春雷の潮境
弥生三月上旬、春のおぼめきが、日ごとに、その輪郭を
大陸からの、黄砂の飛来を想わせる、
人々が観ている、感じている春は、たとえ真の姿ではないにせよ、それでも、、、こんなにも、、どこまで行っても、ただ、春でしかないのであろう……鈍い怒りが沈殿するばかりの、冬の時代の飢餓感は、この、
人は、悉くの想いを置き去りにしたまま、現実という海を泳いでゆかねばならない。身代わりを託された春は、そのこころを呑み込み、何等問題ない体で、理論を越えた自分らしさを実践し、女性の長い髪を
全てが、消え入りそうで、、、儚く、、されど、、温まってゆく、、この感覚は、、、どうしてだろう? ……。
惜春は、意識の届かない世界に於いて、春という溶媒を加えられたこころに、怖れなど
想像や記憶は自由ではあるが、それを蔑ろにする自由は、ない。人間のこころの自由、平和を奪う、その自由に、大義など、ない。
……いつも通りの、二十四時間シフトの
柔らかな日射しが散見する、窓際に配されたデスクの上で、考える事といえば、百パーセント、プライベートな内容である。その春の充実に参加している、微細にもせよ一翼を担っている満足が、定めし省子も同様の、あえてブレーキを利かせる糧となり、適度な緊張を
省子から、数日前のLINEのメッセージで、両親の内諾を得た旨の連絡を受けており、省子へ、こころからの感謝を伝え、同じく両親へも、〝よろしくお願い致します。もう暫く、時間を頂きたい〟 との伝言を託し、返信していた。
予想が、次々と現実のものとして、眼前を塞いでゆく事に対し、殊に今日は、心中複雑なものを否めなかった。岡野の両親への感謝と、
時間の経過が、自らの徐脈の心拍リズムを数えさせるのは、飽くまで規則正しく乱れない、一過の生命活動体に頼りたい、動揺から抜け出したい、
妻が出てゆき、
慎一の不在時に、との配慮から、義兄の昇は役所を休んで、平日の作業を買って出たもので、何から何まで引き受ける人格者に、頭が下がる慎一であった。夫婦の
そして、引っ越し以上の気掛かり、、、今日の精神的不安定の種を、省子なる存在に、
〈無駄ではなかった! ……〉
そう、いい聞かせていた。
実の所、由美子からは、まだ離婚の意思表示はなく、昇の事前連絡は、今日の引っ越しの件に限られていた。思慮深い昇は、慎一の健康面を気
みな、離婚経験はないにもせよ、当然のように、時間を置く事を黙認して、異を唱えるまでもなかった。あの、告白の雪の夜から、ひと月も経っていない。デリケートなこころの問題は、その性質上止むを得ず、相手の出方を窺う、見えない均衡を蓄え、拙速を
さりとて、慎一にしてみれば、離婚に関する、何等かのアクションが欲しい。引っ越しそのものが、その意思表示には違いないであろうが、、、引っ越しの、真意を知りたい。
〈……当面の別居生活か? 離婚へのカウントダウンか? その、カウントは、、、今、、幾つか? ……〉
平静の
それは、積年の失敗が、今以て尚連なり、そして、この引っ越しをして、大きく転換しつつある時機に、際会している事実を自覚するには、充分であるといえた。慎一は、省子とて、この経験から多くを学び、糧たらん事を確信している。その成果が、兆している。確実に、今、動いているのである。動くという事は、かたちを成す事。そのかたちを生産建設する為の、無言の
あの雪の夜の涙は、期せずして重なった想いの、答え、証しという他にない。十六年分の「ありがとう」 そして「ごめんなさい」 でも「さようなら」 が込められた、あの、悲しい涙は、、、嘘、、であるはずがない。
〈……あの時、、、ふたりは、、終わったんだ。あの時を以て、糸は、、、切れてしまったんだ。そう、考える以外に、、、術を知っては、、、いけない……〉
