水入らず
休日の午後の、穏やかな時間が好きだった。
千歳が家の仕事をしている横で、明は子どもを膝に乗せて鼻歌を歌っている。
「いたたっ、こら」
頬を引っ張られた明が仕返しに幼い息子をくすぐり、きゃあきゃあと高い笑い声があがった。子を抱きとめる彼の腕に危うさはなく、眼差しに優しさが滲んでいる。
「お茶でも入れましょうか」
子どもにひっくり返されては困るので、少し離れたところに盆を置いた。楊枝で羊羹を一口に切り分け、身動きが取れない夫の口に放り込む。
「うまいなこの羊羹」
「でしょう? 貰いものです。父から」
「食道楽やもんなあ、お義父さん。今度また顔出しに行こか」
もう一つ、と乞われて差し出すと、幼子が目敏く手を伸ばしてぐずる。明は苦笑しながら、小さい手を押さえて「まだ早いわ。あと3年は我慢しい」などとあやしていた。その口調は穏やかで甘い。
そういう二人の姿を見ていると、千歳の頬も自然と緩む。
明が幼子からこちらへ視線を向けた。千歳の顔を覗きこんで首を傾げる。
「なんか今日は機嫌ええな」
「いいえ。ただ、自分の目利きも捨てたものではなかったな、と」
「ふうん? 何か
千歳の発言を素直にとらえたらしい。基本的には心の機微に敏い彼だが、今回は鋭さの欠片もないとぼけた問いが返ってきた。
曖昧な返事で流すと、特に追及を続けることもなく夫は手遊びに戻る。発言の含みには気づいていない様子なので、そのまま置いておくことにした。
これが夜二人きりで過ごしているときになれば、今のは何か、どういう意味か、としつこく尋ねられるのが予想されるので、わざわざ藪をつついたりはしないのだ。
彼はこちらが辟易するほど言葉を欲しがる。もう、言葉や物で必死に繋ぎとめるような
どちらかといえば飄々として余裕のある振る舞いをする夫は、実は未だに始まり方を気にしている。
結婚を決めたあのときは恋情はなく、互いの打算で手を取った。そのときの求婚の文句があんまりにもあんまりだったものだから、二人で暮らし始めてから、随分丁重な扱いを受けて驚いた記憶がある。
今思えば、夫婦としての義理や情け以外の何かをつくり上げようと藻掻いていたのかもしれない。様々な口実をつくって土産を買ってきたり、酔ったふりをして甘えてきたり、と距離を少し詰めてはこちらの様子を伺っていた。
ちなみに千歳のほうからすれば、明のそういう可愛げのある部分や面倒くさい部分が年々見えてきて、それが嫌でないのだから、既にこれは情だけではなく。
出会った当初は、自分の選択に迷いがあれど、もう飛び込むしかなかった。結婚してから手探りで少しずつ分かりあって、心を許して、家族になっていった。
「ほんま、そっくりな顔やなあ」
「そうですか?」
「鏡見てみい、目元が同じやから」
我が子に触れる手の優しさを見ていれば、自分の目に間違いはなかったと思える。
子どもを先に寝かしつけて晩酌を始めてから「そういえば昼間のは」と切り出された。
まったく鈍いのか鋭いのか分かったものではない。否、基本的には鋭いのだ。我が子に注意を向けている間は、少し気が緩んでいるだけで。
その期待交じりの表情から、答えはすでに察しているのだろう。分かっているくせにそれでも聞きたいと強請るのだから意地が悪い。
さて、直截に想いを伝えるのは未だに照れが勝つ。それでも二人きりのこのときぐらいは、と酒を呷った。……素面では、とてもとても。
「忘れたんですか、私の目を品定めの目だと言ったのは明さんでしょう?」
貴方のことですよ、貴方でよかった、と小さな声で告げて次の言葉を待つ。
酒には強いほうだ。千歳も明も。
少なくとも、これぐらいの酒量で耳が朱に染まるわけはなかった。
夜とかんざし 土佐岡マキ @t_osa_oca
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