第2話 密告者 2.

無機質に続いた白が途切れ、一面に褪せた色彩で細かな絵画の描かれた壁が現れる。教団の者たちが暮らす、ラゲリと呼ばれる建造物だ。一巡すれば、救世主の生誕から悲惨な死まで、その生涯に纏わる不気味な逸話をすべて知ることらができる。

私は、その中の、青緑色のタイルの川に沈む男女の絵に触れた。あるとき、救世主は姦淫の罪で、路傍を引きずられていく女を見た。救世主はそれを引き止め、姦淫がなくしてこの世に生を受ける者はひとりもいないのだと諭した。その言葉を救世主自身の罪の告白だと思った敬虔なひとびとは、彼と女を殴殺し、死体を川に投げ込んだ。

月食に備えて、この絵のひびも修復されるはずだ。この土地で認められている学問は天文学、地質学、芸術。それだけが神の意志を知る行為だとされ、他は異端だ。私はラゲリの中で天文学に励む教団員たちが使う、望遠鏡やその他の機器の部品を作る工場で働いている。


工場の女子寮はラゲリのすぐ側にある赤褐色の平坦な建物だ。鉄条網の門をくぐり、重い戸を引くと、氷点下を超える外では干せない洗濯物が張り巡らされている。首を引っ掛けないように屈みながら通ると、ロープがたわみ、氷の塊が落ちた。

部屋に入ると、同室のコトヌーがベッドに横たわっていた。薪ストーブの燻る匂いがし、急な暖かさに肌が引きつる。彼女は顔だけをこちらに向けると、雪は止んでいたの、と聞いた。

「今はね」

コトヌーはそう、とだけ答えて、また枕に頭を埋めた。妹について訊く者は誰もいないが、私を気遣ってしないのは彼女だけだ。あとはみな、口にするのも忌まわしい不吉として沈黙を選ぶ。

妹と同室だった四十過ぎの女は、妹が拘束された日に空のベッドをシーツで覆い、元から資材置きだったように工場で置き場のない器具を山ほど乗せた。私たち姉妹を初めて見たとき、顔の造りは姉の方がいいけれど、妹の方がひとに好かれそうだね、と言った女だった。私は自分を美人だと思ったことはない。砂色の髪も緑色の目も陽に当てすぎたように色が薄く、右の目尻の下にある黒子のせいで十四の頃から寡婦のように見える。大人になってから、ますます父が肺炎で死ぬ前の姿に似てきたと思う。妹は、顔も性格も、この土地の人間にしては社交的だった母に似ていた。栗色の髪に私より色の濃い瞳。

教団に捕まるということは、密告されたということだ。よく笑い、夜明けと同時に工場へ向かうとき霜を踏んで歩くのが好きだった、妹を誰が売ったのだろう。


コトヌーは寝転んだまま、静かに言った。

「ディヤラ、もう今日の仕事がないなら、会報を読んでくれない?」

 彼女は二年前馬車の事故に遭い、頚椎を痛めてから、長く立っていることも俯いたままでいることもできない。仕事は天井を流れる機具のパーツを見上げている検品を任されているが、退勤後に好きだった本を読むのはひとりでできず、毎晩私が読み上げていた。


 空の端が黒ずみ始め、雪が降り出した。私は二重窓にカーテンを引き、マッチを刷ってランプを灯した。リンの匂いが亡霊のように充満する。私はコトヌーの向かいのベッドに腰を下ろし、枕元に置いたままの、事あるごとに教団が配る薄い会報を手に取った。彼女は眠っているように静かに聞いていたが、小さく口を開いて言った。

「いつもこの会報を書いている教団員を知っている?」

 私は首を横に振った。

「ずっと教団にいる老父よ。若いとき、妻と生まれてすぐの子を亡くして、信仰に目覚めたの」

 私は口を噤んだ。コトヌーが事故で失ったのは、自力で本を読む機会だけではない。子宮とその中にいた胎児。横転した馬車から救い出され、二度と子どもが産めないと知った彼女は、十九で結婚した夫と別れ、この工場に来た。そして、私も物心つく前にした大病のせいで、その望みはないことを医者から告げられている。コトヌーは微笑んで、言った。


「子どもがいないひとの方がいい文を書くのよ。だって、自分がいた証を遺すのに、親は子を育てればいいだけ。でも、それがない人間は言葉を尽くして語らなければいけないの」

「それか壁に絵を描いてサインを遺すか、ね」

 コトヌーは微かに笑ってから、急に身を乗り出した。

「そういえば、画家が訪ねて来たわ。話がしたいって」

 生前の妹と交流があった、ラゲリの壁画の修復屋のことだろう。理由を聞くと、彼女はわからないと首を振った。私も自分のベッドに潜り、狭い机の上の明かりを消す。暗い部屋に、屋根から落ちる雪の音が、斬首された頭が転がるように重く響いた。

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