見てわかる通り、離婚は、決定的であろう。だが、言葉としての決定の意思を、伝えて欲しいのである。その言葉によって、更に、動く、、、動きもするのだ。無実のかたちではあるものの、まだ最後に、共同作業を執り、作るべきものが遺っている。正式離婚なる、形式を。慎一は、由美子に於いても、ここから新たなる人生の創造を、期待して止まなかった。由美子を以てすれば、きっと叶うと、信じていた。
〈由美子は、きっと、変わる……〉
そして、岡野家内諾を、鳥越へ報告するタイミングに、想いが至らざるはなかった。由美子と離婚後の省子との再婚を、宣言済みの関係上、一日も早く、少しでも実家を安心させるべきとする思惑に、自身の責任感を知るに付け、慎重を期するのであった。
それは慎一にしても、やはり省子と同様に、人生の青写真を描いているに他ならなかった。慎一の場合、事情が事情、三つの家を架け渡している現実を抱えている。望むらくは、当然ふたつという、常識的なかたちに
〈……確かに、嬉しい回答ではある。どんなにか、嬉しくて、
岡野家が与えてくれた力、それに対し
岡野家と周藤家は、新たに姻戚関係を結ぼうとしている。姻族の連合軍なる、最強の後ろ盾の
曖昧な無抵抗が、進歩という
……慎一は、仕事中にもかかわらず、自らのスマホを手にした。鳥越に、LINEのメッセージを入れるべく。省子とて、きっと青写真を
そして、午後一番、そのスマホは、、、〝引っ越し作業無事終了、横浜へ発つ〟 旨の、昇のLINEの送信を受け、了解既読した。お疲れ様でしたとは、、、いえなかった。
三月中旬の今日という朝、みはると省子は談笑の下、土曜日の出勤要らずの、省子の長居も手伝って、久し振りに女性ふたりで、
既に、後片付けも着替えも済ませたふたりは、ホールのテーブルでコーヒーを
どこにでも、誰にでも、春は、優しく、来ていた。
この、学大界隈の桜の樹も、膨よかな蕾の顔を、日一日と紅潮婉美に孕み出すままに、綻びの結実へ赴かんばかりである。今年も、人々に押し展げて見せ、肌に留まって感じさせる、仮初めの姿としての、営める春という季節が、その足音を憚る事を放棄していた。
春の進軍を予感させ、その代価としての、
それは、この〝みはる〟 店内のふたりに於いても、またしかり、例外ではない。素直に感情を表現していた。春への想いが、淡い直情径行となる事を、仮初めの
「……ハアァ、、、何か、ぼんやりしちゃう」
省子は、安堵を隠せない。
「本当に良かった。ひとつの山を越えたね! やっぱりさ、実家あってこそだもん」
みはるは、省子が自身と同様に、家なる概念、両親を大切にする、いわば同志としての賞賛を惜しまず、数日前に、双方の了解を得たとの報告を受けて以来、もう幾度、こんな私情を吐露した事だろうか。それだけ、我が事のように、顔をクシャクシャにして、素直に嬉しさを表すのであった。
さりとて、省子にすれば、胸襟を悉く開示した訳ではない。まだ、秘中の秘の、青写真を
この店は、一年中、春暖の気が満ち流れている……。
……突然、、、
ガラガラガラと、表の引き戸が、ゆっくり
「すみません、、、ランチタイムは十一時からなんですよ……」
みはるの優しい案内の下、予期せぬ来客、薄茶色のスプリングコートを纏った、四十代半ばと
営業時間外の来客は、良くある事で、この〝みはる〟 の二階はママの自宅、店の客以外にも、プライベートな用事で、何かと人の出入りが多く、付き合いの広さが窺えるのだが、この女性は、どうやら店の客ではないような佇まいである、、、食事目当てなら、みはるの愛想に応えて、笑顔を遺して帰ってゆく。何やら、、、物言いた気な面持ちを溜めて、、言葉を、待っている……
〈……抑えているものが、、、ある……〉
ふたりの察する所は、一致している。
かくなる人もいようかと、気軽に入れる店に不思議はなかった。
「何か、ご用でしょうか? 」
みはるの問い掛けに、女性の表情に、一瞬、更に緊張が走った。無機的な瞳が、まだ、済んではいない用事を訴え、震えている。左肩に掛けている、茶色い革を編み込んで作った、竹細工の枕のようなショルダーバッグ、その硬そうな、されどざっくりとした網の目を、一歩前へ出たい想いを制さんばかりに、体の正面へ滑らせた。御守りを握り締めるような、両手の甲は、バッグ同様、小難しく筋張っている。
