第二話 二子玉川でまた会いましたね
ブラインドの隙間から差し込む夕日に照らして、右手を何度も開いたり閉じたりしてみる。のっぺらぼうの女性は既に事務所を後にしており、今ここにいるのは僕と船江だけだった。脱力してだらしなくソファに寝そべり、天井を見上げながら見る右手は、やっぱり普通だ。船江は備え付けのパソコンで何かを調べているので、会話はない。聞こえるのは外の喧騒と、船江がキーボードをたたく音だけだ。
僕は昨日の呪詛について考えていた。別の事を考えようとしても、右手に憑いていたという呪詛の残滓が頭から離れないのだ。
昨日受け取ったチラシは既に燃やしてしまったため、もうあれを調べることはできない。きっと今日も二子玉川で例の宗教団体はチラシを配っているだろうが、わざわざ出向く気にもなれなかった。厄介ごとに巻き込まれたくない思いが半分、単に面倒くさくて出歩きたくない思いが半分だ。
「……希望の日の出、か……」
「軽く調べてみたがめぼしい情報は出なかった」
僕の独り言に反応した船江が調べた結果を印刷したコピー用紙を投げてよこす。それを顔面で受け取った僕は恨みがましい目を船江に向けるが当の本人は素知らぬ顔でまたパソコンの前に戻っていく。
「どれどれ……」
船江がくれた資料に目を落とした。この場合、寝そべりながら上を向いて眺めているので見上げる、が正しい表現だが細かいことは気にしない。
希望の日の出。数年前に教祖“山火宗真”を中心に設立された宗教団体。主な活動内容は信者たちを集めた礼拝、自宅での読経やお祈り、最近は宗教勧誘も主なものになっている。謳っているのはチラシに書いてあったような死後の幸福の約束、世界の浄化、さらには現世での贖罪なども挙げられている。現時点では、何処にでもある小規模な非営利団体だ。
「何人かの知り合いに希望の日の出について聞いてみたが、出てくるのはその程度の情報だ。あののっぺらぼうが言っていた人外集団失踪事件に関わりがありそうなものは噂程度しか分からなかった。正直、ここまで情報が出ないのは逆に胡散臭い」
「船江の情報網でこれしか調べられなかったの? それはなかなかきな臭いね……」
正直驚いた。船江はどこから手に入れてきたのか分からないが、妙に広い情報網を持っている。多分僕には視えない連中から色々聞いているのだろうが、その視えない連中絡みの事象で情報が集まらないなんて珍しい。
「それに、人外集団失踪事件なんて大きい案件がうちの耳に入らないのも変だ。失踪なんてあったら真っ先に連絡が来そうなものなのに」
不機嫌そうな表情を隠さずに、船江は湯呑に入った白湯を啜る。目頭を揉みほぐしながらため息を吐いている様子を見るとどうやら相当調査が難航しているようだ。
「失踪事件について聞いて、誰も話そうとしない。関係者が失踪した奴に聞いてみてもまったく口を割らなかった」
「情報屋とか使ってみる?」
「俺の沽券に触る。自分で調べれば出る情報をなんでわざわざ金を払って、しかも人間から聞かなきゃいけないんだ」
「今日はよくしゃべるね」
僕がへらへら笑うと船江は大きな舌打ちをして給湯室に行ってしまった。彼の口数が増えるのは大体苛立っている時だ。
生憎、僕には視えないものを視る力もなければ超常的な事象に関する知識もそんなに多くない。そんな僕が今回のような八方塞がりの状態で出来ることは一つ。僕は事務所の棚の奥で埃を被っていた分厚いファイルを取り出し、それをゆっくりと開いた。
多摩川に赤い夕陽が沈んでいく。逢魔が時も近いこの時間に、僕はまた二子玉川に来ていた。今日はいつも事務所で着ているようなスーツではなくラフなパーカーとジーンズという出で立ちだ。人相が分かりにくいように深く帽子をかぶり、いつもはパソコンを見る時に使う眼鏡も持参した。肩から下げた鞄には護身用の秘密兵器を忍ばせているので、今日はあの呪詛に触れても多分大丈夫だろう。
船江は事務所で留守番だ。二子玉川に行く、と伝えはしたが適当にあしらわれたのでそのまま出てきた。多分帰る頃もまだ事務所にいるだろうから何か買って帰ってやるかな、なんて考えた。
「さて、と」
誰に言うでもなく、眼鏡の弦を押し上げながら喧騒の中でそう呟いた。今日の僕の仕事は希望の日の出について調査することだ。昨日ここでチラシを配っていたのだから、何か手掛かりがあるのではないか、と思ったのだ。調査の基本は足から、とは前所長の言葉だ。アルバイトとして下働きをしていた僕も数年前は都心から地方まで日夜駆けずり回っていたものだ。
懐かしい事を思い出しながら改札を出ると、遠目でも目立つ黄色いジャンパーが点々と散らばっていた。よし、今日もいるみたいだ。僕は極力目立たないように、普通を装ってそのうちの一人に近付いてみた。
「希望の日の出をよろしくお願いしまーす。世界をより良くする団体ですー」
チラシを配っていたのは大学生くらいの青年だ。気の抜けた炭酸みたいにのんびりした声を上げて道を行く人に手元のチラシを手渡していた。差し出されたチラシを通りすがりを装ってひったくるように受け取る。ちらりと相手の様子を伺ってみたが、特に何も言わずにまたほかの人にチラシを配っている。人の波に揉まれながらも、急いで僕は高架下に向かった。
