歳月不待

「良いお年を……」

 で別れ、年末年始休暇をはさんだ、たった数日後に、

「新年明けましておめでとう! 」

 から始まった、三者三様による、お弁当通信作戦の、本年仕事初めの朝である。

 省子と慎一、もうそんなに若くはないカップルとて、恋人は恋人、ふたりにとって初めてのクリスマス、正月の初詣等々、年末年始は何かと多忙で、昨年来の繁雑振りのまま年を越し、漸く一段落したと想うや否や、早くも仕事が待っていた。

 一年は、実に目紛めまぐるしく、様々な表情を見せてくれる。生真面目に忘れる事なく準備を整え、正にジャストタイミングで、〝如何でしょう? 〟 と言わんばかりに、現実なるテーブル上に出現する。律儀にその相貌を登場させる。

 我々は、そんな一年の途中経過を、準備段階から、つまり胚胎はいたいする事を知り得、そして本番の最大燃焼と、無条件に関係付けられ、その余韻、残火が消えらぬ内から、次なる表情のインスピレーションが生まれ、活動時期をだぶらせつつ、終わりと始まりを告げられる。

 四季の明彩豊かな日本は、この狭い国土の仕切りの中で、尚以て凝縮するかのように、長い年月を奉じて、繊細かつシンプルな、いわば日本らしさ、日本のこころを、その内容の充実に込めて、〝季節感〟 なる器を用い、作り上げて来た歴史がある。四季の移ろいにこころ寄せ、その始まりも、直中ただなかも、終わりも、一年という短いサイクルの中で、泡沫うたかたの如く現れ、たぎり、そして姿を消してしまう、栄枯盛衰えいこせいすいの、数え切れぬ程の種類と頻度を、一体どれだけ、どんなにか見せられる事だろうか? 陰陽明滅の無常、儚く過ぎ去る一年の夢のような、その表象たる季節感には、至って自然に、情緒という薄想いが寄り添い、往く表情を惜しんでも、不思議ではあるまい。静かなる愛惜の歌が、いつも、いつまでも、人々の心奥で、ノスタルジックなこだまを鷲掴みして、流れている。忘れ得ぬ歌が、声が、言葉が、匂いが、感触が……記憶の器の中で、年月を経てシンプルに洗われ、そして、遠慮深げに薄らぐこころと巡り逢い、失くせず、遺るものである。


 主張をしないという主張。薄らぎの世界との出逢い。それが、日本の美の心髄である。

 日本人たる精神性、『薄ごころ』 の。

 記憶……

 それは、自身という、最短距離の存在が具有する、異次元の夢幻むげん世界。

 近過ぎて、手が届きそうなのに、それなのに届かない、いら立ちにも似た無情は、忘却なる御心みこころに中和されるが如く、そっと深淵にいざなわれつつ癒され、薄らぎの境に漂着した幸運をのがさず、薄ごころを知る所となる。近くて遠い、いつまでも鳴り止まぬこころを……響かせて。こんなにも近くにいるのに、どんなにか遠く隔たる、自分自身なる存在、その人生との邂逅かいこうを手繰る旅、それを記憶という。

 そして、その浮かび来る表情と表情の間隔も様々、同時に複数個表れたりもし、我々は、折々身の置き所に窮し、満足な対応に至らぬ場合さえ、残念ながらないとはいい切れない。


 ……さりとて、殊この三人に関しては、歳月という時間を、無駄にも蔑ろにもしよう事など、到底考えられない、全くの無縁であると断言出来る程、昨年来、交流に自信を深め、盤石の関係性を構築して来たのである。

 忙しいという事は、さるにても愉しい。大変は大変だが、それはまた、楽しいという事の裏返し、謙虚な人の、照れ隠しの挨拶のようなもので、大変結構な幸せである。多言を要しない。人生を楽しみ、深く味わう。一度切りしかない、それぞれの人生を、わかっているからこそ、言葉にせずとも。

 定食屋〝みはる〟 には、いつもこんな空気が充溢している。常連客達は、その、無料サービスお代わり自由の空気丸ごと、食べに来る。今年も、商売繁盛間違いなしであろう。


 ……省子と慎一。

 ふたりの共通意識の器は、本物を遺し、本物が遺った感覚に占有を命じている。

 別々の独立生命体は、別々の肉体を纏い、その内部に別々の自我を定住させるべく、別々のプロセスにて鍛錬を習熟し、相対性の波間を、浮いつ沈みつ遠泳止む事なく、如何にかこうにか生命活動を繋げて、とある接点を契機に、一視同仁の順風に煽られ、接近、そして接触、交換……現在に至るに、連担性のクオリティに重きを置いている。

 確かに、歴史は浅い。緒に就いたばかりの関係性にもせよ、共にそれ以前の経験が、直情径行のままの共通意識を怖れ、可及的速やかに本物志向を以て、歴史の未成熟とて補わん事も、交換作業の一環である。

 それ故に、本物は、尊い共通意識の証左をも、遺し得ると考えるに及ぶ事も、自然な成りゆきであろう。


〈リアルに、自身に聞く、自身に問う。自身を以て、考える。先ず、自身だけで温める。第一に己の〝個〟 を意識し、平明にならさなければ、たとえ愛の連担であろうが、門前で拒まれ、用を成さぬだけでなく、見当違いの方向へ流され、不本意な塊まりに泣く事にもなり兼ねず、方向感覚や時間識、空間識にさえ、差し障るやも知れない……〉