頭を下げながら、、、
「……初めまして、、、
……
何の前触れもなく、、
取り分け由美子と省子は、対峙なる、現実の波濤に投げ出され、容赦のない
確かに、慎一を巡るふたりは、その要旨を異にこそすれ、厳然たる回答を得ている。第三者から強要された訳でも、何でもなく、自らの行動が、それを選択している。ただ、それぞれからすれば、慎一に対し、悪しき影響を
〈……一も二もなく、時間の経過しかない……〉
みはるは、そう考えるまでに、落ち着きを回復しつつあった。ベテランらしい処世である。
ふたりの女性のその若さは、もう若くはないというにも、諦めというにも、
〈花は、、、相競って、咲く、、、さに非ず、、それだけに、、それならば、、、凜として、真っすぐ一本、咲いて立つべきである。常に自らを見つめながら、他者へのホスピタリティも忘れずに携え、いつまでも、心身共に健やかであって欲しい、、、見つめる所の第一番は、どこまでも、自分自分であって欲しい……〉
そう願うみはるであった。
……そんな女主人の想いが通じたのか、若いふたりは、火種を
「どうぞ……」
と、椅子を引いて勧める、小声の所作に応じた由美子は、ぎこちない、
「失礼致します……」
の、返礼を、やや
その椅子は、今の今までみはるがひとり占めしていた椅子。想い出したように立ち上がり、由美子と入れ替わったみはるは、そのまま厨房の中へ移動し、
省子は黙って、なるべく視線を移そうとしない、、、動かせない、、、。半ば固定された、限られた視野の、その真正面に、由美子が、、
「……初めまして……」
漸く、ふたりは、挨拶を揃えるに、至った。
「……こちらは、コサカミハルさんのお店ですよね……」
カウンター越しのみはるを見
「ええ……」
みはるの、
「あなたが、、、オカノショウコさん……」
「はい」
由美子は、兄、昇に聞かされた、ふたりの応援の話から、この店の場所も、それぞれの名前も承知していた。つい先日まで、この学大の地元住民であった地の利が、さして迷わずに、横浜からの脚を進めた。如何にもの無礼を、かつての地元意識に言寄せたのかも知れず、それは、このふたりとて同じであろうという、、ジェラシーが、、冷たく燃焼している。自宅近くで、かくの如き秘密が展開していた、学大を離れた今も変わらない、、、その、現場で、、、当の、、その、省子と、、、相対している……。
「兄から、、、おふたりの事は、聞きました。大変失礼かとも考えましたが、、、おふたりと、、どうしても、、話がしたかった。聞いてみたかったんです。どうか、兄に打ち明けてしまった、慎一さんを、責めないで下さい。お願いします……」
〈確かに、、、まだ、、愛している……〉
「省子さん、、、綺麗な
由美子は、
どこへ流れて行こうとも知れない、不安、怖れ、、、自らの、愛の空白に悩む、その訴えは、裸になれば、未練と未来志向の、正しく中間点に、
みはるは、それを良く知っている。自らの空白を、喪失を、記憶にて埋め尽くしている。省子とて、、、わかっている。なぜなら、、いつの日か、、愛する存在を、失う。その時は、、必ず、、訪れる。だからこそ、今の自身の昇る事の満足は、、遅かれ早かれ、、盲目へと拡散してしまう不安に、襲われる。たとえば、若気の至りが
〈いつか、いつか、、、ないとは、いい切れない……〉
省子は、その悩みの予感、まだ見ぬ不安を先取りしたような、不安定感を、、隠した。されば、、、
愛とは、、寂しい、、、
ただ、こんなにも、、、
寂しい。
愛すれば、愛する程、、、
どんなにか、、
寂しい。
今、こうして集う三人は、みんな、、、寂しかった、、、どうしようもなく、、ただ、、寂しかった、、、。
どの道、愛は、空白となる。
