第四十三幕『泥舟』
胃の腑が持ち上げられるような、独特の浮遊感で目が覚めた。衝撃に咄嗟の受け身を取る。
靄のかかった頭がそこそこ物事の輪郭を捉えられるようになった頃、ようやくさっきまで見ていたものが夢であることを自覚した。
眠気を振り払って立ち上がる。どうも寝床から落ちてしまったらしい。寝相が悪いわけではない。体重がアンバランスなのである。
壁に埋め込まれた時計が、万年暗闇に閉ざされた洞窟に朝の到来を教えていた。
公安局機械化班、仕事の時間である。
「猫森さん、お久しぶりです」深く皺の刻まれた顔をさらにしわ寄せて老婆が挨拶をしてきた。見るからにかなりの年だが、全く衰えを見せぬその元気な様には感心させられるものがる。
「お久しぶりです。今日も元気そうですね、村上さん」
ベスが返事をすると、村上と呼ばれた婦人がひゃっひゃと笑う。
「そりゃあ元気ですよ。毎日ここで採れた野菜を食べていますからね。猫森さんもぜひ持ち帰って召し上がってください、ウミホタルのものなんか比べ物にならないですよ」
そうして、ほとんど抜けのない真っ白な歯で笑顔を見せてくるのだった。
ナカノ地下街に存在する大規模エリアの一つ、地下農園。人類都市シンジュクの管理する食料プラントウミホタルに対して異議を唱える集団が運営するものだ。
効率化と大量生産を実現するかのプラントに対してこの農園は栄養が充填された人工土壌ではなく、天然、または天然と思しき土を使い、種植えや収穫、手入れを全て手で行うことをその意義であると掲げていた。
生産量は決して多くはないものの、ウミホタルでは不要として生産されていない希少作物や、食文化に重きを置く一部の界隈では根強い人気を誇っている。
複合組織高田ノ園と関わるようになり数ヶ月が経った。年々平均温度が下がる夏はいつぞや、もうすでに秋の初めとなる。
ベス扮する猫森令嬢は多額の資金援助の代わりに名誉会員としてその慈善事業に度々加わるようになっていた。多額の資金は公安局から払われたものだが、これを知ればシンジュクの市民が黙っているわけがないだろう。かなりグレーな潜入捜査となっている。
高田ノ園の活動は始まりこそ
事実名誉会員として巡った現場は研究者同士の交流会や彼らによって開発された技術を応用した仮設住宅の公開に始まり、災厄ホームレスへの無償配給、その子供達への学びの場の提供など、実に分野の幅広いものであった。
我々の目に映ったのは、大多数の知らない不運な人間の苦しみであり、高田ノ園とは、そうした政府の見えない隙間を尽く埋めるような存在であることだったのだ。
「さぁ、行くわよ」
不恰好な作業着姿の上に、腰まで覆った胴長靴を着たベスが言う。軍手まで着けてやる気が感じられる姿だ。
公安局での業務―即ちアンドロイドの排除―の傍、僕らはこうして慈善事業の補助として彼らの活動に頻繁に参加しているのだった。今日は地下農園で開催される古代米の田植え大会に来ている。高田ノ園に身を寄せる人々、特に未だ幼い子供達を対象としたものだが、その子供達よりもベスの方が浮き足立っているように見えるのは気のせいだろうか。
「了解」
太陽を模した光源の下、決して狭くはない空間に広がる土を踏み進む。少し歩いた先に、水を張った田があった。
二十人いないかくらいの子供たちの前に指導員らしき人物が立つ。そうして、前時代まで存在した米食文化の歴史、そうして田植えそのものについて説明しているのだった。
実にのどかである。
これも業務のうちだということを忘れてしまうくらいに。
マスクの中だと思って大欠伸をするついでに横を見やると、ベスが熱心に米の品種改良について聞き入っているのであった。
この潜入捜査を始めて以来僕はベスの意外な姿に度々驚かされるのであった。
他人と接すれば気さくに付き合い、話をされればこれを真剣に聞く。普段の冷徹と皮肉の混じった態度には似つかわしくないくらい彼女は他人の生活に対し興味を示し、まるで憧憬を含んだ眼差しでそれらを眺めるのである。
『幼少期から諜報員として生きてきたらしいぜ』いつぞや聞いたクルードの言葉が蘇る。もし本当にそうだとして、全て演技だと言って終わりにできるのだろうか。
エリザベータという人間を、理解できずにいる僕だった。
説明が終わり、子供達が緑色の苗を手に泥を進み歩く。温かいだの、沈むだの元気な声ではしゃぐ彼らとともにベスが器用に田植えをしている姿を僕は眺めていた。
そう、今日はこれだけで済むはずだったのだ。
亜なる者達 尾巻屋 @ruthless_novel
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