雪の寂栞

 二月を迎えていた。立春の候。春の足音は、まだ足踏みをして、こまねいていた。

 空疎な季節。省子と慎一のデートも、その物悲しさを埋めるように、ふと、近付いて、視線を重ねたくて、触れ合う機会を求めた。

 すっかり葉振りを落とした街路樹の、佗びし気な眼差しと、とかく目が合いがちな、ふたりのこころは、この冬とて、その冬らしさを、揃ってゆっくり味わいたい想念に駆られ、殊更、雪の日を待っていた。まるで無邪気な子供のように、儚く消える白一面の雪景色に、想いを馳せていた。

 先月から引き続き、今年の穏健派の冬将軍は、それでも時折、支配者の権勢の片鱗を示して、東京にも既に三度、降雪を見舞い、何れも二、三センチメートルの積雪を記録していた。最早、暖冬に非ずといった、今年の冬であった。


 ……涔々しんしんと降る雪は、

 言い淀みながらも、やっと吐き出したように、沈鬱な鉛筆の色をした空から舞い落ち、滞空時は、白く染み展がってぼかした縦条たてすじの、無限の投下を以て、制空権を奪い、ややもすれば、人々の視程をも邪魔立てし、着地点を白一色に嵩上かさあげるや否や、忽ち覆い隠して、白く膨張する反射に明るむ世界に、、、包む。

 東京らしい、水分を多く含んだ粗目雪ざらめゆきは、その、角張ったいびつな閉塞感を、雪慣れしていない都会人達に、決心を諭す風情のまま、惜し気もなく曝し、されど自省に耐え切れず、かすかにサラサラうめきながら、街に降り積もるさまは、果たして、雪自らの重みか? それとも、街の嗚咽おえつか? 何れとも付かぬ静かな声の、謦咳けいがいに接するばかりの漂白世界を書き込む。人心の空白を、空白たる雪が、それでも埋め尽くすだけである。

 なだらかに降り積もった、白い肢体したいは、まだ融けて流れて、漂う匂いが立つまでもなく、今は、その時を得たように、一心に嵩増かさまし、想いの塊まりとなり、柔らかな肌に、触れさせたいしなを作って見せても、突っね、冷たく閉ざした、硬質の感情の結晶体の、救いようのない空白感に、生きとし生けるもの悉くが、活動にブレーキを掛けざるを得ない事も、自然な反応である。


 白く滞ったある決心に、世界は満たされてゆく。


 無情な空は、その想いを隠し切れず、げにも膨らみ、憤怒相ふんぬそうの如き、低天に押し出した雲の原から、白き悲しみの雪片に、身をやつした落人おちうど達が、一目散に逃れ逃れで、折節の瞬風に、ある者どもの、中天を斜めに切り裂き流れる裏切りが、ほとんどの者の、真っ逆様さかさまに投じる決心を撹乱し、白い不調和な一閃いっせんが突き抜けるものの、一縷の救いの無風空白に宥められ、その慈悲深さに未練を遺すように、次から次へと数珠繋ぎに追い駆けり、すがり付いて落ちくだり、それでも裁ち切ろうとする想いの雪は、どうしても想い詰めたように、本当の、粘着質のこころをわかって欲しそうに、ただ、、、降り頻る。

 それは、ひとひらの……

 白い、悲しみの告白。

 堕ちてゆく、決心。

 そして、降り積もる、亡骸なきがら

 やがて、消えゆく、運命……

 白い化身の、儚い、生涯であったかも知れない。

 白くうねった想いの塊まりの、肉体という存在とて、何れ、消えて流れて忘れ去られる。身をよじる程の腐心の痕跡は、何事もなかったかのように、時間にならされる。その、哀切の祈りを捧げて、世界は、微睡まどろむのであろうか? 放り出すように止めてしまったのか? 静まり返るしかなかったのか? 淡い、諦めと忘却に、この時ばかりは無抵抗に沈んでも、致し方あるまい。

 釈然たる負の肯定を、黙認せざるを得ないまでの、雪の情念に、人は、声すら失ってしまう無力な悲しみが、たまさか人肌に触れる、かくも冷たい雪の白い肌を、むしろ愛おしむように、それぞれのコートに纏わせ、払いけようともせず、俯いたまま、ひたすら狭い歩幅を踏み締めてゆく。

 瞼をめくり上げるような、白一色の路面からの反射は、湿感しつかんのある、重たく眩ませる白色光を、目の奥へ映し込み、瞼が透けるような、夏の上天からの直射とは異なる、目の奥へ侵入されたような鬱陶しさが、雪中歩行の体力を奪い、呼気の白い煙が、目の疲労を弥増いやます。見ようとするもの、雪に白鷺の如く、弁えに難儀する。

 白くおぼめくおびただしい飛翔体は、その発展途上にて、朋輩ほうばいとのコンセンサスを見るや、すぐさま付着を繰り返しつつ、勢力拡充に余念がない大粒を成し、下界の生産行動に割り込み、雑音も、空中に浮遊するちりの如きも、一緒くたに吸収し、ふと、散逸する、飛沫しぶきに過ぎない小粒の影とて、街ゆく傘の花を打とうものなら、忽ち、冷たく痺れる痛みに震えさせ、辛うじて人跡を遺す、覚束おぼつかない雪道を急がせる。

 ともすれば、雪の、真白き空白たる煌めきは、それでも、光。寂光じゃっこうなる、静謐無限の、煩悩を離れた真のを授ける、穏やかな輝き、無碍光むげこうであろうか?

 その、常寂光土じょうじゃっこうどへの帰籍を想起、憧憬させる、導きの白光は、冬の雪山の、風の音とも山の共鳴りとも付かぬ、小声のざわめき、それでいて、人のはらに訴える胴鳴りにも似た、黄泉よみの国の、婉美な舞姿を想わせる、うたい物の響きを伴って、耳目を奪わずには置かない。

 遥かなる音の下の、遼遠無比たる世界へ、引き込まれても拒めない、むしろ、手を貸さんばかりに分け入る、冬山の誘惑、硬質の美への迎合は、憚る事のない、空白。全否定の、矛盾。絶望という、安寧。その厳然たる、事実。つまり……死。

 冬の雪山の響きは、死の予感を運び、凍り付く透徹した剣で、魂を突き刺し、有無をいわせぬ。


〈……このまま、死んでしまっても、良い……諦められる、忘れられる、死にたくなる、、、この、白と静の富饒にいだかれるなら、死をも、覚悟せざるを得ぬ……〉


 限りなく、清白にして幽静な境におこった、人間の生命は、歴戦を刻み、クロニクルを積み上げ、自身の存在価値の錬成に明け暮れつつ、生涯の焦点を絞り込み、その、凝縮された一本道の如き、アイデンティティの遥か先に見るものは、誰しも、幸福しかない。そして、幸不幸に関係なく、自我同一性のフィルターを透過し、あらん限りの知識と経験を掴まえて、死を準備する。死を、知っている。

 その、先入観に差し延ばした手を、乱暴に引き込む風情を辞さぬ、白きいざないの影は、空虚な胴鳴りの囁きと、旅人の溜め息にぼかされた、壮大な無条件降伏の、雪の世界へ導く。


 ……歩いても、歩いても、どこまで往けども、歩こうとする訳でもなく、見ようとする、聞こうとする、触れようとする、その確かな意思がないにもせよ、ひたすら歩き続ける途上にて、目に映るもの、いよいよ白く煌めき、耳に届く音、ますます白い囁きを響かせ、肌に灯る雪粒、頬をかばう微風は、冷たさの芯に暖かさを隠す、含羞の匂いが満ち漂い、煙霞えんかを醸し、尚も歩く程に、遥か彼方の源泉から、漸く伝わり来たかの如き、それら悉くの感覚の光体が、旅人自身という、ただの、一点の受容体に過ぎない存在に衝突し、砕け散る飛沫諸共しぶきもろとも、自身のうちに吸い込まれ、無限の光波に浴するまま、その、量子エネルギーの傀儡かいらいに甘んじ、想像を超越した、白き富饒の幻想世界たる空間識の、奥まりへ彷徨い求める、この、報恩の道程には、虚ろな、悠久の時間が流れているとも知らず、それでも、下限一杯を維持している自我の、その、不思議さを疑うべくもなく、掛け離れた異境の主張に応じようとする、かすかな意識、穏やかな息づかいを頼りに、夢も、想いも、何事にもこだわらず、踏んで来たであろう、自らの足跡さえ、既に雪に埋もれ、折節、眉を上げてみても、人跡未踏なる回答しか許されず、空っぽの表情を浮かべ、俯き加減で、寂し気に、旅人それぞれひとりは、ただ、黙々と、遠き道のりをゆく……。

 魂は、白紙に始まり、やがて、時を経て、何れ帰りたかったのだろうか? 白紙へ、帰ってゆく。初めから、、、何も、なかったかのように……ふと、遠くにこだまするのは、誰の声であろうか? 旅人は、その、声の主に、逢いに、ゆこうとしているのだろうか? ……。


 雪は、愛する人を、連れて来る。


 白く、清らかな、生まれたての、生まれた時の記憶を、手繰り寄せるかの如き帰籍は、深層海流然とした、暗闘の世界に於いて、死を見つめ、想像し、手も足も出なかったに相違あるまい。打ちひしがれたであろう。なぜなら、人間、自身は、いつ、死が訪れるのかわからない、危うさを隠して生きている。

 生命活動の終焉、つまり死。生命活動の継続、即ち死への接近行為。生に責められ、死にかされ、どっちがどっちか? どっちもどっちか? 弁えの付かぬ雪に白鷺。どの道生きるという目的に、復してこなれるたまさかに、雪との接近遭遇、有為転変の無情、死の冷光のかさ玉響たまゆらおぼめく……いと、悲しきかな

 意識の深奥に眠る死が、雪に喚び起こされ、その、どこまでも冴え渡る、氷晶体の如き剣で、今一度、魂を貫かれたい、悪しき現実を打ち消したい、夢想の果てに、未知の、何ものかが、未知ではあるものの、悪くはない、今以上の、もっと良い偶然との邂逅かいこうを、渇望している事も、潜在意識のうちしまわれている。

 故に、雪のひとひらは、無為の欠片……そう、教えてくれる。

 死へ馳せる魂を揺さぶり、慰藉し、そう想わせ振るのは、雪を置いて、どうあれ以上も以下もない。雪が降る度、そして、降り頻る限り、忘れてしまいたい現実は、絶え果てる。その上に、麗しい時代が訪れる、そんな夢想を運んで来る。それが、雪の、雪たるべき、人を待ち、語ってくれる、生と死の狭間の、混沌まみれでしかない、人の一生、、生きる責任と、死する自由、、その、虚しさの忘却を語ってくれる、こころである。

 尚も、雪は、語る。

 考えるという事は、〝自身は自身をどう想っているか? 〟 考えるという事から始まる。目先の充足を考える事は、思考に非ず、先見とは無縁の、欲のままの選択のオポチュニズムに過ぎず、先の矛盾を生み出すだけである。負の、拡大解釈を。〝どうしたいか? 〟 ではなく、〝どうすべきか? 〟 を第一に問う以外に、第一はない。過度の好き嫌い、り好みは禍根を遺す。

 ただ……待つしかない。待つしかないのだ。辛抱に辛抱を重ね、それなのに堕ちていった雪の悲しみとて、きっと、暖かい春を、待ち望んでいたに違いない。白い決心は、乗り越えなければいけない。雪の山脈を、飛び越えなければいけない。春は、近い。悲しみの雪も、やがて、融けもしよう。融ける、必ず……融けてゆく。そこに見えたこころを、真に、大切にしたいものである。失われた時間は、再び、創れる。新しく、生まれ変わる。そう、信じたい。

 ……さるにても、完結の見えない、さればこその都会の雪に、都市機能はおろか、人心さえ混乱を招き、自然の、広大無辺の静寂の懸垂幕たる、必然の所作の下、不意打ちに慌てふためく、人間の身勝手、寒中の過熱の、無情な営為を、雪は、素知らぬ冷たい顔をして、完結の兆しも見せずに、ただ、降り積もってゆく……。

 忘却の、薄ごころの、美しい、その雪である。


〈ただ、忘れたい、、、逢いたい、、、許して、欲しい、、、〉


 雪は、まだ、黙ったまま、何も、語ろうとはしない。




 その、雪景色を眺めながら勤務中の、ある日の慎一であった。

 東京地方の昨夜来の降雪は、目黒の街にも、朝には約三センチメートルの積雪をもたらし、起床間もない喫驚に始まった、一日であろう事は、何も周藤家のみならず、渋谷駅の、いつにない混雑振りが物語っていた。かくも東京は、雪に脆弱である。

 這々ほうほうていで現場に辿り着き、雪を踏んで来た不安定感が、まだ足蹠そくしょに遺り、今日の日勤の座哨ざしょう業務に癒されていた。一食分だけのバッグの重さも、


〈こんな日には、幸運だったかも知れない……みはると省子が聞いたら、何て言うだろう? 〉


 などと空想しながら、満腹を渇望する胃袋は、それでもとにかく嬉しくてたまらない、でっかいおにぎりも、やっつけるように平らげて、


〈もっと全面に海苔をくっ付ければ、でっかいかたちが崩れずに済むのになあ……〉


 と、早くもわがままなひとり歩きであったが、物憂い午後の直中ただなかである。明日から週末、土日の連休、併せるように慎一も、公休の連休、シフトの谷間が訪れる。その所為せいかして、いつになくのんびりムードに浸っている。

 降雪もうにピークを越え、ほとんど止んでいる。空も明るみ、その、雪の反射に否応なく、世界は更なる白色光の横溢に、見せ場の座を譲ってはいたが、たまの悪天候時の、省子の電車通勤の不慣れを、今以て慎一に心配させるかのように、時折、淡い風花かざばなが、気まぐれて舞い踊る。如何にも渋谷は、混む。路面に目を移せば、濡れたアスファルトの、暗黒色の縦縞を露わにする、安全地帯の領域が、おもむろに、勢力範囲を巻き返している。

 そんな優しい想いやりは、やっぱり、どこをどうあっても、絆という概念に、慎一を導く。懐かしい故郷が、忘れられない。失くせない昔の面影が、眼前に彷彿とする。素顔の、自身が、、、。


 ……絆とは、土。

 愛によって耕された土壌。

 草も樹も、土を想う。

 憧れ、求め、根付き、

 更に、伸び盛りたい、

 そして、花も、実も、付けたいこころは、

 愛という、土壌からしか、生まれない。

 草樹を育てる事が愛なら、

 それは、取りも直さず、

 土をも、その愛が、育てるという事。

 その種子は、言を待たず、

 持って生まれた、受け継がれたもの、

 よって、愛と絆は、正真正銘の、

 イコールで、直結する。


 この、絆を考える時、愛ある土壌を想う時、現実問題、処世そのもの。第一に、〝自身は自身をどう想っているか? 〟 、我れ想う故の我れを、成立させる為の、現実的な手段を〝考える〟 という事にぶち当たる。


〈自身は、どうしたいか? 〉


 断じて、これが第一ではない。


〈自身は、どうすべきか? ……である〉


 時に、人間、絆を繋げない場合がある。

 これは、根本的に検証する必要がある事を付け加えたい所である。

 根本。たとえば、順序を間違う。無理が通れば、当然、道理は引っ込む。そういったプリミティヴな問題からひもとかなければ、解決の糸口すら見えず、膠着したまま消え失せ兼ねない。何事にも始まりがあり、初心に立ち戻る事こそ、現実的な手段の端緒であると、斯様かように考える。人間ひとりの存在が、如何に小さく、脆弱で、無力か、自身の過ち、無意味無価値を想い知れば、何れ、大きなものが得られもしよう手掛かりが、返って来るものである。絆とて、失うものではない。無意味とは、無駄である。つまり、シンプルではない。わかりにくい。そんなものを身に付けているから、失くし、得られぬ。自身を難しくして、誰の利益になる?