その空白を埋める為には、、、その空白を集中させんばかりの、記憶の充実、もしくは、新たなる愛、、、何れかしかなく、新しい愛は、記憶を蓄え得る。よって、記憶は愛を輝かせ、復活をも可能にする。記憶という、相対的な時間、時間の相対性、その人に備わる、それ次第の問題である。
由美子の、空白となった愛は、記憶の旅路の途上にある。十六年分の想い故の、未練という姿をしたこころ、そのままの眼差しが、今、省子を、見つめている。その、意志的な瞳の中に
〈……たとえ逃げようが、
由美子の目は、そう語っている。
その、葛藤に鎮まれる、頑なな眼差しは、まだ壮途に就いたばかりの、旅の序章にある事を意味しているといって、差し支えない。
みはるは火を止めて、カウンターを出、由美子と省子に熱い緑茶を呈した。すぐ厨房に戻り、香ばしさがホールの気を包むに任せ、無抵抗に佇立した格好で、ただ、ふたりを見守った。
由美子の裏側に眠る、その、寂しさを、経験者ならではの寛容な視線で、理解を深めたい想いが兆すのは、やはり、ベテランの、若さへの憧憬であったろうか。みはるは正直に、恋愛問題の当事者たる、ホールのふたりの若さが羨ましく、躍動する生命感に圧倒されていた。若かりし頃の、数え切れない、今は亡き夫への嫉妬、、、その時の、寂しさが、
〈愛に、生かされている……〉
ベテランは、そう想って、信じている。
由美子も省子も、まだ若く、展がるばかりの未来がある。
幸運にも、その種を見付けた省子の、かつての葛藤、空白期を乗り越えた故に知り得た、真の優しさが、由美子の、まだ一心に閉ざしている旅路に、
〈……致し方ない諦めというより、たとえ僅かでも、納得の種を
そんな期待を娘に掛ける、強い味方の母であった。
みはるは、その援護の待機姿勢を、崩してはいない。しかし、由美子の心中、察するに余りあるのも事実である。よって、
〈省子のこころの
と、反射的に厨房を選択したのは、同時に、由美子を単騎斬り込ませた、膨張する想いを、充分に予想出来、
〈大した度胸だ……〉
その、畏敬の念を込めた、席の譲渡に伴う移動という、舞台を保証する礼節であり、逃げ出した訳ではなかった。娘の一途さ故の、その偏見、それこその盲目を、回避する必要がある。そんな、強い味方の援護であった。
省子という真っすぐが、どれだけ、由美子の
「……半年ぐらい前から、主人が、肥り出して来たので、もうそんな歳かなあと想った。その一方で、近所のお店で食事を摂るようになって、五年以上経つのに、好みが変わった? それとも、、料理が変わった? と、、、小さな不安が生まれた。それが、、気になって、、、。初めは、手の指先の、軽いささくれのようだったけど、、段々と、深くなって、、、鈍い痛みが、積もってゆくようだった……」
由美子の表白は、その流れを一旦止めた。ただ漂流するだけでも、一時の閑を求めるのは、やはり、疲れていたのだろうか? そういうものなのだろうと、わかって欲しそうな、顔をして。
「でも、もう、どうする事も出来ない。私は、、、そこまで来ていたの、、、今更、言い訳に過ぎないのは、承知してる。私だって、一生懸命妻の責任を果たそうと、、お腹が
由美子は、
目を真っ赤に潤ませ、血を吐いた。
全身全霊の訴えは、寂しさに言寄せる打算の、出る幕などないまでの、我慢袋の緒が切れた、真に、深い悲しみ故の、正しく由美子の無力感、その説得力の前に、省子は疎か、みはるでさえ、寂しさへの怖れが、逃げ出してゆく自身に、釈然たるものを否めない。
由美子の寂しさが、先んじて導き、この空間を支配していた。省子も、みはるも、為す術もない。空白に至らしめた、由美子の愛の盲目が、ふたりを、殊に、省子の愛の盲目への不安を、図らずも、納得させるように喚び寄せた。現在、昇る事のピークにある、省子の愛とて、いつ、盲目の淵に陥るとも知れない。その不安を、こうしていわば学習する際会に接し、省子の上昇気流の満足は、
寂しさは、、、大切な事を教える師。
〈……寂しくても、それで、良い。それもまた、良い。そんな時もある……〉