いつも人通りの少ない田園都市線の高架下だが、今日も無人だ。少し上がった息を落ち着かせながら例のチラシを握りしめた右手を見る。大丈夫、今日はちゃんと対策してきたから呪詛があっても大丈夫大丈夫……。
一度大きく深呼吸をして、勢いよくチラシを広げた。何の変哲もないただのチラシだ。やや光沢のある表面も、何処にでもある印刷物としか言いようがない。そぉっと裏面を見てみるも、今回のチラシには呪詛の呪の字もなかった。配布しているすべてのチラシに呪詛を仕込んでいるわけではない、という事だろうか。チラシを受け取った相手に無差別に呪いを振りまくような代物ではないようだ。
とりあえずこれを事務所に持ち帰ってもう一度調べてみよう。丁寧に四つ折りにしたチラシを鞄に入れ、溝の口に帰ろうと振り返った途端。
「お兄さん、昨日ぶりですね」
「ひっ」
「やだぁ、そんなびっくりしなくてもいいじゃないですか」
いた。長い髪は結わずに降ろしているし、服装も地味なブレザーではあるが、確かに僕に昨日チラシを手渡してきた少女がいたのだ。気配もなく僕に近付いてきた彼女はけたけたと笑い声をあげながら話を続けた。
「ちょうど帰りがけに通りかかったら昨日のお兄さんがいたから気になって声かけちゃいました。ここら辺の人なんです?」
「あ、いや……」
「違うんです? じゃあ桜新町? それとも、溝の口?」
溝の口、と地名が出たタイミングで息が詰まった。少女はそれを見逃さず、へえ、と興味を持ったように笑みを深める。
「私も昔は溝の口に住んでたんですよ。今は一人暮らしのために二子玉川にいるんですけど」
「はぁ」
「あ、そういえば自己紹介忘れてた。ごめんねお兄さん、私山火さやって言うの。お兄さんの名前は?」
「僕は西……」
西萩、と名乗ろうとしてすんでのところで思いとどまった。もし、この山火さやと名乗る少女が術者なら、本名を握られるのは大変まずい。
呪う、という行為は呪詛をまき散らす以外にも方法がいくつか存在する。古典的な藁人形に五寸釘、なんてのは有名だが、それ以外に“名前を握られる”というものがあるのだ。
名前は魂の形を現す。触れられる形のない魂にそれぞれ固有の形を与えるものとして、名前を用いるという説が有力とされているのだ。つまり、名前を術者に明かせばそれは魂を握られたのと同義。精神汚染やら悪影響を及ぼす術なんて簡単にかけることができるようになってしまうのだ。
とりあえず簡単に言えば、術者に名前を知られるのはやばい。
「西、西園って言います」
「西園さん。西園さん、ねえ……」
咄嗟に思いついた僕の偽名を、山火さやと名乗る少女は口の中で何度も繰り返した。何かを僕に話しかけようとするが、その時彼女のポケットから最近流行っている男性アイドルの曲が流れてきた。
「あ……ごめんなさい、西園さん。私そろそろ帰らないと」
「いえ、気を付けて帰ってください」
「あは、ありがとうございます」
さやはスマートフォンをポケットから取り出して耳に当てながら笑う。通話ボタンを押す前に、そうだ、と声を上げてもう一度僕を見る。
「西園さん。今度はチラシ、燃やさないでくださいね?」
「! ……なんで、それを」
「それじゃ、さようなら」
立ち尽くす僕にばいばーいと明るい声をかけて手を振りながら、さやは二子玉川の帰宅ラッシュに飲まれていった。あっという間に姿が見えなくなるが、僕の頭には山火さやの言葉が離れなかった。
『今度はチラシ、燃やさないでくださいね?』
「なんでそれをあの子が知ってるんだ……」
人の来ない高架下でしゃがみこんで頭を抱える。ふと、鞄の中から変な匂いがするのに気が付いた。何かが焦げるような、鼻の奥を突く鋭い匂いだ。
「燃えてる⁉」
慌てて鞄を開けると、匂いの正体はすぐに見つかった。
護身用に持ってきた秘密兵器、事務所の棚の奥にいつも置いてある中で三番目に強い護符が、どす黒い燃えカスのようになっていたのだ。煙があがっているわけではないが、この無残な姿になった護符から嫌なにおいが立ち上っているのだ。
少ない知識しか入っていない脳みそをフル回転させて、現状の確認をする。あの少女、山火さやから何らかの術を受けたのか? それとも感知できなかっただけでやっぱりチラシに呪詛が仕込んであったのか? もしくはそのどちらでもなく、全く別人からの攻撃なのか? ここまで護符が酷い有様になる、ということはかなり強い術を受けたということだ。もしこれがあの少女の仕業なら、名前を知られていたらもっと酷い目に会っていたかもしれない。それこそ、護符が僕の身を守り切れないほどの呪いを浴びていたのかも。
そこまで考えてから急に周りの温度が下がった気がした。昨日の呪詛は船江が対象だったかもしれないけれど、今回は僕なのか、と。そんな考えに至ってしまったのだ。
……嫌なことは、美味しいものを食べて忘れるに限る。立ちあがって鞄を背負いなおし、今晩は絶対にカレーうどんを食べようと心に決めた。いつものうどん屋じゃなくていいから、とにかくカレーうどんだ。
そうやって空元気を発揮し溝の口に帰る電車の中で、日没後の暗闇に包まれた多摩川を車窓から眺める。ベッドタウンに灯る住居の灯りがちらついた瞬間、僕の脳みそは唐突に思い出した。
たしか希望の日の出の教祖、山火って名字じゃなかったっけ。
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