 生活基盤たる、人生の根っ子の拡充、即ち安定化が、ふたりにとっての急務、最優先の懸案事項である事は、他言を待たない。たかがお弁当では断じてなく、さればこその逸物いつぶつあなどろうものなら……泣きを見る。


「省子ちゃん達は、初詣どこへ行ったの? 」

「はい。両親とは、除夜、地元の氏神様。慎一さんとは……二日に、明治神宮へ」

 慎一は幸運にも、今年の正月は五連休が取れていたのであった。

「へえ〜、凄い混雑だったでしょう? ……日本一の人出だからねえ」

「足下が、砂利で真っ白になっちゃって」

「アハハハ、そうでしょう! ……私もね、岡野さんんなじ、ひとりでさ、地元のあの……」

「そうなんだあ。じゃあ来年一緒に行きましょうよ、ママ」

「若手同士で行って来なさいよ! 私なんか放っといてさあ」

「アハハハハ……」

 慎一の泊まり勤務用の、二食分のお弁当を拵えながら、朝のまだ客のいない店内に、ふたりの笑い声がこだまする。

 学大の街は、正月気分覚めらぬままに、平臥する声を退しりぞけず、不鮮明なこころ持ちを知りつつ、浅い眠りの中で、起床を躊躇している。誰かの始動が、誰かの始動を喚ぶように、連なって動き出す、世界中のどこの街にでもある、風変わりに非ぬ朝の一景にも、今はただ、新年のアイドリングのぎこちなさが貼り付いても、仕方のない事である。

 そして、この、ぼんやりとした境界線から漏れ出して、展がり続けるような空気感を、正月なる、季節感の器を用いて透過すれば、形を成さぬ空気とて、おぼろ気に見えて来そうな気がするのは、果たして、みはると省子、慎一も加えた三人だけの、宝であるかも知れない。

 なぜなら、似たように形を成さない、目には見えないこころとて、愛というトランスミッションを以て、増幅されようものなら……見える。見えて来るだろう? 見ようとするだろう? 無論、つぶさにではなく、おぼめくその輪郭を、知る事が出来る。季節感が薄ごころを知るように、人は深い愛を知る事で、普段は目に見えないものさえ、その手掛かりを知るに至る。わからないものを、わかろうとして、わからないものであっても、前向きな可能性を与えもしよう。周囲に存在するものの多くをも巻き込み、理解、関心を投げ掛け、他者に向けた疑問に対する回答、つまり刺激に対する反応ではなく、それ以前の、それよりもフリーな、ストレスのない状況に於ける、自身の素顔の声に、逸早いちはやく耳を傾ける事、先ず観察する事、何はさて置き静観する事、この種の理解、あるいは関心を、自身をも含めた、可能性を放棄しないという、愛であると、信じられるからなのである。

 ……省子は、みはるに促されるまでもなく、当然来年の初詣を想像している。それは慎一とて、定めし同様であろうとした、新年らしい、慎しみ深いプライドに裏打ちされた、じり気のない、当然の想像であった。

 この、当然の想像の内容物は、勿論、大同小異の相を成して、連なって存在しているのだが、最重要視せざるを得ない問題、省子と慎一ふたりにとっての、実現という問題を、正に今年、決めなければいけないとする、問題意識は、今はまだ、この段階に於いて、想像の域を出てはいない、微妙な由あるさまを、三人それぞれが、慎重に認めていた。

 そして既に、個々の焔心えんしんの臨戦体制たるをも。

 正しく、勝負の一年である。


〈決める!! 〉


 想像は想像に非ず、やはりの希望、隠せぬ希望、げには、確信なり。



 

 本年最初のお弁当を受け取り、今、慎一は、こうして東横線の車内にいた。今年も相変わらずの荷物の重さが、若干正月けが遺る、四十代サラリーマンの体躯を覚醒させて、背筋はいきんとその周囲の緊張を知る程に、それが全身に漲り、吊り革を掴む左手に、尚の事力が籠もる。

 その左袖口から覗く、腕時計を巻いた手首に浮き出た、太い血管越しに流れる、目黒の街の風景を、ここへ来て漸く真に取り戻した、モラリスト然たる社会人の、常識的な面体そのものの目線が、いつもながらの街の佇まいに、冷静を保っている。

 つい先刻、例年通り、簡単に交わした、みはるとの新年の挨拶の、その互いの口上にも、そして目の輝きにも、


〈例年には見られない、〝いきり〟 、しかも丸みを帯びたいきりを、宿している……ママも、わかっている〉


 慎一は、そう感じていた。

 まるで航空機の離着陸訓練の、タッチ・アンド・ゴーさながらの、短い滞在接触ではあったが、それだけでたとえ言葉少なでも、自身のぶっい血管の如き、確かな愛の流通が、自信のいきりを累進変成して、冷静さを叶えたのだろうか?