 人は、微塵みじんの如くあり、微風を怖れる、微々たる一点でしかない。


 恨みごころの、家という概念を忘れがちな、目先の自由に走りがちな、招かれざる微風のいざないを、強いて拒みたいものである。

 憎しみは、嫌いなものだらけ。嫌ってばかり疑ってばかりだけに、自ずと選択肢を狭め、それでもやはり、求めずにはいられぬ人のさがが、好こうものなら無意味もどきとて、忽ち安易に飛び付き離さず、見る目拙き過ちを生む。受容のこころが、豊かな選択、のちの豊かさに繋がる道理を、無視する。好きという事が、如何に大切か……排他が、如何に盲目で、そして、不利益か……シンプル過ぎるロジックである。好き嫌いに非ず、食わず嫌いは大損をする。文句を並べてばかりいないで、何でも良く食らうに如かず。

 幸せとは、融ける事……どこで? 家で。

 家で融ける事が出来ない矛盾は、尚も、排他という外への抵抗、家の風穴を埋めんばかりの虚勢をして、外にて融けようとしがちの、何れ矛盾にまみれたままである。外にも、こころがある。外にどうしたいか? ではなく、どうすべきか? である。そして、家にも、こころがある。隣りに、いる。そばに、いるのではないのか?、、、。


〈俺は、愚かだった……〉


 慎一の、問わず語りの内省模様は、この、雪の中へ、消えてゆこうとしていたのだろう。妄想と理念の狭間を、白く押し黙る反射光にぼかされた、午後のひと時である。雲間から、僅かに冬の蒼天が覗いている。ちっぽけな自身の世界は、その狭さ、偏りを知り、出直すべく晴れて、大きく展がろうとしていた。




 ……半ば待ちぼうけたような、今日の仕事であった。

 目の疲労に年齢を感じつつ、金曜日の帰宅ラッシュの人海を泳いだ、慎一である。いつもの東横線は、真冬の早い日暮れの根元に立ち尽くす、白い街並みの機嫌を、損ねたくないかのように、低速で進行している。

 学芸大学に到着し、週末の、疲れた重たい体を引き摺り、ホームの階段へ向かう、勤め人達の足取りは、今日のこの雪の、最後の難関であるやも知れぬ、滑り易い階段下降を踟蹰ちちゅうして、ホーム上の往来を、やや滞らせてはいたが、自動改札から街へ掃き出された人影を、地元商店街の暖かい店のが、〝お疲れさま〟 の微笑みを惜しまない。

 雪は、眺めている分には、さぞ幻想的ではあるものの、いざ歩くとなると、東京人にはなかなか骨が折れる。慎一は〝みはる〟 に立ち寄り、ママにタッパーを返しながら、居合わせた他の常連客達と、その労をねぎらい合って、銀鱈ぎんだらの煮付け定食、勿論ライスは大盛りをオーダーした。

 みはる日く、

「省子ちゃん、やけに楽しそう……」

 との事。更に、

『慎一さんと、、、雪合戦がしたい! 』

 との事。

 いやはや、やっぱり女性は、笑顔が一番である。


〈いつまでも……笑っていて欲しい、、、その笑顔を守る為に、俺が頑張らねば……〉


 心中、檄文をつづりつつ、時々休める箸の手が、宙を彷徨い、その先っちょが、何重もの丸をぐるぐる描いている自身を、うちなるもうひとりの慎一が、観念したかのように、黙って少しニヤリとして眺めている。

 その笑顔のまま、カウンター内で忙しく動くみはると、時折目が合う。互いに無言で頷き合えば、尚も食欲をそそられ、味噌汁にむせるありさま。気が置けぬ我が家そのものが、慎一そのものを、充満させてゆく。如何にも、幸せであった。

 みはるを後にし、路傍に吹き溜まる、数日は融けずに遺るであろう、ややかさ高く積もった雪を、横目に置きつつ、満腹の慎一は、ひとつひとつの店の軒先からこぼれる、明かりの横列を受けて光る、路面を気にする事もなく、いつもながらにゆっくり流れる、人波の中に融けてゆく。

 みはる、省子母娘おやことの仲が深まるに連れ、この夕食後の、さして大きくはない、むしろ小さい、川の流れに押されるが如き帰り道が、好きになっていった。時の趨勢に歩みを合わせ、胃の消化の一助とも想える、一時いっときの弛緩は、由美子への気兼ねを封緘ふうかんして、流れのままに大海へ注ぎ、で交じらわんとする夢心地が、足取りに現れている。口の中に、まだ、みはるの優しい味付けの、料理の香りが遺り、明日からの自身の連休の、平穏の先触れたらんとした円やかさを知るに付け、目尻が下がる。週末の空夜も、季節の美しい営みの布教をうに終え、雪雲とて既に過ぎ去りし証しの、星の等輩とうはいちりばめて煌めく、真冬の、吸い込まれるように黒々と響き渡る夜の顔を、あまの原にかたどっている。微動だにしない、透徹した夜である。


 ……夜闇やいんの傘下に置かれても、今となっては、慎一は、平気であった。

 自宅マンションに着き、エレベーターで三階へ昇る。静かに入居者共用廊下を歩き、三○二号室の玄関ドアを解錠した。中へ、、、入った。

 すると、爪先を外の廊下へ向け、行儀良く脱ぎ揃えられた、一対いっついの、男物の黒い革靴が、一畳分程の土足フロアの端で、佇んでいた。自身の靴では、ない。

「誰だろう? ……」

 小さく呟きながら靴を脱ぎ、その隣りに同様に揃え置き、自然と大きくなった目をして、リビングに至ると……

「お帰りなさい。お邪魔してます、お久し振り……」

 誰あろう、義兄ののぼる、いつに変わらぬ明るい、その人であった。

 一瞬、呆気あっけに取られた慎一である。が、すぐに、

「いやあ、お兄さん! お久し振りです、いらっしゃい。おはなしするのも、正月の電話以来ですかぁ? ……聞いてなかったもんで、少し吃驚びっくりしましたよ」

 慎一は、床にバッグを置きながら、述べた。

「さっき、突然来たの……私も、吃驚びっくりした」

 由美子も、正直な感想を述べた。

「いやあ、ごめんごめん。仕事帰りに、自由が丘にちょっと野暮やぼ用があってね。すぐ済んだから、帰りに寄らせて貰ったんだあ」

「そうですかあ、じゃあ、ゆっくり寛いで下さいよ。少々失礼して……」

 慎一は、洗面所でさっと着替え、着ていたスーツとバッグを持って、自室に片付けてから、リビングの昇の正面のソファーに座った。テーブル上には、由美子の手に成ったであろう、数点の酒のさかな類が並んでおり、昇は、

「悪いねえ、もうご馳走になってます」

 と、ビールを口にしながら、相好を崩す。

「いえいえ、今夜は三人で飲みましょう! 明日から連休でしょ? 」

 久し振りに、義兄に酌しつつ話し掛ける、慎一のグラスにも、昇はビールを注ぎ、キッチンで何かを拵えていた由美子も、慎一の隣りのソファーに着座して加わり、

「、、、乾杯!」

 兄妹きょうだい三人、声を揃える。

 三人共、大して強くはない。ましてや、明るい気さくな人柄とはいえ、昇は公務員である。生真面目にキャリアを積み上げて仕事一筋、数年後には、満六十歳の定年を控え、やっと人生にひと区切り、といった充実の気が、その、人となりから感じられる。柔らかな物腰、人をふんわり包み込む事の出来る、それでいて、芯の逞しさを漂わせた、人品骨柄卑じんぴんこつがらいやしからぬ、還暦手前の白髪がちの紳士である。

 年齢が離れている所為せいもあり、そんな頼れる兄を、父のように慕う妹の顔を見る為だけの、


〈今夜の、、、突然の訪問ではあるまい……〉


 慎一も、由美子も、直観を禁じ得ない。

 昇とて、ベテラン。

 その空気を、逆撫でしないように、さり気ない言葉の選択にも、合目的的ごうもくてきてきなニュアンスを含ませようとしていた。見えない綱引きを強いられているかの感が、夫婦の酒を、、、進ませない。尤も、イケる口ではないにせよ。


 ふたりは、兄の、優しい追及を、待つしかなかった。


「慎一君は、少し肥ったよね? 」

「そうなんですよ! やっぱり、わかります? 」

 慎一は、少々、やましさを覚える。

「歳だから気を付けてって、言ってるんだけど……」

 チラリと、慎一に一瞥を寄越す由美子である。

 昇は、由美子が、慎一の為に食事を作らない事、その他、夫の身の回りの世話を一切見ない事も、充分に承知している。慎一は、久し振りに一杯み交わす、柔和な面持ちのままの昇の目から、自身の視線を逸らせない。それは、由美子とて同様に、昇の目に映る自身の表情、殊に、目の佇まい、そこから汲み取れるこころ模様をうかがう、兄の洞察力に溢れる、それでいて優しい眼差しが……


〈次は、いつ? ……〉


 自身に向けられるか? 夫婦は、ただ、待つばかりである。吊るされっ放しの、季節外れの風鈴が、音もなく、なぜかしら、揺れている。

 ビールを傍らに、美味そうに妹の手料理で飲みつ食べつする、昇の、上品な咀嚼そしゃく音に憚るかのような、控えめな食べ方のふたり。夕食後間もない慎一にとっては、ますます肥えてしまいそうな、想い掛けない今宵の酒宴の趣向は、この席を囲む三人それぞれが、ぎこちなさを押し隠しつつ、それでも本音の吐露をいとわない、いっそ、本心の表白とて辞さない、嘘偽りのない、兄妹きょうだいの絆を確認し合う空気が、如何にもの感で、弥増いやましてゆく。

 それは、それが、当然の事なのである。

 真実は、ひとつしかない。

 真実を蔑ろにし続けた結果、かくの如き、夫婦関係の瓦解という現実を招いたのだ。真っすぐであり続けたいと願う余り、じ曲がってしまった、、、。


〈もう、曲がりたくない……曲げては、いけない……いけない……〉


 慎一は、ただ、強く、その、一念のみになってゆく。

 自らに言い聞かせ、「NO」 の意志を、何度も何度も、読み込んでいた。

 遠慮がちな酒は、みはるでの満腹の所為せいではない。昇も由美子も、夕食直後である事は、知っているはずである。兄は嬉しそうに、妹は静かに、横浜の実家の話題を語り合っている。由美子の顔ばせは、時折笑顔がひらめき、昇は、その反応をお代わりしたいのであろう、目を細めたまま、尚も愉し気に話している。由美子とて、段々と崩れゆき、はぎょうを頭に発する感嘆詞を連ね、その声色が、いつもとは違う。アルコールが、今日一日の疲れの表白を促し、この空間にまたたく六つの瞳は、潤み、そして、融けていった。

 慎一は、自らのこころの、全体の流れが、戻ってゆく、遡ってゆくかの如き意識を否めない。それは、省子を想う時、実際に省子と接している時の、常に先を、その先までをも窺う、善かれとする意識とは対照的な、どうしても後ろ向きな、禁忌に触れんばかりの、暗渠あんきょに迷い込んだような感覚を、持て余していた。口に含んだビールを、すぐさま飲み下せない。舌の上に置き、口の中の時間を長く取る事で、無意識に、自身の内面の均衡を保っていたのかも知れない。よって、温まったビールは、美味い訳がなく、ただ、微苦ほろにがい。鼻腔内を、ビールの香りが抜け続け、洗われているだけである。

 そして、戻るに戻り、遡るに遡り、深まる一方の内省世界の果てに、泣き続けた証しのように、本心に巡り逢い、省子なる存在に、自らの、新たなる意義を、存在理由を、つまり愛を、見付けていたという真実……相互に、精神的支柱たらんとして、お弁当の援護を受けている、既成の事実……動かし難いものばかりである。現在進行中のものばかりである。


〈……これ以上、黙っている訳にはいくまい。どの道、いつかは、言わねばならない。その、いつかが、今、到来しているのではないのか? 今、正しく今こそ、言うべきではないのか? ……今を以てして、告白すべきである。今、告白しなければ、、、ならない! 〉


 まだ省子には、自身とのふたりの将来について、具体的な内容の話には至っておらず、先ず以てこの告白が、その、顕現化への第一歩である事は、間違いない。そう覚悟する他に、道はない。降って湧いたような、この好機チャンスを掴まえる事により、一気の進展を期すべく、省子にもみはるにも、誰にも断わりもなく、妻のそしり、義兄の鉄拳制裁にも臆せず、四十男の決意は固まった。いざ〝鎌倉〟 であった。さいは投げられた。勇気に、、、奮い立つ。併せるかのように、体温が上昇する。動悸が、早鐘はやがねを打ち鳴らし始め、、、亢進、全身に響き渡る。ただ、省子の笑顔だけが、浮遊している。部屋の空間識とて微睡まどろみ、切り取られ、夜闇やいんの波間を漂う、自宅の四角い小箱の船の、その、止まりつつある錯覚に、かえって息づかいを楽にした……慎一である。

 胸が高鳴るにもせよ、不思議と冷静な自身が、頼もしい。東横線の走行音が、遠ざかってゆく。船は、何処いずこへ漕ぎ出そうとしているのだろう? ……。

 周藤慎一なる存在に宿る、芯のうずきが止まらない。もう、抑えられない。抗し切れない。目に見えない、温かく大きな塊まりが、慎一を押す。包み込むように圧を惜しまず、掛けるだけ掛け、押しに押し、それは、突然訪れた。その塊まりは、さるにても、、、美しかった。その余韻が、長く尾を棚引かせる……。


