こころの目の桜、、、そして、永遠の春
四月初めの某日、
慎一は、新年度早々の有給二連休、土曜日曜の休日に合わせた、その初日の遅い朝を、ひとり自宅で迎えていた。
妻の匂いが消えた空間は、人影も疎らな住宅街そのままの、寂しさに動けないような、無気力な
昨夜の内に作って置いたサラダと、子供の頃から劇飲している牛乳を、冷蔵庫から取り出し、ダイニングテーブルで朝食である。椅子の
……今朝、目覚めた時、、、
まだ、夢の続きを観ているような、ふわり浮き立つ心地が、慎一の手を引き、朝へ連れて来ていた。ひとりの空間に横臥して沈む、ひとりっ切りのいつもの朝は、今日に限っては、例外的に軽やかで、鼻歌のひとつも
焼き上がりを知らせる、小気味良い無機的なチャイムが、響く。が、想い出したように席を立った。玄関の鍵を持ち、若者向きの流線形のサンダルを、素足に突っ掛けると、焼きたてのトーストの香ばしい匂いが、慎一の後を追うように、重い扉の開閉を包んだ。鳴りを潜めて施錠し、廊下からエレベーターへ、長年の自制心は、まだまだ健在であった。エレベーターの
郵便受けに配達されているであろう、新聞を取りに、下まで降りて来たのであった。このマンションに自宅を構えて以来、身に付いた役目も、当然、ひとりになった自身の仕事である。トーストが冷めてしまっても、ゆっくり新聞を読みながら、朝食を摂りたかった。パンを焼く前に、そうすれば良さそうなものであったが、何せ実に久し振りの、食事作りなる作業、こんな単純な順序でさえ、暗い。今までの要領は、相手を過剰に意識し、波風を嫌う目的に縛り付けられた生活の、閉鎖的なそれであった。漸くその出口を見付け、常に出口が存在する、一方通行ではない、当たり前のひとりの道理、取引を、自由に行使したかった。波風は散り過ぎ、暗さもまた、気ままに移ろい、些細な事は見逃す事を許され、気に留めなかった。
三○二のダイヤルを暗証番号に合わせ、小さな扉を開くと、いつもの新聞が、三つ折りの裾を揃え、居住まいを正して披露目を待っていた。そんな見慣れた朝の挨拶を交わし、取り上げた。すると、、、床面にはまだ、一通の白い封筒が遺っている。
……やや大きめのサイズの、その封筒の表が上を向き、佇んでいた。切手が貼られ、消印に認められた白い
東京都目黒区ーー
周藤慎一様
……手に取り、裏面に返した。
周藤由美子、、、の文字が、、小さく、溜め息を
……言葉を発する気力が、瞬時で
みはると省子から、由美子との対面、その中身を聞き及んでいる。控えめな大人の女の、コアの
〈何等かの、意趣返し? ……〉
その不安に、息が、潜まる。
些事ではない。大事である。
〈どうあれ、出来る限り穏便の
慎一には、それしか、ない。
新聞と一緒に右手に携え、再び、エレベーターに乗り込む。郵便受けの扉は、しっかり施錠している。あえて抑えたひと呼吸の内に上昇し、三階で停止した。扉が
ダイニングテーブルの上に、ふたつの配達物を置き、ペーパーナイフを用意した。左手に納めた封筒を、利き手の
……既に、揺らぎが行き渡っている、その指先が、、戸惑う、、、その指先が、、揺らぎを自身の
それは、テーブルに向かって立ち尽くす、足下にも伝わり、満身の憂色は、食事どころの話に非ず、濃厚な陰影と連れ立ち、部屋中を
憂色の手を鬱陶しがる、慎一の指先、、、その手は、慎一の指先に触れたがっていた、由美子の、
〈……ぎこちない指先は、今度はカルマを、受け容れなければならない。逃げている場合ではない。
自らの深奥の囁きが
主流と傍流が入れ替わる、
〈双方を架け渡す自身が、その橋に怯え、躊躇するばかりでどうする? この橋を架けたのは、他ならぬ、自分自身ではないか? ……けりを付ける。自分自身に。他人の事が気になる、細かい目。その目を、自らの懐の、奥深くへ……》
いわずとも、顔に書いてある、顔を見ればわかる、その、想いを。盲目から目覚めた、その、想いを、、、。
これっ切りの想いで、漸く手にした封筒は、滑らかにもせよ、ひどく、冷たい。
そっと撫でるように引き出す紙の束が、そっと撫でられるように引き出され、面差しを見られたくない、ここでもやはりの
そして、
〈……引き上げざるを得ない、ストレートにそうするしかない、そうさせる予感を、、否めない、、、予感を、、確信に変えたい……〉
ひとりっ切りの、会話の必要のない、薄ら寂しい沈黙が、、、俄かに、そして、明らかに、、、異質の、沈黙に変容した、、、。
その予感は、
取りも直さず、まだ午前中であるのに、暮色染みた憂色の
その、折り曲げ重なる、裂け目のような微空間を、由美子の肉筆の整列が、塗り潰して
〈更に、、、もっと、、予感を、確信に変えたい……〉
予感。
その、現下自身の最大の投資材料を成す方の、一通を持ったまま、もう一通の、四枚の便箋と封筒を、テーブルへ置いた。掌中にある、内容が透けて見える程の、新聞同様、三回折り畳まれた、清白の薄紙の、その、裂け目に、、さっきから、目を剥きっ放しの視線の矢を、、、突き刺した。かくなる攻勢に観念する、投降の意思を速読したい慎一の、
予感は、
目に飛び込まれ、その目を疑う一方で、開封時からの明察に安堵し、かかる事実が、確信に至るプロセスを、この一瞬、ほんの一点に過ぎないタームに於いて、余りにも劇的な変貌を完成させた。正に、確信を得る所となったのである。その裏付けは、突然舞い込んだ、さるにても希薄な、淡白な一編の事実によって、予感を、儚くも終章へと
〈ただ、、、何かに、
間違いなく、もう、それは始まっている。
目に見えない潜行性の、複眼思考に
慎一は、ただ、喚び留められていた。
自身を喚び留めるもの、そして、喚び留める人が、あった。慎一の懐に触れんとして、手を延ばしていた。その手は、戸惑いを隠せず、春の空に棚引く雲の
懐かしい感傷は、そこから更なる道、喜びへの集中を立ち止まらせ、慎一は、それに納得したのだ。この手紙によって
〈……その人の、コアを、知っている、、その人の、コアを形成する一翼を担った自身である。喚び留められてしまったら、、、他に、どうすれば良かったのだろう? ……〉
立ち止まるしか、なかった。
納得するしか、なかった。
……こんなにも、突然に、、、
由美子の、想いの結実を見た。
ふたりである。
そして、、、
喚び留める人の、喚び留めるものが、もう一通、遺っている。
薄紙の表を内に、一回折っただけで、便箋の束と交換した。その、
横に三等分に折られ、衿元を
戸惑う者同士の馴れ合いが、互いの偏見によって成立していた、時間の長さが、
〈終わったはずなのに、忘れようとしているのに、なぜ? ……俺を喚び留める、、、立ち止まってしまう、、、やはり、俺は、弱いのか? だから、君には何も、、、いえなかったのか? ……〉
慎一の想念は、着実に進行している現実の時間に、この時、追い付いてゆけず、解離という、相対性の海を漂っていた。どっちが裏切ったか裏切られたか? ……中立を善しとしたい、曖昧さを
さるにても、
〈ただ、ひたすら、、空虚である……。こんなにも、空っぽになってしまった、いや、してしまった俺自身の行動に、哀切を抑えられない。本当に、、、空っぽになってしまった、、、ひとりぼっちに、、なって、しまった……〉
現実を受け容れ難く、あの、、、孤独の波濤が、、その、頂きの丈を
一個の人間としてのプライドは、人としての幸せを見据え、仕事に精を出し、それに耐え、責任を果たし、、
そこかしこに落ちている、喜びの芽に気付き、無抵抗に拾い上げ、スパイラルの糧として、その増殖を図り、結び付けたがり、それ以上の充実を求める。芽は、、積もる、募る、遺る、そして、、育っ。
たとえば、もしそこに、愛がなかったら、、どうだろう?