 折しも中目黒駅のホームに飛び込み、すぐさま発った電車は、ビル群の谷間をゆっくり直進して、目黒川橋梁に差し掛かる。

 この短い橋を渡る度、慎一は、空想の囚われ人に甘んじる事も、最早ライフワークのように、常態化していた。どうしても、ありとあらゆる人に、許して欲しい。殊に、省子に。


〈……だから、省子も、俺も、それぞれに、目黒川と隅田川の流れに、浮き草の如く、漂うしかなかったのだろうか? 当てのない、水の紀行を誌しながら、右往左往する事も辞さず、時に陰に隠れ、じっと、何かを待っていた、何かを探していた、何かを掴みたかった。泳ぎに泳ぎ、流れに流れ、浮く事に疲れもしよう、されば沈みもしよう、この漂流者達は、一も二もなく、根を、根っ子を求めて彷徨っていたのだ。諦めというこちら岸と、忘却という向こう岸に架かる、色のない、目に見えない橋から転がり落ち、無情という名の川に嵌まり、矛盾という水に溺れに溺れ、もがき、鱈腹たらふく飲まされ、それでも諦めの中には、ひとまみの頼りが、自らの身の草をむしり取って想い知った、本当の頼りが、草の身の上を諭しつつ、根っ子を欲しがって譲らない。失くせない。諦めと忘却の両岸から、容赦なく攻め立てる、寄せ波に揉まれまくる浮き草は、抗う素振りを見せながら、窮屈で、刹那の調和が消える間もなく、綿々たる讒言ざんげんを聞かされ、硬軟両面の、波状の攻め手に翻弄されても、身の置き所としての、根っ子を持たぬ身の上では、ただ、自身を恨めしがるばかりで、離れられない。それは、どこかへ立ち去ろうとする、気配すら感じられない。どうしても、諦め切れない。無力を承知で、それでも、諦められない。欲しくて、仕方がない……根っ子が、欲しい……諦める訳には、いかない! ……〉


 そして、センチメンタルな川の流れは、根っ子の存在の可能性を、本能的に察知させて、美しく運命付けられた、それに相応しい色相に、質的変貌を遂げ、その温度を上昇させ、忍びに流した涙の腐心に、今こそ報いんとばかりに、水が水を誘うように、省子と慎一それぞれの掌中に、


 根っ子を握らせたのである。

 遂に、見付けた。


 必然の幸せを、偶然の事のように素直に喜び、偶然の不幸を、必然の事のように内省に遡れる、謙虚なこころが、必然の不幸を、偶然の事のように、尤もらしく操作したりしない、慇懃いんぎんな精神を以て、紆余曲折を経て、稀有にして陽の目を見たのだ。

 真に、凜として、真っすぐ一本、咲いて立つべく、その根っ子を得るに至った。

 ……電車は代官山を発ち、や渋谷トンネル内にあり、ひた走る。慎一の荷物の重さが、加速を増すかのように、渋谷駅のホームへ入線を目指している。折り返しの、渋谷発みなとみらい行き各駅停車に、そのまま成り代わる到着まで、もう幾らもない。

 大切なものを得る為には、欲しがるばかりではなく、それ以前に先ず棄てる、余計なものを棄て去る事、それから始まる話である。欲しいのなら、棄てる事が先決、必須条件であり、欲しいものも手中に収める事は出来ない。トレードオフの穿うがった道理を、会得した喜びを、自信に変えるように、慎一は今、渋谷駅へ降り立つ。

 学大の自宅を塞ぐもやとて、久し振りに晴れようとする、その端に、清々すがすがしい朝光が周覧を待ち兼ね、それでも注意深く、角度を上昇させつつある。その光源たるは、確実に省子と慎一、それぞれの我がうちにある。深い眠りに落ちていた可能性が、苦心の助走路を離れ、いざ遠方へ赴かんとして、力強く脈拍みゃくうって意気込み、慎一の足取りを早めて、雑踏の中へ送り込んだ。

 そこへ吸い込まれても、順路を迷わない、習慣付けられた行動をつかさどる、その精神世界の命令系統は、認知なる感覚を網羅して、外界との接触部分を先鋭化しつつ、内部への伝達回路を、迅速正確を旨とする、オートマチックな作業に委ねる、いわば経験論者的な、主体性を抑制した、記憶を頼りとする意識の流れのままに、直向ひたむきな情報交換を止めない。殊、通勤時に限っては、チェック・アンド・バランスの保守的な姿勢を、基本理念に掲げ、自らの精神世界の統治下に置いている。

 適宜、瞬時に判断して、時に人波をかわし、時に意欲的に飛び込み、その間隙を踏破し、最短時間を目指しているのだが、習慣たらしめた条件の何れかを、自由に選択出来る事も、継続の一因であるように想う、今朝の慎一である。

 その条件のひとつ。何事にも、余得なるものが伴い、人の幸運にしても、忘れた頃にやって来たりするものである。去年の夏、省子とふたり、忘れものを探すように、そぞろ歩いた桜橋、あの……


〈美しい、隅田川の夕日に出逢えた事だって、言葉は相応しからぬにもせよ、もとを正せば、余得なのだ……省子との出逢いも、きっと、そう……〉


 想わずにはいられない。

 謙虚たればこその、嬉しい誤算、つまり選択した感覚を否めない。あの、故郷の落日が忘れられず、こうした自由な回想さえ許容される事が、今では楽しい習慣の、成立条件を満たしている。

 自由とは、バランス。その継続という目的成立の為に、必然欠くべからざる条件である。

 不肖、慎一は、いつもと変わらぬ通勤風景に馴染んだ、微細なひとつの読点とうてんに過ぎない。無事、半蔵門線への乗り換えもこなおうせ、都心へ急ぐ車中の一般市民、何の変哲もない、普通のサラリーマン意識に、乗り遅れつつもどうやら間に合いそうな安堵が、新婚時代のまだ青臭かった自身の、理由もなく難しがる顔を作る癖の、名残りかも知れぬ、ふと、見せる仏頂面ぶっちょうづらを、戒めた。本来の、こだわりを感じさせない、鼻筋に顔のパーツが寄り集まる緊張感を脱いだ表情が、何となく、愛おしい。