みはるは、若いふたりがこころに綴った想いを、無理なく自らに浮かべ、無駄なく自らの中へ沈めていた。それは、自らの経験値が合致させた、符合錠の如く。愛ある故に、
〈……可及的速やかに、未練を
根本の追及も大事。しかも、おおよその弁えを持つ。ならば、先を展望するに
本心との間で、壁を作らない、距離感を操作しない、いい訳をしない、それが、シンプル。遠回りをしている場合ではない。第一、
……そして、由美子。
省子の満足は、幸せへの上昇なる、希望的観測の許せる性質上、納得というかたちへの、いわば、退行的進化も可能にしようが、退却を余儀なくされた敗北を、如何に、納得へと結び付ければ良いものか、思案のし所であった。つまり、名誉ある撤退行動を、断行して欲しい、、、まだ見ぬ明日を信じ、弱気を払い
かつての省子の寂しさは、自身の過去を熟成する事で埋められた。今、ふと、それを、、、想い出す。
〈……今は、忘れてしまっているかも知れない、懐の奥深くでの眠る、愛し愛された経験が、見えない姿をしている悉くのものを、たとえ、怖れでさえも、、、愛するというかたちに入れ替え、、その灯を、消せなかった、、失くせなかったはず……〉
愛するというこころは、絶対に、無くならない、消えない。
仮に、ひとつの愛が、終わりを告げても、きっと、新たに愛する何ものかを求める、その
……薄ごころ、、、自身の懐奥深くを、静かに、見つめる、こころ、、、。
「……生意気ですが、、、私は想う。愛さなければ、愛されない、愛し合えない。愛されたいなら、愛さなければいけない。愛されたい、大切にされたいと願うのは、ともすれば、愛は、消えてしまう、、、それを、知っている。だから、、確かめたい、欲しがる、求めてしまう、、、その通り、愛は、いつも届けていなければ、消えてしまうもの、、そういう顔をしている。由美子さん、、、あなたも、、それを、わかっていたはずです……」
省子の胸は、高鳴りを止めそうに、ない。
緊張が途切れる事が、怖い。
その
「私には、由美子さんの、疲れてしまったお気持ちは、良くわかりません。でも、ただ、慎一さんは、一回の勤務で、最長二十四時間、丸一日、拘束されてます。我慢が、長い。奥様の、温かい手料理程、嬉しいものはないはずです。わかるでしょう? ……。どうして、おにぎりのひとつも、、握ってあげないんですか? ……私は、未熟者です。お料理だって、そんなに上手じゃない。でも、こんな私でも、せめて、おにぎりのひとつは、お店で買ったものじゃなく、この手で、、、握ってあげたい、、、握ってあげます! ……惚れた男ですから、いつも想い出して、覚えていて、人を想うって、愛って、そういうものだと想う! 私は、途中で投げ出しません。灰になるまで、灰になっても、ずっと、永遠に、想い続けます。私は、、、慎一さんと、、夫婦になりたい、、なります……」
省子は、自由への、生涯に亘る責任の担保、その覚悟が甘かった過去から脱した、現在の本心を、押し展げて見せた。
込み上げて溢れたものは、言葉だけではなく、その目頭の熱い
人生で、こんなに、こころが熱した事があろうか? こんなに、率直に意見を述べた事があろうか? こんなに、人を愛した事が、、、あろうか? ……。
何もかもが、初めての経験であった。泉の如く生まれ
あれもいや、これも駄目、
楽しさも、喜びも、愛も、幸せも、そして、自由も、そこら中に、幾らでも転がっていて、いつでも誰でも、拾い放題である。しかし、世の中悉く、制約が、道理が存在する。
無言を読む。顔に書いてある。顔を見ればわかる。
そんな無言に接した時、、、無言を以て応える。目には目をともいうように。それを知るベテランみはるの、弁えのこころである。
……さはいえ、由美子とて、
不覚にも、瞳
冷熱入り
そして、由美子という、悲しみの
「省子さん、、、あなたには、私の気持ちはわからない、、、どんなに届けたくても、届かない想いが、、ある。届かない事も、、ある。それが、、、積もるの、、、積もってゆくの!! 手を止めてしまうの!! ……わかる?! ……」
