春雷の潮境

 弥生三月上旬、春のおぼめきが、日ごとに、その輪郭をくくり上げる作業に余念がない。

 大陸からの、黄砂の飛来を想わせる、ほこりっぽい微風が、この季節の様々な個性を、おもむろに仕立て上げる、パトロンの専心を露わに、東京地方にも、心身の弛緩を説きつつ、鷹揚おうように吹き流れている。

 微温湯ぬるまゆの如き風は、漸く訪れた春を、供覧に付す事しか考えていない。そのホスピタリティにあずかる、無為の自然、有為転変の人の世とて、かかる恩寵おんちょうへの謝意を隠さない、喜びの証左としての、〝芽吹き〟 を以て呼応し、壮大かつ優美な、春という連環を、限りなく完成形に接近させようとしているのだろうか? ……始まったばかりの春は、今をしてさえ、どこまでも、、、春であった。そして、きっと何かが、生まれる、、そう、信じさせる。

 別離わかれと出逢いの春が、悲しみとも喜びとも付かない、立ち止まったような、微妙にぼかしたタームを醸成するのは、別離わかれの悲しみの遺り香を、出逢いのしんを成す触手が、優しく掴んで離さず、和する招きの如き吟詠を供し、何ものとて、聞き惚れ見惚れ歩ませぬ間に、長かった冬の終焉と、春の新生が重なる、無常の輪廻の神聖を隠し、何事もなかったかのように、春の安堵を告げる。平穏のうちに流れる空々寂々くうくうじゃくじゃくの、ともすれば近寄り難い思想さえ、見せようともしない秘密主義は、その、まだ創り掛けの、仮の姿であろう春の顔で、世界を周覧してゆく……人々の感覚を愉しませ、癒し、平らげ、そして、満たし、それぞれが、幼年期に帰ったような、懐かしい想念をいだかせる。

 人々が観ている、感じている春は、たとえ真の姿ではないにせよ、それでも、、、こんなにも、、どこまで行っても、ただ、春でしかないのであろう……鈍い怒りが沈殿するばかりの、冬の時代の飢餓感は、この、春風駘蕩しゅんぷうたいとうたる慰藉のままに、屈辱も、挫折も、疲弊も、その欠落の穴を、何ものかを利して言寄せさせず、、、ただ、ストレートに埋め戻してゆく果ての、充実をあまねく説き歩く、回春の温風が、ひたすら無言を贈り、頭上を流れるその姿を、じっと、仰がせる。

 人は、悉くの想いを置き去りにしたまま、現実という海を泳いでゆかねばならない。身代わりを託された春は、そのこころを呑み込み、何等問題ない体で、理論を越えた自分らしさを実践し、女性の長い髪をほぐすが如き、淡く展がり奥まるばかりの、春靄しゅんあいの境へ引き込まずには置かない。

 全てが、消え入りそうで、、、儚く、、されど、、温まってゆく、、この感覚は、、、どうしてだろう? ……。

 惜春は、意識の届かない世界に於いて、春という溶媒を加えられたこころに、怖れなど微塵みじんもない、なだらかな希釈化が、無力を求める旅を始めた事を意味している。温もりだけは遺りそうな予感を頼りにするのも、果たして、愛の埋蔵量故の、仕業……たとえ僅かでも、悔しさを曲解し、不健全な扱いをされようものなら、即座に灯は消え、冷たさの中で悪しき塊まりに立往生し、無力どころの話ではなくなり、現実としての非寛容、非建設の憂き目に遭わせる。記憶をじ曲げれば、未来は、消えてしまう、、、その儚さの予感とて、、あるはずだろうに、言わぬが花か……。

 想像や記憶は自由ではあるが、それを蔑ろにする自由は、ない。人間のこころの自由、平和を奪う、その自由に、大義など、ない。




 ……いつも通りの、二十四時間シフトの座哨ざしょう業務中、いつも通りの、空想盛んなる慎一である。

 柔らかな日射しが散見する、窓際に配されたデスクの上で、考える事といえば、百パーセント、プライベートな内容である。その春の充実に参加している、微細にもせよ一翼を担っている満足が、定めし省子も同様の、あえてブレーキを利かせる糧となり、適度な緊張をたたえた、落ち着いた警備員のおもてを保っていた。

 省子から、数日前のLINEのメッセージで、両親の内諾を得た旨の連絡を受けており、省子へ、こころからの感謝を伝え、同じく両親へも、〝よろしくお願い致します。もう暫く、時間を頂きたい〟 との伝言を託し、返信していた。

 予想が、次々と現実のものとして、眼前を塞いでゆく事に対し、殊に今日は、心中複雑なものを否めなかった。岡野の両親への感謝と、拮抗きっこうせんばかりのそれを、人目を忍んで抑えつつ、勤務していたのである。

 時間の経過が、自らの徐脈の心拍リズムを数えさせるのは、飽くまで規則正しく乱れない、一過の生命活動体に頼りたい、動揺から抜け出したい、都塵とじんの如き一点の、弱腰ついでの諦めの悪さにさいなまれる、慎一であったが、どうあってもつづまる所、妻と恋人の両方を想い出してしまう。

 妻が出てゆき、主人あるじが不在の学大のマンションの留守宅では今、義兄の応援を仰いだその妻が、兄妹きょうだい揃って業者と共に、引っ越しの真っ最中なのであった。省子にも、連絡済みである。

 慎一の不在時に、との配慮から、義兄の昇は役所を休んで、平日の作業を買って出たもので、何から何まで引き受ける人格者に、頭が下がる慎一であった。夫婦の右顧左眄うこさべんの付けに、付き合わせてしまった恥を、如何にしてもあがないたかった。厄介な義弟は、その恩を忘れてはならず、人の恩を忘れる奴儕やつばらは、真面まともではない。

 そして、引っ越し以上の気掛かり、、、今日の精神的不安定の種を、省子なる存在に、中和相殺ちゅうわそうさいを託していた。省子という、、自由に。いつかの、露と消えた儚い抵抗は、今日の、この自由を手にしつつある。求めるべく手を延ばし続けた、無抵抗という平和が、そこにあった。遠ざかるばかりのかつての抵抗は、畢竟ひっきょう


〈無駄ではなかった! ……〉


 そう、いい聞かせていた。

 実の所、由美子からは、まだ離婚の意思表示はなく、昇の事前連絡は、今日の引っ越しの件に限られていた。思慮深い昇は、慎一の健康面を気づかってくれるのだか、みはると省子の応援の経緯を、失礼承知で告白し、心配御無用と念を押した。そして、それを省子にも報告していた。

 みな、離婚経験はないにもせよ、当然のように、時間を置く事を黙認して、異を唱えるまでもなかった。あの、告白の雪の夜から、ひと月も経っていない。デリケートなこころの問題は、その性質上止むを得ず、相手の出方を窺う、見えない均衡を蓄え、拙速をけていた。