 小さな読点とうてんは、時の奔流に削られっ放しの、過渡期が明けたかのように、丸まった句点、されどまだいびつな拙い句点に、姿を変えつつある。ぎ落とされたその代わりに、いわゆるひとつの道理と巡り逢った。


〈……形骸化したプライドという矛盾、エクスキューズを集め、用意しないから、背負わないから、シンプル。故に、幸せへの近道。穿うがってはいても、省子も俺も、謙虚でありたい、そんな自身を誓い合える、こころ。何かに触れ、何かを感じ、それを元に他に問う、エクスキューズの用意の間もなく、形骸化は歩みを緩めず、むしろ自らに問う精神は、ともあれ元を凝縮させて、思考なるものを生み出すに至る。〝考える〟 という、ある意味シンプルな社会貢献、社会性を以て、幸せを成す。他者を横に並べて、眺めるばかりでは、違う条件なのに、比較するばかりでは、無意味に意義を与えるだけの、問わず語りのエクスキューズ。自らに問わずして、自らに疑問を向けずして、何の解答が得られよう? 自らの思考の不在を、どうする? 知らぬ顔をするようで、柔らかな物腰の個性の、たまの慇懃無礼いんぎんぶれいであろう事にも、笑顔で接したいものである。並べる暇があるなら、考えて、実行する。手をこまねき、目先に埋没している場合ではない。自身に出来る事が、他者にも出来ようと、主体性が主役を演じようとする故、摩擦が、れ違いが生じ、ろくな事にはならない。主役は、一番は、飽くまで、これから生まれて来るであろう子供達。妻は準主役。夫たる、男たる俺は、何も特別な存在ではなく、仮に特別な視点は、蔑視を、偽善を招くだけである。よって、俺は、三番手以下で充分と……すべきである〉


 時間は、止まらない。

 人生は、二度ない。

 人は、二度死なない。

 諦めては、いけない。


 子供達に、惜しみなく愛の雨を注がねば、今、地球上に降り頻る、悲しみの涙雨は、止まない。

 しこうして、怖らくこれらの想念が、


〈解放というものだろう……〉


 正に、解放期の入口に立ち至ったと、新鮮なこころ持ちに浸るのであった。

 ……半蔵門線に、揺られるばかりである。

 車内に囚われの身を、押し合いし合って黙したままの、勤め人達の苦渋のおもてが、ドアの硝子の窓の上部に、際限なく受け流す、地下空間の駅間の暗黒色を背景にして、粛然と映り込み、み出しても尚、旧に復し、それぞれに均衡を探している。

 そのドアの脇に、反対側のドアから追い詰められ、この佇立スペースを辛うじて見付けた慎一は、流れる黒い硝子の鏡の中で、他の乗客と目を合わせないようで、たまさかの一致にも動じるふうも見せない、自身の経過を観察しながら、地下鉄特有の走行中の轟音に、かつて、形而上けいじじょうの世界を潜行し、その叫喚を連想していた騒音、陰鬱な、耳の奥で鳴り響いて止まない、喘鳴ぜいめいの如き嘆声と重なり、目の一致に戸惑い、車内では瞑目めいもくしがちの、つい先日までの自身が、明らかに、今までとは違う、大きく変化している、脱却している自覚を得ていた。

 所要約四十五分の、さして長くはない通勤時間は、地球内部空間に浮かぶ、駅という光の島々を、次々に架け渡す轟音列車の、光の明滅を巡る短い旅である。光の拡大と収縮を、目的地まで幾度か繰り返す、都市生活では珍しくない公共性は、考えてみれば、いわば異空間の抱擁感を、地下鉄は伴っていて、インドアの感覚に近いものがある。であるから、地下鉄というものは、


〈乗っちゃ不思議と安心する、、、〉


 最近の慎一は、そう気付いた。

 喘鳴ぜいめいは、新たな脈動に支えられた、太い血管の、たぎる流通量に呑み込まれ、この満員電車の混雑に搔き消され、忘れられた存在になりつつある。盛んなる朝のゆき交いは、さればこその、大きな遺産に絆を繋げようと、今尚その生命活動の継続に一途である。

 やがて、次が降車駅。段々と、駅の島の迎撃の兆候はなはだしく、その先遣的な光が、乗り合わせた客達それぞれのうちに、点る。電車がホームに飛び込もうものなら、再び一気呵成に、光の爆発的拡大を知る所となるはずの今日も、仕事が始まる。慎一は、確実に考えていた。


〈解放された! 〉


 それは省子とて、勿論同じであろうと想えた。光は、収縮期から拡大期へ、今正に移り変わろうとしている。一方の拡大は、同時に他方を吸収縮小させる。

 もう間もなく、この地下を脱出すれば、地上は如何にも明るく眩い朝であろう。無明長夜むみょうちょうやは、明ける。


 ……浮き草は、普段は黙り込んで静まり返り、身を潜めるように、無意味という餌をみつつ、自身を守り、それでも何かを追い駆けている。内なる拒絶を、受け身の柔和なおもてを被り、隠し通そうとする。そして時として、その無意味もどきが頭をもたげ、問わず語りにんがり、他者へ疑問を浴びせ掛け、エクスキューズにて、受け身のおもてを守り通す。