非対称な
由美子の、魂の叫びであった。
十六年分、積もるばかりで、排除出来なかった想いが、こんなにも膨らんでいた。慰藉という理解の浄化が、得られていなかった証左の、仮面を脱ぎ棄てた妻の、本心であった。
由美子のみならず、人間一個の存在は、生まれた時から死ぬ時まで、一貫して自由そのもののはずである。人は、自由を食べて生きる生き物なのだ。愛も平和も幸せも、それらの可能性を悉く内包する、一個の、ひとりの、自分自身である。であるなら、自身を深く見つめないという事は、自由をも深く見つめないという事、、、自身を
由美子の溢れ
満たされぬ想い、埋められぬ寂しさ、、その、十六年、、、降り頻る雪のように、ただ、、積もる、、積もっていったのだ、、、。十六年の抵抗の雪は、止みそうな気配すら、互いの無言で突っ
刹那の一致は、いとも簡単に、十六年の奔流に呑み込まれ、黙って押し流れるしかなかった寂しさが、空っぽのこころが、今こうして、ゆくりなくも彷彿とし、
自身を深く見つめない自由は、その狡猾さに気付きつつ、救いを求めるように、目に見える事だけに、自らを縛り付けていたのだ。省子もみはるも、言葉少なに語る慎一の、その苦悶の程を推して知るように、こうして由美子と対面し、打ち
……みはるが、
「……幾ら泣いたって、良い、、、泣きたいだけ、、泣けば良い。でもね、最後には、必ず笑う。そうすれば、泣いた事なんか、忘れる。泣いた
冷めたお茶をひと口含む、みはるの目の窓辺には、何等
強く優しい女主人は、再び、展げる。
「……人は、樹、、、。樹は、折れる。折れそうになる、折れたくもなる。それでも、折れたくないから、折れまいとして、、曲がる。曲がりたくないけど、曲がるまいとするけど、曲がってしまう、、、本当は、真っすぐのまま、伸びて行きたい、伸びようとするけど、だからこそ、折れそうにも、曲がりも、そして、折れもする。樹って、、弱いの、、折れてしまうの、、、折れそうな樹、折れてしまった樹に、悲しい想いをさせてはいけない。悲しい立場にいる樹を、悲しませない事、、、それが、真の優しさ、愛だと、そう想う。その愛が、いつか、、、弱い樹を強くする。時間が掛かっても……」
無言、沈黙、静寂、、、それは、自身を見つめる、考える時間。他者を覗き見る
もし、、、それでも、、自身が見えないなら、他者を見つめる事も、ましてや語る事も、愛する事さえも、出来ないのではあるまいか? 愛なき無言は、他者と、そして自身に向けられた、いい訳、嘘、、、。
自身の過ち、弱さを知ろうとする謙虚さは、どうすれば失敗しないか? なる、慎重な道を探し当てる。どうしたいか? に非ず、どうすべきか? どうすれば良いか? の
みはるの説諭に、若いふたりの根っ子は、まるで子供のように泣き
〈……この、、、柔らかくて、
そして、
漸く涙を納めたふたりは、
帰宅するべく、他に黙礼を供し、無言を
みはるの言葉が、饒舌をして浸潤の旗印の下、ふたりの内的世界を架け渡し、席巻していた。
道理も、情も、悉くを兼ね備えた、ベテランならではの確言に、ただ、納得以外、許される隙もなかった。その、
春が、来た。
今、由美子の胸に去来するのは、如何なるものであろうか? ……省子が、寂しさの氷塊に傷を付け、叩き割り、砕け散るばかりの破片に、更に容赦のない追い討ちを仕掛けた。当然の抵抗により、丸裸にされ、露わになったこころを、期せずしてみはるが、
慎一と
目先の自由、
寂しさの連環を、知ってか知らずかしながらも、辛うじて繋がる他人同士の、初めから、筋書きを用意されていたかのような、自然な納得が、その筋書きの未読部分、つまりその先を、渇望して止まないのも、自然な流れであったろうか。それも、筋書きの内である。
春が、来た。既に春雷は過ぎ、裾を展げ、匂い立つように漂うばかりの、その春が、、、来ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます