邪魔したんだから、暇つぶしに付き合ってください」
ね? と首を傾げながらしなを作って腕をからめてきた。
僕はそんな彼女を見て、思わず毒蛇を連想した。逃げられない。もう今日で僕はこの術者にやられるんだ。船江、お前だけでも逃げてくれ。天を仰いでそう祈ると、不意にさやが呟いた。
「あれ、防御されてる」
「え?」
「なーんだ。無防備だからちょーっといじめようと思ったのに。」
むかつく、と年相応に口を尖らせたさやを見て、僕の思わず自分の左手を盗み見た。
物部に刺された手だ。もしかして、あの時のナイフが守ってくれたのだろうか。
「守られてるなら仕方ないですね。普通にデートしましょう」
「普通にデートって何だよ」
「まぁまぁ。ちゃんと西園さんにもメリットのあるデートにしますから」
絡めた腕を引いて、さやは僕を連れて行こうとする。もしかしたら、希望の日の出に関する情報が得られるかもしれない。彼らを止める手掛かりがつかめるかも。そう思った僕は、そのままさやに従って歩き始めた。
目指しているのは、田園都市線の改札だ。
「で、なんでここなの」
「デートならスイーツ食べたくありません? あ、私今そんなに手持ちないんで奢ってください」
平然と言ってのけるさやにため息を吐いた。財布の中身を考えれば、女学生一人にスイーツを食べさせるくらいなら問題はない。が、そういうことではないのだ。
今僕たちがいるのは、二子玉川にあるスイーツ店だ。シナモンロール専門店を謳うだけあって、店内にはスパイスの香りが充満している。客層も若い女の子ばかりで、スーツ姿の僕はかなり浮いていた。帰りたい。
「んー……チョコもいいけど、プレーンも捨てがたいなぁ。西園さんはどうします?」
「コーヒー」
「甘いもの嫌いなんです?」
「そういう訳じゃないけど」
「じゃあ半分食べるんでこっちも買ってください」
すいませーんと明るい声で店員を呼ぶさやの横顔は、いたって普通の少女だ。誰もこの子が人に害意をもって術を行使する術者とは思わないだろう。
「えっと、ミルクティーとコーヒーのホットが一つ、プレーンとチョコのロールをそれぞれください」
「かしこまりました」
しばらくして、目の前に注文した品が運ばれてくる。
僕の前に置かれたのはコーヒーとチョコレートソースが掛けられたシナモンロールだ。甘ったるい香りと室内に漂っていたシナモンの匂いが一気に強くなる。チープなプラスチック製のフォークとナイフが添えてあった。僕はそれに手を付けず、コーヒーだけ啜ることにした。
店員がいなくなったのを確認してから、僕は腕を組んでさやに話しかけた。腕を組む、という行為は身を守る意味合いがある。人の意識を利用する術には焼け石に水だが、効果がないわけではない。
「僕は希望の日の出が何をしているのか調べた。どうして怪異を消そうとしているんだ?」
「何で? えー……じゃあ逆に聞くんですけど、西園さんは車に轢かれそうになったら避けますよね。何でですか?」
「そういう話をしてるんじゃなくて」
「そういう話ですよ。私たちにとっては同じことです」
ミルクティーにスティックシュガーを二本入れ、マドラーでかき混ぜながらさやが言う。カップを両手で持って口をつけるが、熱かったのか顔をしかめてまた机に置いた。
「多分知ってると思うんですけど、私の家ってかなり古い術者の家系なんです。おじいちゃんが言うには一千年以上前からお祓いを家業にしてたみたいで」
「平安時代に悪鬼を祓っていたってやつか」
「それです、それ。おかげでうちは昔から妖怪とか鬼とか幽霊とか、まあそういうモノからよく攻撃を受けるんですよ」
「攻撃……?」
「呪いとか、恨みとか? それこそ報復ですよね。だから身を守るために山火の人間は術を勉強するんです」
言葉の合間にシナモンロールを頬張り、至福に頬を緩ませている少女を、僕は信じられない気持ちで見ていた。
今まで僕が西萩相談事務所に入所してから、怪異というものはずっと身近な存在だった。住処を守るために人を化かす稲荷神や、自分が死んだことを理解できずに彷徨ってしまう子供の幽霊など、確かに人騒がせな事件も多い。だが、僕はそれが普通だと思っていた。怪異も人と同じで、お互いに分かり合えるものだと思っていたのだ。
だから、怪異と敵対しているというさやの言葉に衝撃を受けた。
「それで君は、君たち希望の日の出は、怪異を消そうとしているのか」
「そうですよ。あ、それ食べたいです」
さやは僕の皿に乗ったシナモンロールを三分の一ほどナイフで切り取り、自分の皿に移した。一口大に切ってからまた頬張る。
