第8話 ハエの餌作り

 次の日目が覚めると、美雪は既に着替えていて、仕事に出かけるところだった。


「もう少し寝ていたら?」


「寝ていたいけど今日はバイトだ。もう一日休みとれば良かった。行きたくない」

 

 僕の言葉に、美雪が可哀想と言って笑った。

 美雪と一緒に家を出て、バイト先の東都大学へ向かった。

 僕は格闘技だけでは食っていけず、やむなくバイトで生計を立てていた。色々なバイトを経験したが、現在は東都大学で実験の補助をしている。大学と聞くとすごく知的な仕事をイメージするが、僕がやっているのは、基本的に大して頭脳を使わない雑用ばかりだ。

 僕が働いている研究室は、四階建ての大きなコンクリート製の建物だった。歴史のある大学なので、建物は結構古めかしい。夜に見ると、少し気味が悪かった。

 職場では試合のことを色々言われた。負けたときは近付いてこない人々も笑顔で話しかけてくる。別に悪い人達ではない。負けたら話しかけ辛いのだ。

 ロッカーから白衣を出して着替え、仕事場へ向かった。

 遺伝子研究の為のハエの餌作りが僕の仕事だった。ハエの餌と聞くと、大概の人が「うんこ」を思い浮かべるようだが、実際は清潔な素材を使って、丁寧に作られていた。

 コーンミールや砂糖、寒天、小麦などを大鍋に入れ、水で溶かして攪拌させながら煮込む。ある程度温度が上がったら水で溶いたイーストを流し込む。そして軽く沸騰するまでさらに煮込む。沸騰したら火を止めて、防腐剤を入れる。これを入れると日持ちが良くなるのだ。

 このあと菓子の製造にも使用されている機械で、プラスチック製のバイアルに分注していく。機械からは二本のホースがのびており、片方は鍋からえさを吸い上げ、もう片方の先に付けたノズルから放出される。フットペダルを踏んでいる間、一定の間隔で機械は動き続ける仕組みになっていた。

 ラジオをつけ、聴きながら作業を開始した。フットペダルを踏みつけ機械が作動し始める。カスタードクリームのような液体が、ノズルの先から一定量放出され、僕はそれを手に持って並べられたバイアルに一本一本入れていく。大きな鍋の中の餌を千本以上のバイアルに分注する作業は、最初は気が遠くなったが、今では慣れてしまった。人と接する仕事が苦手な僕にはおあつらえ向きの仕事だ。

 ラジオからは流行の歌が流れていた。分注機は坦々と餌を吸い込み吐き出し、僕は黙々と手を動かす。格闘技の世界に身を置いていることが信じられなくなる様な、平和で平坦で平凡な時間だった。

 分注作業が終わり、餌を入れたバイアルを蚊帳の中に収めた。このまま一日置けば餌が固まる。蚊帳に入れるのはハエがたからないためだ。明日はバイアルに栓を詰める作業が待っている。そのバイアルの中にハエを入れて観察するのだ。僕の仕事は栓を詰めるまでだ。ハエを使って遺伝子の研究に使用しているだが、僕には理解出来ないし、理解しようとも思っていない。時給も悪くないので、生活の為にやっているだけだ。

 仕事の休憩時間には、大学の体育館に筋力トレーニングをしにいった。アルバイトだが、一応教職員扱いで、施設を利用出来るのだ。民間の大手スポーツジムほどではないが、それなりに設備はそろっている。この仕事のおいしい点と言えるだろう。

 筋トレをした後は学食で昼食をとった。学生たちの賑やかな会話の中で、一人黙々と食べた。

 昼食後は、後片付けなど雑用をこなした。今日も無難に仕事を終えた。

 仕事を終えて帰ろうとしていると、常波とこなみ教授が話しかけてきた。


「この間の試合は勝ったみたいだね。おめでとう。観に行けなくて申し訳ない」

 

 上品で知的な男性だった。年齢は良くわからない。若くも見えるし、年寄りにも見える。僕のことは気にかけてくれているようで、試合前の休暇など、色々便宜をはかってくれた。

「ありがとうございます。おかげで勝てました」

 僕は笑顔でお礼を言うと、職場を後にした。

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