「兄さん、由美子、正直に打ち明けたい……」

 兄妹きょうだいは、一瞬、顔を見合わせ、威儀を正した。

「実は、申し訳ない事は、重々、承知しています……」

 慎一は、想い詰めたように、一旦、話を切った。ふたりは黙ったまま、ほんの少し頷き、続きに耳を傾ける。固唾かたずを呑んだ理由は、静かに、まだわからない、何等かの、反省の弁の披瀝を予想している事は、明らかだった。

「真剣に、交際している女性がいます……」

 その言葉に、忽ち空気が一変した、、、。

「本当に、申し訳ありません! ……」

 兄妹きょうだいは、揃って絶句したまま、一瞬にして空白に塗り潰された、相形そうぎょうとどめ、立往生するだけである。束の間、流れが遮断され、三人共、息を詰めずにはいられない。全身のざわつきが、次第に桎梏しっこくの重さに変わってゆく。

 やがて、その気色は、見る見る内にうねりを上げ、兄妹きょうだいそれぞれの口をいて、出るか出ないか、正に寸前の所で……防波堤に砕け散り、理性の富饒に呑まれ、怒濤たるを宥める、溜め息交じりの短い言葉にり替わった。あえて抑えて、訥々とつとつと、、、

「どうして? いつから? 」

 そして、

「何で? 」

 当然、

「妻がありながら……」

 背信行為の、社会通念を逸脱した者への、断罪の攻め手であった。

 慎一は、甘んじて、針のむしろに座するしかなかった。

 みな眉間みけんを皺立たせ、口を固く結び、俯き加減の目元は、まばたきの頻度さえ低下し、その回数を数えるように、緩慢な動作に終始している。体の前で組み、膝の上に置いた、自身の両掌の甲を、じっと見つめるばかりで、天井の照明をも鬱陶しがり、目線を上げられぬ、曇るに任せた表情でこわ張る。

 ひたすら無言を貫く三人は、甲の筋立ちから、何を読み取ろうとしていたのか? そうする内に、兄妹きょうだいほこは、一応収まりの感が見える中にも、何の前触れもなくエアポケットに突入し、その不用意を想い知らされた体は、拭い切れない。そして、虚像に過ぎない周藤家の実態、それを虚勢で覆い隠すという、非合理な世間体、更に、それを頼みとするしかない、脆弱な基盤の上に、兄妹きょうだい連合軍は成立している事を、、、忘れてはいなかった。

 慎一の告白の二の矢を怖れ、その準備に余念がない昇と由美子の葛藤を、慮る礼儀に、慎一は、畳み掛ける無礼を制止し、隙間に三人前後して、長い溜め息を挿し挟んだ。


 慎一には、ストレートという、最短距離の強みかある。


 ストレート主体の独自の哲学。自身はどうしたいかに非ず、どうすべきか考える哲学。つまり人間支配。自身という存在を支配する、コントロールする大切さに気付いたのである。そこには、目先の自由や虚勢なる概念は、無意味もどきに他ならず、もっと大きな自由、愛、そして幸せの三者が、堅固なイコールで結ばれ、シンプルな相を成していた。

 夫婦関係の破綻、修復不可能な、厳然たる事実が存在する。別々の道を模索し、それぞれが幸福を掴むべく、慎一の場合、ストレートな手段に打って出た。非常識不見識のそしりは、既に織り込み済みの反応であり、それが、たまさか今夜のこの時であった。水面下の背信行為は、妻帯者という現実と、スパンの重複の過渡期に当たっている訳であり、それについての怒りも至極当然、誠意ある謝罪を要する事も、覚悟の程を持している。そんな強い意志が、やけに慎一を落ち着かせていた所以ゆえんであった。


〈エゴイストと罵られようが、それでも、構わない……〉


 来るべき時が、来たのだ。来るべきものは、やはり必ずやって来る。不可避なる生涯の関門に、慎一と由美子は差し掛かった。昇は、口を閉ざした切り、ただ見届けるばかりの風情を崩せずにいる。由美子とて、、、言葉を失くして久しかった。

 ……どれだけの時間が、経ったのだろう? もう、、、こうなっても、仕方がないのだ。誰ひとり、何も出来なかった。どうしようもなかった。大人ばかりが顔を揃えているのに、結局、無策。己の無力を痛感するのは、この場の三人だけに非ず、両家一同悉く、その意を同じくする事であろうと想えた。みんな、「やっぱり、しょうがない……」 と、さぞ、悲しむ。

 慎一と由美子は、良い歳をしていまだに親不孝な自身を、


〈呪いたい……伊達だて図体ずうたいばかり大きくても、中身は幼なかった。立派に自立したような顔をして、その実、自立出来なかった。共同生活には、不適格な人間だったのか? ……〉


 自責の念が、追いまくる。昇とて、何もしてやれなかった自身に、羞じ入るばかりである。

 鉛の足枷あしかせに繋がれたような沈黙は、とかく双方に潜行しがちな、交渉の筋読みの間隙すら与えず、勢い、真実から目を逸らす事の出来ない、根本的な局面を迎えている事実を、雄弁に物語っていた。退きならぬ小田原評定おだわらひょうじょう然たる予感が、三人の心胆に、深く、刺さる。それだけ慎一の行動は、強烈なインパクトを及ぼし、無条件ではないにせよ、他に、選択の余地もなく、最早、黙認せざるを得ない、説得力を備えていたのである。つまり、形骸化してしまってはいるものの、由美子の、妻として、いては大人の女としてのプライド次第という、止むを得ぬソフト・ランディングの筋立てを、実の所、昇と慎一は、由美子に気付かれまいとする、優しさのうちに秘していたのであった。

 それ故に、、、沈黙を、盾に取る必要が、あった。

 その優しさを、、、実は、もう既に、由美子とて当然、悟っている。


〈……どこをどう見ても、もう、許すしか、諦めるしか、ない……〉


 宙ぶらりんの、余りに身も蓋もない議論を回避したい、歴とした一人前のふたりの男の優しさに、気付かぬ由美子ではなかった。それに併せるかの如く、優しさは優しさを喚び込んで重なり、三人模様の、本当は物柔らかな、そんな沈黙を演じていたのであった……無言の底流には、それぞれの、妥協の見つめ合いが、横たわっていた。

 漆黒の夜のとばりの、しずかな息づかいの根元にわだかまる、微細な一点の如き、この小空間の想いの連帯は、まだ融けらぬ、降り積もった今日の雪に明るむ、目黒の街の気に吸い込まれ、口説かれ、大人しがる素振りを見せながら、新たなる船出を、今という今、果たそうとしている。真白き雪明かりの見送りの中、慎一と由美子は、それぞれ別々のどこかへ、漕ぎ出す時が来たのである。そうするしかない。それが、一番良い。昇にも見守られ、夫婦の想念は、優しい沈黙を以て重なり合ったように、それが呼び水となり、迎えられ、はっきりと意識の一致に至ったのも、自然な成りゆきであったろうか。最後の最後になって、りにってこんな事で、互いのこころが……


〈手に取るように、本当に、、理解、出来た……〉


 昇の前であっても、もう、関係なかった。

 慎一が、静かに、、、重い口を、開いた。



「離婚して欲しい……」



「……」



 兄妹きょうだいは、予想を裏切らない、自然な無反応という回答であった。最早、驚きはなく、小々波さざなんでいた水面は、凪いで、音もない。

 義兄の面前を物ともせぬ発言が温存する、真剣味に圧倒され、非礼どころの話など吹き飛ばされ、慎一の中にある、真っすぐな一本道の存在を、認めざるを得ない、畏怖の無反応であったのだろうか? 当の慎一とて、粛然たる想いに、体中にかすかな震えを溜めている。

 三人は、まだ、顔を上げられないままの姿勢を動かせず、自身の手の甲を見つめるだけである。いささか眩しいとも想える、部屋の明かりは、閉め切ったカーテンの向こう、窓の外の雪景色ごと、この部屋の中へ誘い入れたかのような、聡明そうな眼差しで、慎一の決心を見下ろしている。それは、由美子の反応に、本心からの言葉を求める、白い光であった。

 加湿空気清浄器の、低い運転音が、何言かを囁き続けている。時に、環境なる物柄は、しばしば想いあぐねがちな人心をよそに、その当たり前の活動を、律儀なまでに感じさせる、主張を止めない。慎一と由美子の、自身に無抵抗であった、過去の証左の表出が、正に今のこの時の、儚い抵抗そのものである事を、知らしめるように、嘲笑しているのだろうか? 図らずも、青銅の風鈴の音さえ、疎らな声で介入を匂わせている。

 由美子の心象世界で蠢動しゅんどうする意識は、確かに、察するに余りある、名状し難いものである事に相違ない。十六年分蓄積された想いは、そう易々と語れまい。


〈ただ、、、今は、、、それでも、その、ほんの一端で良い、何か、何でも良いから、嘘のない、言葉が、欲しい……〉


 ふたりの男達。昇も、慎一も、今となっては、真のこころの声しか望んでいない。つい数分前、慎一の手で、真実のこころを鷲掴まれたばかりである。出来る事なら、その感想としての、今、出来たての真新しいこころを、聞かせて欲しい……。

 打ちひしがれた由美子は、もうただ、申し訳なさで一杯だったのだ。自らの不手際をわかっていながら、長年に亘って放置した為に、かくなる事態を招いてしまった、責任の重圧に押し潰されていた。諸刃の剣のきっさきが、自らの喉元に突き付けられたのである。なぶられるように、悲しみの波濤に丸呑みにされ、洗い立てられ、事ここに至っても尚、無抵抗な自身の無力に、奈落への暴落と反騰の危殆きたいに瀕し、辛うじて、ソファーに獅噛しがみ付いていた。


「うっうう……」

 昇と慎一は、暫く振りに視線を移すが早いか、既に、その、小声の主の由美子のまなじり一杯に、照明の白い光を宿した潤みの小々波さざなみが、縁取られて溜まり、我慢出来ずに別離わかれを惜しむかのような、落涙のひとすじの痕が、やや蒼褪あおざめた両の頬を濡らしていた。


「……ご、ごめんなさい……慎一さん、本当に……ごめんなさい……ううっ……」

 やっと絞り出した言葉は、忽ち嗚咽おえつに掻き消され、部屋中が、その哀泣あいきゅうに包まれてゆく。不覚の涙は、今日の日中の雪の如く、由美子の想い詰めた、粘着質のこころをも、その中に、、、忍ばせる。震える長い黒髪の、ばらける幾すじの先細る想いが、引き留められぬ、去りぎわの悲しみを手繰る今更を、虚しくち切るような自身の吐息に、尚、迷い揺れている。


〈……妻でありながら、夫である慎一さんに、寂しい想いばかりさせて、私は、妻として、夫の為に、妻らしい、、、一体何をしたというのか? ……妻として、夫である慎一さんの、何を知っているというのか? ……それでも、妻といえるのか? 妻の、、、資格があるのか? ……〉


 歔欷きょきするばかりの由美子が覚えたものは、夫婦の最終章の直中ただなかに、自身が直面しているという、動かし難い事実だけであった。三人の中にいながら、ひとりぼっちであった……自らの手によって拵えてしまった、見えない隔たりの陰で、更なる孤独という、自らに向けたやいばと、不毛な一戦を交えざるを得ない立場に、追い込んでしまった。

 ……しかりといえども、慎一だって、昇にしても、本来、人はみなひとりである。所詮、ひとりなのだ。であるから、どうすべきか? 真剣に考えなくてはいけない時が、到来したのである。


〈……由美子よ。涙を納めて、再びて! 歩き出せ! ……〉


 実兄は、妹へ、こころからのエールを贈り続けていた。

 歳の離れた妹が、心配で、可愛いくて仕方がない。兄として、出来る限りの事はして来たつもり、今後も勿論そのつもりである。全く、世話の焼ける、しょうがない妹である。そこが可愛いくて堪らない、放っては置けないのだ。どんな事があっても、とことん面倒を見てやりたい、親同然のこころを供される由美子は、この上なく幸せ者であった。兄は、いつでも、妹の強い味方である。

 昇は、こころの中の呟きが、、、止まらない。


〈再び……一から始めるしかないだろう。かつて、そうして来たはずではないのか? いつでも、どこでも、何度でも、手を延ばせ。そんな事は、誰だってわかり切っている。たとえ、今は忘れてしまっていても、きっと、想い出す。人は、求める生き物なのだから……そして、兄は、いつもそばにいる……妹よ。君は、決してひとりではない。兄の事を、忘れるな。君がいたから、俺は、幸せに生きて来れたのだ。その、幸せの、最大の功労者は、いわずもがな、両親である事は間違いないにもせよ、家族の一員である君とて、、、確かに、揺るぎなく、、、俺の生涯を、幸せにしてくれたのだ。忘れようはずもない。こころから、感謝している。その妹が、こうして、悲嘆の涙に暮れている姿は、俺も、身を切られる想いなのだ。だから、微力ながら、こんな兄で相済まぬが、それでも、、、力になりたい。再び、君の笑顔が見たい……笑っていて欲しい……〉


「……兄さん……」

 由美子は、

 忘れ掛けていた視野の中に、昇を見付けたかのように、悲痛に歪んだ表情をこらえ、兄の方を向き、目を合わようと、、呟く。昇も、顎を突き出して、正面から、それを迎え容れるべく、首をじり、黙って、そして、、頷いた。

「これから暫くの間、私を、実家に置いて貰っても、良い? ……お願いします……」


「……」


 昇は、再び、黙って頷く以外、納得出来なかった。


 兄妹きょうだいは、互いの瞳という、小さな鏡の世界で、冷たく灯る白光を背に、その中で、泳ぎ疲れた面差しを映す自身を、憐れみ合っていたかの、疎遠であった視線の一致が促したように、自然ともいえる、傷心の妥結を見い出した。

 傍らの慎一は、その気運を、敏感に察してはいるものの、まだ、顔を上げられず、凝り固まった風情の耳元が、兄妹きょうだいの会話をり過ごすだけであったのは、やはり、疲れてしまっていたのである。十六年分の疲労の、一気呵成の掃討に、どうしても、緩まずにはいられなかったこころが、や、安心へと倒れ込んでゆく。とにかく、何もかも、、、疲れた。こんな身勝手な早合点すら、自由にさせて欲しかった。まだ、幾つかの山もあろうに、歴とした安堵の内的占領に、降伏の白旗を掲げた。生まれて初めて、


〈安心とは、疲れるものなのか? ……〉


 何年振りの、自宅での安心であったろう……。

 そして、その解放感の自戒自粛を諭す、今日の雪であったと、考えねばならない。はしゃぐ年齢でも場面でもない、大人の弁えを、この雪は語っている。優しさも寂しさも悲しみとて、雪の御心みこころのままに、悉くを受容し、それから何れ、消え去る、無に帰する。それでも……人への想いは、遺る。臆せず憚らず、人への礼節を惜しんではいけない。それが、道理というものである。