「西園さんは私たちが気に入らないみたいですね。何でですか? 私はそっちの方が理解できません」
念入りにミルクティーに息を吹きかけて冷ましながら、さやは首を傾げる。僕はカップのコーヒーに映る自分の顔を見ながら答えた。
「僕にとって、人ならざるモノは隣人だ。彼らが迫害されそうになっているのならそれを止めようとするのはおかしいのかな」
さやは、何も答えない。僕の返事が気に入らなかったのかな、と考えていると突然席を立った。
「え、どうかしたの」
「もう甘すぎてお腹いっぱい。ちょっと外行きましょうよ。私、多摩川が見たい」
そう言ってさっさと店を出ていくさやの背中を見て、慌てて僕は会計を済ましにレジに向かうのだった。
神奈川と東京の県境に流れる一級河川の多摩川は、川岸まで歩いていくことができる。休日は散歩や釣りをする人々が訪れるこの場所に、さやは僕を連れてきた。ヒールは歩きづらいようで、砂利に足を取られて何度も転びそうになっている。目の前をゆっくりと歩いていくさやの後姿を見ながら、僕は先ほどの彼女の言葉を頭の中で繰り返していた。
『おかげでうちは昔から妖怪とか鬼とか幽霊とか、まあそういうモノからよく攻撃を受けるんですよ』
『呪いとか、恨みとか? それこそ報復ですよね。だから身を守るために山火の人間は術を勉強するんです』
僕は何も知らなかった。西萩相談事務所が受けるのはあくまで怪異側からの願いだ。害意を持って人を攻撃するような依頼は一度も受けたことが無い。
僕は山火さやを、怪異を消そうとしている悪者だとばかり思っていた。だが、彼女はただ悪いわけではないらしい。山火家は今まで何度も傷つき、苦しんできた。そして自分を害する存在である怪異は、消すことでしか解決しないという答えにたどり着いたのだろう。
「西園さんって変ですね」
「まぁ、君から見たらそう思うんだろうね」
「変ですよ。やっぱりあなたは良く分からないです」
川岸の丸い小石を拾い上げ、さやはそれを川に投げた。ちゃぷん、と音を立てて波紋が一瞬広がるが、それも川の流れに溶けて消えてしまう。また石を拾って投げた。同じ末路を辿る小石を見て、さやはそれをしばらく眺め、唐突にジャケットのポケットからスマートフォンを取り出していじり始めた。
「西園さん。ちょっと来てください」
「まだ何かあるの」
「そんな警戒しなくていいですよ。来てくれるだけでいいですから。術も使いませんし」
攻撃の意思はないというように、両手をひらひらと振る。僕は仕方なく彼女の横まで歩くと、突然腕を引かれた。デジャヴを感じる暇もなく、彼女は僕に身を寄せてスマートフォンの画面を前に出した。
軽快な音が鳴り、画面には間抜けな表情をした僕と笑顔のさやが写っている。それを確かめると、さやは満足したように僕から離れた。
「ありがとうございます」
「いや、なんで写真なんて撮るんだよ。それ消して」
「ダメですよぉ。今日のデートの証拠ですから」
「証拠って……いいから、消して」
「えー、じゃあ何か交換条件があればこのままでもいいですか?」
「交換条件?」
「うふふ。ずーっと西園さんが探してる猫又の女の子」
返してあげます。そう笑うさやは、今までの少女とは明らかに違った雰囲気を醸している。きっとこれは術者としての彼女の顔なのだろう。
「何で急にそんなこと言い出すんだよ。怪異が憎いんじゃないのか」
「まぁ憎いのはそうなんですけどね。別にあの猫又くらいなら悪い事しなさそうだし、写真欲しいし」
「……本当にゆきちゃんを返してくれるのか」
「もちろんですよ。約束は守ります」
ゆきちゃんと自分を秤にかけるなら、迷う事は無い。
「分かった。それならいい」
「話が分かりますね、西園さん」
そう言うと、さやは手元のスマートフォンを何度かタップし、どこかに電話をし始めた。
「あ、もしもし? あの白い子、転送した座標に戻しておいてほしいんだけど。……そうそう、猫又の。うん、よろしくね。はーい」
会話が終わり、さやがこちらを見る。その目から彼女が考えていることも、行動も読み取れない。
術者と目を合わせてはいけない。一瞬だけそんなことを思ったが、目の前の彼女から今までのような脅威は感じなかった。
「今から二十分後に、転送術の発動座標に猫又を戻します。迎えに行くなら早くいった方がいいですよ」
「君は、何がしたいんだ」
僕がそう問いかけると、さやは口角を少しだけ上げてこういった。
「私を苦しめる存在がいない世界を作りたい。それだけです」
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