真逆の、負のスパイラル、、、。些細な事も気になる、嫌がる、許せない、個人主義の芽は育つが、喜ばしき芽は、儚く
〈……身勝手な偏見に埋め尽くされ、時間の自由は拘束され、無意味
慎一の、
忽ち、引き付けられずにはいられない、初見の視点が、序章からの、流麗な黒い文字に導かれ、彷徨い出す。左から、右、折り返して、、また、左から、、右、、、。
四枚分の往き来の意味が、仄かに、文脈のアトモスフィアを醸し始め、如何にしても、、果たして、、慎一を惑わす。仕事の、長年の
引き付けて置きながら、そっぽを向いて
その挙句、致し方なく、斜め読んでゆくのだが、最後の救いを初見に求め、目線を、書き出しに戻した。
〈……どうしても、、、読めない……〉
一枚目途中で、挫折した弁明は、、今尚、惰弱であったのか? ……。
連名の宛名。
周藤慎一様。岡野省子様。
省子と、、、一緒に読みたいと、想った。
……畳み直して、その便箋だけ、封筒に戻し入れ、薄紙と交換に、テーブルへ載せた。久し振りに、意識の命令系統を巡らせた、まだ目覚めたばかりの足取りで、薄紙を持ったまま、自室に入った。空気の抵抗に孕む白い
用意してあった牛乳を、グラス一杯だけ飲み、冷めたトーストは棄て、サラダは再びラップをして、冷蔵庫へ入れた。折角用意した朝食を、食べ損ねた。それでも、良かった。それでも、、、。
洗面所で服を脱いで全裸になり、バスルームへ飛び込む。
熱めのシャワーが、溢れそうで溢れなかった、やはり、
〈今、俺は、生きている! ……〉
事改めて、強く、そう想った。
悲しみの涙も、それを乗り越えようとする、喜びを求めようとする、熱い想いが掻き消し、忘れさせ、流そうとする。熱さは、冷たさを
こうしてシャワーを浴びるのも、朝食を食べ損ねて良かったのも、実の所、これから省子と、桜の花見のデートを控えているからであった。結局、省子の要求通り、お腹を
〈最早、、構える事なく、触れられもしよう……〉
温かな、祈りのように。
そして、その前に、この事実を受けて、ちょっと寄り道がしたくなった。しなければいけないと、想った。
……全身を洗うボディーシャンプーの香りに、更に目覚め、生き返ってゆく。自室の机の上で、ひとり留守を預かる、任を帯びた薄紙の、その、空欄が、記載の主を待ち侘び、戒慎を諭すように、白んでいるかも知れないだろう。
その、由美子側の、署名捺印が施された、行き着いた先の、、、離婚届の。
唐ヶ崎通り、東横線高架下、省子と慎一は、ここで待ち合わせていた。
ふたり共、自宅を出て、今、自転車を駆って、そこを目指している。省子の茶色い革製のバックパックには、手作りの花見弁当が、慎一のバックパックには、例の手紙が、それぞれ
たまさか、、、互いに、反対方向から近付いて来る、自転車のその人を、既に見付けていた。
申し合わせた訳でもなく、共に似たような紺色の、春物のジャケットを着て、省子は細身のホワイトデニム、慎一はブルーデニムの両膝を、上げつ下げつ送りながら、
〈やはり、、空腹か? それとも、、寄り道の提案か? 〉
何れ弁えの付かない、心地良い照れ笑いのまま、ほぼ同時に、合流地点に到着した。
「おはよう! 」
声を揃えるふたりは、、どこか、、
互いの口元を、上目
春は、ここに集い、自由の芽は、ここから始まると信じられもしよう、
「良いお天気ーっ! 花見日和だねえ! 」
「ううん、本当に……」
省子は、上がりっ放し伸ばしっ放しの語尾を
「省子……」
「
「提案があるんだけどさ」
「うん」
「ちょっと、ママの所へ寄って行こうよ」
「うん、良いよ」
「話があるんだ。ふたりに、聞いて欲しい……」
「ううん、わかった」
省子が先んじてペダルを踏み始め、その後に続く慎一である。省子の電動自転車の、人力一辺倒に非ぬ、伸び放題の出足の速さにまごつく、慎一を慮ったのか、半身のポジションを決め込み、前後に注意を払いつつ、ゆっくり進む省子。慎一は、その省子越しに、前方の注意を補うべく、先の視程を確かめていた。こんな都会の街中では、視程というには
慎一の、その視線の道筋を満たす、省子の髪の寛ぎが、そこかしこで煌めき揺れる、風に流れ、はたと
慎一はかつて、、このロードスポーツタイプの自転車で、良くひとり旅をしたものだ。
久し振りに跨がったサドルの硬さに、連れて来られた懐かしさが、時を経て今、省子を連れ、あの、目に焼き付いて離れなかった、悉くを奪われてしまった、山河田園の風景を、
〈……過去は、裏切らない、、、過去の上に、今こうして、俺達は、立っている。それが、、現実……〉
平日と違い、疎らなゆき交いの高架沿いの道を、二台の自転車が
舞い渡る
……ランチ時間帯の、営業直前である。
まだ、
「おはようございます! 」
ふたり重ね合わせた息が、いつもながらの午前の店内の気を、、潤す。本日一番乗りの珍客? に、目を丸くする女店主は、最早哄笑するしかない選択の余地を、隠せない。カウンターの中で立ったまま、時間を見計らう手を休め、ホールのテーブル上には、紺色の
「あら! おはよう。どうしたの? これからでしょ? 」
「うん」
を一致させたふたりは、その直後に続けて、
「そう! 」
の省子と、
「まあ……」
の慎一に、意見が分かれた。
畳み掛けた訳でも、圧倒された訳でもない、賑やかな挨拶に、開店数十分前の時間が、微動した。それも全て春の
さりながら、、、自身の、開口一番の意見の不一致に、捉われる慎一は、その輪の中に、参加し切れていない自覚を、そっと噛み締めていた。背負っているバックパックの中身の、その事実に、正直、喜んでばかりはいられない、責任が発生した、目に見えない負荷が、鍛えられた双肩に食い込んでいた。自身の発した「まあ」 という反応に、縛られてぎこちなく、今日のデートに水を差すかの如き、自身の不始末の溜め息の促迫を秘した。千切れて
〈一点のブレーキを、
それでも、、、和やかな華は、、開花を加速させ、誇らし気でさえある。時候の
「あの、、、ママ、、仕事中、ちょっと良いかな? 申し訳ない……」
「ううん、何? 」
「省子も、聞いて……」
「ううん」
「……実は、、、由美子から、、離婚届が、送られて来た、、、。妻の欄は、署名も印も、全て埋められ……」
