第9話 マンホール女との再会

 東都大学の校内は広い。しかも、ずっと平地というわけではなく、校内は坂が多い。足に疲労が溜まっているときは、傾斜が恨めしい。僕の働いている建物はキャンパスの奥の方にあり、移動に多少の時間をとられていた。

 校内は古い建物と新しい建物が混在し、独特の情緒を醸し出していた。記念撮影している観光客も多々いた。心安らかなときは、記念撮影する気分を良くわかった。

 どこかで見た人が歩いていた。前に道路でマンホールを見ていた女性だ。地面に接していないかのようにふわふわと歩き、その場でしゃがみ込んだ。


「またマンホール見ているの?」


 女性が僕を見上げた。長いまっすぐな髪、大きな目と通った鼻筋。全体的に色素が薄い。現実の世界から浮いているような、美しい女性だった。この間見た、ファンタジーな夢に出てきた女性そっくりだった。


「前もマンホール見ていたよね」


「私はいつもマンホール見ているわよ」


「そうなんだ…」


「このマンホール、東都大にしかない特別なマンホールなんだって」


 女性が指差すマンホールを見下ろしてみた。東都大と書いてあって、確かに他の場所にはないであろう様相だ。


「マンホール観察が趣味なの?」


「いえ、そういうわけではないのだけど…」


 女性は苦笑しながら答え、立ち上がった。


「あなたは東都大の学生さんなの?」


「いや。働いているだけ。まあ、臨時職員ってやつかな」


「その目のまわりの痣は?」


「これは試合で殴られたんだ。総合格闘技ってのをやっているから」


 総合格闘技と聞くと、普通の人は珍しがって色々と聞いてくるのだが、この女性は「そうなんだ」と言って、少し笑った。笑顔の意味は良くわからなかった。


「マンホールでも見ながら、少し話出来ない?」


 女性から良くわからないお誘いが来た。

 疲れを取る為に練習は休む予定だったので、時間は空いていた。とりあえずこの女性と一緒に歩くことにした。


「俺の名前は高橋」


「私は佐藤。お互いありきたりな名字ね。下の名前は?」


枢名すうな。中枢の枢に名前の名」


「私は楽香らか。楽しいに香る、で楽香。お互いありきたりじゃない名前ね。からかわれたりしなかった?」


「まあね。枢名、タバコ吸うな。枢名、シンナー吸うな。とかよく言われたな。おかげでタバコもシンナーも吸う習慣はないよ」


「私は落花生って言われたりした。でもピーナッツ好きだけどね」


 ファンタジーな夢でも、この女性はラカとう名前だった。どういうことなのだろう。

 横眼で楽香の顔を見てみる。時たま足元のマンホールを見る為、視線を下に落としていた。まっすぐな髪もきれいな肌も色素が薄い。そのくせ妙に生命力を感じさせる不思議な女性だった。


「何でマンホールみているの?」


「裏側への入口を探していたの」


「裏側?」


 理解出来ずに僕は上ずった声で聞き返した。


「裏側。地球の裏側」


 楽香は笑顔で答えた。

 この女は本気で言っている。僕はそう感じた。おかしい人間なのだろうか。


「地球の裏側って、ブラジルとかかな」


 こういう意味ではないだろうと感付いてはいたが、一応常識人の受け答えをしてみた。


「いえ、そうじゃないの。そういうことじゃなくて、地球の裏側なの」


 やはり違った。適当に話を切り上げてこの場を去るのが得策だろうか。下手に刺激をするのは危険を招く恐れがある。でも、僕はさらに会話を長引かすようなことを言ってしまった。


「じゃあ、地球は丸くなくて、平たいということなの」


 楽香は視線を下にそらし、少しの間考え込んでいた。僕は言ってはいけないことを言ってしまったのかと、体を強張らせていた。


「わからない。地球が丸くないなんて考えられない。だって小さいときから地球は丸いって教わってきたし、地球が平らだなんて科学的にもおかしいと思うし。でも、地球の裏側は存在すると思うの。地球の裏側というか、あちら側というか…。うまく言えないけど」


「そこに行こうとしているの」


「うん。いきたいと思っている。いや、帰りたいと思っているのかも」


 僕は何か言おうとしたのだが、うまく言葉が出てこなかった。

 そんな僕を、楽香は少し寂しげに見つめていた。

 とてもきれいな人だ。しかし、とても危険な人かもしれない。

 テレビで流れていた、マンホールから死体が発見された事件のことを思い出した。この女性が関わっているのか?


「そういえば、ニュースでマンホールから死体が見つかったって言ってたな」


 取って付けたという言葉がぴったりになってしまったが、探りを入れてみた。


「あれは境界の番人の仕業かもしれないわね。あちらとこちらの境界付近にいるの。黒くて鋭い爪を持っていて、喉を切り裂くの。ニュースの人も、境界の番人に、喉を切り裂かれてマンホールに引きずり込まれたのかもしれない」


 僕は「ああ、そうなんだ」と気の抜けた返事をした。


「わたし達は、仲間でしょ。思い出した?」


 仲間? あのファンタジーな夢のことか? それとも別のことを言っているのか? ただの変な人なのか? 僕の頭は、疑問でいっぱいになった。


「また会えるわよ。わたし達はつながっているから」


 楽香はそう言って背を向けて去ろうとした。ぼんやりとしたその姿は、幻想的な感じがした。


「あ、でも、一応携帯電話の番号教えてくれる?」


 そこらへんは現実的な感じがした。 


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