第6話 預言者 1.
冬の湖の中で回転する水車のように、冷たい空気が肺を切り刻む。
溶けた雪でぬかるんだ道はひどく登りづらい。
背後で大きな音がし、俺を振り返る。足を滑らせたのか、下方で黒い防寒着の男が雪に左手をついて倒れていた。手首には巨大な麻袋の乗ったソリの紐がかかったままだ。男は片手で身体を起こし、言った。
「大丈夫だ、行こう」
「別に、大丈夫かなんて聞いてないけれど」
男は痛みを堪えるように笑った。立ち止まったせいで汗が冷えて、肌寒い。雪の渓谷にそびえる、異端者たちの氷の柱が遥か下に見えた。
男はいつも間にか、俺の隣を歩いている。
「どこまで行けばいいの」
「もうじき地質学者が観測所に使っていた小屋があるはずだ」
ソリが土に噛みついて止まり、男はまた転びそうになる。手伝おうか、と聞きかけてやめた。もうすぐ暗い森が途切れる頃だ。
視界が開ける。遮るものをなくした陽の光が、雪原に乱反射して一斉に目を射抜いた。思わず立ち止まると、男が影を作るように進み出て、不格好にまた歩き始める。俺もその後に続く。
小屋は半ば埋もれていた。男はソリの紐を外すと、左腕だけで扉を塞ぐ雪を退け始める。その雪に小さな赤い点が降るのを見て、俺も鏡、やみくもに手を突っ込んで冷たい白い壁を掘った。男は弱々しく微笑んで、ありがとう、と言った。こいつがよく俺を誘拐できたものだ。
一面の白から塗装の剥げかけた扉のこげ茶が見え、俺たちは蹴破るように押し入った。小屋の中は外と変わらないほど冷たい。ずるりという音がし、男が押してきたソリが雪を巻き上げて、飛び込んでくる。
男は扉を閉めると、暖炉に火が付くか確認し始めた。俺は部屋を見回す。湿気た紙束に、用途のわからない機材。簡素なテーブルに文字の書かれた木の板が並んでいる。グルダニ、ハロウェイ、サンテ。名前のようだ。
「ここで死んだ、観測者たちの墓標だ」
男は背を向けたまま、そう言った。薪が濡れて、火がつかないらしい。
「君の名前は? 何と言うんだ」
ない、と答えて俺は墓標を掴み、暖炉に投げ込む。パチンと音がして、薪を舐めるように赤い炎が広がった。俺のことはみんなが「焔の目」と呼ぶ。
男は咎めるように俺を見たが、何も言わずに立ち上がった。
「歳はいくつだ?」
「十三、だと思う」
男はわずかに頷いて、防寒着を脱ぎ始めた。四十くらいだろうか。濡れた癖のある髪が、頬骨の浮いた青白い顔に垂れている。男が袖から腕を抜くと、黒い血が流れて滴が床の木材を叩いた。二の腕のあたりできつく縛った右手は打ったばかりの鉄のように黒く変色し、赤い裂け目にまだ新しい血がこびりついている。こういう止血の仕方は大きな傷も塞がるが、代わりに縛った場所から下を切り落とすはめになる。
「何で、俺を助けたの」
男は黙って、窓の外を眺めた。
「すぐ教団の奴らが追ってくるよ」
「大丈夫だ」
理由が続くのを待ったが、それっきりだった。俺は暖炉の前に座る。
「山は、どうなりそうだ?」
「だいぶ熱が広がってる。でも、まだ爆発しないと思う」
男はそれを聞くと、窓枠に身体を預けて煙草を吸い始めた。俺にも、と手を伸ばすと、男はただ首を横に振った。
俺は観測者の墓を薪替わりに燃える炎を見つめた。
目を閉じると、まぶたの裏に同じオレンジ色が広がる。生まれたときから、ずっと見てきた光。光は生き物のように脈打ったり、広がったり、震えたりする。
これが他の人間には見えないと知ったのはしばらく後だ。
そして、それがいつもラゲリの窓から眺める巨大な山の下を流れる、マグマの流れだと知ったのも。これが見える目を持った子どもは、山の火口に投げ込まれて、死ぬ運命だとも。
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