「ええぇっ?! 」
みはると省子の重低音の喫驚が、、慎一の言葉の最後を呑んで、消した、、、。心底を叩かれ、孤影悄然たるを隠せない。春の喜びも、一気に消散せざるを得ず、沈黙との取引を、忽ち完成させるしかない。
そして、何れが掴まえたのか、掴まえられたのか、そんな事はどうでも良い、今更いわずもがなの、内観上の一線が、ゆくりなくも、慎一に助け舟を差し向けた。仄暗い逡巡へと、押し雪崩れそうな自身を、束の間の
〈俺の二の舞を、省子に、踏ませてはいけない。責任がある。省子の
慎一は、
そんな想像盛んなるまま、これから省子と、、春を、見付けに行こうとしている。それもきっと、、桜の笑顔綻び揃う、春のこころの
〈ふたり、、、生きてゆきたい。寂しさもいつかは、、喜びに、変わる……〉
若いふたりは、そう、想った。
そして、みはるも折り重なる、三人の祈りは、由美子へ、
〈いつかきっと、、変わる、、新たな愛に、巡り逢える……〉
ただ、信じたかった。
「実はね……」
みはるが、手元を見つめていた視線を、持ち上げながら、語り出す。
「昨夜、閉店間際に、、由美子さんが、、、お見えになったの……」
「ええっ?! 」
省子は立て続けに、慎一にとっては、今朝の手紙以来の再びの、共に二度目の、
さっきから、全身の硬さを排除出来ない省子は、尚も翳り、慎一とて、それに呼応するが如く、今朝の
ふたりの異口同音、、、念じるが如く。
〈たとえ何があろうと、それは、、春だから、、、良い事も悪い事も、、全ては、春の仕業、、、そう、言寄せすれば、済むはず……〉
「……『先日は、大変失礼致しました』 って、、その、、テーブルにある菓子折を添えて。目は、潤んでたけど、『私も頑張ります。本当に、、、どうもありがとうございました』 って……。由美子さん、綺麗だった、、、素敵な人よね……」
三人で、静かに、泣いた。
その、菓子折が、それぞれの目を洗う、祈りの
省子は、そんな慎一を、そっと、、抱き締めた。その、省子の、抱擁する温容、それでも芯の通る、むしろ毅然とした、負けない女の、気高い優しさに接したみはるは、省子の、「泣かないで……」 のこころを裏切る、自身の
過日、、みはるは、泣いても良いと言った、、最後に笑うなら、泣いても良いと言った、、それが、涙の意味と説いた。だから、、、今、こうして、泣いているのか? ……。まるで子供みたいに泣き
肩を震わせる慎一の揺らぎを、ふと、立ち止まる春の
これから、ふたりは夫婦になる。生涯を捧げ合う。省子の想いは慎一の想い、慎一の想いは省子の想い、こころは、自分自身の為だけのものではなく、それでもまだ、自分自身の中に
そして、その可逆性を芽生えさせる、ただ唯一の手段、それはいうまでもなく、愛である。愛を介するが故の、介してこその夫婦、家族である。人間関係、社会である。ひとりも大切、ふたりなら、もっと大切なのだ。本来の共同作業を、ひとりで成立させようとする行為は、最初から矛盾を建設する事であり、出来上がった建造物は、砂上の楼閣に過ぎない。愛しているから、結婚する。夫婦になる。ひとりでは、なくなる。共同の意識が、スタンダードと、なる。
……慎一は、漸く
かつて、、自身の部屋中を、探すように彷徨っていた、視線、、、窓の外の、雨を数えつ雪を追いつしながら、籠もって待つだけの視線は、省子のこころを見付け、尚も自らを重ね、是非もなく、それを透過する事によって、何ものとて見つめたい、、見つめようとしていた。内に細かく外に粗い、こころの網の目の、その、視線を以てして。たとえば、愛という自由が、、責任を見失い、プライドだけの優越なる盲目に、強か酔い
……可逆の桜は、ほんの一時自由を得て、かつての
今年もまた、、
逢いたい、、逢いたい。
元気だった。
生きて、いた。
また、逢える。
そうして、、、省子に宥められている折も折、慎一は、、ジャストタイミング? といおうか、不覚といおうか、
「もうお腹
とか、
「朝、ちゃんと食べて来た?! 」
とか、
みはるも省子も、口々に慎一を突っついて
冗談ではないにせよ、冗談になってしまった、その、腹の虫の理由を、
元に戻った店の開放区は、この時節、どこへ行っても同じであろう。それも、また、人の世の常である。
腹の虫
……揃って表に出ると、予想以上に眩しい光が目に集い、長居をしたがる。流れの名残りを惜しむように、まだ、乾き切っていない目元を確かめ合う、三人の微笑が、今度は、光を称えて映える隙間に、みな、物言いた気な、気
「周ちゃん。たっくさん、ご馳走になって来なさい! 見て! この、、重たそうな荷物、、、省子ちゃん、張り込んだなあ?! 」
「エヘヘヘヘッ! 」
してやったりの省子。
「行ってらっしゃい! 」
「じゃあ、行って来まあす! 」
岡野さん
省子も、そして、慎一も、みはるに送り出されると、
〈もう、、母が、恋しくて、、恋しくて、、
そんな事も、一度や二度では、ない。
過去といい
〈〝ありがとう〟 そして、こんな俺の為に、、、〝ごめんなさい〟 と、叫びたい。昔も今も、これからも、生き続ける母を、こころから、称える。あなたがいたから、今の幸せがある。今こうして、生きている。真に、大切なものを、与えてくれた……〉
それは省子とて、全く以て同感、片っ
親孝行。
親の願いを、叶える事。
健やかで、平凡で良いから、極く普通に、幸せになって欲しいという、親の希望、それを実現する事。世の中、普通だらけ。故に、押し並べて、平和。親孝行に、高度な困難は伴わない。ふたり共、まだまだ若いつもりでいるが、実際、おばさんおじさんと呼ばれる年齢になり、その事に、気付いた。何事にかかわらず、固定観念のハードルが下がってゆくのも、経験的にして精神的な、加齢現象の代表であろうか、それも、大切なもののひとつと、考えるのであった。生涯に亘る普通の幸せを得る。恩返しを、そう、位置付けた。上を見上げるばかりではなく、足下が、見えて来た。
省子は、ゆくりなくも、季節外れではあるが、、、幼なき頃の、クリスマスイヴの夜の情景が、彷彿とする、、、。
子供が寝静まったであろう、深夜、省子は寝た振りをして、時折
サンタクロースは、毎年、父と母であった。今にして想えば、、クリスマスは、小っちゃい子にもわかり易いように、愛を教える、おとぎの国の素敵な
子供時代、蒼かった時代から、歳月は流れた。ひと息で駆け抜けて来たような、多少の息苦しさが遺る感覚は、まだ若さの中に置きたかった。こうしてふたり、自転車を押して歩く後ろ姿を、みはるは、目を
「気を付けてね! 」
手を振る所作は、過熱した想いを冷ます、自己防衛であったのか。省子も慎一も、そのこころに理解を示す、笑顔の黙礼で応える。いつもながらに、、ただ、嬉しかった……。掌に温められた、二羽の
巡り逢ってから、まだ、一年も経っていない。にもせよ、、実に、こころが揺れたものだ。本当に、、色々、あった。多くのものを
〈今日の花見で、、言おう……〉
たった今、決めた、、、すると、不思議と、背中の荷物が、尚も重たく感じた。料理の上達も、みはるのお陰である。花嫁修業を、させて貰った。
「じゃあ、行こう! 」
脚を伸ばし、軽やかに自転車に跨がる省子に、
「OK! 」
遅れじと、慎一もサドルに腰を預け、、駆る、、、。
真夏の、強烈な日射しに非ぬ、是非もない、中庸たる春の陽光に、衆生の共感する所の、甘い感動を探す道ゆきの、その、旅立ちである。桜の、、人情の機微に、あり触れたその手を延ばす、互換を想わせ振るにせよ、
目黒通り、目黒郵便局前交差点を目指す省子の後を、慎一は追走する。省子の日々の通勤ルート、唐ヶ崎通りではない。
幸運にも青信号で、そのまま目黒通りを横断した。が、郵便局の角の駐輪スペースで、省子は停止した。すぐに慎一も追い着いた。交番前で
省子は、辺りを見
「やっぱり、今日は人も車も多いね」
「うん。やっぱり今日が、花見のピークだよな。それにしても省子、、荷物重くない? 前カゴに入れた方が良いんじゃない? 」
「大丈夫、平気! 」
「なら良いけど……」
「電動チャリだもん、楽ちん! 慎一さんは大丈夫なの? お腹は……」
「大丈夫だよ」
「ね、五反田に着いたらさ、速攻で食べようね! 」
「うん! 」
際限なく
「この次、左斜めに入るよ! 」
図書館前歩道橋通過直後、コンビニ手前左折の、慎一の予想と符合する、まだ一度も通った経験のない、
省子が、斜めに分け入るように折れ進むと、慎一も続く。正に、生活道路をゆけば、秘し切れない足音や食べ物の匂いやらが、家々の窓からふたりを掴まえそうな、ありのままが、静かな通行の責任を訴える、この地域のアトモスフィアを形成している。それは、慎一の地元、下町に代表される、過密都市東京の、日常の顔であった。初めて通る道なのに、どこか懐かしい風情が、忽ち、、慎一を和ませる。そんな想いを知るように、ゆっくり巡る省子の速度は、道の狭さに相応しい。併せて、
〈……桜の、、息吹きに抱擁され、、今の自身の素直な想い、ストレートを大切にするも、それだけに非ぬ、それ故の、、多様性を是認たらしめる、こころを、、重ねたい、、映して、、それも、知りたい、、夢のひとつだった……〉
ふたりは、想い描いていた、その、実現の道ゆきを、今こうして、ただそれだけを浮かべていた。伴侶と
人は、桜の花影に、自らの成長の跡を見る。
その人の世代観に、桜の面影は、移ろう。桜は、生きている。幼ない桜とて、やがて、熟す。そして、散る。当たり前を良く知らない当たり前は、いつか、当たり前を知り、当たり前の熟した存在となるも、何れどうあれ、当たり前の如く、静かに、散り失せる。盛んなる燃焼は、一点。一点の、微細な時間でしか、ない。
……今は、、どうせ。それでも、さるにても、、どうせ。どうせそれならば、折角の時間を、ひとつやるからには、いっそ燃焼させようか。遠慮しないで、気持ちを込めようか。
左手に展がる、森の緑の
省子は、とにもかくにも、母という存在に対し、憧れが強い。愛に溢れる家庭の真ん中で、潤むような手を差し延べる、そんな自身を、夢見る。真澄とみはるみたいに、なりたい。故の同居願望、加えて、みはるへの
しかるに、折しもの風が運ぶ、押し黙らせようとする、それを自身も納得する、甘い約束を諭される心地は、何だろう? ……。強からず弱からず、掴めそうで掴めず、指と指の間を
左手に流れる風景は、小山台小学校の
「ハァ、、、ここまでで、大体半分かな? 山手通りまで、真っすぐよ」
「うん。この通りは、車で何回か通ったけど、それにしてもさ、、省子の通勤の愉しさがわかった! 良いルートだよなあ……」
「でしょ? 」
「うん。健康的だ、羨ましいね」
「ふふん、良いでしょ。下りに入ったらさ、ゆっくり往くけど、、危ないから、後ろを振り返らないからね」
「うん」
「上ばっかり、見
「うん」
「本当にわかった?! 」
「だから、うんって! 」
「ハハハハハ! 」
ふざけ合い笑い合う、省子と慎一の往かんとする先、小山台一丁目信号、かむろ坂の下り口が、もっと向こうへ往きたいように、、薄紅のアーチを拵え、信号に、
慎一は、黙って眺めていたが、省子から離れてゆく、その、煌めきを追うまでもなく、虚空を
〈……何事も、それで良い、そのままで良い、それだけの事、、、余計な事は言わず、黙って見ていれば良い。何事も、、それで良いのではあるまいか? ……許してしまえば、、許すしか、見逃すしか、、ないのではあるまいか? ……〉
桜の美しさを
〈また、、別の機会に委ねても、構わない……〉
慎一は、、やはり、新居の件の不安があった。省子の意見を、聞かねばならない。省子は省子で、、例の、同居を提案したい。慎一を、説得しなければならない。何れにしろ、当然、新生活に関する話に、集中せざるを得なかろう。
しかしながら、それも正しく、由美子の
〈言いたい事も、今日の所は、そっと呑み込むに
ふと、、
つい今し方の、花屑が舞い踊らんばかりの、時ならぬ一陣の風が立ち、時の今を知らせ、、明らかに、今が、どこかへ、、雪崩れようとしていた。
省子も慎一も、漸く、ここまで辿り着いた。やっと、ここまで来た。事実、長い時間を、費やしたのかも知れない。さりとて、長い時を掛け
〈遠回りを、して来たのだろうか? ……したのかも、知れない。それで、もう、仕方ない。往ってしまった時間は、、戻らない。過ぎ去ってしまっても、、最後に遺った、、、愛の、欠片、、、それでも、忘れられなかった、、、想い……〉
十指に余る、言葉に出来ない後悔とて、ある。幾度も見送り、どれ程の沈黙の涙とて、ある。多くを失い、疲れもした。寂しさと、共にあった。さらでだに、棄て切れぬ、、思慕の情が、、かかる今であろうと、こんな自身であろうと、何ものかを作りたがる。日々の生活に忙殺され、目
〈たとえ、どんな事があっても、過去に手向ける謝恩は、嫌みなく素直に、今という時を称えもしよう、それが、、愛、、、今を生きる自分自身よりも、無論、他者とて、称えられる。共に、生きている。なれば、許せる、信じられる、きっと、わかり合える、そんな日が、来る、いつか、、、やって来る……〉
遠回りの果てに咲いたかの如き、桜の微笑は、在りし日の、往ってしまった記憶の、一抹の寂しさを連れ、けれど、、今に遺した愛の欠片と、
小山台一丁目信号、その、赤の表示に、ふたりは停止した。
頭上から、、光を蓄えた
青に変わった信号で、走り出す省子に、追従する慎一。
誘われるままに、、さっきの省子の言葉を想い出し、、上目
柔らかな
そこから
桐ヶ谷通りを跨ぐ信号は、青、、そのまま通り過ぎる。
ふたりは、遅れ馳せながら、念願の、豊饒たる今を見付け、こころゆくまで
桜の専心は、火をも注ぐが如くのはずにもせよ、薄紅に色を成すに
桜を、観よ、、、。
それでもの想いを、抑えに抑えた中庸、自らの情と
桜は、美しい、、、。
何よりも美しく、ただ、美しいまでに、儚く、、、さればこそ時は今、凜として、真っすぐ一本、咲いて立つ。
そこかしこに
薄紅に微笑む、シースルーに囲まれた、愛する人の、、笑顔があった。
いつまでも、
この、幸せな愛が、、、
続いて欲しい。
暖かく柔らかい、浮き出して目に見えて来そうな、立体感のある風が、、
衆目の
山手通りが見える。
それは、今日の旅路の序幕の詰めが、眼前に迫り来るを以て、
それでも、さるにても、、愛する人と眺める桜は、、格段に美しい。省子にとり、かくの如きかむろ坂は、初めての、今までとは異次元の、美への接近、正しく異空間体験であり、慎一と、軌を
かむろ坂下交差点、人波が沸騰している。
時下の直進青信号に従い、山手通りを横断しなければ、自転車ごと呑まれてしまいそうである。東急目黒線《
歩道沿いに立ち並ぶ、露店の
ただ、、、殊に、省子は、
滴るようなある想いを、
漸く人波が途切れて来て、省子は、
「私、、こんなに綺麗な桜、、初めて……」
「俺も……」
「慎一さん、、、幸せ? 」
「幸せ、、、
「私も、幸せ……」
跨がったままである。けれど、、、
はたと、消えてしまうかも知れない、愛の素顔が、ふたりを揺さ振った
省子と慎一は、風の如く風に乗り、風となって駆け降りるひと時を、ただ
幸せとは、、、自由を遺す事。
大きな自由を生かす為に、小さな自由を犠牲に供する事。なぜなら、小さな自由は、積もり積もって大きな自由を
プライドなる、とかく
たとえば、憎しみを、恨みごころを宿した時、あるいは、自己管理のままならぬ矛盾が、虚勢を欲しがった時、それは、立ち止まってしまうだろう。こころの平和の芽を、見逃してしまうだろう。幸せという自由を、遠ざけてしまうだろう。生きている以上、寛容なる可能性を、放棄してはいけない。人に対する責任を忘れ、他者だけでなく自身をも裏切り、悉くを閉ざす行為に等しい。忌み嫌う為に、噛み付く為に、孤独に絶望する為に、生まれて来たのではない。ただ、、、自由を信じるという事を、諦めないで欲しい。切に、そう願って止まない。
自由を育てる。限りなく広大な、果てしなく続く世界が、、遺る。
……努力が報われる事を知らない、半ば諦め、無駄だと想っていた、かつてのふたりの無言は、冷戦を
桜は、小さな自由を犠牲にし続け、死んだように静まり返り、黙殺するしかなかった夢が、、今、大きな自由の花を咲かせ、ここに、、生き返った。死んだ意味を、、知っただろう。あの頃、あの時、そして、、あの、、、死ななければ、今は、ない。さればこそ、今が、ある。
非寛容な自由を殺し、生まれ変わった大きな自由は、たとえば、愛、、あるいは、幸せと巡り逢う。他に寄り添い、
桜は、人ひとりのものではない。されど、人ひとりの為にも、咲く。人ひとりが寄せ集まった、人々の為にも、分かち合うように、咲く。和を以て
自身の
……山手通りに別れを告げ、市場橋を渡り、山手線のガードを
省子にすれば、通い慣れたコースをふたり、省子の会社を目指して、依然縦一列を成し、急がずのんびり膝を回す事に、何等変更はない。橋を渡る時、目黒川の
省子にとり、日常的な風景であるにせよ、今の池田山の風情は、目移りする程の、光に、溢れていた。学大同様、地元意識を憚らない、見慣れた街並みが、微笑み掛ける。社内の省子のデスクと、目線の高さが同じ、この通り沿いの盛り土軌道上を通過する、山手線車内の乗客達の表情が、どことなく愉し気に映り、走行音とて、歌うように軽快に刻んで聞こえる。その、遠ざかる響きが、休日の五反田駅前の
どうにかこうにか、会社前に到着した。サイクリングの往路を、締め
一階エントランス横の、当ビル入居者専用の、省子も出社時に必ず利用している、大型車一台分程の広さの駐輪場に、二台並べて駐めた。他の通勤自転車、オートバイ等の二輪車はなく、存外にひっそりとした、休日の会社の様子に、省子にはひと
「ハァァ、、、やれやれ、愉しかったねえ。慎一さん、大丈夫? 」
「大丈夫さあ。省子は大丈夫? 平気? 」
「全く、問題ないな! 戦う女だから! 」
「戦わなくて良いよお! おっかないなあ」
「私の口癖知ってるでしょ? 」
「うん。『許せない! 』 だろ? 」
「でもねえ、、、許す! 許してあげるね」
「そりゃありがたいねえ、アハハハ、、、漫才だな」
「ウフフ、下らない冗談で笑い合うのが、一番良いでしょ? 」
「そうだなあ。じゃあ、二番は? 」
「一番も二番もない! 」
「俺もそう想うよ」
「欲張りかなあ? 」
「それで良いんだよ」
「そうだよね……」
一番も二番も、ただ、伴侶の存在があれば、ふたりなら、それで良かった。それしか、ないのだから、、、。互いのさり気ない手が、さり気なくその手を探し当てるタイミングの一致を、しっかり掴まえるように手を繋ぎ、五反田駅方向へ、
信号が、青に変わる。
弾き出されるように、桜田通りの長い横断歩道を、闊歩して踏破すると、その角に設置された駅前交番内の、
階段を降りると、繁華街である。とにかく右へ、右方向へ省子は慎一の手を引き、往きたい、、そこを目指していた。会社の同僚達と、食事等でしばしば訪れる、
路地裏を抜けると、、、
清潔感溢れる、落ち着いたアプローチを控える高層マンション群の、
〈たとえ、騙されても、、、構わない……〉
ただ、春であった。ふたりは、どこまでも春を連れて、、歩いて来たのであった。芽ぐみ兆した自信を、桜に、見た。
その時、、、
俄かに、待ち兼ねたように視界が展け、、最後に辿り着いたかの、守られた辺境たらしめるらしい、一風違った物遠い小景と、遭遇した。
……シンプルな親水公園のありようが、相次いで現れ、、慎一は、偶然見付けた案内表示の立て看板に、ここが、《品川区立 五反田ふれあい水辺広場》 である事を、確認した。
群れ成す
「ここで食べようね! ここが目的地だったの。会社の仲間達と良く来るよ。桜は、少し寂しい感じだけど、水辺って、ほっとするでしょ? 私、ここが大のお気に入り! 」
「うーん、すっきりしてて、良い所だなあ、、、なるほど、落ち着く。ここ良いわあ……」
「でしょう? 」
「うん。会社のみなさん、幸せだね」
「そうなのぉ」
高層建築群の近代的な
付設するレストギャラリーは、混み合っているようであったが、水面に程近い、
不揃いの硝子片が、どんなにか、
桜は満開にもせよ、流れゆく花弁は、尚もはぐれたがり、千々に
ひとひらの光は、水を得るも、最期の安堵も束の間、忘れ去られるが如く、人知れず、河口から
ふたりの薄ら寂しさは、、桜の身の上に、重ねざるを、、得ない。
かむろ坂の桜も、この広場の桜も、
さて。
さても
省子が、ジッパーをスライドさせると、、、まるで、砲丸投げの鉄球の如き、アルミホイルに
数日前の直電の、何か企んでいるような「イヒヒヒヒ……」 そのまんまの、茶目っ気たっぷりの得意顔で、
「どうしたの? 」
「う、うん、、省子……」
「うん」
「おにぎり、、、凄いなあ、、ありがとう。でも、その前に、見せなくちゃいけないものがある。一緒に、見よう……」
「う、うん……」
慎一は、、、そっと、、白い封筒を取り出し、便箋の束を柔らかく、滑らせ、省子に示した。空の封筒はバックパックの中に戻し、そして、、、展げた。
省子は、、初めて見る、由美子の律儀な文字の、癖のない、威張った所がない、それでもの
周藤慎一様。岡野省子様。
慎一さん。
あなたへの、妻として、最期の手紙になります。
私は、
あなたの笑顔が好きでした。
いつも、笑っていましたよね。
そんなあなたを見ているのが、大好きでした。
それだけで、幸せだった。
あなたの笑顔は、私を幸せにしたんですよ。
だから、あなたのその笑顔は、私にとって本物、価値のあるものでした。
本当に、幸せだった……
この幸せが、永遠に続いて欲しいと願っていました。
さしあたりの平穏が、私の居場所だと想っていました。
でも、、、
いつしか、その私の部屋の椅子が、やけに冷たく感じて……
それでも、逃げるように駆け込むしかなくて、
自分の事で目一杯で、
そうしているうちに、ふと、気がつくと、
あなたばかりか、自分のこころさえも、置き忘れでしまっていた。
追いかけたくても、戻りたくても、もう、どんどん離れて、遠ざかって、
でも、追いかけられない、戻れない、そんな自分に、勝てない。
あなたから、笑顔を奪ってしまった。
あなたの笑顔を、守ってあげられなかった。
私は、一番大切なものを、手離してしまったのです。
悲しかった。とても辛かった。そして、どうしようもなく、寂しかった……
ただ、あなたに、申し訳ない気持ちで一杯でした。
でも、どうにもならなかった……
自分を、どうする事も出来ませんでした。
どこまで行けば、どれだけ泣けば、分かり合えたのでしょう?
何を話せば、よかったのでしょう?
教えて欲しかった。
あなたに、辛い想いばかりさせてしまって、本当に、ごめんなさい。
私は、自分を責めました。
それなのに、何ひとつ、動かなかった。
もう、終わっていたんですよね。
私に対する、自身の優しさに苦悩する、あなたのこころに、知らんぷりを決め込んでしまった。
妻の座に、安閑としていた、私が愚かだった。
私は、あなたの優しさに、ただ、甘えるだけの女でした。
私に、妻の資格は、ありません。
省子さん。
先日は、本当に、ごめんなさい。失礼ながら、最後に、ひとつだけ、申し上げたい事があります。
慎一さんは、
くだらない冗談は良く言うけれど、大切な事は、言わない人。
そして、相手にも求めない人です。
だから、これからはずっと、いつもあなたから、「愛してる」 って、言ってあげて……
この人なら、きっと必ず、何倍にも大きくして、応えてくれるはずです。
大切な事は、やっぱり、きちんと言葉にして、伝えなくちゃだめ。
私は、たとえそれが、私を傷つけるような言葉であっても、「馬鹿野郎」 の暴言でも良かった。
慎一さんの、正直なこころからの、言葉が欲しかった。
いっそ、私を嫌って欲しかった。
むしろ、慎一さんを嫌いになりたかった。
なかば同情のような、大人の優しさが、余計に痛かった。
私は、ただ、女として、慎一さんの燃えるような、わがままな、愛の証しが欲しかった。
慎一さんにとって、永遠に、女でありたかった。
もっとストレートに、愛をぶつけて欲しかった、ぶつけたかった。
やっぱり、慎一さんの子供を、産みたかった。
だって、私は、慎一さんを本気で愛した、ひとりのただの女なんです。
そして、「愛してる」って、言って欲しかった。「愛してる」 って、言いたかった。抱きしめて欲しかった。
人は、大切な事を、忘れてしまうから、消してしまうから……
本当に大切なものは、普段は近すぎて見えません。
ただ、余りに大きくて、だから、わからなかった。
そして、それを得る為には、果てしなく遠い旅路を、歩まなければいけません。
とりあえずの安易な充足は、とりあえず以上でも以下でもありません。
やっぱり、すぐ近くにあるのに、どうして、こんなにも遠い?
私は、どうすればよかったのでしょう?
省子さん、これだけは、お願い。
そして、大切なものを失った時、その大きさの意味を知りました。
省子さん。
私が、本当に欲しかったものは、気が遠くなるほど、どんなにか、遥か彼方にありました。
そして、その、遠くにある真の目的は、さしあたりの、目先の充足に埋没しているうちに、その姿を、消してしまいがちです。
限りなく続く、長い作業です。
急いでも、すぐに答えの出るものではありません。
そして、答えはひとりとは限りません。
だから、人は不安になってしまう、とりあえずの回答を求めたがる。
勝ち負けではなく、多い少ないでも、早い遅いでも、上手い下手でも、出来る出来ないでもなく、比較するものでもない、あなたたちふたりだけのものです。かたちです。
忘れないで。隠さないで。偽らないで。
人のこころを、、
自身のこころの中にある、本当に大切なものさえ、逃がしてしまう。
それは、目に見えないもの、たとえば、未来……
追放されたような、孤独が待つだけです。
自分に甘過ぎると、周囲を取りまく悉くに、厳しい目を向けてしまう事が、多い。
自分の本心と、正面から向き合う事は、時に、辛いかも知れません。
でも、負けないで。
あなたには、
慎一さんがいる。
あなた自身が見つけた、幸せの芽がある。
こんなに素晴らしい事はありません。
どうか、大切にしてください。
省子さん。
慎一さんを、よろしくお願いしますね。
あなたの、その、純粋でまっすぐな想いは、私を、突き刺しました。
そして、私は、倒れてしまいました。
慎一さんを幸せに出来る人は、あなたしかいません。
広い世界に、あなた、ひとりだけです。
だから、その想いを、いつまでも胸にとどめて、忘れないで。
いつでも、どこでも、何度でも想い出してください。
そして、もっと幸せになって欲しい。ふたりらしく……
私が、慎一さんにしてあげられなかった分を、あなたが、してあげて……
私の、こころからの、一生のお願いです。
慎一さん。
あなたひとりの責任ではありません。
私だって、臆病な弱い人間です。
それを優しさと勘違いして、自分ばかりを守ってしまいました。
真実から逃げ出してしまったのは、私だって同じです。
虚勢という、自身の過ち、弱さを知ろうとしないこころは、真実を、本心を隠してしまう、幸せを遠ざけてしまう。
私たち、自立出来なかったんですね。
でも、私は、
いつか、いつかきっと、
次に愛する人には、きちんと言葉にして、行動というかたちにして、愛を伝えたいと想います。
素直に、「愛してる」 って、伝えたい……
そして、昔の慎一さんのような、優しい笑顔に包まれて、生きていきたい。
幸せに、なりたい。
私だって、夢のままに、終わらせたくありません。
私にだって、逢いたい人、一緒にいたい人がいるはずです。待っていてくれる人がいるはずです。
今はまだ、何も出来ないけれど、
私も、ふたりに負けないぐらい、幸せになります。
そして、今度こそ、しっかりと、愛を繋ぎます。
迷った時、、
したい事ばかりじゃなく、すべき事を選びます。
だって、人生は一度きりだから、
私らしく……
慎一さん。
十六年もの長い間、
私を妻にしてくれて、
本当に、どうもありがとう。
そして、本当に、ごめんなさい。
あなたに逢えてよかった。
あなたの妻でよかった。
最後まで添い遂げられなかったけれど、
あなたとの楽しい日々の想い出は、
私の一生の宝物です。
さようなら
周藤由美子
追伸
しばらく、周藤の姓のままでいさせてください。そして、誰かの妻になった時、あと一度だけ、その便りの筆を、執る事をお許しください。
当然の、しかるべき今がある。過去の証左の、今がある。ならば、今の証左も、過去にある。故に、過去と現在は繋がり、当然、そこに立脚する未来がある。人の生涯は、ただひとつを以て流れている。ひとつ流れ来て、ひとつ流れゆき、どこまでもひとつに変わりはない。人生を考える時、人を想う時、その、ひとつの始まり、過去に謝せずして、在りし日を称えずして、何ものに、〝ありがとう〟 と〝ごめんなさい〟 を捧げるのか? 根拠のない、かたちばかりの優しさに、如何なる意味がある? 更に、その無意味
自由。
展げる自由と、守る自由。プライドと責任。感覚と論理。とかく、展げる自由を尚も展げる事によって、自由を守ろうとしがちである。今、かかる過去の自由が、今というタームを引き寄せ、束の間の今は、陰に隠れていた、かつての優しさに気付き、されば引き
何れ遥か彼方への道ゆきに待つ、忘却なるカルマが、当て
……ふたりの目が、留まった桜、、こころの目の桜、、、都会の片隅の、
小さなひとつを大切にする事によって、絆を繋いだのだ。ほんの数分足らずの中に、それは、あった。日常の何気ない
桜は、雪、、、最期の、春の雪、、、。
刹那に燃え、火を注ぎ、中庸の薄紅を成すも、その、覚め
疲れ、マンネリ、面倒臭さ、限界、責任からの開放、頑張っている自分自身に向けて欲しい共感、、、。逃げてばかりの桜は、悉くを
何事も、理由がある。偶然なんかじゃない。遂げられない、為しがての想いの陰には、是非もなく、対象を
自らの
権利を主張するのも当然、自らに好都合な、優しい世界観に浸るのも自由、されど、ひとりではない、他者とて存在する現実、それに対し、謝し、譲り合い、そして、許す、、寛容なこころを忘れず、これに責任たるを以て、現実に
誰彼の別なく、無言の
隠し、偽り、騙し、薄らぎ、失くし、、、そして、忘れてしまうのだろうか? 無言に始まり、紆余曲折を経て、忘却を仄めかす無言の
日常の抑圧は、何かの、どこかの、拡大の始まり。そして、膨張、時に、暴発。そんな、怖ろしく非情な、非合理なそれは、最早、不条理でしか、ない。悲しみでしか、ない。
〈諦めないで、、負けないで……〉
ふたりの無言が、
桜は、知っている。ふたりの目は、それを、見ている。見えないものが、まるで生きているように濃厚に、一瞬を切り取ったように見える、感じられる、目。されど
……省子の特大おにぎりは、慎一には昔懐かしい、母特製の、全面海苔で
ふたりの愛が、、由美子を、許そうとしている、、ならば、由美子に許されたと想えばこその、、今の幸せであった。こころから、許して欲しい、、許し合える、、、
「由美子さん、桜、、観てるかな? ……」
「きっと観てるよ、、、横浜の桜を……」
ふたりのこころはオーバーフェンスして、冬の向こう側の季節、ふたりの世界、春に、落ちていた。
これからずっと、手を繋いだまま、ふたりだけのものではない、その春を、拾い集める。それは、、、恨みごころの強迫を許さず、
誰しもすぐ隣りに、
省子と慎一は、、こころの中で、幻を見るように呟く。もう、逢えない過去に贈りたい。
〈……過去よ、、ありがとう……〉
桜色の決心となって、未来を誓った。
かつて、葬り去るしかなかった自らの自由は、今正に、家族の愛によって、幸せというかたちをして、生き返った。家族の為の、一死の意味が、そこに、あった。
幸せは、家にある。
人生を創る。ならば、家を、家庭を創る。家庭が一番、自分の事は後回しで充分である。先ず、みんないつも笑顔でいられるように、家族を幸せにする。自分自身だけの幸せではない。自分自身など、別に、笑わなくても構わない。みんなの笑顔を眺めていれば、それで、良い。寂しくても、良い。みんなが幸せなら、自分なんか、、、最後で良いではないか。たとえ伴侶がいなくても、良いではないか。自身を第一に守ろうとする時、
ただ、愛すれば、それで良い。理由や見返りは、重要ではない。人たれば、愛するこころが、ある。愛を、素直に行使すれば、それだけで良い。底流に、寂しさが、、あるなら、、恨みごころの寂しさだって、、良い。恨んでしまったものは、仕方ない。成功者だって誰だって、人は、みな、、、寂しい。人間は、世界は、寂しさで繋がっている。寂しさも、何れ想い出になる。楽しい想い出とて、、想い出は、、何れ、どうあれ、どうしようもなく、、寂しい、、、。その寂しさを、素直に表現しないから、
愛は、、、考える。
同じ頭を使うにしても、神経を使うそれとでは、ある意味、違う。感性ではなく、理屈。選択ではなく、計画。拡散ではなく、創造。そしてつまり、言葉ではなく、、、物語。よって
そんなに、難しい事だろうか? 真っすぐ一本、立つ事が、、、自身の始まりに、感謝する事が、、、曲がらないから、膨らむ、展がる、そして、繋がる。その時々の個人の最良の投機性が、時代行動が、歴史という現象を
愛は、悉くを創り、恨みは、悉くを、、、創れず、時に、壊す。正直過ぎる、肉体と金、、それ故存在する、人の世の無情、人間の矛盾。たとえば、、恨みに始まり、酒に溺れ、無茶を通し、何れ嘘に沈み、やがて嘘のような無言の陰に隠れる。許せず、拒み続ける、無言の涙、、、。愛さないから愛されない、大切にしないから大切にされない、本心を、真実を供さないから、、失う。そんな道理をも忘れてしまったこころを、ただ、黙って見ているしかない優しさが、、余りに、悲しい。こんなにも、無力。恨むのも、自由。なれど、、かくなる自由を、自身に許して良いものか?
全体へ転嫁しがちの個人主義、、、正しく、不条理といわずして、他に、言葉を知らない。穏やかでは、いられない。個人が、聞いて呆れる。過去を、蔑ろにしてはいけない。根っ子が、崩れる。どこまでも揺るぎなく、平らかたらん事を、祈って、止まない。
小さな自身故に、小さな過ちに気付かぬ体の、山と積もった矛盾をも、愛は、包む。さればきっと、結論を急がず、固定化せず、無責任の穴の前で立ち止まり、考え、ともすれば穴に堕ちる、黙って見ているしかない個人主義をも、、許す。愛という自由、愛という幸せ、自由という愛、幸せという愛、自由という幸せ、幸せという自由、、、そんな結論に至る過程に、、ひと握りの、、寂しさを、、、。それは、どこまでも深く、愛と自由と幸せを理解する。選択に直結せず、考える、
たとえば、、そんな、通り過ぎようとする、静かなる主張には、、静かなる、
真実の愛は、偶然という感覚を、必然という論理に変える。
それぞれが、それぞれを待っていた。それぞれが、それぞれの為に、怖ろしいぐらい暖かく柔らかな、一瞬で融かしてしまうような雨となって、、惜しみなく降り注ぎ、包み込む、その、、当たり前の、さり気なさ、、、。余人に非ず、自身が創った愛と感動だけが、繋がる事を許される、正しく、絆、、、。それは、どこまでも過程という、謙虚な必然のプライドに裏打ちされた、未完成である。
人は、人を幸せにする為に、生まれて来る。人を幸せにする為に、生きている。他人を、幸せにする。さすれば、自分も幸せになる。寂しさが、それを創る。謙虚さが、怖れが、常に
本心に内向かず、満足の程を外向くこころ、虚勢に求めた時、無言という、拒絶という、防衛の傘の下に逃れ、現実は、硬直する。本物は遠ざかり、近付こうともせず、その現実から解離するばかりの、妄執なる孤独の海は、ただ、冷たく、寂しい。後年、、はたと、、気付く事になろう、過ちに、
ただ、、諦めめた内向くこころは、喪失の、不在の、そして、忘却の充足へ、自らを委ねるだけなのか? 内も外も、満足には変わりはないはず、、人はいつも、満たされたいだけ、、時の流れは、外向くこころの過ちをも、そして忘却さえも、無言を添え、内なる充足の旅へ
それでも、、、寂念
寂しさは、、こころの友、、こころの栄養。
人は、、デラシネ、、、自身の善人顔の陰に隠れる、穏やかならざる、決められない、寂しい一点。
そして、また、静かに、通り過ぎてゆく、、、
人生は、一瞬。
愛を、大切に守りたい。
現実にしろ、想い出にしろ、 有形無形に関係なく、守るものがあれば、矛盾とて、自ずと、、桜のように、散り、、流れる、、、
その先で、きっと待っている、何かを、誰かを、温かい涙と共に、再会を喜び合うように、信じられる。
寂しさという、一本道をゆく旅人は、曲がろうとしない、曲げないその為に、変わる事を辞さず、更に相応しい一本故の、発見、創造と出逢うだろう。
静かに、通り過ぎよう。
たとえば、、言えない無言には、謙虚という、押し付けてはいけない、道理の優しさの、言わない無言を、、、
本来、言えない、、、言えない。
自身は、自身の
そうしなくては、いけないのではないか?
みな、いつか、、想い出だらけの、ベテランとなるのだ、、、自身のこころから逃げるのは、実に、難しい……。
悲しくて
寂しくて
泣きたいなら
泣きたいから
涙
涸れるまで
他人の分まで
泣くがいい
涙と
人は
同じ
微細な一点の
転機
きっかけ
それを求めて
こころの目から
生まれてくる
小さな
しずく
誰を
しあわせにした
自分を
どう想う
どこから
始まった
自慢できるもの
大切なものは
何?
寂しさが
ある
愛が
ある
無言。
それは時に、言葉ではなく、態度という、こころの、嘘、、、
そうではない自身を、それでも、、信じたい、、守る為に隠れる、、問題を
自身に対する、自身という、、加害者の声を、、罪と、罰を、、、
あなたは
誰をしあわせにしましたか?
誰に、、、
しあわせをもらったのですか?
自分をどう想う?
どこから、、、
始まったのですか?
自慢できるもの
大切なものは
何ですか?
……省子、おめでとう。いつまでも、永遠に、幸せに、、、泣いたって、良いんだよ、、、
君は、家族に、幸せをもらったのです。
目黒川 完
目黒川 小乃木慶紀 @keikionogi
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