第13話 観測者 5.

山へと続く暗い道を、白い息を吐きながら、僕はあてもなく歩いている。儀式を明日に控えた森に刑吏の姿はなく、静まり返っていた。

月食はあと十年以上後のはずだ。教団の観測者が、わざわざ自分たちや教皇まで危険な時期に儀式を行ういわれはないのは知っている。ラゲリの前で会った首が曲がらない女と、天文学者と、前任の総督という男がやけに気になった。


不規則に並ぶ氷の柱は水滴で濡れ、透明な側面になった側面に中の人間がぼんやりと浮かび上がっていた。柱と柱の隙間に、氷に覆われていない黒い影が見えた。総督カザン。

今夜、処刑はないはずだ。不用意に驚かさないよう、ゆっくりと近づく。


総督はいつもの鉛色の外套を羽織っていない。上はシャツ一枚で、顔も、筋の浮いた手も、首も、同じように蒼白だった。片手を氷に手をつき雪の上に座り込み、銃はいつも通り腰に提げている。異様な姿だった。

「総督」

真横に立って声をかけると、彼は恐ろしい力で僕の外套の裾を掴んだ。

「サンテ、柱、柱が……」

「一体どうしたんだ」

彼は首を振り、うわ言のように繰り返すだけだった。

「とにかく、そんなとこにいたら風邪を引くだけだ。ほら」

僕は総督の腕を掴んで立たせる。ズボンが雪でずぶ濡れだった。

「誰が密告した」

総督は僕の裾を掴んだまま、そう言った。

「何のことだよ」

彼は一瞬怯えた目をして、段々といつもの表情に戻った。それから自分の右手に視線をやり、慌てて手を離す。

「大丈夫か」

艶のない黒髪を掻き乱して、彼は深いため息をついた。


僕たちは処刑台の上に座って、何も言わず、煙草の煙だけを吐いていた。彼の服の裾からはまだ雪の滴が滴っている。脱ぎ捨ててあった、執行部隊の外套を肩に羽織って、総督は呟くように言った。

「学者さん、教団が認めている学問は何と何だ?」

「天文学と地質学」

「昔はもうひとつあった」

「芸術か」

彼は疲れたように笑った。

「それがなくなった理由を知っているか」

僕は何も言わなかった。


「前の儀式のとき、教団が重用していた画家が反逆を企てた。俺の前任の総督を殺し、儀式を混乱させて、教皇に責任をとらせて生贄にしようとした。だが、敬虔な信徒の密告により、計画は事前に暴かれて、画家は処刑。儀式では予定通り生贄の子どもが死んだ。密告者は働きが評価され、本人たっての希望で天文学の研究員として教団に来た登用された」

月食の直前にあったできごとだ。僕と父は、画家が氷の柱に変えられた日の夜明けに集落へ降りたはずだ。

「画家の名前を、知っているか」

僕は知っている。かつて吹雪の荒ぶ中を父と訪れたとき、そして父が死んでひとりで来た今、何度も聞いた。


「カザン――、父親と同じ名前か」

濁った緑の瞳を歪めて、彼は頷いた。


「親父を処刑したのが、前任のハルデンだ。俺が十六になって、親父が死んだ後も集会を続けていた反逆者の残党を一斉に告発したとき、奴らを処刑したのも」

煙草から灰が落ちて、雪の上に芋虫の死骸のように転がる。

「反逆者を殺し続けて、いつか離任して、そして死ぬ。今までの奴らと同じように」

「何をしたって同じだ。僕たちはここで生まれて、生きてる間凍えて、ここで死ぬ」

カザンは祈るように目を閉じた。

地平線が刀身のように輝き、太陽が白く凍る。この土地の夜明けだ。


地面が大きく揺れた。森の向こうの砲撃ではない。総督が立ち上がり、僕も立ち上がる。いくつもの銃声が聞こえてきた。木々の隙間から執行部隊の人間たちが必死の形相で走るのが見える。その先を、更に速く駆けるふたつの影があった。


足をもつれさせながら走る、白い服を纏った十三くらいの少年。髪と同じ鳶色をした瞳は恐怖と焦りに見開かれ、頰が赤い。生贄の子どもだ。その手を引いて、走る黒い服の男は――

「ハルデン!」

カザンが銃を上げ、爆音とともに火花が炸裂した。ハルデンの影が大きく揺らぎ、重心を崩して子どもと共に雪の上に倒れこむ。殺した、と思った。

彼は素早く立ち上がり、まだ体勢を直していない少年を引きずって、また走り出した。

ふたつの影が遠のいていく。 総督が獣のように身を震わす。


「ハルデン、あの野郎、反逆しやがった……」

白い息と共に憎悪のこもった声で、彼は低く吐き出した。

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