第10話 興行主の自殺
一週間ほど格闘技を休んでから、軽く練習を始めるべく道場へ向かった。
ビルの地下へと続く薄暗い階段を下りると、汚れが目立つ鉄の扉が現れた。ノブを引くと鍵はかかっていなかった。すでに誰かいるようだ。挨拶をしてから靴を脱ぎ中に踏み込んだ。
「おう。枢名か。この前はお疲れさん」
佐上さんが道場の床に座り込み、漫画を読みながら菓子パンをかじっていた。
僕はお礼を言って更衣室に向かった。上はラッシュガード、下は短パンの練習着に着替えて練習場に戻った。
「ダメージはないのか」
準備体操をしていると佐上さんが話しかけてきた。
「ちょっと殴られましたけど、大丈夫だと思います」
「次は陸田と再戦か」
多分そうなるだろう。僕は陸田とは一度試合をして敗北を喫していた。あの一戦のおかげで随分と遠回りしてしまった。チャンピオンに挑戦するためには、何が何でも勝たなければならない。
「あんな変態野郎ぶっ殺してやりますよ」
冗談混じりだが強気な発言をしてみた。佐上さんも笑っていた。
次第に人が集まり出した。各々の準備体操が終わったあたりで組技のスパーリングを始めた。
相手を倒し、絞め技や間接技を極める。すぐに汗が吹き出してきた。広くはない道場内に熱気がこもってくる。
試合後一週間近く休んでいたせいか、どうも体の動きが悪い。いつもは勝てる相手も仕留めることが出来ない。次に打撃の練習に移ったが、スパーリングには参加せず、技術の確認程度に留めておいた。
練習後、佐上さんに呼び止められた。飯でも食いにいかないかとのことだった。僕は特に予定もなかったので行くことにした。
僕と同じ年の野田も加わり、三人で道場近くのファミリーレストランに移動した。
注文した料理を待ちながら、水を飲んだ。
「お前は独り言が多いな」
佐上さんにいきなり言われた。ついこの間、美雪にも言われたような気がする。
「そうですか。自分ではわからないのですが、最近良く言われますね」
「確かに、枢名は今日も練習前に一人で何か言っていたな。そういう人結構多いよな、電車でも良く見るよ」
野田が笑いながら言った。
一人でぶつぶつ言っているのか。傍から見たら危険な人間だ。気を付けよう。
そこで佐上さんは一呼吸置いて、話を切り出した。
「枢名、知っているか?」
「何をですか?」
「お前が試合しているHOH の社長、茂原さんが自殺したらしい」
HOHとは、「Heavn or Hell」という格闘技団体の略称だ。この間、僕が試合したときは健在で、会場にも来ていた。格闘技経験者ではないが、やり手で、それなりに収益を出していたはずだ。経営難の話は聞いていない。私生活に問題でもあったのだろうか。
野田の顔を見ると、驚いた顔をしていた。彼も知らなかったようだ。
「俺も驚いた。格闘技の興行もそれなりに上手くいっていたし、私生活でも問題らしい問題もなかったらしい。自殺しそうな理由はないってことだ」
「それならどうして」
「格闘技の興行っていうと、どうしても裏社会とのつながりが出てくるからな。それで殺されたのかもしれないな」
聞いていて心が沈んできた。格闘技興行と裏社会とのつながりは、噂程度には聞いていたが、僕は直接関わりが無いので良くわからなかった。そういう恐ろしいことには接点を持ちたくない。
「だから、興行がちゃんと開かれるかどうかもわからない」
陸田との再戦も、その先のタイトルマッチも無くなるかもしれないのか。茂原社長の死は悲しいが、せっかく努力してきたのに、先が突然亡くなるかもしれない不安の方が僕には大きかった。
料理が運ばれてきたが、味がしなかった。
格闘技興行の年間スケジュールは既に発表されているし、残った社員でやっていくことも可能だとは思うが、興行側の人達はどう出るのだろう。僕としては何としてでも続けて欲しい。
この間の勝利も消し飛んでしまう程の不安感を感じつつ、僕は家路についた。
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