 十六年もの長きに亘り、それでも、事実、夫婦であった。婚姻関係を結んでいたのだ。有名無実の間柄ではあったものの、ひとつ屋根の下で、共に暮らして来た事は確かである。子を持たぬ寂しさを分かち合い、互いの自由を尊重し合い、自己保身に走り、愛を失くし、孤独に甘んじ明け暮れた、同じ歴史を刻んだ、同じこころを持つ、正しく、同志であった。


〈……んなじこころを、知っている。知っている……寂しさを、悲しみを、知っている。それなのに、、、別離わかれる……別離わかれなければならぬ、別離わかれるしか、ない。寂しさや悲しみは、たとえ共有する事があっても、その、こころの芯に同居する愛までも、必ずしも重ね合わせる事は出来ない。むしろ、愛を希薄にし、追い出し、自由も幸せも、人間自身の存在ごと、遠ざけてしまう……〉


 それが、ふたりの寂しさ、悲しみであった。

 負の感情の共同体は、そのこころを知るだけに、最期のこの時を迎え、かつての愛情を懐かしむように、未練の優しさが、、、兆しはだける。


「由美子、、、本当に、ごめん。俺が悪かった、幸せにしてやれなかった、、、本当に、済まない、、、ごめん……」

 由美子の涙はぶり返して、小々波さざなみ、いや、高波は、ひと息で目頭のつつみを駆け上がるや否や、忽ち呑み込み、両の頬は、一面の涙景色に濡れ尽くされていった。小々波さざなみに非ず、悲しみの波濤の、吠えるに任せた、波頭の無念を飛沫しぶく威勢に付き従い、由美子の慟哭が、この空間に響き渡る。


「うううっ……慎一さん、ごめんなさい、ううっ……私が、私が悪かったの……うっううう……」


 昇も慎一も、泣いていた。

 泣かずには、いられなかった。

 妻をこんなに悲しませ、泣かせてしまった原因、及び責任の半分は、慎一自身にある。しかしながら、その半分の罪さえ、慎一は、先々の希望なる、恩赦を賜ったようなものである。対して、一方の由美子は、十六年分のそのまんまの悲しみの、大地の深層に眠る、永久凍土よりも冷たい業火ごうかに炙られ、魂が抜け落ちた想いであろう。昇と慎一の想像を絶する、精神性の深淵に、今、由美子は、立ち至っているのだ。


〈……兄として、ひとりの男として、何か、出来る事はないだろうか? ……〉


 子供のように泣きじゃくるばかりの、か弱いひとりの女性に対して、大の男ふたりが雁首がんくびを揃えて、為す術もなく、ただ、見守るしかなかった。

 冷たい悲涙を前に、黙って通り過ぎるしかない、通り過ぎようとしている慎一を、その、冷たいひと雫が、、、追い駆け、かつての自身、環境の所為せいにするばかりで手をこまねいていた、無力の失望が、当時とんなじ手で、慎一の魂を掴み、えぐる。全身から絞り出したような、銅鑼声どらごえを上げん程の、その痛みが、、、泣かせる。ただ、涙の中に、、、堕ちる。引き留められた昇とて、ただ、痛くて、辛くて、悲しみのボーダーラインに目線を下げる、兄妹きょうだいの親愛に、悲涙を余りにも深く理解して、ただ、泣いた。

 時間とて、つまずうずくまる由美子に併せ、空々漠々沈々黙々くうくうばくばくちんちんもくもくとして、男ふたりの無力の頭越しに、慰藉の手を差し延べている。今週分の苦心の末に、漸く辿り着いた週末の夜は、月曜日の朝までの、業間ぎょうかんの息継ぎを約束する静寧せいねいに、その懐を寛げ、闇は闇に煮詰められ、濃墨こずみ滴る、さりとて引き締まった深更へ、いよいよ以て極まるばかりである。

 それは、周藤家だけに限らず、ともすればまた別の、どこの誰かもわからない、他人の家からも、漏れ立ち消えた嘆息を集め、無言の意見交換に泣き濡れた、重たい色相かも知れない。


 ……しこうして、、、由美子は、自室に入っていた。

 取りあえずの着替え、身の回りの必需品等を、キャリーケースに詰め込み、横浜の実家での生活、十六年振りの、懐かしい故郷へ帰っての暮らしの準備を整えている。

 もう、こうなった以上、最早、慎一との生活は、限界……であった。

 由美子は、ひたすら無言のまま、その手を休めなかったが、ふと……


〈……あの、楽しかった、、、新婚時代の想い出が、本当に、幸せで一杯だった、あの頃の、、、出来事が……〉


 仕度に忙しがるその手を、強引に掴み、やっとしまっていた涙を、また、引き摺り出し、溜め息までけしかけ、如何にしても邪魔をして、離さない……。

 再び、涙で歪んだ視界は、そのまま、物のかたち、物との距離感を伸縮させ、異次元空間にいるかの如き、浮遊感覚を、由美子にもたらすと同時に、悲しみに抗しあぐねるこころの境界が、不安定な、根っ子を持たぬ、流されがちな生き方への警鐘の意味合いの、その、慚愧ざんぎ、もう二度と、こんな辛い目に遭いたくないと、想わせんばかりの挫折感を、由美子に示すのだが、その為の、仕度の妨害であったのか? 今の由美子には、無論、知る由もない。

 ……横浜で安穏に暮らす、両親の面影とて、、、


〈私の、その、色白の手を鷲掴みして、それでも、親の情愛に満ちた眼差しで、、、優しく撫でながら、包み込む、、、私は、そんな両親の目を、見る事が出来ない、、、どうしても、見れない、目を、合わせられない。ただ、無言で頷いて、微笑み掛ける父と母に、何て言えば良いのだろう? 何を、何から話せば良いのだろう? ……わからない、、、言葉が、言葉が、出ない、、、出て来ない、、、『由美子、お帰り……』。私は、、、父と母の目を、見ている。目を、合わせている。でも、、、何も、、、見えない。何も、、、わからない……〉


 自身の嗚咽おえつだけが、耳に届いている。揺れ動く、涙の波間を透過せざるを得ない、視野の不安は、この時ばかりは、自身の、呻吟しんぎんする声音に頼るしか致し方なく、それだけに、是非を問わず、真実の声が、本心が、露出寸前の所で満を持していた。


「……寂しかった……寂しかったの……うっうっうう……」


 その、、、

 長い間、声にならなかった、でも、今やっと、声に届いた由美子の想念は、実際に嗚咽おえつとなり、リビングで待つ昇と慎一の耳にも伝わり、ふたりの肺腑はいふを張り裂いた。壁を突き抜ける程の悲しみは、もう、時の神の導きに委ねるしかない。それは人知れぬ、合いもんであったのだろうか? ……為すがままの、由美子の武装解除の一部始終に接し、時間を掛けて、慎一自身に於いても、その身軽さを、知る所となるであろうと、義兄弟は、想像に難くなかった。


「ううっ、ううううっ……」

 それは、、、由美子の部屋から漏れ伝わり、窓の外に展がる、一面の白い雪の肢体したいに魅せられ、漆黒の夜闇やいんとのコントラストの、わざとゆき届かぬ素振りの、甘い空隙を嗅ぎ当て、罠でも良いから、逃げ込もうとしていた。いたたまれず、、、


〈早く、、、この家から、離れたい……〉


 白と黒の、相反する豊溢の、それぞれの救済の手を求め、悲しみはやがて、灰色と化し、何れ、消え失せる運命をもいとわず、奥まってゆくのか? ……。

 由美子が、

 自室から現れた。白いダウンコートに、ブルーデニムの身拵えで、シルバーグレーのキャリーケースを引いている。いつに変わらぬ薄化粧の、やや、落ち窪んだ目元が、泣き腫らした抜け殻のような、やつれの充血をとどめた瞳を、可憐いじらしくかばっている。

 それに応じて、昇も、続いて慎一も立ち上がり、昇は、紺色のコートに袖を通しながら、

「じゃあ、慎一君、俺達はこれで……。とにかく、話し合おう。いつでも連絡下さい、ねっ。俺もそうするから、、、よろしく、お願いします……」

 ボタンを掛け終わる昇を待って、慎一は、

「お兄さん、、、本当に、申し訳ありませんでした、、、。何と言えば良いか、、、言葉が見付かりません。ただ、、ごめんなさい……」

「うん、うん。まあ、、、ハァ、、、仕方ないよ。もう、仕方ない……」

 大きな溜め息を交じえ、昇は、精一杯の理解を示した。今後の行方ゆくえを案じての言葉のニュアンスには、強烈なまでの、昇個人の本心の匂いが立ち込めていた。慎一の真実、本心は、昇の本心によって救われたかたちになった。

 そして、もうひとつの本心の主、その由美子は、ゆっくりと、慎一の真正面、腕を伸ばせば肩を掴めるぐらいの、パーソナルスペースへ侵入を果たした。それ故に、やはりどうしても、互いの瞳を見付けて、そのまま立ち止まらざるを得ない。数年振りの、この距離感に、ふたりは懐かしさの余り、自身のうちを長年縛り付けて来た、頑丈な縄手が、不思議と、、、自然に解かれてゆくような、、心地に目覚め、相対する肉体の、忘れていた、知らなかった真実、年齢が刻んだ、変化に富んでいるやも知れぬ真実を、互いに、、、探し始める。

 何ものとてはさまず、ふたりの間には、乗り越えるべき、何の障害もなくなり、消えてしまっていた。消えてしまった……。良くも悪しくも、いも甘いも、白も黒も曖昧も、あれ程までに自身を苦しめた孤独をも、もう、延伸する事を止め、ある頂点を境に、かつての煽りの、下降疲弊の感覚が、、、この、正にこの、互いに見つめ合っている刹那、不意に、急速に焚き付けられ、目に見えぬ鬼火に、、、姿を変えた。


 それは、、、喪失感であったろうか? ……。

 由美子の、無言の、心内モノローグ。


〈……最近肥ったのは、きっと、恋人のこころのご馳走の所為せいね……これ以上、肥らないで。その人に嫌われます。あなたは優し過ぎるから、気苦労で、ほら、こんなに細かい皺がいっぱい……それも、みんな私の所為せい……慎一さん、、、本当に、ごめんなさい。寂しい想いばかりさせて……私は、悪い妻でした……。でもね、新婚時代、若い頃は本当に楽しかった。私、世界一幸せだと想ってたの。冗談でも何でもなく、本気で。残業であなたの帰りが遅い時だって、ずっと、待ってた。ずーっと、待ってたんだよ。『ただいま! 』 って帰って来た時は、本当に嬉しかった……。私、そんなあなたに、良く抱き付いてたよね。あの時の、あなたの温もりと、汗の匂いが懐かしい……今でも、覚えてる……。ねえ、あなたが、サイクリングで怪我をして、帰って来た事あったよね、覚えてる? あの時は、、、理由も聞かずに、『無責任だ! 』 って怒ったりして、ごめんね。故障して困っている、見ず知らずの人の自転車を、修理してあげてる時に、逆にあなたが手を切って、五針も縫ったんだよね。何かさあ、慌てん坊で、如何にもあなたらしくって、困っている人を見ると放って置けない、そんな優しさが、好きだった……私、あなたが大好きだった。いつも、ずーっと、待ってたんだよ……待ってたの。それなのに、好きなのに……どうして? ねえ、どうして? ……振り向いてくれなかったの? ……手を繋ぎたかった。公園でキャッチボールがしたかった。もっと楽しい想い出を、たくさん作りたかった。そして、、、抱き締めて欲しかった……。慎一さん。あなたには、本当に良く笑わせて頂きました。どうもありがとう。だけど、、、もう、、私を、笑わせてくれる事も、これで、完全になくなる。私達、子供だったのね……もう、終わったのね。あなたを、ずーっと、幸せにしてあげたかった。もっと、愛したかった。愛さなければいけなかった。ごめんなさい……私が、馬鹿だった……。私の事なんか、早く忘れて……幸せになって欲しい……今は、それしかいえません……〉


 愛を知るこころは、先ず一番に、自身はどうすべきか〝考える〟 というゆとりを教え、その可能性、選択肢の、展がるばかりの豊溢の先に、ここで初めて想い出したかの如き、エゴイズムに満ちた想像の、閉鎖社会に遭遇するものの、常に、自身はどうしたいかという、正反対の焦点の絞り込み、狭めるだけの単なる選択、縮小作業の、矛盾に戸惑い、葛藤し、かつての優しさを忘れ、気付かぬ内に、孤独なる狭量な世界に堕ち、小さくしぼむばかりの自身に、はたと、こころ付いたのである。

 そして、、、

 由美子に応える、慎一の、音のない心象舞台に於ける、ソリスト振りであった。


〈……俺は、しっかり者の姉さん女房には……弱いんだよ。冗談ばっかり言う、まるで子供っぽい旦那を操縦するのは、正直、疲れたかな? ごめん……頼りない男で。その目で、と見つめながら話す言葉に、説得力があったなあ。そんな、見通しているかのような目に、安心を覚えてた。〝この人は、大丈夫なんだ〟 って。いつだったか……ふたりで、テレビのものまね番組を観ながら、夕食を食べている時、笑い転げる俺は、君に、『何か、ものまね出来ない? 』 って聞いたら、あなたは静かに箸を置いて、極めて明瞭かつ事務的なトーンで、『普通に生活してゆく上で、それは必要ない』 って、俺、遮られたっけ、覚えてる? あの時、機嫌悪かったの? ごめん……。その、いつもクールで、気の強い所が、好きだった……。変な話かも知れないけど、〝フンッ、何よ〟 っていう態度が、可愛いくって、君の言葉がそのまま、俺のルールだった。四十を超えた今だって、ほら、こんなに綺麗で……昔から、自慢の女房だった。でも……寂しかったんだね……気付いてあげられなかった、わからなかった……ごめんなさい……。もっと色んな話をして、ふたりで色んな所へ出掛けて、君が好きな映画を観たり、美味しいものを食べたり、旅行も行きたかったな。一緒に温泉につかって、差しつ差されつ一杯って、美しい風景を眺めて、〝綺麗だね〟 って感動して、想いをひとつにして、そして、、、抱き締めたかった……。俺が、俺が、、、悪かったんだ……。もっと、君の、良い所も悪い所も、全部丸ごと、君を知るべきだった……。同じ経験を積み重ねて、だから、喜ばしい想い出を、たくさん積み上げなければいけなかったんだ。愛さなければいけなかったんだ。俺達には、それが、少な過ぎた。夫である、俺の責任だ。妻のこころを知ろうとしなかった、俺が、浅はかだった……。それなのに、君に内緒で、恋人を作って、自分だけ、逃げようとしている。女房を、幸せにする事も出来なかったくせに、女房を棄てて、自分だけ、幸せになろうとしている。俺は、、、何て、何て卑怯で無責任な男なんだ!! ……俺は、どこまで弱いのか? エゴイストなのか? ホスピタリティの欠片もないのか? ……。君が作った料理も、愚痴も、溜め息も、喜びの涙も、悲しみの涙も、君の匂いも、温もりも……その、俺を見つめていた眼差しも、俺を包んでいた笑顔も、、、もう、、これから、遠ざかってゆくんだね……もう、逢えないんだね……。若かりし頃の幸せな日々と、三十路四十路みそじよそじれ違いを、人生の最盛期を、共に歩んでくれて、本当に、どうもありがとう……君も、俺も、確かに、生きていた。一生懸命に、生きていたんだ。間違いなく、俺達は、俺達ふたりは、、、あの時、愛し合っていたんだ。幸せだったんだ。そうだろう? ……。こんなダメ男、早く忘れて、好い人見付けて、幸せになって欲しい。そう願うばかりで、こころから、申し訳なく想う。君の一生を、台無しにしてしまった罪は、深く、重い。本当に、ごめんなさい……。俺には、一生、それしか、ない〉