 さりとて、慎一にしてみれば、離婚に関する、何等かのアクションが欲しい。引っ越しそのものが、その意思表示には違いないであろうが、、、引っ越しの、真意を知りたい。


〈……当面の別居生活か? 離婚へのカウントダウンか? その、カウントは、、、今、、幾つか? ……〉


 平静のおもてに、否やを突き付ける、不快な反芻はんすうに、焦燥を禁じ得ぬ想いが、こころ半分。その、半分に過ぎない葛藤とて、正しく生みの苦しみであるかのように、不可避の必須条件の現実味、人間臭さを諭されながら、もう半分の、自由なる安寧へ落ち着かせようとしていた。

 それは、積年の失敗が、今以て尚連なり、そして、この引っ越しをして、大きく転換しつつある時機に、際会している事実を自覚するには、充分であるといえた。慎一は、省子とて、この経験から多くを学び、糧たらん事を確信している。その成果が、兆している。確実に、今、動いているのである。動くという事は、かたちを成す事。そのかたちを生産建設する為の、無言の呻吟しんぎんを匂わせ、されど装う慎一であった。

 あの雪の夜の涙は、期せずして重なった想いの、答え、証しという他にない。十六年分の「ありがとう」 そして「ごめんなさい」 でも「さようなら」 が込められた、あの、悲しい涙は、、、嘘、、であるはずがない。


〈……あの時、、、ふたりは、、終わったんだ。あの時を以て、糸は、、、切れてしまったんだ。そう、考える以外に、、、術を知っては、、、いけない……〉


 見てわかる通り、離婚は、決定的であろう。だが、言葉としての決定の意思を、伝えて欲しいのである。その言葉によって、更に、動く、、、動きもするのだ。無実のかたちではあるものの、まだ最後に、共同作業を執り、作るべきものが遺っている。正式離婚なる、形式を。慎一は、由美子に於いても、ここから新たなる人生の創造を、期待して止まなかった。由美子を以てすれば、きっと叶うと、信じていた。


〈由美子は、きっと、変わる……〉


 そして、岡野家内諾を、鳥越へ報告するタイミングに、想いが至らざるはなかった。由美子と離婚後の省子との再婚を、宣言済みの関係上、一日も早く、少しでも実家を安心させるべきとする思惑に、自身の責任感を知るに付け、慎重を期するのであった。

 それは慎一にしても、やはり省子と同様に、人生の青写真を描いているに他ならなかった。慎一の場合、事情が事情、三つの家を架け渡している現実を抱えている。望むらくは、当然ふたつという、常識的なかたちにならしたい訳で、その内のひとつの仕舞しまい方に、難儀が伴う事も、けだし当然であろう。ところが、実にありがたくも、省子の両親の内諾なる、この上なくこころ強い吉報に接し、保証ともいうべき、岡野家の決断、その端緒をひらいた、省子の告白のタイミングの良さ、勇気、いての理解を拠り所とすれば、果てしない感謝と共に、力が漲るのである。


〈……確かに、嬉しい回答ではある。どんなにか、嬉しくて、たまらない。でも、、、何というか、、上手く、、切り替えられない、、、割り切れない、、、鳥越の、一家勢揃いの笑顔の陰の、、、由美子の、憂い顔が、、、消えない、、、まだ、、消せない……〉


 岡野家が与えてくれた力、それに対しはなはだ失礼な態度、かつての曖昧な雪が、まだ融け切っていないような不安が、鳥越の実家の笑顔をも、不鮮明にしようとするのは、責任感の慎重さと未練が折り合い、報告のタイミングを遅らせるべく、画策していたのだ。曖昧な方向へ流れそうな自身に、気付いた慎一は、省子達に応える為に、流れをき止め、自らの覚悟の程を示す必要ありとする地点へ、舵を、切った、、、。更に由美子の向こう側に、省子と、まだ見ぬ両親の笑顔が、散見して、、、憚らない。由美子越しのその笑顔は、鳥越の笑顔とんなじ顔をして、相通じたがる言葉を、溜め込んでいるように、想像し得た。

 岡野家と周藤家は、新たに姻戚関係を結ぼうとしている。姻族の連合軍なる、最強の後ろ盾のちぎり、その内諾から展がるポテンシャルは、味方という選択しか許さず、ガードの固さが誇らしい、そんな笑顔であった。

 曖昧な無抵抗が、進歩という趨勢すうせい、建設の動きを虚しくする。報告なる、たとえ小さいかも知れないような事であっても、自らを変えたいと願うのなら、小さな事から始めなければ、何ものとて得る事は出来ない。大事の前の小事を、あなどるべからずである。


 ……慎一は、仕事中にもかかわらず、自らのスマホを手にした。鳥越に、LINEのメッセージを入れるべく。省子とて、きっと青写真をしまっているものと、拝察した。さしもの省子の事である。楽しみは、尽きない。

 そして、午後一番、そのスマホは、、、〝引っ越し作業無事終了、横浜へ発つ〟 旨の、昇のLINEの送信を受け、了解既読した。お疲れ様でしたとは、、、いえなかった。




 三月中旬の今日という朝、みはると省子は談笑の下、土曜日の出勤要らずの、省子の長居も手伝って、久し振りに女性ふたりで、含羞はにかむ慎一に、日勤シフト一食分のお弁当を、渡して送り出し、そのままカップルの後日物語り等の、やり取りに花を咲かせていた。

 既に、後片付けも着替えも済ませたふたりは、ホールのテーブルでコーヒーをすすりながら、プロポーズやら、双方の家族の内諾やら、前進実現化に纏わる余話に、嬉々たる少女のおもてを拵え、暇を持て余すかのようである。普段通りの賑やかな朝の気は、今年も律儀に訪れつつある、春本番の、早くも春興を想わせる、面白味に弾み、そのこころ、春雲しゅんうんの如き軽やかであった。

 どこにでも、誰にでも、春は、優しく、来ていた。

 この、学大界隈の桜の樹も、膨よかな蕾の顔を、日一日と紅潮婉美に孕み出すままに、綻びの結実へ赴かんばかりである。今年も、人々に押し展げて見せ、肌に留まって感じさせる、仮初めの姿としての、営める春という季節が、その足音を憚る事を放棄していた。

 うちなる豊溢を抑えているとは、到底想えぬようなそのおもては、それでも謙虚な風情を浮かべ、うやうやしく触れ回る。静かな期待を教える風を醸し、出娑婆でしゃばる事を目敏めざとく諌め、和順の方面統治の傘下に招き容れ、悉くを寝返らせずに平らげる。

 春の進軍を予感させ、その代価としての、微温ぬるい感動を浴びせ、それは同時に、春に対し、誰しもが差し出す事が出来る、ずかしからぬ義務の履行を説き集めていた。人は、押し並べて、春に浮き立ち、寿ことほぎ、自然の慶事といわずして、他に類を見ず、出来る事を為した、満足の喜びを、その、感動に込めるだろう。

 それは、この〝みはる〟 店内のふたりに於いても、またしかり、例外ではない。素直に感情を表現していた。春への想いが、淡い直情径行となる事を、仮初めの母娘おやこは、極く自然に許し合い、季節としての、そして、人生の、全ての春を重ね合わせる事を、何のてらいもなく表現していた。こうして、ひとつひとつ、ふたりの共有財産が、増え育まれてゆくのは、今に始まった訳でも、春に限った訳でもない。想えば、共に春を願い、目指した事から始まり、求め続け、そうして今日に至り、一応の結論、目的地への到達を確実なものとし、一貫した春行きの船旅の途上にて、小出しにされた、様々な色合いの出来事が、ふと、気付けば、春の錦たる、春色一色の船に、染め上がっていたのである。夏も、秋も、冬も、、、春だけを見ていた。こころは、春に、あった。それぞれの季節のおもてをみせて置きながら、仮初めの顔を映してはいても、心中無視出来ず、誤魔化せず、はらを据えて掛からねばならず、表面は表面として、尊重しない手はないものの、その実、深まり奥まった部分を見つめていたのである。


「……ハアァ、、、何か、ぼんやりしちゃう」

 省子は、安堵を隠せない。

「本当に良かった。ひとつの山を越えたね! やっぱりさ、実家あってこそだもん」

 みはるは、省子が自身と同様に、家なる概念、両親を大切にする、いわば同志としての賞賛を惜しまず、数日前に、双方の了解を得たとの報告を受けて以来、もう幾度、こんな私情を吐露した事だろうか。それだけ、我が事のように、顔をクシャクシャにして、素直に嬉しさを表すのであった。

 さりとて、省子にすれば、胸襟を悉く開示した訳ではない。まだ、秘中の秘の、青写真をしまい込んでいる。その申し訳なさを詫びながら、みはるへの孝行心のうずきが止まず、分かち合う幸せの輪の中へ、おもて仄かに朱を注ぐ自らを投じるのであった。かくの如き、守護なる輪に、参画させて貰っているという、娘の遠慮深さを良く知るみはるに、慎一の分も含め、想いっ切り甘えられる自身の環境を、感謝する事も、忘れてはいなかった。

 この店は、一年中、春暖の気が満ち流れている……。

 あたかも、亜熱帯の南の島の如き、それでいて清爽なアトモスフィアが漂う、開かれた憩いの空間である。ここへ来れば、いつも変わらぬ暖かさが、世話焼きの、人懐ひとなつっこさ丸出しの顔をして待っている。常連達は、一見無礼とも想える洗礼に、かえって気を楽にし、砕かれ、余計な虚飾を排した、フリーハンドがちりばめられた空間識に寛ぎ、その余白、見込みしろ部分の情趣に、みはるママのホスピタリティ・マインドの裏返しの、一抹の寂しさを見付け、連日繰り返される、宴のあとの寂寞せきばくを乗り越え、それ故の、骨太のマインド、さればこその、優しさを希求する、女の生きざまに共感し、惚れてしまっていたのだ。みはるの愛は、悉くをも想いやり、許容する、遠いこだまの響きにも似た、永々と尾を引き展がる、終焉のない旅の途中にあるのかも知れないと、一同の想像は難くなく、その旅のお供を、想い想いに愉しんでいるのであった。


 ……突然、、、

 ガラガラガラと、表の引き戸が、ゆっくりいた。


「すみません、、、ランチタイムは十一時からなんですよ……」

 みはるの優しい案内の下、予期せぬ来客、薄茶色のスプリングコートを纏った、四十代半ばとおぼしき、色白の肌と長いストレートヘアの濡羽色ぬれはいろの、コントラストが印象的な、どちらかといえば地味に映る、神経質そうな面持ちの、みはる自身も省子にしても、一面識もないその女性に注がれた、母娘おやこの視線は、何等不思議を感じてはいなかった。

 営業時間外の来客は、良くある事で、この〝みはる〟 の二階はママの自宅、店の客以外にも、プライベートな用事で、何かと人の出入りが多く、付き合いの広さが窺えるのだが、この女性は、どうやら店の客ではないような佇まいである、、、食事目当てなら、みはるの愛想に応えて、笑顔を遺して帰ってゆく。何やら、、、物言いた気な面持ちを溜めて、、言葉を、待っている……


〈……抑えているものが、、、ある……〉


 ふたりの察する所は、一致している。

 かくなる人もいようかと、気軽に入れる店に不思議はなかった。


「何か、ご用でしょうか? 」

 みはるの問い掛けに、女性の表情に、一瞬、更に緊張が走った。無機的な瞳が、まだ、済んではいない用事を訴え、震えている。左肩に掛けている、茶色い革を編み込んで作った、竹細工の枕のようなショルダーバッグ、その硬そうな、されどざっくりとした網の目を、一歩前へ出たい想いを制さんばかりに、体の正面へ滑らせた。御守りを握り締めるような、両手の甲は、バッグ同様、小難しく筋張っている。

 頭を下げながら、、、



「……初めまして、、、わたくし、、周藤由美子と申します……」



 ……春疾風はるはやてが、、、店内の春容しゅんようを一変させた、、、。

 何の前触れもなく、、春塵しゅんじんを巻き起こすその瞬風に、、みはるも省子も、煮えたぎる鍋を引っ繰り返されたように、言葉を失ったまま、必死に動揺を抑える事に縛られた。由美子とて、、目の動きを塞ぐ作業に、苦渋を強いられている、、、。勢い、三者相揃い、忽ち俯きの連環を形成せざるを得ない。が、、、由美子のオーラは、それを拒絶する、見えないたてを引き付け、事の始まり、攻防に備えている。対して母娘おやことて、はかま股立ももだちを取るのだが、そこまでにとどめた。挑まれようが、連環は礼節を重んじ、鯉口こいくちを切るべく、つばに左手の親指を掛けさせず、作法へ宥める事を止めようとしない。無理にでも、、刀を右手側へ置かせようと、、それぞれのこころが、ざわつく。俄かに朱を帯びる、自身の火照りを知る所となる。

 取り分け由美子と省子は、対峙なる、現実の波濤に投げ出され、容赦のない錐揉きりもみ、冷酷な水没を以て、自由を奪われ、手枷足枷てかせあしかせなる自我の重りに、抵抗する他なく、果ての窒息を回避せんともがいた。早くも、目に見えない摩擦で傷だらけの、全身から発する痛み、、、不可逆の重大事案に臨場する、決意からは逃れられない、正にその時、時の到来を想い知った証左の、痛みに伴ういきり立つ震えが、、自身という存在悉くを、、包み込んだ。その痛みに耐えつつも、それでも膨張し続けそうな、、、この時は、まだ、大人しい、、方向舵の定まっていない、、背筋せすじを這い上がるような訴えの、、その兆しを、覚える、、、。

 確かに、慎一を巡るふたりは、その要旨を異にこそすれ、厳然たる回答を得ている。第三者から強要された訳でも、何でもなく、自らの行動が、それを選択している。ただ、それぞれからすれば、慎一に対し、悪しき影響をもたらした第三者なる、好ましからざる存在である事に間違いなく、こうしてつらを合わせる機会を、求めた由美子、求められた省子の、、、女の情念相見あいまみえる、、冷たい火花が、、回答を隠そうと、、れる。由美子の納得と、省子の満足は、全く以て異質のものである。退がる事の納得と、、昇る事の満足の、、妥協点、、、由美子には、その集中。省子には、その拡散。それぞれに教え得るものは、、、


〈……一も二もなく、時間の経過しかない……〉


 みはるは、そう考えるまでに、落ち着きを回復しつつあった。ベテランらしい処世である。

 ふたりの女性のその若さは、もう若くはないというにも、諦めというにも、はなはだ相応しくないとするのは、至って合理的な判断であろうか、それ程、美しかった、、、互いに、、そう想っているに違いない。それだけに、、、


〈花は、、、相競って、咲く、、、さに非ず、、それだけに、、それならば、、、凜として、真っすぐ一本、咲いて立つべきである。常に自らを見つめながら、他者へのホスピタリティも忘れずに携え、いつまでも、心身共に健やかであって欲しい、、、見つめる所の第一番は、どこまでも、自分自分であって欲しい……〉


 そう願うみはるであった。

 ……そんな女主人の想いが通じたのか、若いふたりは、火種をくすぶらせている顔付きのままではあるにせよ、大人の対応に徹そうと苦戦する心中を、悟られまいとする虚勢にすがり、みはるの、

「どうぞ……」

 と、椅子を引いて勧める、小声の所作に応じた由美子は、ぎこちない、

「失礼致します……」

 の、返礼を、ややかすれた小声で仄めかし、静かに、腰掛けた。

 その椅子は、今の今までみはるがひとり占めしていた椅子。想い出したように立ち上がり、由美子と入れ替わったみはるは、そのまま厨房の中へ移動し、薬罐やかんを火に掛けた。ホールには、セルフサービスの大型電気給湯器が備えてあるのだが、この時間は、まだ電源を入れておらず、少量であれば、その方が断然早く湯が沸く。茶腹も一時いっときという。胃袋から温め、固まった身もこころも、ほぐさない手はない。

 省子は黙って、なるべく視線を移そうとしない、、、動かせない、、、。半ば固定された、限られた視野の、その真正面に、由美子が、、おもむろに、、浸入して来た。どうかすると、切り詰めて閉ざしてしまいそうな、心象のフレームの中に、飛び込まれた驚きと不安を、見せたくないこころは、由美子を見ようとする想いを奪う代わりに、何言かを言おうとする、言いたい想いを、省子に与え始める。それも、また、虚勢であろうか。

「……初めまして……」

 漸く、ふたりは、挨拶を揃えるに、至った。

「……こちらは、コサカミハルさんのお店ですよね……」

 カウンター越しのみはるを見りながら、語り出す。

「ええ……」

 みはるの、もやを振り払えぬ回答。

「あなたが、、、オカノショウコさん……」

「はい」

 由美子は、兄、昇に聞かされた、ふたりの応援の話から、この店の場所も、それぞれの名前も承知していた。つい先日まで、この学大の地元住民であった地の利が、さして迷わずに、横浜からの脚を進めた。如何にもの無礼を、かつての地元意識に言寄せたのかも知れず、それは、このふたりとて同じであろうという、、ジェラシーが、、冷たく燃焼している。自宅近くで、かくの如き秘密が展開していた、学大を離れた今も変わらない、、、その、現場で、、、当の、、その、省子と、、、相対している……。

「兄から、、、おふたりの事は、聞きました。大変失礼かとも考えましたが、、、おふたりと、、どうしても、、話がしたかった。聞いてみたかったんです。どうか、兄に打ち明けてしまった、慎一さんを、責めないで下さい。お願いします……」

 母娘おやこは、俯いたまま、無言をたてに取るしかない。由美子の、未練な女ごころが、ただ、悲しい、、、。みはるが、省子が、慎一を愛しているように、この、由美子とて、まだ、慎一を、、、愛している、、、大きく豊かな愛ではないものの、、細く、冷めてしまった糸ではあるものの、、辛うじて、ぶら下がる、その、想いは……


〈確かに、、、まだ、、愛している……〉


 母娘おやこは、そう、想った。

「省子さん、、、綺麗なかた、、、私が、、想像していた通りの、、素敵なかた。きっと、しっかりとした芯を、お持ちのはずだと想う。それが、、、悔しい、、、全てが、、、悔しいの……」

 由美子は、右顧左眄うこさべんの挙句の今日という、空虚な自身を、嫌悪している事を憚らずさらした。その自責なる、出口の見えない堅固な空間にて、彷徨うろつき回るだけの作業には、真面目さ故の、そこから出て行こうとしない、惰弱。それを優しさと誤解する、逃亡。その、矛盾極まりない不安定感が、方向感覚を遮り、疲弊に陥れたのだ。自身の全てが、全てで、あるだけに。

 どこへ流れて行こうとも知れない、不安、怖れ、、、自らの、愛の空白に悩む、その訴えは、裸になれば、未練と未来志向の、正しく中間点に、退がる事の納得を求めていた。未練を諦めなければ、未来へは向かわない、愛の空白は埋められない、道理を知ってか知らずかする、そんな、寂しさも、また、愛といえようか……。

 みはるは、それを良く知っている。自らの空白を、喪失を、記憶にて埋め尽くしている。省子とて、、、わかっている。なぜなら、、いつの日か、、愛する存在を、失う。その時は、、必ず、、訪れる。だからこそ、今の自身の昇る事の満足は、、遅かれ早かれ、、盲目へと拡散してしまう不安に、襲われる。たとえば、若気の至りが別離わかれを招く。その若気が、愛を、盲目にする。


〈いつか、いつか、、、ないとは、いい切れない……〉


 省子は、その悩みの予感、まだ見ぬ不安を先取りしたような、不安定感を、、隠した。されば、、、



 愛とは、、寂しい、、、

 ただ、こんなにも、、、

 寂しい。

 愛すれば、愛する程、、、

 どんなにか、、

 寂しい。



 今、こうして集う三人は、みんな、、、寂しかった、、、どうしようもなく、、ただ、、寂しかった、、、。

 どの道、愛は、空白となる。

 その空白を埋める為には、、、その空白を集中させんばかりの、記憶の充実、もしくは、新たなる愛、、、何れかしかなく、新しい愛は、記憶を蓄え得る。よって、記憶は愛を輝かせ、復活をも可能にする。記憶という、相対的な時間、時間の相対性、その人に備わる、それ次第の問題である。

 由美子の、空白となった愛は、記憶の旅路の途上にある。十六年分の想い故の、未練という姿をしたこころ、そのままの眼差しが、今、省子を、見つめている。その、意志的な瞳の中にしまい、持ち込んだものは、果たして、如何なるものであろうか? ……昨日の今日の回答である。どうにもならない寂しさは、理解に難くない。さりながら、違いこそあれ、省子も、みはるも、三人の底流にうねる想いは、どちらに転んでも、行き着く所、、、寂しさしか、、、ない。


〈……たとえ逃げようが、騙眩だまくらかそうが、どこまでも付いて来て、納得さえ、感じさせようともしないではないか……〉


 由美子の目は、そう語っている。

 その、葛藤に鎮まれる、頑なな眼差しは、まだ壮途に就いたばかりの、旅の序章にある事を意味しているといって、差し支えない。

 みはるは火を止めて、カウンターを出、由美子と省子に熱い緑茶を呈した。すぐ厨房に戻り、香ばしさがホールの気を包むに任せ、無抵抗に佇立した格好で、ただ、ふたりを見守った。

 由美子の裏側に眠る、その、寂しさを、経験者ならではの寛容な視線で、理解を深めたい想いが兆すのは、やはり、ベテランの、若さへの憧憬であったろうか。みはるは正直に、恋愛問題の当事者たる、ホールのふたりの若さが羨ましく、躍動する生命感に圧倒されていた。若かりし頃の、数え切れない、今は亡き夫への嫉妬、、、その時の、寂しさが、みと懐かしく、記憶というかたちで、愛は復活を遂げ、今も、こうして、生きている。夫は、記憶の世界にて、、自らは、うつし世にありて、、慎ましやかに、、生きている、、、。


〈愛に、生かされている……〉


 ベテランは、そう想って、信じている。

 由美子も省子も、まだ若く、展がるばかりの未来がある。

 幸運にも、その種を見付けた省子の、かつての葛藤、空白期を乗り越えた故に知り得た、真の優しさが、由美子の、まだ一心に閉ざしている旅路に、


〈……致し方ない諦めというより、たとえ僅かでも、納得の種をき、素直さをして、妥協ではなく、調和。その果ての、満足を想像し得る、導きの同座たらしめる、、喪失感を、、想いやって欲しい……〉


 そんな期待を娘に掛ける、強い味方の母であった。

 みはるは、その援護の待機姿勢を、崩してはいない。しかし、由美子の心中、察するに余りあるのも事実である。よって、俯瞰ふかん的な視点確保の意味合いの、厨房内への陣取りは、正解といえる。省子は、強い女性である。その素直さが、時に、こころの支柱筋道の威を借り、建て尽くす、、、。先刻、周藤由美子を名乗った時、、咄嗟とっさに、


〈省子のこころのかなめが、棄て置こうはずがない……〉


 と、反射的に厨房を選択したのは、同時に、由美子を単騎斬り込ませた、膨張する想いを、充分に予想出来、


〈大した度胸だ……〉


 その、畏敬の念を込めた、席の譲渡に伴う移動という、舞台を保証する礼節であり、逃げ出した訳ではなかった。娘の一途さ故の、その偏見、それこその盲目を、回避する必要がある。そんな、強い味方の援護であった。

 省子という真っすぐが、どれだけ、由美子のうちに眠る愛に、響くであろうか? ……。新たなる愛の種は、どれだけ、まだ見ぬ明日へ、その、小さななりではあるにせよ、響かせる事が出来るだろうか? ……。かつての空白を知る省子の寂しさと、かつての盲目と出来たての空白を知る、由美子の寂しさは、相わたる寂しさを、ひと先ず横に置き、前進と後退のれ違う、不一致の、不安定な訴えを、いつ、寂しさに言寄せ、持ち込むかわからない怖れを、、直隠ひたかくし、、静かに、、無言を、、読み合っている、、、自身のうちを見つめる程に、相手の内懐を、嗅いでいた。


「……半年ぐらい前から、主人が、肥り出して来たので、もうそんな歳かなあと想った。その一方で、近所のお店で食事を摂るようになって、五年以上経つのに、好みが変わった? それとも、、料理が変わった? と、、、小さな不安が生まれた。それが、、気になって、、、。初めは、手の指先の、軽いささくれのようだったけど、、段々と、深くなって、、、鈍い痛みが、積もってゆくようだった……」

 由美子の表白は、その流れを一旦止めた。ただ漂流するだけでも、一時の閑を求めるのは、やはり、疲れていたのだろうか? そういうものなのだろうと、わかって欲しそうな、顔をして。


「でも、もう、どうする事も出来ない。私は、、、そこまで来ていたの、、、今更、言い訳に過ぎないのは、承知してる。私だって、一生懸命妻の責任を果たそうと、、お腹がいてた、、、。そんな話を、主人に聞いて欲しかった。いつもいない、慎一さんは、〝私を、どう想っているんだろう? 〟 って、考えるようになった。ただ、寂しくて、、、辛かった、、、。それなのに、、言えなかった、、言えなかったの! あの人は、優し過ぎるから、、私から、、言えば良かった。それが、残念で、たまらなく、悔しい。そして、やがて、そこからも、開放されたい気持ちになっていった。確かに、責任を、放棄してしまった。疲れてしまったの、、、何もかもが、わずらわしい影を隠しているように想えて、信じるっていう感覚が、どんどん希薄になってゆく自分を、、ただ、、眺めているしかなくて、、、いつの間にか、、空っぽに、、なっていた……」

 由美子は、

 目を真っ赤に潤ませ、血を吐いた。

 全身全霊の訴えは、寂しさに言寄せる打算の、出る幕などないまでの、我慢袋の緒が切れた、真に、深い悲しみ故の、正しく由美子の無力感、その説得力の前に、省子は疎か、みはるでさえ、寂しさへの怖れが、逃げ出してゆく自身に、釈然たるものを否めない。

 由美子の寂しさが、先んじて導き、この空間を支配していた。省子も、みはるも、為す術もない。空白に至らしめた、由美子の愛の盲目が、ふたりを、殊に、省子の愛の盲目への不安を、図らずも、納得させるように喚び寄せた。現在、昇る事のピークにある、省子の愛とて、いつ、盲目の淵に陥るとも知れない。その不安を、こうしていわば学習する際会に接し、省子の上昇気流の満足は、あたかも拡散するが如く、慎ましやかな、出ず入らずの春の風に納得し始め、先々の希望と不安が、均衡を見い出す機縁となる予感を、、、覚える。偏見や盲目に至らざる事を、堅くもしたい。

 寂しさは、、、大切な事を教える師。


〈……寂しくても、それで、良い。それもまた、良い。そんな時もある……〉


 みはるは、若いふたりがこころに綴った想いを、無理なく自らに浮かべ、無駄なく自らの中へ沈めていた。それは、自らの経験値が合致させた、符合錠の如く。愛ある故に、けだしその通りであろうか、悪い事ばかりではない。ただ、由美子も言うように、言えなかった、言わなかった事が、悔まれてならない。稀に、慎一からも聞いてはいたが、コミュニケーションの過不足を、もう少し何とかならなかったものか、省子にははなはだ失礼にせよ、さすれば、離婚の二文字は、出現しなかったであろうと窺えた。そして、酷ないい方かも知れないが、


〈……可及的速やかに、未練をち切り、、、次なるステージへ、向かって欲しい。何せ、まだ四十代、、、〝勿体もったいない! 〟 と檄したい〉


 根本の追及も大事。しかも、おおよその弁えを持つ。ならば、先を展望するにくはない。

 本心との間で、壁を作らない、距離感を操作しない、いい訳をしない、それが、シンプル。遠回りをしている場合ではない。第一、勿体もったいない。人生は、一度切りしかない。時間は、限られている。自由を、使い果たしてはいけない。人は誰しも平等に、こころに自由の種子を携え、この世に生まれて来る。その芽のポテンシャルは、愛、平和、そして、幸せを、どこまでも果てしなく見つめながら、邂逅かいこうを期待し、その歓喜を準備しようと、人知れず、真情溢れるペンを駆る。それを、『夢』 という。人なる、真実の花核の声に、耳を澄ませば、誰だって、それとわかる。そう、信じている、、、そんな種から、花を咲かせよう。そんな花に、育てよう。そんな人生に、したい。して欲しい。そんな夢もまた、自由ではないか。だから、、、自由は、、素晴らしい。最優先に尊重せずして、第一番も、第一義も、大義も、ない。

 ……そして、由美子。

 退がる事への納得を、集中して欲しい、加速濃縮させたい、省子とみはるである。

 省子の満足は、幸せへの上昇なる、希望的観測の許せる性質上、納得というかたちへの、いわば、退行的進化も可能にしようが、退却を余儀なくされた敗北を、如何に、納得へと結び付ければ良いものか、思案のし所であった。つまり、名誉ある撤退行動を、断行して欲しい、、、まだ見ぬ明日を信じ、弱気を払いけ、虎口ここうを脱するしかない。人生が、終わった訳ではない。そう、シフトすべきである。

 かつての省子の寂しさは、自身の過去を熟成する事で埋められた。今、ふと、それを、、、想い出す。


〈……今は、忘れてしまっているかも知れない、懐の奥深くでの眠る、愛し愛された経験が、見えない姿をしている悉くのものを、たとえ、怖れでさえも、、、愛するというかたちに入れ替え、、その灯を、消せなかった、、失くせなかったはず……〉


 愛するというこころは、絶対に、無くならない、消えない。

 仮に、ひとつの愛が、終わりを告げても、きっと、新たに愛する何ものかを求める、そのさがは、消しようがない。未練に想うこころを、この、人間の否定し得ぬ営為が凌駕りょうがした時、未練は、退却の納得を集中させ、忘却へと向かうだろう。その、記憶の旅路の、最終目的地のアトモスフィアは、薄らぎに満ち、溜め息の如き、薄ごころを知るに至るだろう、、、現在進行形とて、想い出とて、、愛は、、生きてゆく、糧、たらしめる。



 ……薄ごころ、、、自身の懐奥深くを、静かに、見つめる、こころ、、、。



「……生意気ですが、、、私は想う。愛さなければ、愛されない、愛し合えない。愛されたいなら、愛さなければいけない。愛されたい、大切にされたいと願うのは、ともすれば、愛は、消えてしまう、、、それを、知っている。だから、、確かめたい、欲しがる、求めてしまう、、、その通り、愛は、いつも届けていなければ、消えてしまうもの、、そういう顔をしている。由美子さん、、、あなたも、、それを、わかっていたはずです……」

 省子の胸は、高鳴りを止めそうに、ない。

 緊張が途切れる事が、怖い。

 その所為せいかして、萎縮し強張る視野の真ん中で、悄然しょうぜんとして俯く、由美子の面目を守るような、黒く滴る長い髪が、、省子の言葉にあらがい、たまさかはらりと、、両の頬に落ちた。その、間隙から覗く、唇の、紅みが、、暗々裡あんあんりこぼれる、蒼い吐息を宥め、微動して鬱陶しがる。身じろぎひとつしない、茶色のコートの縦方向の褶曲が、その、頑なな深層を、包みかばう怒気に筋立ち、安住を辞する態度で、引き退がらない。由美子の風姿全体を捉えていた、省子の目は、他の何ものへも移ろわず、内実、移ろえぬ間に、その機運に熟した訴えの実が、、加速していた想いの実が、、今のこの時、もう、待ち切れずに、たもとを分かたんと、、、省子の中で、落果した。


「私には、由美子さんの、疲れてしまったお気持ちは、良くわかりません。でも、ただ、慎一さんは、一回の勤務で、最長二十四時間、丸一日、拘束されてます。我慢が、長い。奥様の、温かい手料理程、嬉しいものはないはずです。わかるでしょう? ……。どうして、おにぎりのひとつも、、握ってあげないんですか? ……私は、未熟者です。お料理だって、そんなに上手じゃない。でも、こんな私でも、せめて、おにぎりのひとつは、お店で買ったものじゃなく、この手で、、、握ってあげたい、、、握ってあげます! ……惚れた男ですから、いつも想い出して、覚えていて、人を想うって、愛って、そういうものだと想う! 私は、途中で投げ出しません。灰になるまで、灰になっても、ずっと、永遠に、想い続けます。私は、、、慎一さんと、、夫婦になりたい、、なります……」

 省子は、自由への、生涯に亘る責任の担保、その覚悟が甘かった過去から脱した、現在の本心を、押し展げて見せた。

 込み上げて溢れたものは、言葉だけではなく、その目頭の熱い小々波さざなみの中に、由美子も、みはるも、おぼろ気に浮んでいた。寂しさを想い知り、その上に重ねた今の想いは、それ故に、一歩ずつの足取りを回想しない事には歯痒はがゆく、自立の歓び、省子らしい飾り気のないプライドを、積み上げて来た結晶体が、決意の産声を上げたのである。

 人生で、こんなに、こころが熱した事があろうか? こんなに、率直に意見を述べた事があろうか? こんなに、人を愛した事が、、、あろうか? ……。

 何もかもが、初めての経験であった。泉の如く生まれづる懊悩おうのうに、それでもあえて抵抗し、熱を込めれば、蒙がひらけたように、求める答えの最終到達点らしき、、影か? ……おぼめいた。自らを鼓舞すれば、相応しいヒント、応分の味方を、そこから更に展けんとする予感をも、手に入れるだろうと想えた。多くの予感を、手にしつつある。多くを可能にする事も、幸せを手にする事も、そして、悉くが、自由である事も、、、。

 小々波さざなみいざないは、みはるの瞳に灯をともし、まなじりの防潮堤を切り崩し、春時雨はるしぐれに濡れ染める。知り合った当初の、どこか頼りないお嬢様が、今こうして、敵視される事をも跳ねけ、正面切って正々堂々、結婚を宣言したのだ。省子の愛の強さに、人間の可能性に、こころからの感動と祝意を惜しまない、その涙に、むせんだ。

 幼気いたいけな子供の成長が、可愛いくて仕方ない、親の目線になぞらえる、みはるの満足とて、陰徳陽報の証しであろうか、その、愛という自由は、まだまだ、使い切ってはいない。

 あれもいや、これも駄目、り好みなる自由は、目先の自由に走るも同じ、はなはだ自由を浪費する。自由にも、他者へ献じる愛は無限。自身を独善的に満たす愛は空費。よって、他者に寛容な姿勢が、自由を生かす。自身を見つめない自由は、周囲の他者を傷付け、裏切り、多くの自由を奪い、それに気付かぬ素振りこそ、冷酷狡猾極まりない、人の世の無情なり。嗚呼ああ、泣かいでか。

 楽しさも、喜びも、愛も、幸せも、そして、自由も、そこら中に、幾らでも転がっていて、いつでも誰でも、拾い放題である。しかし、世の中悉く、制約が、道理が存在する。

 無言を読む。顔に書いてある。顔を見ればわかる。

 そんな無言に接した時、、、無言を以て応える。目には目をともいうように。それを知るベテランみはるの、弁えのこころである。

 ……さはいえ、由美子とて、

 不覚にも、瞳小々波さざなむ熱の温度は、省子とみはるのその灯を消さんばかりの、寒々とした寂しさを芯に秘めた、凍傷に痛がり震える小々波さざなみを以て、母娘おやこに訴え抗し、一歩も後へは退かない。凝り固まる冷たい真剣の魚鱗ぎょりんと、展がりゆく温かい真剣の鶴翼かくよくが、今正に睨み合い、殊に魚鱗ぎょりんは、聞く耳など持たぬおもてを、壊そうともしない。

 冷熱入りじる、名状し難い沈黙の、流れるに任せた時間が、その、相対的な本性を現し、経過という感覚を、三人から奪っている。一週間分の緊張から解放された、金曜日の夜の弛緩を、踏襲したはずの、土曜日の午前であろうが、今朝の〝みはる〟 は、時ならぬ招かれざる客に、一週間分の緊張がそのまま継続し、翌週に波及しそうな、既に月曜日が始まったような、伸ばし展げた緊張に、時間を許していた。休日は、由美子なる、抑圧の陰に、隠れるしかなかった。

 そして、由美子という、悲しみの魚鱗ぎょりんは、怒りの中央突破を企てようと、混沌たる感情を託した訴えが、満を持していた。体内の氷塊が、省子の言葉に傷付けられ、そのプライドの破片が、うずたかく沈殿していた、負の感情を突っつき、忽ちの内に、由美子を埋め尽くしていたのだ、、、蓋をしていた怒りが、、我慢の限界を越え、、一気の噴出に、遠慮など、なかった。


「省子さん、、、あなたには、私の気持ちはわからない、、、どんなに届けたくても、届かない想いが、、ある。届かない事も、、ある。それが、、、積もるの、、、積もってゆくの!! 手を止めてしまうの!! ……わかる?! ……」

 非対称な一閃いっせんが、破って、、棄てた。

 由美子の、魂の叫びであった。

 十六年分、積もるばかりで、排除出来なかった想いが、こんなにも膨らんでいた。慰藉という理解の浄化が、得られていなかった証左の、仮面を脱ぎ棄てた妻の、本心であった。

 由美子のみならず、人間一個の存在は、生まれた時から死ぬ時まで、一貫して自由そのもののはずである。人は、自由を食べて生きる生き物なのだ。愛も平和も幸せも、それらの可能性を悉く内包する、一個の、ひとりの、自分自身である。であるなら、自身を深く見つめないという事は、自由をも深く見つめないという事、、、自身をかえりみない自由を、それも自由と決め込み、大きな自由を放棄するが如き所業に過ぎない。由美子は、その盲目に陥ってしまった、無念を告白したのだ。自由の意味を蔑ろにすれば、使い果たしてしまったようにも、遠回りをしてしまったようにも、さても曖昧な、空虚な概念が遺り、それだけ扱う事が難しい、深く幅広い意味を持つ言葉である。

 由美子の溢れづるものは、再び、目の窓辺に、小々波さざなみぎわをひとり歩きする、止めどない落涙の冷たさをもたらした。三人共、小々波さざなみであるのに、ただ、溺れ、自らを抑えるだけで精一杯な、その、嗚咽おえつが、他の呻吟しんぎんかばうように、ホールを包み込んで、響く。

 満たされぬ想い、埋められぬ寂しさ、、その、十六年、、、降り頻る雪のように、ただ、、積もる、、積もっていったのだ、、、。十六年の抵抗の雪は、止みそうな気配すら、互いの無言で突っね、たとえ、あの時、、あの、別離わかれの雪の夜、、あの、曲がり角で、、あの、一瞬だけ、、ほんの束の間、通じ合えても、やっとの想いで、届いても、、それが、最期。最期の、儚い灯を、見付けたに過ぎない。追い駆けたくても、追い駆けられない。戻りたくても、戻れない。離したくなくても、離すしか、ない、こころ、その、手……。

 刹那の一致は、いとも簡単に、十六年の奔流に呑み込まれ、黙って押し流れるしかなかった寂しさが、空っぽのこころが、今こうして、ゆくりなくも彷彿とし、小々波さざなみに、遮られている。さるにても、、空虚であった。その空白感が、玉の如く胸につかえ、塞ぐ、、、忘れられない、、、ただ、奪われてしまった、、、。

 自身を深く見つめない自由は、その狡猾さに気付きつつ、救いを求めるように、目に見える事だけに、自らを縛り付けていたのだ。省子もみはるも、言葉少なに語る慎一の、その苦悶の程を推して知るように、こうして由美子と対面し、打ちしおれる真実に触れ、その、女の悲哀に、同性としての憐憫れんびんの情が、うずきの声を憚らず、ここでも、釈然たる回答を隠そうとしている事に、かくなる上は、最早、優しい理解を示すべき、道が展けるのである。先刻の、女同士の冷たい火花に、押しけられていた回答は、今度は真逆の、無言の涙の陰に隠され、敵にして敵に非ぬひとりの女性を、抱擁するように見つめていた。真実に触れたこころが、撫でていたわる、そのままに。

 ……みはるが、小々波さざなみぎわから、静かに、小舟を滑らせた。


「……幾ら泣いたって、良い、、、泣きたいだけ、、泣けば良い。でもね、最後には、必ず笑う。そうすれば、泣いた事なんか、忘れる。泣いた甲斐かいがあったと想える。最後に笑う為に、泣く。それが、涙の意味。泣く程頑張って、悩んで、格好悪くても、笑われても、最後にはその涙が、笑顔に、そして、幸せに変わる。泣いた分だけ、涙の数だけ、幸せになれる。最後に笑うなら、絶対に笑うから、、、泣いたって、良いじゃない? ねっ、泣いたって良いの、、、涙って、謙虚よ。涙の洗心は、本心を見せる。最強のものを遺す。それが、原点でしょ? ……」

 冷めたお茶をひと口含む、みはるの目の窓辺には、何等とどまるものはなく、爽やかに消えていた。が、その分であろうか、由美子と省子の部屋の窓辺は、打ち時雨しぐれるままに、声涙倶せいるいともに下る波間に、こころをがし、肉体は、現下独座している、ホールの椅子にすがるしか術がなく、自身であろうと他者であろうと、何かを読む事も、見つめる事も、出来るはずなどなかった。撓垂しなだれ惑う涙の境界で、ただ、濡れそぼるだけの、切り離された存在を、互いに傍観し、どうする事も出来ない無力を、慷慨こうがいする涙で、あったかも知れない。

 強く優しい女主人は、再び、展げる。


「……人は、樹、、、。樹は、折れる。折れそうになる、折れたくもなる。それでも、折れたくないから、折れまいとして、、曲がる。曲がりたくないけど、曲がるまいとするけど、曲がってしまう、、、本当は、真っすぐのまま、伸びて行きたい、伸びようとするけど、だからこそ、折れそうにも、曲がりも、そして、折れもする。樹って、、弱いの、、折れてしまうの、、、折れそうな樹、折れてしまった樹に、悲しい想いをさせてはいけない。悲しい立場にいる樹を、悲しませない事、、、それが、真の優しさ、愛だと、そう想う。その愛が、いつか、、、弱い樹を強くする。時間が掛かっても……」

 無言、沈黙、静寂、、、それは、自身を見つめる、考える時間。他者を覗き見るいとまではない。深く見つめようとすれば、必要に迫られ無言を置き、静寂が展がる。他者と見つめ合う時、無言が介されるのは、自身を見つめたい、その必要に迫られている。よって、見つめなければいけない。

 もし、、、それでも、、自身が見えないなら、他者を見つめる事も、ましてや語る事も、愛する事さえも、出来ないのではあるまいか? 愛なき無言は、他者と、そして自身に向けられた、いい訳、嘘、、、。

 自身の過ち、弱さを知ろうとする謙虚さは、どうすれば失敗しないか? なる、慎重な道を探し当てる。どうしたいか? に非ず、どうすべきか? どうすれば良いか? のついでに、それも併せて均衡を保てば、もっと大きな自由、生涯トータルの幸せの、その根拠に、気付く。謙虚な精神は、闇雲やみくもな推進力に待ったを掛ける、ブレーキたる宝といい得る。

 みはるの説諭に、若いふたりの根っ子は、まるで子供のように泣きじゃくり、さてこそ温かく揺さ振られた。その言葉を受け容れ、透過したのだが、省子は、素直に漲るものを覚え、由美子に於いては、自身の内部で、あるいは雪崩れ、あるいは雪崩れずして遺った、その、遺りものの生命いのちが、小さな体で、何言かを囁いている事に、今更のように気付くのであった。半ばくすぐったいその感覚に、悪い気はしない。


〈……この、、、柔らかくて、微温ぬるい丸さは、何? ……寂しさが、融け出すような、羞ずかしい事ではないような、それを告げに訪れた、春の風のような、、、でも、、、だけど、、、あらがえない、、、初めから、知っていたの? ……〉


 そして、

 漸く涙を納めたふたりは、

 帰宅するべく、他に黙礼を供し、無言をとどめたまま相前後し、っくに正午を過ぎていた、学大の街へ消えていった。みはるの静かな笑顔が、それを見送っていた。大きな溜め息が、春雲しゅんうん棚引く、勿忘草わすれなぐさ色の空に吸い込まれたのは、三人一緒だったろうか……。

 みはるの言葉が、饒舌をして浸潤の旗印の下、ふたりの内的世界を架け渡し、席巻していた。

 道理も、情も、悉くを兼ね備えた、ベテランならではの確言に、ただ、納得以外、許される隙もなかった。その、み展がる上質感に、陶然自失の落涙も、極めて率直な態度であったろうか。街のそこかしこではらみ出す、桜の蕾とて、更に頬を紅らめ、強か酔いれよう、生真面目で純粋な素材故の、脆弱さ、儚さ、律儀さの、結実を間近に控えた、感動の前触れを、たまさかの今朝の出来事と重ね合わせたい、はやるこころは、やはり、春が、待ち焦がれていた春が、訪れていたからに他ならなかった。

 春が、来た。

 今、由美子の胸に去来するのは、如何なるものであろうか? ……省子が、寂しさの氷塊に傷を付け、叩き割り、砕け散るばかりの破片に、更に容赦のない追い討ちを仕掛けた。当然の抵抗により、丸裸にされ、露わになったこころを、期せずしてみはるが、甲斐甲斐かいがいしく拾い上げ、慰め、諭し、真情の産湯うぶゆを以て、由美子の生まれたての、第二の人生を歩まんとする、歩んでゆかねばならぬ魂を、洗いたて、この上とも磨き上げていた。

 慎一と別離わかれた事で、渙然氷釈かんぜんひょうしゃくとした想いを、みはるがこころのことわりを掴み、言葉に纏めてくれた。携え易いように、忘れないように。それはきっと省子の胸にも、浸潤していたに相違あるまい。

 目先の自由、り好む自由、それらを犠牲に供する、家庭という概念。にして来たいい訳は、反骨に非ず、ひとり善がりの満足であった。

 寂しさの連環を、知ってか知らずかしながらも、辛うじて繋がる他人同士の、初めから、筋書きを用意されていたかのような、自然な納得が、その筋書きの未読部分、つまりその先を、渇望して止まないのも、自然な流れであったろうか。それも、筋書きの内である。


 春が、来た。既に春雷は過ぎ、裾を展げ、匂い立つように漂うばかりの、その春が、、、来ていた。

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