 昇は、、、カーテンを少しめくり、外の様子を眺めていた。

 昼間の内に、っくに止んだはずの雪が、、、小雪となって、夜の境界を彷徨い落ち、路面とて、再び白くほだされよそおい、この時間にもかかわらず、見渡す限りぼんやりと明るんでいる。


「また、雪が降ってるよ……」

 慎一と由美子は、揃って大窓へ振り向いた一瞬で、そのカーテンの狭い隙間を、直向ひたむきな白い降下と上陸が、占領するさまを知った。世界は、またしても、優しい敗北が始まっていたのである。

 慎一も、厚手のブルゾンを羽織り、


「下まで送ります」

 と告げ、三人それぞれ玄関で靴を履き、由美子は、革製の茶色いロングブーツである。両手には、慎一も見覚えのある、白い毛糸の手袋を嵌めている。

 玄関に佇立したまま、由美子は、去来するものの、計り知れぬ大きさに、早くも、敗れてしまった……。抗しあぐね、それでも持ち応え、涙だけは、、、必死にき止めている。泣きたくなかったのは、意地にもまして、慎一に、もう、これ以上、泣き顔を、涙を見せてはいけないという、最期の、優しさであったろうか。


〈……慎一さん、もう、泣かないで……〉


 という、無言の、呟きであったろうか。

 慎一とて、それは、わかっている。わかり過ぎるぐらい、わかっている。今、こうして観ている、由美子の、真っすぐ整えられた長い髪かたちの、その、黒髪の営み、艶やかで美しい、かつて、慎一の目の前で、腕の中で、匂い立たんばかりに揺れていた、こころの端くれまで……導かれたように、余りにも自然に、意識の表面の一線上に浮かび来る。こころは、語らずとも、言葉なるかたちを成した。

 名残り惜し気な表情をいとわず、由美子は、何かを暗誦しながら、部屋中を見渡している。すがめた目の奥の光が、ありっ丈の記憶に手繰り寄せられた、懐かしさの寂念涔々しんしんたたえ、目元口元を緩ませずにはいられぬ体を、隠し切れない。それは、ともすれば、婉美な回想の境に、陶然とするしかない、ひとりの女に過ぎない無力な存在たるを、教育されている最中さいちゅうの、従順な人間の、美しい姿であった。この時、由美子は、、、愛し合っていた、幸せだった、あの頃の、あの時の、そして、あの瞬間の、、、あの……どこまでも美しかった、さるにても美しかった、そのままの姿とこころで、慎一の目の前に存在していた。それでも、それなのに、これから、、たった今から、、、その、美しいばかりの由美子は、慎一の前から、この雪と共に、静かに、、、消えようとしていた。

 玄関を後にした三人は、廊下からエレベーターへ至り、靴音をひそめて乗り込み、一階エントランスへ出た。忽ち、巨大な硝子越しに、一行の耳目を引き付けずに置かない、夜闇やいんを背後に引き連れた、白の豊饒が、攻勢を欲しいままに仕掛ける。

 無作為に、不規則に、乱れ迷うかの如く見せて置きつつ、無尽たる懐を想像させる、同意服従させる降りざまは、おもむろに密度を増し、休む気配を感じさせない。黒の凝縮と白の拡散が、均衡を保ちせめぎ合う構図は、黒の支配抑圧を、白い閃光せんこうが駆け抜ける、奇襲上陸行動が、自由を求め、共に限られた運命であるだけに、全方向に創造を繰り展げる。

 雪は、白き鶴翼かくよくの陣形を夜空へ架け渡し、魚鱗ぎょりんの如く凝り固まろうとする、深更の集中突進に抗している。雪が、空夜を、優しくしようとしている。白色光の東奔西走が、今宵本来の息づかいを隠したのか? それは定かではない。折節、その呻吟しんぎんらしき一陣の風が、大硝子を叩き、透明なる全面は、既に白い擾乱の痕が生々しい。

 三人は戸外へ出ると、肌はたまらず冷気に痛がり、白く濃厚な呼気は雪を巻き込み、睫毛まつげを凍らせる。白一色の路面は、知らぬ間に二センチメートル程の積雪を以て、人跡を完全に拒み、前轍ぜんてつすら消している。余りの仕打ちに震え縮み、それぞれ急ぎ傘を開き、その陰に逃げ込んだは良いものの、それでも足下から潜り昇り、眼前を遮り流れる雪飛礫ゆきつぶてどもは、悲風に乗じ、三人の魂をも狙い刺す、芯のはげしさを、真綿のような優しい容姿で包んでいても、その、一見崩れそうな空気の隙間が、確信犯的な罠を巡らせ、招きの演舞を想わせ振り、悉くをも誘引する。

 それは、たまさか誰かの頬に、手に留まり、忽ち融け出す儚い生命いのちを仄めかして置いて、その芯の冷たさが、逃れようとする、通り過ぎようとする誰かを……やっと、、、それに気付き、自身の過ちに気付き、だからこそ逃れる、、いや、前へ、先へ、深奥へ、ただ赴かんとするこころを、白い鶴翼かくよくの精霊の、雪山の胴鳴りの如き、枉駕来臨おうがらいりんの風の音の、その冷たさが、どんなにか冷たい、そのこころが、最早根刮ねこそさらい、身じろぎひとつ虚しくさせる。

 雪の目的は、こころは、正しくその成就である事を、人に知らしめようとしている……だから、雪は、降る。降る、降り積もる。

 ふたりのこだまが、、、語る。


〈……もう、既に、決まっていたのだ。決まった事なのだ。決まった事は、決められた、あたかも用意されていたかのような、決まった道を歩まねばならぬ。今更、逸脱する事が、許されようか? 他ならぬ、自分達夫婦が付けた道なのだ。このまま、それぞれ、歩き続けるしかない……〉


「……じゃあ、これで……」

 昇は、紺色の傘の下、静かに告げた。


「気を付けて……本当に、申し訳ありませんでした……」

 慎一の真意に、昇は寂しく笑って、黙礼を納めてから、ゆっくり、、、雪を踏み始める。その右手は、雪で引けぬ、由美子のキャリーケースを、重たそうに持っている。



「……じゃあ、、、慎一さん……」


〈……言葉を、継げない、、、継げない……〉


 対して、慎一とて……



「……」


〈……返せない……返せない、、、返せなかった……〉


 由美子も目礼して、昇の後に続く。初めて、白い禁断の世界へ分け入った、兄妹きょうだいの足跡が、前後して遺されゆく。

 あの、曲がり角。

 慎一が、もしかしたら由美子とて、急拵えの仮面、偽りの平静のおもてに、否応なくほぼ毎日、り替えざるを得なかった、あの、好きになれなかった、曲がり角に差し掛かった、その時……正に、時を得たかのように、、、強かな、刹那の北風に吹き迷い、渦巻き転がる雪のつむじの、その真ん中、街灯の下の明々白々めいめいはくはくたる光暈こううんの、直中ただなかで息吹く中心体が、飄々ひょうひょうと流れ逆らうばかりの音詩に、はたと、、、今更、、気付いたように、見送る慎一へ振り返った……。

 茶色い傘にすがっても、乱れるに任せた、雪粒を含んで煌めく長い黒髪の、その空隙ごと吹き飛ばそうと、はげしく泣きじゃくる風が、慎一と由美子の十六年の全てを、十六年の想いが溢れ返る存在そのものを……抱擁して、、、強く、もっと強く、これでもかと……力を込めて抱き締めて、、、最期の、別離わかれの時を用意した……。

 雪のこだまの響きに、致し方なく距離を置いたふたりは、ただ……見つめ合っている。美しい、瞳をしていた。沈黙するしかなかったのは、この風雪が邪魔をして、いや、、、優しさを見せて、互いの耳に言葉を届けなかったのであろうか? ……沈黙しているように、見える。

 きっとそれは、たとえ嘘で埋めようが、無言を貫こうが、何れ自らをさらけ出せないこころには、それ相応に、同様に処す、あえて触れぬ、知らんぷりの沈黙を供する、真の礼儀、最期の、真の、優しさ……。それなのに、それでも、、、言えない、言いたいけれど、、言えなくなってしまった、言いつ聞きつする時間を、悉く葬って来た、そのままの無言であった。

 ……見つめ合う束の間は、やはり自身をも眺める時間、故の、必要に迫られた沈黙であったろうか? 互いに、自らに問い続ける。

 そして、何も語らなかった、語れなかったこころは、これから、時の旅へ発つ。やがて薄らぎ、薄ごころを以て、遺る。それでも、どんな事があったにせよ、、、遺る。記憶の彼方から、時に、そば近くで燃焼し、時に、その姿をくらまし、忘却へのふちにて運命に怯える、紙一重の想い、薄ごころに抜け替わる。

 顔の回りを這い、群れ集う、雪の蛍に照映する、由美子の白い面差しが、真冬の蠢動しゅんどうたる雪の営為と、自身の悲しみの想念の、なかだちの功罪相半ばする、言いたいけれど言わずに置きたい、それでも何か……言いたそうな顔を作り、慎一とて、それを迎える同じ顔を重ね合わせ、ふたりは、その、今になってやっと気付いた、つまり、最期に遺った、いつにした想いを、、、共に、、こころの中で、囁く。



 ……ありがとう……

 


 あの頃の、あの時の、、、

 幸せにしてくれた、

 あなたを、

 忘れない……



 さようなら……



 良い事も悪い事も、この雪明かりにほだされ蘇る、夫婦最期のこれっ切りが、一度切りの一生の、その終末観を先触れたがる、ノスタルジーを連れ、伴う雪のこだまが、、、風が、、想い乱れ、せぐり上げる。これより先はない、空白の往き止まりは、情け容赦なく浚渫しゅんせつされ、更に濃厚な空白が塗抹とまつする。その咆哮ほうこうが、ただ一面の、自縄自縛じじょうじばくの世界へふたりを導く。


〈やっぱり……やはり必要だから存在する、最低限のロジック。それに、逸早いちはやく気付く為にも、やはりの、謙虚さ。されば、陰徳陽報のカルマの車輪は回り始めよう。不徳陰報のエクスキューズの、非正義非大義とて、やはりの愛に、、、救われよう〉


 ……兄妹きょうだいは、深更の雪にひっそりとする、学大の街に消えた。雪は、慎一から由美子を、しずかに、奪い去っていった。黒い傘を差したまま、我慢を振り切り、その、曲がり角まで、、、慎一は駆け出した。やや弾んだ息づかいの、濛々もうもうと立ち昇る呼気に纏わり付く、霧雪むせつに阻まれ、虚しく足を止めた慎一は、駅方向へ遠ざかる、茶と紺の傘の花の後ろ姿を、天翔あまかける雪の、氷白の御簾みすの中に置き、夜闇やいんに縁取られた、一景の美しい絵画を観るかの如き、もう、手の届かぬ、夢のまた夢、、、故に、旅ごころをそそられる世界の、門口かどぐちに立つ由美子を、や、想像していたのだろうか? ……霞んでせぐくまり、小さくなるばかりのその先で、、、淡くほぐれてひもとき、、白の豊饒に、自ら、冷たい身を融かし出すように消えてしまった……雪にくずおれてしまった残影を……いつまでも、黙って見送るだけであった……。

 由美子は、白く美しい、雪になってしまった……最期も、しずかに、通り過ぎていった。

 慎一は、そのまま立ち尽くし、凍り付いては、二の句を継げるまでもなく、ひとり遺されても、まだ、諦めというには甘過ぎる。


〈……好きだったのに、こんなに頑張っているのに、だから、家も持ち、遺そうとしているのに、それでも、、、愛は、遠ざかる、遠ざかってゆく。別離わかれてゆく。それしか、なかった……〉


 されば由美子とて、さっきから同じ想いを噛み締め、、、復唱黙読していた。

 背中合わせの長い間、互いに、言いたそうな自身の素振りさえ、隠し通して来た想いと、知らんぷりを貫き、知ろうともしなかった伴侶の想いが、この、最終章に至った今、同じ道筋を辿っていた事に気付かされ、その悲しみを知るだけに、相手の本心を想いやれなかった慚愧ざんきが、消え去ろうとする伴侶の肉体から、魂だけは引き留め、それぞれの手の中には、そのままの、剥き出しのこころがあった。同じこころが、遺っていた。首肯しゅこうたり得た。人間は、何はどうあれ、語りたい生き物である。無言というもの程、雄弁な言葉はない。

 幸せは、ひとり歩きを嫌う。当たりの良い、優し気な構えが、とかくそれを利し、その陰に逃げ、自身を甘やかし、想い知る事も、教えられる事さえ拒む、不遜な、不利益な、非生産の弱さ、矛盾という処し難い氷塊を、鞠育きくいくしていたに過ぎなかったのである。生真面目な態度が、諫言かんげんを寄せ付けず、よって、自身に対する優しさが、甘さが、真実を隠す弱さとなり、何ものとて遠ざかったのだ。自惚れるが故の、拒絶、そして、ひとり歩きであろう。

 由美子の旅が、、、始まった。動き出した。まだ、当てのない、遥かなる旅路が。どんなにか、歩いて、歩いて、愚図つきながら、歩き続ける。失われた何かを、探し求めて……。

 恨みごころや拒絶の船は、日常の抑圧故に、コンパスを狂わせ、自身はどうしたいか? どこへ行きたいか? という、目先の自由に真っ先に針路を合わせがちで、本来、最優先であるべき、自身はどうすべきか? どこへ行くべきか? という、広大無辺の自由、生涯トータルの幸せを、あたか相殺そうさいしてしまう。自由なる選択肢を委ねられた、融通が利かない感情は、視野狭窄きょうさくの偏りに気付かぬまま、それでも想いの馳せるまま、この、人生の落とし穴に遭難し、現実と本心の解離の海、自由を使い切ってしまった感覚の、自責の波濤に投げ出され、溺れ、本心は更に妄念と化し、曖昧、無関心、孤独、やがて喪失、果ては忘却の、空虚な海を泳ぐ事にもなろう。

 自らに好都合な部分、切り取った一部分だけで繋がる、共有する人間関係は、その、糸の細さが、たとえば、微細な一点の迷いに対してさえ、他の部分の納得、満足の援軍を得られず、中和相殺そうさいどころの話ではなく、孤軍奮闘にやがて疲弊し、迷いは不安へ、尚も不満へ、果ては不信の塊まりと化し、折角切り取った想いは、切り取られた誇大妄想に変貌し、空漠とした時間軸を、育てる作業だけが遺る。

 何かに付けて、根拠なく敵視する屈折感が、敵から学び、更に、その敵を許そうとする未来志向、いては自身のポテンシャル、愛の埋蔵量までをも危険にさらす。そこに、何の、生産があろうか?


〈……共に、言えない人に、なってしまった……人の話を聞かないから、自らの本心を言わないから、、、そうなってしまった。言わなければ、聞こえないのに、届かないのに、、、聞かなければ、言えないのに……理解者とて、遠ざかる。糸は、切れる。もう、聞いてくれない、言えない……人は、変わる。歪みこそすれ、美しくも。環境が、人を変える。なぜ? 聞いてあげなかったのだろう、、、言えなかったのだろう、、こころの言い訳は、止まないのだろう……〉


 そして、自由の翼が折れた吝嗇しわん坊は、人間誰しも、自由の使い具合に応じて作られる顔、そんな顔をして、どこへゆくのだろう。自身をさらけ出せず、ぽっかり空いた孤独の穴を、嘘で埋めるように、無言で埋めたばかりに、本心を騙した確信犯の罪業ざいごう、喪失のおもてを被る羽目に陥った。

 しんば嘘とて無言さえ、武装は虚しく鮸膠にべもない。他を寄せ付けぬのも無理もない。何ものとて離れてゆくのも致し方あるまい。温厚な人柄の、物陰に身を潜めて育て上げた、自身という非寛容社会の、深い傷を抱えるに至った。真面目さが、ふんわりとした構えが、誰からも放置されてしまっていた。それが、、、自分自身であろうとも……。選択肢を、適宜フォーカスせねばならぬ処世と、係る助言をも、悉く、門前で払い除けんばかりに。親和のおもてを拵えた、拒絶の鬼の如く。


 ……冬ざれを潤す、真白き玉塵ぎょくじんぎ倒され、ここに、こころを通わせた慎一と由美子は、十六年に及んだ夫婦生活に、ひと区切りの終止符を打った。

 言えないこころ、無言を読み取ってこそ、ベテランはベテラン、そして、真の優しさたり得る。言い訳の拒絶の無言と、愛の優しさの無言とを、、、。疑問は自らに向けなければ、垣根は低くならない。こころのキャパシティは、展がりも深まりもしない。転がっているものも、、、見えない、、拾えない。


〈人の事ばかりを気にして、自らを留守にする間に、悉くが、離れて往ってしまう。なぜ? 人の事ばかりに気を取られて、自身のうちを見なかったのだろう。そんなに、人を気にして、自らを気にしないで、何になるというのか? 先ず以て、自らを見つめなければ、他が見える訳がない。初手から他を見る、見てばかりいると、右顧左眄うこさべんの穴に堕ちる。見るべきものは、自らのうちであり、自らの本心を知らずして、何が見えよう? 他人ひとのこころがわからないと嘆くのは、自らの内面を見つめていないから……的を外し、甘やかしている内に、時間は待たず、脆弱な自身が遺る。うちなる本当の自身は、、、周囲も全て幸せたれとする、気づかいの余り、優し過ぎる故に、気が付けば、高潔純粋な自身は、自己不在の難を免れず、、、彷徨いもしよう、、どこへなりとも、流れてゆこうか……他人ひと所為せいにして、それで良いのか? 次は、、、自身を、、どこへ、持ってゆく? ……〉


 寛容気取りは無実の幻。小さく脆い、ひとひらの幻に過ぎない。自身という過剰、言い訳という泡沫うたかたは、たまさか、今というタームに寄生し、それでも確かに、生きていた。それでも良いと、想っていた。うつし世に咲いた、虚像の徒花あだばなの命は短く、それを知りつつも、徒労に甘んじ、次なる止まり木を求めるさがあらがえず、ならば、消える事とて、善かれとしようか……美しいままに、滅びてゆこうか……記憶の、薄らぎの世界で、いざ、生きんとして……薄ごころを、遺して。

 敵は、他者に非ず、自身のうち蔓延はびこる、目に見えぬ矛盾である。今回は敗れはしたが、人生が終わった訳ではない。自身は自身の主人あるじであり、頼りとする所は、自身しかいない。


 由美子は、冬の寂栞さびしおりをこころにし挟んだ、純白の雪の精のように、、、美しい、、ひとだった……。新たなる、本当の孤独が、、始まった。




 その翌日の土曜日の夜、省子は、自宅にていつもながらに親子三人で、和気藹々あいあいと夕食を済ませたち、自室でひとり、のほほんと体の芯を微温ぬるめていた。

 突として、スマホの直電の呼び出し音に、目覚めた。

 画面には、、、周藤慎一の表示が踊っている。

「はい、省子ですっ」

「う、うん……」

 こんな……短いやり取りの中の、互いの声のトーンの落差が、釘を打ったように前置きされた事を、ふたりは反射的に、そして真摯に受け止めた。尤も、慎一は、充分に予想たり得る、現実の成りゆき、その、覚悟の躊躇ためらいを隠せない。省子にとっても、大きな意味を持つ、前置詞であった。

「どうしたの? 何か、元気ない……」

「うん、、、由美子に、、、全て話した。離婚したい事も……出て行ったよ、、、横浜の実家へ、帰った……」

「……」

 省子は、反応出来ず、部屋の壁掛け時計を見つめた。十時を少し回っている。入浴直後のシャンプーの香りを纏っているのだが、部屋中に漂うその気に、不思議なぐらい落ち着かされている自身を、愛おしむかの感覚を、否みようもない。

 ふと、まだ筋書きのない白紙に、筋道をきたい想念が、顔を見せていたのである。この道ゆきの主は、言下に自身と慎一、その慎一に向けて、今、こうして安らぎに包まれている、自身の存在そのもの、自身の全てを、電話口から贈り届けたい、香りに乗せて伝えたい、余裕めく想いが、反応を遮ったのではなく、いわば、態度を保留にしたのであった。


〈もう、揺れない、迷わない〉


 そんなこころを、改めて真ん中に据え直した。

 そして、もうひとつ、忘れてはいけない、由美子へのこころ配りを、更に込めようとするのも、事実であった。夫婦の問題に、口出し出来るはずもない。第一、当の由美子に、泥棒猫呼ばわりされる事は、不可避であろうと想えた。他人の夫を横取りしたそしりは、甘んじて受けざるを得ない状況に、立ち至ったのだ。

 瞬時の大人の対応による、無反応というより、無言。それは、無論、相思相愛の強さだけに非ず、起筆したての、道ゆきの〝青写真〟 を、懐の抽斗ひきだししまう作業も並行して、人知れず、身を引き締めた。

「今後、省子にも迷惑を掛けるかも知れない……でも、、、もう少し、、待っていて欲しい。必ず、省子を、、、迎えに行く。君と、、、結婚する! ……」

 率直にいって、そのボールを投げた慎一は、


〈……少し、早まったか? ……〉


 それを受けた省子は、


〈……これって、つまり、、、プロポーズ? ……〉


 と、揃って、メインディッシュではなく、コース料理の始まり、アペタイザーでお腹を満たしてしまったかのような……


〈こんな感じ? 〉


 に納得すると同時に、


〈まだあるよね?! 〉


 なる、今以上の幸せを、初めて、約束する言葉としての、『結婚』 に触れたのであった。

 それでも省子は、忽ちこころから溢れ出た雫を、目が、、、いつも慎一を想いやる、、その目が、再びこころへ寄り戻し、慎一の、出来たての傷をかばった。涙を、求めなかった。人としての倫理観に逆らうが如き、ふたりでひとつの流れにも、時に、安息の淀みを見付けもしよう、至って自然な行程に、待ち焦がれていたその二文字は、やはり、み展がる温かさをして省子を迎え、何れ傍流は嫡流たらんと、今はただ、静かに、ほとばしった。控えめな喜びを、そっと、じらいが、、、包んだ。

「……ありがとう……私は平気よ。大丈夫! それより、、、慎一さん、大丈夫? 」

「ありがとう。何とか大丈夫だよ。もう、後には退けないんだから」

「うん、わかってる。私には何でも言ってね」

「うん。これから、鳥越に電話しようと想う」

「そう……頑張ってね」

「ううん、何か、まだ上手く整理が付かないんだけど、心配させてるからなあ……」

「私だってそう。もう、感謝し切れない」

「やっぱり、俺達、親不孝だよなあ」

「うん、そうだね。でもね……」

 その続きは、こころのひとり言に、そっと移し替える省子である。そんなこころは、そのまま慎一のこころと重なり合う事に、何等矛盾はなかった。


〈幸せになる……〉


 親孝行の回答に、それ以外、何があろうか?

「じゃあ、また連絡する。省子……ごめんね……」

「ううん、大丈夫。じゃあね。あっ、そうそう、おにぎり、サイズ大っきくするからね! 」

「ハハハ! うん、わかった。よろしく……」

「じゃあね……」

 ふたり言葉をととのえて、通話を終えた。

 慎一は、


〈それにしても、これ以上肥ったら、本当にメタボ体型に陥って、今度は省子にも振られちゃうんじゃないかなあ? ……〉


 幸せの中に、一抹の懸念を覚えたりして、家庭とはかくあるものかと、見切り発車する自身に、ずかしながら、年齢を感じる。三十代と四十代のギャップに悩ましい姿を、他人ひとの目にはどう映るであろうかと、くすぐったい空想にふける事が心地良い。省子という人は、あっけらかんとした家庭の匂いを憚らない、生まれも育ちも下町の、生粋の江戸ッ子の如き人なのだ。すっかりお株を奪われてしまった慎一は、それでも歳の離れた若い省子が、可愛いくて仕方がない。一家の身上しんしょうは〝かかあ〟 で持つ。存分に、自慢の女房振りをふるって貰いたいと、願って止まなかった。

 そして省子は、如何にしても、こころの抽斗ひきだしから、青写真を引っ張り出さずにはいられない。ベッドに寝転び、ひたすら思索を巡らせるのであった。や、具体的な筋書きを描いていたのである。勿論、新婚生活の。幸せな女の、当たり前の精神行為を許され、既に、その準備に夢中で、それは、、、果てしなく続く線路を、きしませて疾駆する、二人三脚という列車の、旅仕度の算段の元、大元を、早速打ち出したのであった。

 周藤夫妻は、まだ正式に離婚が成立した訳ではないにせよ、加えて、その後の、慎一の謙虚さ故の意向を踏まえるまでもなく、女ごころが先走る事を、とがめる術を知らなかった。頬を緩ませ、火照らせ、風呂上がりの体に、暖房も要らぬ程の温感が、省子の空想を擁護していた。たとえ湯冷めをしそうでも、今の自身ならば、何等問題はなかろうと想えたのか、事実、暖房のスイッチはオフで、しかも、そうしてからだいぶ時間が経っていた。それだけ元気が漲り、空想とて羽搏はばたきもしよう、平和な夜の一景である。

 その青写真を実現する為には、自らの両親、忍と真澄の、いうべくも非ず理解と、更に承諾を取り付ける必要がある。新米列車の頼りない走り、きしむ音を大目に見て欲しい、是が非でも、協力して貰いたいのだ。


〈……絶対に、それが良い、、、それしかない! 〉


 腹案を練り、その骨子を決定したばかりの省子であった。

 そんな両親は、もう床に就いたであろうか、間もなく、日曜日に日付が変わろうとしている。


〈明日、話そう……〉


 意を固めて、ベッドから起き上がる省子の体には、若干の冷たさが忍び寄っていた。トイレへ行こうと部屋を出た。廊下を撫でるスリッパの足音は、二階の静寂と争う事をけ、その信服を示すように、付けっ放しであった廊下灯を消した。これからベッドへ入ろうとしている省子は、慎一の夢を観たがっていた。




「ふうっ……」

 大きな溜め息をひとつ、、、落とした慎一の、偽らざる空っぽを埋めるような間合いである。鳥越の固定電話へ直電を入れる……先ず、その電話を取るであろう、母の応答を待つ……呼び出し音に、、、集中する……

「はい、周藤でございます」

 母の元気が、慎一を救った。

「お母さん、俺、、、。夜遅く、ごめん……」

「あらま、、、明日、日曜日だから、大丈夫。どうした? 」

「……あのね、、、言いにくいんだけど……」

「ううん……」

 母は、ただならぬ態度を直観して、平静と受容の籠もった〝ううん〟 を置いた。

 母の拵えた流れのままに、昨夜由美子が、雪の中へほぐれて消えていったように、今、自身のうちで、また、んなじ事が起こっている、二回目は、温かい母の声の下である、この再現に、、、昨夜、、あの時、由美子と共に、自身の、わだかまりをも消え去ってゆかんばかりの想いが、、、十六年の全てを、失ってしまった寂しさが、、、慎一に、涙を制止しない……ただ、何もかも溢れ出して……止められぬ……

「お母さん、、、ごめん……」

 精一杯であった。でも、続ける。

「……由美子と、別離わかれるよ……うううっ……。夕べ、久し振りに、横浜の昇兄さんが来たんだ。それで、、、想い切って、、全てを、告白した。お母さん、実は、俺、、、真剣に、付き合っている女性がいるんだ。結婚したいと考えている。ごめんなさい、、、浮気してたんだ……。許される事じゃない。由美子が怒るのも当然だよ。で、兄さんと一緒に、横浜へ帰った。家を出て行った……。良い歳をして、本当に、申し訳ない、、、俺は、妻を裏切った……ごめんなさい……」

 人生最大の親不孝の懺悔であった。

 都塵とじんの如き微細な一点は、地底の暗黒界にり込もうと、ただ、伏してへばり付き、時ならぬ無風の意味を知る由もなく、埋没するばかりである。自業自得の涙は、冷たさにも突き刺され、巨大な麻痺空白がはべりつつある、その狡猾さに、戦慄おののく……。

「……慎一……あのね、親として、言わせて貰う……」

 母は、

 さして驚きもせず、語勢を荒げず、語末を伸ばさず、一語一語区切るように、述べた。少しずつ切り取られてゆく言葉を、それでも慎一は、つかえる事なく呑み込んでいた。

「確かに、、、夫として、あるまじき行為だね。同じ女性として、由美子さんの心中如何ばかりかと、心配だね。うちの嫁なんだから。でも、慎一、、、この際だから、はっきり言うけど、双方の家族親戚一同、あなた達夫婦の実情、その問題の根深さを、知らぬ者はいないでしょう。当然、あなたと由美子さんがいた種だけど、何等修復の手助けさえ出来なかった、周りにも責任の一端があると、、、お母さん想うの。ねっ、お父さん……」

「あ、慎一、元気か? 」

 鳥越の電話口は、父、吾郎ごろうに交替していた。

 毎度のように、受話器から漏れる次男坊の声を、耳をそばだてる訳ではないものの、受話音量の高めの設定が、親ごころの一助となっていた。

「あっ、ううん、お、お父さん、ごめんなさい……」

「うん。確かに、、、お母さんの言う通りだ。やっぱ、親馬鹿じゃないけど、一方的にお前だけを責められないわな。どこから見ても、、、喧嘩両成敗けんかりょうせいばいのケースだな。でもな、、、世の建前として、お前が、全部引っ被るしかないぞ。なっ、わかるだろ? 十六年も、一緒にいてくれたんだ。由美子さんをぞんざいに扱ったり、ましてや、、、恨んだりするな。最期の、優しさを以て、接してあげなさい。親として、、、出来る事はするから、、サポートするから、何でも言え。それにしても、慎一よ……本当は気が小っちゃいくせしやがって、良くもまあ、昇さん達に言ったもんだなあ! ……ハハハハ! お前の緊張振りが、目に浮かぶよ。それだけ、〝真剣〟 って事だな。な、俺達も良くわかったから、、、頑張れ! また、幸せになれ! ま、そんな所だな……」

「ありがとうお父さん、、、ううっ、、お兄ちゃんは? ……」

「若夫婦達は、、、そういえば、居ねえなあ、、、どこ行ったんだ、お母さん? 」

「犬の散歩に決まってるでしょう、この時間だもん」

 鳥越の受話器は、父からやや離れたとおぼしき、母の声を拾っている。

「……また、夜中にほっつき歩いてんだよ。うちの犬、黒い部分が多いじゃん? 夜、わかんねえよなあ、闇烏やみがらすだもん。雪の中だと、目立って可愛いいけどさあ! 」

「白黒だから、いつも可愛いいでしょう? (ボーダーコリー) 」

 母の、語尾上げた遠い声が届いた。

「まあ、みんな元気だ。慎一、体にだけは気を付けろよ」

「うん、どうもありがとう。お兄ちゃん達に伝えて、、、申し訳ないって……」

「うん、わかった。じゃあ、遅いからこれで……お母さん、何かある? 」

「頑張れ! 」

 再び、母の遠いこだまの如き、声。

「それじゃあ……」


 挨拶が被さって、慎一は、実家への報告を終了した。

 疎遠になってしまっていたが、弟を心配する兄、正志まさしの話は、無論、母から聞いているだけに、直接自身の言葉で謝罪したかったのだが、今こうして、その兄夫婦一家の、幸せそうな日課を知るに付け、自身の手本とする事で、「ごめんなさい」 の気持ちを汲んで欲しかったのだろうか? 不在の兄に甘える弟であった。

 幾つになっても、子供は子供、弟は弟であった。慎一は、両親の子供であり、兄の弟なのだ。どこまで行っても、それが慎一の立ち位置、家族の関係、絆の根拠たり得る所に他ならず、自身は目黒に於いて、自身から始まる、新たなる家族関係構築作業、十六年に亘る共同歩調に、蹉跌さてつを来たし、幕を引かざるを得ない結果を遺したのである。現実問題、悲しいかな、家族になれなかったのだ。

 この鳥越の周藤本家それぞれの、親類縁者、友人関係に至るまで、離婚経験者はおらず、他人事であったこの問題が、俄かに現実のものとして、かたちを成そうとしている局面を迎えている事に、最早、躊躇逡巡する余地もない程の、周知の無為無策の実態を、父、吾郎も、母、幸子も、兄、正志一家とて、その悉くを認め、時に待ち、時に叱り、そしてかばい励ます、つまり、無償の愛を、出来の悪い馬鹿息子、こころもとない弟に、精一杯届けようとしている想いを、鈍感にもせよ慎一は、生涯忘れまじとして、大切にしまった。そんな母の、一番の得意料理は、、、パン。〝コテンパン〟 という、厳しくも愛に溢れる日々の糧が、今以て、はらに応える慎一である。


〈お父さん、お母さん、親不孝をお許し下さい……お兄ちゃん達、本当に、ごめんなさい……〉


 慎一の、見えない呟きは、この、夜の静寂しじまだけが聞き届け、星のまたたきが、それを見て見ぬ振りをするかのように、控えめに揺らめく。寒々しい、黒々と塗り固められた夜である。終電間近の東横線の走行音が、今夜はなぜか、時折つまずいたような、調子外れのきしみを発していたが、何ものとて、全くそれに驚きもせず、風さえ、動く気配もない。

 街の眠りは深く、その佳境にくずおれていた。




 さて、、

 次の日の朝、やけに目覚めの早い、日曜日の省子である。

 いつもの休日なら、あと一時間は、ベッドから抜け出さないはずであったが、観る夢の中にまで、例の、青写真の饒舌に雪崩れ込まれ、嬉しい窒息感にむせぶように、速断に過ぎる起床となっていた。小春日和の、物柔らかな母の手の如き陽光が、ここ岡野家の、窓という窓悉くに、そっと触れては撫で下ろし、中の様子が気に掛かるのか、低い角度からその姿を覗かせ、部屋中を暖めていた。一昨夜積もった雪も、北向きの路上の隅っこまで、最早かすれるようにたじろぐだけであった。

 この時季のこの好天。早くも飛散し始めた、スギ花粉の襲来を危惧する、忍と真澄は、近年恒例となった、花粉対策の話題で、朝早くから持ち切りで、省子も折節ちょっかいを出しながら、母とふたり、キッチンに出這入はいりして、遅い朝食の仕度を進めていた。

 岡野家にとって、出ず入らずの内容の、休日の朝の光景である。話題も、朝食のメニューも、低音で喋り続けるテレビも、寂し気な庭木の緑も、ふと、立ち止まりそうな時間の見下ろすままに、それぞれがそれぞれと、同一視する事が自然な、普通の喜びに過ぎないけれど、欠かす事の出来ない、当たり前という、贅沢な時間を過ごしていた。一家団欒なる、極上の料理を味わっていたのである。

 そして、、、ブランチの準備が整った。

「お父さん、ごはんだよ! 」

 省子が、ソファーで寛ぐ忍に知らせた。

「はいはい、うわあ、、、美味そうなかぼちゃ! ……」

 ダイニングテーブルの椅子を引きつつ、忍の目は、好物を待ち切れぬ、条件反射の光に揺れ、食欲を漲らせる。

「栗みたいでしょう……」

 真澄とて、この煮付けには目がなく、かぼちゃ料理は、得意中の得意である。

 よって、省子にとって、お袋の味であり、勿論その作り方も伝授され、最近のお弁当作戦で、腕前を上げていた。このかぼちゃに限らず、料理全般、上達の程が窺えるのだが、果たして両親は、、、


〈やっぱり、、、勘付いてるでしょう? ……〉


 公然の秘密に触れようとしない、父と母の、〝美味しい! 〟 のひと言を期待する、娘であった。

 そして、忍は、、、

 この家族の為に己を殺し、自身の自由は最後に回し、努力を積み重ね、人生を創って来た男に他ならなかった。それが今こうして、その家族に生かされ、大切にされ、つまり、幸せを謳歌おうかしている。

 世の、父という男達は、みな、、、ある女性と出逢い、恋愛し、結婚し、家庭を持ち、子を設けた責任がある。それを実行実現する為には、覚悟が要る。故に、たとえ頭が禿げるまで、家族を幸せにする、絆を繋げる義務を全うしようとする。それもまた、さばかり一般的な行動である。

 家族の存在が、自身を幸せにする。人生を創造する。自分の為だけの個人的な幸せなら、適当な所で手を打ち、満足してしまう。自分の面倒を自分で見る事は、極めて難しい。

 全てを授けつ授かりつする、家庭の普通の流通、つまり風通しが、岡野家の場合、何はどうあれ良過ぎる事が、この家の個性であろうか、一番の特徴であろう。どこの家にもそれぞれに事情があり、生活スタイルは千差万別、一概に善し悪しの話ではない。

 ただ、省子は、人を想うが故にそれならば、可及的目に見えるかたち、要は単純に言葉を惜しまず用いて伝えるべきという、基本的な行動を、この両親から学んだと自負して、懐にしまっていた。簡単に、、、さり気ない言葉で充分。飾らない、、野に咲く可憐な花の一輪で、充分。ささやかなプレゼントとて、単純なこころのやり取りの用を成して、


〈きっと、、、仄かに伝わりゆく……〉


 そう、信じていた。

 そういう、優しい両親が、良くある事だが、、、先週の日曜日、多摩川まで脚を延ばした、長い散歩の道すがら、土手道でその微笑みに喚び留められた、白い小さな花を、摘んで持ち帰った内の幾つかが、、、リビングの片隅の、チェストの上に置かれた、白い花瓶から顔見せして、今以て尚、佇立も笑顔も絶やす事なく、、、たとえ一本だけ、、遺されても……その、凜と伸ばした背筋せすじ、素朴な笑顔は、、、変わらないだろう……変わらずにいて欲しい……そんな、慎ましやかな、三人の想いが、、、そのまま、岡野家の家風であり、確実に、省子を育てたのである。凜として、真っすぐ一本、咲いて立つ花のような人でありたいと、、、願う、女性に、成長した。

 他愛のない会話の中に待望する、〝美味しい〟 のひと言が、繰り返される度、省子の中で、おもむろに切り取られ、潤され、大きく変わりゆく自覚を認めながら、ブランチは進行していた。真澄にしてみれば、もう、かれこれ三十年以上、聞き慣れた褒め言葉であろうが、ここ最近の省子にとっては、無上の喜びといえば大袈裟だが、体温を上昇させる、幾つかの言葉のひとつには違いなかった。

 殊に、父のその言葉に、温かな説得力を覚えずにはいられなかった。ともすれば、、、


〈やっぱり、、、私の心中を知りつつ、おだてるかのように、エールを送っているのかしら……〉


 そう想えてならなかった。

 経営者の父である。人情の機微の扱いにはけている。オープンな人柄が作った、オープンな空気が充溢する、岡野家の長女として、オープンでない訳がなく、余り気取るのはしょうに合わない。咀嚼そしゃくのリズムがリードして、嚥下えんげするにもせよ、また逆に、うちから湧き上がるうずきが、省子の下顎を動かす。動作の次なる目的は、飲み下すばかりではない事を、、、この時、既に知っている……ただ、本来の自身らしからぬ、タイミングを計るという行為に及ぶ程の、緊張、、、省子にとって、、千鈞せんきんの重さに匹敵する言葉が、表白を、押しとどめる……。

 母のまなこの配りが、相変わらず、省子の幼少時代のままの、繊細にして暖色の、その視野の中の一点にさえ、、、こころを向ける、見つめる、、用意があるという事を、、拒むものではない、、という風情を、たたえている。

 その、真っすぐな目。嘘のない母の目は、それだけで、あるがままの、あの頃と変わらない、優しい手を差し延べる目であった。省子は、、それを、良く知っている。娘だけに、良く知る、いつも通りの目が、、、そこにある。父の目と重なり、常に、省子の何かを期待していた。ポジティヴな内容なら、そのまま更に期待し、ネガティヴな内容であれば、その負担軽減を期待した。

 娘の為に、長年ひたすら祈り続けて来た、今後も変わらないであろう、ふた親のそのまなこが、省子に、次は何を期待しているのだろうか? 、、、 何を? 語って欲しいのだろうか、、、そして、省子は、何を語れば良いのだろうか? ……。


「……お父さん、お母さん、大事な話があるの……」

「うん」

 ふたりは口々に合わせて、やや身を乗り出し、いつもの期待を滲ませる。


「私……実は、、、真面目にお付き合いしてる人がいるの……ここ学大の地元の人で、周藤慎一さん。私より歳上の四十三歳。もう、知ってると想うけど、彼の為に、朝、近所のあるお店で、、、お弁当を作って渡しているの。彼ね、、、ごめんなさい、、、奥様がいるの……」

 告げる目は、溢れるものを阻めず、自ずと、朝食は中断した。

 にもせよ、まだ言うべき本題を遺し、省子は、勇み奮うしかなく、その、溜め込み吐き出そうとしているこころを、両親とて受け止め、やっぱり、叱責よりも期待が勝ってしまうのは、信頼に、、、他ならなかった。不道徳をおかしてまで、貫かんとする真剣な表白は、これだけでは済まない事も。忍と真澄は、、、悟る……


〈きっと、何か事情があるに違いない……〉


「家庭を持つ人を、好きになってしまったの、愛してしまったの、、、ごめんなさい、、お父さん、お母さん、ごめんなさい、、、私が、慎一さんの家庭を、、、壊してしまったのかも知れない、、、奥様に、大変な事をしてしまったのかも知れない、、、ごめんなさい、ごめんなさい、、、でも、、本当に、、愛しているの、、、離れたくない……」

 今朝はいつになく、近所の碑文谷ひもんや公園や駒沢オリンピック公園をねぐらにしている、小鳥達のさえずりが、明々朗々めいめいろうろうと架け渡している。春はぬ、気が早い大合唱が、一昨夜の遺り雪をけしかけて追い出すように、あちこちから耳に届き、メロディが先走るその主題、正に春を、想起せずにはいられないのは、、、やはり、、致し方ない事であろうか? ……。愛娘に兆した、幸せ、、、難局を乗り越える方途の話に、期待を寄せる、信じるしかない塊まりの、忍と真澄であった。


「省子、、その彼は、、、離婚するのか? 」

 忍が、省子の言葉尻にてがうように、ゆっくりと、口をひらいた。

 真面目な省子が、その可能性のない男に、自らの可能性を賭ける程、愚かな娘ではない事ぐらい、大人として当然の、ローリスクの選択による行動であろう事ぐらい、わかっているのだが、それでもやはり、心配は心配、、、尽きる事のない、父である。


「……一昨日おととい、私の事を告白した上で、その意志を伝えたそうなの。それで、奥様、横浜のご実家へ、帰られたって……」

「そうか」

 父の返事に、母は黙ったまま、省子の行方を見つめている。

「で、、、奥さんの意志はどうなんだ? 子供は? ……離婚に応じるのか? 」

「奥様の態度は、まだ、聞いてないの。子供もいない。ただ……」

「ただ? どうした? 」

「あの、、、長い間、、関係が、冷え切ってて、、、それで、、言いにくいけど……」

「そうか」

 二度目の象嵌である。



「……お父さん、お母さん、、、慎一さんとの結婚を、、、許して下さい! ……」



 省子の決意が、岡野家に、強かに象嵌された。切り取っても、この場から離れようとはしなかった。たとえ泣きじゃくっても、料理が冷めてしまっても、テレビのニュースが不幸な出来事を伝えても、かつての弱さを皮肉られても、今、自身は、確かにここにいて、ありっ丈の想いが、過去を煮詰めて煮零にこぼれたこころが、そのまま言葉という返礼を受けたのだ。

 涙の敷衍ふえんが、床一面に、重しを載せたように展がるばかりである。自らの行動の大きさを、体一杯で支えている自覚、そして、決心を、省子自身と、忍も、真澄も、妥協する余地もなく、知る所となった。

 省子の本心、本気は、ふた親にとっては、その、真っすぐな一本の粗筋の如き性格を、良く知るだけに、かつて、あんなにももがき苦しんだ姿を、良く知るだけに、、、遂に、


〈来るべきものが、、、来た! 〉


 転換期の到来を、認識するに充分な、ゆとりさえあった。

 恋する女性は美しい。

 恋愛は、女性を美しくする。

 身もこころも、限りなく円やかな光が煮零にこぼれる、玉の如く変身する。恋愛に於いても、いわば大先輩である両親とて、この頃の娘の変化は承知の上で、充実の程を、目を細めて見守っていたのである。子供はいつまでも子供ではなく、女の子は女に、そして、女性になる。それでも絆が、親子の距離感を維持形成して、悉くを用意する。

 たとえば、省子が用意した食事。忍と真澄が用意した静観。料理は不味まずい訳がなく、静観は冷たい訳ではない。目に見えるものだけが、美しい訳ではない。かたちのない、愛という関係性が、近過ぎて普段は見えない、本当に大切なものが、そこから連なってこぼれるように、出ず入らずの納得、心地良い満足を教えてくれる。許すという事、家のあるべき姿、世のトレードオフなる道理をも。そして、、、何かの終わりは、何かの始まりである事も……。

 忍も真澄も、省子に怒りを覚える事はなかった。社会的不秩序の、ルール違反たるは否めないが、この際、不敬ついでに言わしめれば、夫婦の問題の責任は、章々しょうしょうと夫婦自身にあり、夫婦関係の末期が、新たな関係の序盤と時期がだぶる事も、珍しい話ではない。過保護の拙速かも知れぬが、また、過分な正当化も回避したい、面識のない周藤夫人に対する礼節を込めた、冷静公平な振る舞いに終始したのであった。


「……じゃあ、、、まだ、ふたりだけの約束なのか? 」

 忍は、ただ、納得を重ねたい。

「……うん。必ず、結婚するから、、、もう少し待っていてって……」

「ううん、、、まあ、、そうだろうなあ、昨日の今日じゃあ……要するに、奥さん次第だな、正式な離婚は」

「ううん、、、まあ……」

「で、現実的な話だが、財産分与の方は聞いてるか? 」

「今住んでるマンションが、夫婦共有名義で、そのローンが、あと一年で満期っていう、話を少し聞いた事が……」

「うん。じゃあ、夫の責任として、その権利放棄も考えられるな。無論、完済の義務は消えないが」

「……」

 省子は、俯くしかない。

「それがベストだな、軟着陸の、、、ううん、、そうかあ、、、あと一年、、なるほど……」

 頷く頻度が増している。

「ご実家はどこだ? 長男か? 」

台東たいとう区鳥越。ご両親は、現役はリタイアしてらっしゃるけど、揃ってお元気で、二世帯住宅に、お兄さん夫婦ご一家と合わせて、六人の大家族なの」

「次男坊か……」

「うん」

「ううん、仕事は何を? 」

「警備員」

「そうかあ……」

 忍は、この時、、、

 初めて真澄と目を合わせ、ふたり共、そのまま沈黙した……。束の間の空白が、ダイニングルームに漂ったが、、、やがて、見えない羽搏はばたきが、、ふと、真澄の口元に留まり、薄明かりを灯して光暈こううんがおぼめき、明々たる緩やかな脱皮を果たそうとしている表情は、一途に、ほぐれた。そして、真澄のレディーファーストに追い付かんばかりの忍と、今度はおもむろに立ち上がった微笑みの輪の中で、、、頷き合った。

 空白は、知らん顔をしているようで、うちなる温度を上昇させ、気が付けば、かたちを成していた。笑顔というかたち、それに伴う言葉という、かたち、、、空白のうちに、想いの一致なる、阿吽あうんの呼吸を完成させていたのである。流石、この道三十年を越えた夫婦。美しい光景を、の当たりにしていた省子の感動は、いうまでもなく、その、笑顔の理由、言葉というかたちを、今や遅しと期待するこころへ、急成長してゆく。

「なあ、お母さん」

「うん! 」

 久し振りに無言をいた母の声には、弾力があった。

「省子が決めた人だから、なっ、ちょっと言葉は悪いけど、良い奴なんだろう……」

「浅草ッ子なんだから、、、きっとそうでしょう、ねえ! 」

 省子を困らせる、真澄の質問。

「うん、、、楽しい人よ……」

 面映おもはゆさを隠せない。

「まあ、、、何れにせよ、離婚係争中の身の上だから、拙速に過ぎたるは控えなくちゃな、お母さん」

 両親は、納得積むかさ増す程に、頷けるのであった。

「省子……」

 父は、声音で威儀を正す。三人共、背筋せすじに力が籠もり、勢い上体が起きた。

「お前が惚れた男だからな、お父さんもお母さんも信じるぞ。全て、穏便に治めて欲しい。それが出来る男だという、お前の気持ちもわかった。とにかく、後々にしこりを遺すような事は、してくれるな。しっかり、結着を付けなさい。出来るか? 」

「省子……」

 いつもの名言のお返しに喜ぶ母の顔は、定めしこんな顔であろうか、真澄は、優しく微笑んだ。省子は、


〈……これから、お母さんに、いつもこんな顔を作ってあげなければいけない……〉


 そして、、、

「じゃあ、、、お父さん、お母さん、認めてくれるの? ……」

「ああ……ふたりで頑張って、幸せになりなさい。慎一君か、、、男は、退き際が肝心だぞ。展げる事は容易たやすいが、仕舞しまう方が難しい。万難を排す、お手並みを拝見してるよ。まあ、平たくいえば、〝自分のケツは、綺麗に自分で拭け〟 って事だな、ハハハハ! ……」

 父は父らしく申し述べた。人柄がちりばめられた言葉であった。父は、こういう時でも、やはりいつもの父であった。普段はむっつりしていて、折節厳しい忠言の直射を怖れぬが、そのフォローのこころづかいが絶妙なのである。言葉を砕いて笑いをし挟み、全体の印象を丸めてしまう、年季の入った常套話術は、家族のみならず、親戚、友人、仕事関係、隣人に至るまで、接点を持つ身近な人達はみな、オートマチックに手法の余得にあずかり、わざと余白を遺す言い方のままに、自然と頬を緩ませるのだ。

 そんな言葉に乗せられ、意欲が向上し、畢竟ひっきょう、褒め言葉の用を成すエールなのである。「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。頑張っている姿を、感謝し、見守り、信頼せねば、人は実らず」 とする名言を地でゆく、父として、人としての愛を、みんな良く知っているのである。


「……どうもありがとう、、、うっうう、、、ありがとう、、、幸せになります……」

 みんな揃って、、、涙した。

 折角拵えた朝食が醸す、湯気も香りも、もう、冷めて久しかったろうか、かすかに良い匂いが、この広い空間に散らばっている。穏やかな日曜日のブランチのひと時は、たまさか別の趣向の、平和な時間識に微睡まどろみ、それぞれが箸を止めた想いは、どこまでも展がるばかりの喜びに震え、省子のその涙に、父と母の胸とて高鳴る。

 親子は、ただ、、、気持ちが良い、、、。

 爽やかな心地が、食事に取って代わり、三人の空腹を満たす。まだ本懐を遂げられぬ料理が、遠慮深く佇み、静観の姿勢を守りつつ、それでも想い出して欲しそうに、、、出番を待っている。悉くが、、、省子に期待を寄せている。

 この家の長女に生まれ育ち、今日に至るまで三十有余年、この家で生きて来た。家は、省子の全てを知っている。その分の想い、両親も併せれば、それ以上の想いが、この、和順な普請に濃縮されている。想い返せば、こぼれ落ちるばかりで切りがなく、それぞれに重ねた年輪を、愛おしまずにはいられぬ、ぎりぎり我慢している、嬉しいあえぎが、空気を紡ぎ、年柄年中ねんがらねんじゅう言葉となって噴き出し、会話の奔流を成す。

 豊かで、ありのままの自然な環境。

 ……家族の眼差し、日々の食卓を彩る料理、居並ぶ家具調度品、窓硝子越しの風景は、まるで、本物の、本当の大自然の森の中に建つ、深緑にいだかれた、小さな一軒家の生活のように、余りに正直で、気取らず、プリミティヴに、ともすれば図太く、大地の匂いまみれのその手を、それぞれの肩の上に〝ポン〟 と置き、屈託のない笑顔を見せる。

 喜びと懐かしさを抑えられない三人は、静かに、それを噛み締めていた。この日が、、、来たのである。ただ、それぞれが、それぞれを想いやり、その時間を尊重していた。言葉もなく、澄明にして寛容な順風が、そっと、流れる……。

 かつて、どれだけ流して来たか知れぬ、三人の悲しみの涙が、時を経て今こうして、全くの別方向からの光束に眩む瞳を濡らす、喜びの、報われた涙に変わったのであった。昔の、救いようがなかった冷たい涙は、今度は逆に、何ものとて救ってあげたい、救う事が出来もしよう、温柔な希望の涙に生まれ変わった。あの日の涙は、この日の涙の呼び水、、、この日の為の、最後に笑顔になる為の、涙だったのだ。濃厚な幸せに、生き返った。本物の、笑顔であった。


 ……暫時、このまま経過した。

 さりながら、違反は違反である。

 故の、省子の落涙には、親として、擁護するに余りある所ではあったが、既成の事実を決定的にした、当事者の父母たる、見識を問われる立場に、至らざるを得ない事実をも、ふたりの態度を戒めていた。婚姻という、ふたりだけに非ぬ、家と家の繋がり、絆を、より確かなものに仕上げる為には、最初が肝心、土台となる。時期尚早とも想えるが、先方の家へ、好印象の布石を打つに、益にこそなれ損はない。土台を意識し、可及的後顧の憂いを排除し、真に、土台たる家風、全ての根っ子なる家を、築き上げて欲しい、、、。

 親ごころは、とどまる所を知らず、その涙を、忘れて欲しくなかった。娘を良く知る父母の、冷静にして温かい目が、見つめている、、、


〈その涙が、あなた達ふたりの、始まり、、、そこから、真っすぐな一本の粗筋を、ぶっい一本の芯に、筋道に、育てて欲しい……〉


 それは、省子とて理解するに、故なしとしないはずである。

 この上とも連なりこぼれる、余裕、期待の下に、家族の連環の緩やかな蠕動ぜんどうを、それぞれが確認した、生涯忘れざる朝となろう事を、三人揃って信じて疑わない。そして、その家族の一員に、周藤慎一なる男が加わる、、、。一家の既決事項と、相成った。

 どうあれ省子は、周藤夫妻の動静を注視する以外になく、ひと区切りが付いた所で、時機を見計らい、慎一を両親に紹介したい。人生に於いて、最大の決断、究極の選択たる伴侶、その唯一無二の存在を、目で見、話をし、人となりの理解を得て欲しい。あの夏の日……目黒川の日の出橋で出逢った、鮮明にして飾り気のない、ファースト・インプレッションを想い出し、、、きっと、両親とて、慎一の、話し易いアトモスフィアを受け容れるままに、積極的な交歓の場になろう事を、確信するのは、幸せの早合点という他なかった。

 そして、慎一なる存在を作り上げた大元である、鳥越の両親、兄一家を含めた大家族と、対面したい、紹介して貰いたいのである。慎一という気に、少し触れただけで、育った環境の温かい醸成の程が、察するに余りある実家を訪れる日を、待望している。岡野家と似通った、骨太の愛が往来を密にする家だからこそ、波長が合った事に、贅言を要しない。賑やかな交流を、楽しみにしていた。

 更に、最早想像は、その手を休めない。

 つまり、、、青写真である。それを中心に据える事によって、全てが上手く回ると確信、祈念していた。


〈要は、、、若夫婦は、、学大の岡野家に於いて、、うちの両親と、二世帯同居。姓は、周藤のまま……さながら、サザエさんのマスオさんのような現象を、実家に持ち込み……〉


 新たなる、家族形態の構築を夢見ていた。

 これならば、たとえ慎一が、自宅マンションの所有権放棄に及んだとしても、ちの新生活の場の心配がなくなり、スムーズな再出発を可能にする。根本的、多面的、長期的にかんがみ、ベストのかたちであると、自信を覚えていた。なぜなら、その自信を裏打ちするこころに、いうべくも非ず、うに揺るぎないものが確立しているのである。竜頭蛇尾の偏見に、価値を与えない事を学んでいる。

 とまれかくまれ、先刻の父の言葉にもあったように、拙速に過ぎたるは、排除せねばならぬ事も道理で、省子はこの計画を、自らの懐中にしまい込み、


〈……吠えたいにもせよ制止される、本来、吠える事が仕事であるはずの、犬の気持ちがわかった! 〉


 そんな、慎一張りのユニークなたとえを拝借して、、、早くも、その影響下にあり、独特の色に染まる事をいとわない、むしろ喜びとする自身に納得し、やはり、運命的な何かを感じずにはいられない。全ては、あらかじめ敷かれたレールの上での、決まり事の展開、「結婚」 なる、社会的、経済的、精神的自立への手続きと、何れ経験する事が不可避である、人生の普遍的価値観。時代背景や年代、その節目を透過する事によって得られるであろう、人格形成。段階的な、万人並みの成長過程を、自身とて例外なく、踏襲し得る権利を、ただ当たり前のように受け容れるだけの、無抵抗な存在と化していた。


〈幸せとは、、、かくも心地良い、、無抵抗であったものか……〉


 ひと昔前の、あの、氷塊の如き、矛盾と孤独の陶犬瓦鶏とうけんがけいは、今日に至り、その姿を麗しく溶解し、今更誰も異を立てるべくもない、無風の選択を尊ぶ。

 そして今後、何もかもが揃って用意されている、かつて、虚しい憧憬と焦燥の的であった自由が、謙虚に控え、無駄づかいをけるかの如き生き様に応え、今以て尚、、、遺っている、、遺っていた感覚を訴えている。その流れを、深く味わえる事への期待が、省子の、逸る想いを引き留め、悉くに先を譲った。何も変わらない、真っすぐ一本のスタンダードな姿勢、慎しみ深い余裕が、そうさせる。時は今に非ず、温めて置くにくはない。その想いを、言葉を、ゆっくり呑み込んだ。


〈……幸せの、、、味がした……〉


 冬も過ぎ去りつつある、二月中旬の、とある日曜日の午前の一幕であった。

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