 その〝〟 の体は、唐突に〝ぎょう〟 の体に変貌しても、忽ち黙り込んでは守り、んがっては守り、その中間で落ち着く暇もなく、安定にも平和にも程遠く、中庸の、常識の〝へい〟 の体の、自らの希薄たるに気付きながら、それなのに無為を貫き、おもてにこだわっている間に、いつしか更に深奥へ流されている。知りつつも、どうする事も出来ない。他を拒絶するくせに、自らの不手際には寛容な、そのプライド、他に抵抗、自らに無抵抗な、矛盾に満ちた精神、処世を、それでも許してしまう……燻る匂いの違和感を、放置するしかないのか? 尤も、自身の匂いは、なかなかわからないものではあるが。

へい〟 の体の希薄は、中庸に憧憬、あるいは焦燥し、畏怖の念を奉じ、ただ……


〈何かを掴みたくて、欲しくて、ひたすら追い駆けて、受け容れられていない、乗り遅れてしまった、マイノリティの孤独、葛藤を、振り払うように、届かない何ものかに手を延ばし、もっと延ばして、やっと届きそうで、でも届かない何ものかが、こんなに近くに見えるから、やっぱり手を延ばすけれど、それなのにどうして? なぜ? こんなにも遠く隔たっている、記憶なる迷宮に浸入し、誘われるままに、尚も追い駆ければ……求めてばかり、拒んでばかりの自身を、想い知らされ、無意味を裁かれ、余計なものを放棄し、シンプルな自身を受容するこころをたまわれ、過去を熟成、そして感謝を供する原点に立ち戻り、初めて、受け容れるという精神を知るに至った……欲しがるばかりの俺は、間違っていた。素直に、、、そう、想える〉


 そして、ここで、得た。得られた。

 記憶という、近くて遠い自身のうちに、それは眠るかのように存在していた。あんなにも欲しかったものは、自身の中にあったのである。


〈それにしても、なぜ? わからなかったのだろう。どうしてだろう? 〉


 とにかく、長い旅であった。どんなにか、長かった。今はただ、平々坦々とした心地良さに、酔っていたかった。安定と平和を、知る所となった。冷たい雨も、もうき上がるだろう。〝ありがとう〟 と〝ごめんなさい〟 の真意を、理解した。よって、愛するという事に、自らの存在理由を見い出していた。


 

 

 ……かくして、午前の、一階受付座哨ざしょう勤務中の慎一である。

 座哨ざしょう機会の多い、落ち着いたこの現場の、今日の受付の人の出入りは、なぜか少なく、こういう日もあるものだ。こなれた手順で入退館者に対応しつつも、半ば徒然つれづれなるままに、さりとて真面目に、朝の通勤時の思索、その続きを味読するのであった。

 慎一は、ただ、ただただ省子の笑顔が好きだった。いつも自身の隣りで、笑っていて欲しかった。いつまでも、そんな笑顔に触れていたいと想っていた。自身の記憶世界を席巻して離れず、間違いなく、自身を幸せにしたのである。笑顔に、愛に、存在そのものに救われ、解放され、復活し、ここから悉くが、既に始動している自覚をも直伝され、ありとあらゆる手掛かりたり得る予感に、血湧き肉躍る。こころが、語る。


〈俺は……この笑顔に出逢う為に、生まれて来た。この笑顔に触れる為に、生きている。そして、俺は、この笑顔を守る為に、ただその為に、存在している……〉


 存在理由を決定した。

 省子に逢いたくて、逢いたくて、、、ただそのままに、小さな灯台を守るような、それだけで、


〈生きてゆける。を、消したくない。消してはいけない〉


 誰もいない排他の、孤独の暗い波間を漂う浮き草は、灯台の仄明かりを、寄る辺と結論付け、初一念しょいちねん貫き、愛さなければ生きてゆけぬとさえ覚え、愛する事によって、自身なる存在は成立を見ているに相違なかった。愛さねば、自身の意義は無意味に終わり、自身は形骸化するであろうと、考えた。そして、何はともあれ、


〈どうして、こんなに楽しいのだろう? ……〉


 かつてのネガティヴは、無意味な事に意義を与えた虚像を、半ば麻痺した臭覚が、自らの燻る体臭の違和感に気付きながらも、尚も正当化し、他に抵抗、自らに無抵抗な、矛盾だらけの実像を作り上げ、生意気な子供が、大人になり切れずに、いら立つかのようであった心胆に、忸怩じくじたる想いが遺り、内省を禁じ得なかったのだが、この、マイナス感情は、完全に消滅した訳ではないと考えていた。

 消し難いネガティヴは、愛によって、覆い隠されただけなのである。嫉妬、屈辱、怨恨の、無視出来ぬパワーを生む、負の情念は、消せない……消えようともしない。

 そしてそれは、喜ばしきプラス感情、愛と同じ……消えての、否定など危険極まりない、人のさがである。人の、強く深い想いは、正負にかかわらず、消えない。

 ただ、、、生きようとする正負双極の、生命の緊張関係が、数多の負の非合理を、最終的に、一点の正の論理に懐柔させる代わりに、永遠という、永世中立のうちに収束を保証し合い、両者のプライドを宥める。

 その人を愛せないのは、他の人や環境の所為せいにするから。

 その人を恨めないのは、他の人を愛しているから。

 だから……忘れると、いう事になるのだろうか? ……その人の事も、何れ、他の人さえ……。

 人は、生きている限り、とある想いと、その対極にある、つまり正負の感情の、人知れぬ協力関係、ともすれば付和雷同に過ぎない、かかる可能性、薄ごころから忘却へ至らしめる、雪融けの春を待つかのような、遥かに願う作業、このさがを、いつまで? どれだけ繰り返してゆくのだろう? ……

 風前の灯火であった由美子への愛は、強大なマイナスへの、目紛めまぐるしい変容を怖れる余り、新たに出現した省子なる存在へ、回避するかのように、急速な発展を遂げたのだろうか?

 愛しもすれば恨みもしよう、それが必要であるが故、その感情を具有する生き物の、愛たるは、喜びばかりではなく、時に悲しみ、怒り、寂しがり、妬み、恨む事さえある、全ての感情の可能性が内在する、多面体である。人間の存在そのもの、正しく人間である。愛するとは、愛というものは、存在全てを預け合う、人間にとって基幹たる生命活動であり、たとえ、それが消えそうになったとしても、再び対象を求めて、生きようとするさがを享有している。

 愛する生き物なのだから、失くしてもまた、探して、生き続ける。

 ネガティヴによって覆い隠されていた、慎一の愛の魂は、今、省子のうちに宿り、今度はネガティヴを覆い隠した。影に落ちていた光が、再び光を得て、光たらんと欲し、ネガティヴを黙らせるには、愛の豊饒を置いて、他にあり得ない。さりながら、完全否定するつもりではなく、由美子への礼儀を弁え、忘れつつある、フェードアウトの気持ちを、自らの無言の中に込めてゆかんとする、優しさに気付いている。そんな無言なら、、、許されても良い。無意味に意義を与えた、その証しの嘘のような無言ではない。


 疑問を投げないように、

 傷付けないように、

 深く想いを致す自身がいる。

 先鋭的になってしまえば、

 正に、本末転倒、

 悪しき料簡と、しこりを遺す。

 何れ、時間の経過が、

 由美子に纏わる、プラスもマイナスも、

 懐かしい記憶の薄ごころをして、


〈……許せる……そんな日が、いつか、訪れる。もう、良い……良いんだ、、、〉


 静かに、祈った。

 失くした愛、失敗の悲しみ、寂しさは、しっかりかたを付けて乗り越えなければ、有耶無耶うやむやに放置したままでは、妬み恨みに変わる事も辞さず、つまり無意味が加速して、その虚像をぶっ壊せなくなる。虚像は、どこまでも虚像に過ぎず、作ってはいけない、棄てなければいけないが、あなどるべからず。せ返るような濃密な影に掴まれ、身動きが出来なくなり、拒み切れぬ、執拗な負の情念に裏打ちされた、空疎な論争に巻き込まれる。真っすぐな樹であり続けたいと願うのなら、真っすぐな樹の、相応しい生き方がある。

 省子と慎一は、自身の中の虚像をぶっ壊したのである。それには、愛の力が必要であった。かくして、真っすぐな樹は守られ、更に伸びてゆかんとしている。さればこそ、いざとなれば、自身の匂いはわからない、そこへ逃げ込めば良いとする、エクスキューズを用意していた過去を、後悔こそすれ、今のふたりなら、マイナスをプラスに転じられ、つかえにしろしこりにしろ、断じて作るまい。そんな、ネガティヴの芽は。




 ……いつもながらのお弁当に、身もこころも満たされてゆく、その夕食を頬張る真っ最中の、休憩室の慎一であった。

 今日は、ひとりである。本日も何事もなく、至って穏やかな内に、泊まり勤務の時間は過ぎていった。この休憩時間も、まだたっぷり遺っており、つい数日前、新年の挨拶に、ひとり鳥越の実家へ帰った時、どうしても言い出せなかった想いが、今の〝まさか〟 、まるでつかえの如く、嚥下えんげを妨げる。

 食べ終え、その想いを、電話で直接、両親へ伝えたいと……気がいた。

 母のスマホに、直電を入れる、、、

「あ、慎一? 」

 母の声が、優しく響いた。

「うん、こんばんは……」

「こんばんは。仕事中? 」

「うん。でも休憩中だから大丈夫だよ」

「あっそう、どうした? 」

「あのね、お母さん。こないだ……言えなかったんだけど……」

あに? 」

「……俺もさあ、また、幸せになれそうかなあって……」

「そうなの? 本当? 」

 慎一の、予想にたがわぬ回答である。

「ううん、実はさあ……」

「由美子さんと和解したの? 」

「違うんだ。ごめんね……お母さん、今は、それしか言えない、ただ……」

「ただ? 」

 母の目は、〝ごめんね〟 の後を追い駆けるように滴り落ちた、息子の言葉の隙間に、まった。勘が、働いた。


〈この子は……〉


「お父さんとお母さんとお兄ちゃん達に、ただ、どうもありがとうって……言いたかった……」

「慎一? 」

 母は、語尾上げて、なだらかに続ける。

「多くは聞かないよ。でもね……不用意に、人のこころを傷付けてはいけないよ。わかる? ねっ、みんな信じてるんだから、けじめは付けなさい。男として……」

「うん。ありがとう、お母さん」

「いつでも待ってるから、またいらっしゃい、実家なんだから……」

「……」

 さっきの慎一のつかえは、愛だった。

 電話口でこらえる涙と共に、温かく、融けてしまった。

 通話を、終えた。

 実家に心配掛けまいとする意地が、母の説諭に、頑なな武装を解き、従順に応じる自身を、事今日に至り、何の抵抗もなく受け容れる、昔のまんまの、悪戯小僧の受難、両親からの叱責を回想する、慎一であった。


 ……〝子は親を超える〟 と良く言うが、果たしてそうだろうか?


〈子が親を超えられる訳がない……〉


 慎一は、子供の頃からそう想っている。

 東京の下町の場合、かつて、終戦の年の大空襲で、一面の焦土と化した、忘れざる悲しい歴史の記憶がある。

 親達戦中派世代は、この、惨憺さんたんたるマイナスからスタートして、戦後の高度経済成長を担い、国を造って来た。紛れもなく、親達が、この日本という国を造ったのだ。故郷の親元を離れ、丁稚奉公でっちぼうこうから身をおこす事が、決して珍しい話ではなく、日本全国民が、斯様かような時代であったのだ。

 多言を要せず、その、辛酸をめ尽くした、良い事など何ひとつなかった青春時代の、生と死を見つめた、苦労の涙の上に、今日の繁栄、平和、幸せがある。焼け野原の直中ただなかへ放り出されてしまったら……生きてゆけるか? ……。

 誰を恨む事もなく、恨む暇さえなく、ただひたすら黙々と働き、他人に助けられ、時に助け、この身に受けたささやかな親切を、小さな喜びに、幸せに変え、それだけを頼りに、果てしなく辛抱を重ねてゆく内に、あの時代に、人々のこころから、「恨み」 という負の概念が、消滅したに違いない。

 あの戦争で、全否定のそしりを免れない日本は、愛の力によって、リセットされたのである。愛という抑止力が、マイナスから救ったのだ。激動の昭和の歴史を決して忘れず、親達戦中派世代の、たっての願いである平和を、永遠に貫かねばならない。

 それが、日本という国である。

 そんな親を、超えられない。

 大切にしなければいけない。

 慎一は、普通に、そう想っている。


〈愛するこころは教えられたが、恨みごころなど……学んでいない! 〉


 自身の抽斗ひきだしの中にあるはずもなく、完全に削除しなければ、無意味である。

 確かに、人間には、コンプレックスが存在する。しかし、ルサンチマン然たる感情の、非生産建設は、自身の不道徳なアイデンティティを拡大するだけの、害にこそなれ益にはなり得ぬ、行き過ぎた精神行為であり、自由からは逸脱している。

 かかる自由を、果たして許容して良いものか? 修身の不備は、終身に響きはしまいか? 無理が通れば道理が引っ込む。大切なものを、失くしはしまいか? 現実問題、人はひとりで生きている訳ではない。思案所である。

 幸いにも良心は、恨みに堕ちる自身を怖れる。危険予知本能から、回避せんとする自己保存が働き、その対象を、内省世界に隔離した上で、理性的に扱い、反面教師化し、悪しき前例の抑止力、恨みの前段階なる役目を負わせる。

 そしてまた、愛という根っ子を求め、彷徨い流れもしよう生き物にとり、恨みは、現実逃避なる、韻律を物ともしない歌をしようじ、酔いれ、寄り寄り暴走の水火も辞さず、希薄な現実味に気付かず、果ては愛をも恨むに至り、その、愛とは、愛という根っ子は……いうべくも非ず、戒律を踏む、動かし難い現実である。


 恨み以上の、不幸はないと知っている。

 人を恨む事など、絶対に間違っている。

 日本人なら、

 そんな事は教えられていないはずである。

 それこそが、

 日本人の、

 日本人たる精神の、

 所以ゆえんであると、

 斯様かように考える。


 恨みごころ、ここにあらぬ日本人の精神を以て、しかるべきである。


 愛があれは、ただ生きている限り、それだけで、生きてゆく手段にこだわらず、生きてゆく事そのものが、目的、そして幸せに成り代わり、尚も生き続けてさえいれば、きっと希望に巡り逢える事を、信じられる。歳月は、生きる事が、目的である事を教えてくれる。それが、愛という、自己啓発……だから、素晴らしい。生き続けなければ、何としようか?

 言い継ぐなら、その矛盾の教師が、恨みの手前のがけぷちで、人たれば人を選ばず与えられた、神聖なるものを救うのだ。教師化という、抜け道へにがす。それも師の愛とするなら、再びもう一度、愛を以て応える事とて、不可能ではないはずである。愛は、いつでも、どこででも、生まれる。絆は、繋げる。愛は、記憶の世界で生きて来たのだから。そして人は、ひとりで生きて来たのでは、ないのだから。

 よって、この手の逃げは、歓迎される、明日への逃避なる所につづまり、マイナスをプラスへ転換する、大人の処世と言え、ポジティヴへの大きな手掛かりとなる事、必定である。

 恨みは、足下を見失うだけ、自身が自身ではなくなるだけの、非現実、故の非生産に過ぎない。誰しも、対象を恨みたくはない。愛なき果ての、無意味と疑問の矛盾、その冷たい業火ごうかに身を焦がすしかない、責罰を受ける。


 ……次の休憩で、慎一にも、仮眠時間の順番が回って来るはずである。折しも、学大の母、みはるの顔が浮かぶのは、何も偶然に非ず、連環の為せるわざであろう。この小部屋の窓から望む、夜空に算を散らしてまたたく、幾多の星が、天の眼の如く、慎一にも安らぎを保証している。静かな夜にこそ、想像の翼は大きく羽搏はばたき、駆け巡る。そんな夢が見たい、やや眠い慎一を、欠伸あくびが襲う。夢にまで、省子のでっかいおにぎりが、追い駆けて来そうである。



 

 その欠伸あくびが伝染したかのように、自宅のリビングのソファーで夕食後を寛ぐ、岡野家の三人にも、図らずも大欠伸おおあくびが、ほんの僅かの時間差を置いて、それぞれに持ち上がっていた。いつになく、仲の良い家族である。

「ねえ、お父さん覚えてる? 私が小学校低学年の頃、『お父さんはじゃなくて、本当はなんだぞ! 忍者なんだぞ! 』 って、私に良く言ってたよね! 」

「アハハハハハ! 」

 三人の爆笑が、派手に渦巻いた。

「そうだったよねえ! お母さんも覚えてるわよ……」

「ああ、懐かしいなあ……お前は、いつもお父さんの膝の上にいたんだぞ」

 忍は、尚も目を細める。

「うん、覚えてる。私、お父さんっ子だったもんね。その術中に嵌まって、楽しく育てて頂きました。お父さん、お母さんも、本当にどうもありがとう……」

「なあ、省子……」

 父は、静かに語り掛ける。

「お父さんもお母さんも、お前の幸せだけを祈ってる。いつもそばで見守ってるから、、頑張れ。良い報告を、待ってるよ……」

 母も、優しく頷いていた。

 知らないようで、、、親は、我が子のこころも行動もわかっている。親とは、そういうものである。母の教えの所為せいかして、父が大好きで、こころから尊敬の念を贈る、人となりに成長した娘を愛おしむ、事実、娘の為に、粉骨砕身の辛抱を重ねて来た父、忍のこころ、母、真澄とも揃い合わせて、更に、それに応えんとする省子もなぞらえた、親子の情愛が、さっきの三人の大欠伸おおあくびで、家中の気をひと呑みにして、漫然たる幸福感を弥増いやまし、漂うばかりである。

 今夜も、良い夜だ。

 寒の入りも近く、家庭の温もりが一層恋しくなる、冬のピークを控えている。たまさか、省子も慎一も、〝家〟 なる概念を、優しさのうちに隠し切れずに、高揚する一夜を過ごしていた。

 

 ……家庭という根っ子。女房がどうだの、旦那がどうだの、子供がどうだの、親がどうだの、ペットがどうだの、税金がどうだの……その家の人間しか知り得ない、他人から見ればどうでも良いような事、それでも欠くべからざる、濃厚な、生活の実像の匂いにむせびつつ、人となりは作られ、そこには、恥も外聞もないシンプルが、幾らでも転がっている。

 家で散々素顔をさらして置きながら、世間に対して、あんなにもよそゆきの顔をしていた自身に、人はいつしか、ふと……気付く。その、自らの根っ子を作り上げたのは、他ならぬ自分自身である事に、ふと、気付く。人たればその時、素直で、シンプルでありたいものである。正に、家のように。

 省子も慎一も、純粋に家を愛し、語り、さすれば、必ず後にその絆を繋げるものと、信じているに相違あるまい。いつも笑顔に包まれて、友達が我が家のように寛げる、そんな居心地の良い家庭が欲しかった。

 価値ある実像を作る為には、虚像をぶっ壊してからにして欲しかった。なぜなら、両者は反比例の関係にある。自身の物差しだけを透過させる、腰高な個人主義の下に、愛は集わない。悪しき虚像が跋扈ばっこする、虚ろな実像には。


「今年の冬は、そんなに寒くないよね」

 再び、省子が切り出す。

「うん。そう言われれば、そうよねえ。比較的暖かい日が、、続いてる」

 真澄は、荒れ性の自らの手をさすりながら、更に、

「ハンドクリームの減り方も、今年は少ないのよ。確かに、暖かい……」

 想い出したように、今年の暖冬を喜んだ。

「ううん、年配にはありがたいわな。体が楽で」

 そう言う忍も、還暦辺りから出現していた、持病とまではいかない、左膝の鈍痛を、訴える頻度が低い事を自覚していた。

「じゃあ、我が家にとって、結構尽くめな冬だね! 」

「うん、そうだそうだ!! アハハハハ! ……」

 おどける省子に、総員哄笑再燃である。

 岡野家は、大昔から、冗談と笑いが飛び交う、かなりオープンな、こんな感じの家庭である。忍の、苦労人故の気さくな態度が、この自宅と、五反田池田山の会社を築き上げ、一国一城の主にして、それでも尚、腰の低い座右の銘を、全身全霊に象嵌したまま、長い道程を歩んで来たのである。

 真澄は省子に、そんな父の腐心の上に、我が家の幸せがある事を、幼少時から諭し、大切にされていると感じた幼ごころは、当たり前のように自然に、〝ありがとう、ごめんなさい〟 のこころを、両親にいだくに及んで、将来は、〝お父さんのお嫁さんになりたい〟 と、良く口にしていたものであった。

 年月は巡り、麗しく成長した娘が、あの当時の、純粋無垢な気持ちは変えずに、恋愛をして、巣立とうとしている。多少の紆余曲折は苦い良薬として、根っ子を育て、大きく太く、どんな風雪にも耐え得る、凜とした、真っすぐな一本の樹となるべく、いざ、立たんとしている。

 手塩に掛けた最愛の娘は、いつの日か、嫁いでゆく。親元を離れる。絆の移譲、親にしか出来ない、子供の成長の為には必要不可欠な、その存在という役目を終えた時、親は、ただ静かに、身を引き、消えるかのように、それさえも厭わぬように、黙って頷いて、微笑んで、優しく見送りながら、いつも想い出して、やがて子を持つお母さんになろう娘を、〝大したものだ〟 と感じ入り、首を長くして、たまの里帰りを、白髪が目立つ、皺立つ相好を崩す事を憚らずに、ひたすら、、、待っている。いつまでも、帰りを待っている……娘の笑顔という、何よりの手土産を、ひとりずつ増えてゆく、絆の息吹きを楽しみに、娘にとって、子供にとって、世界一こころ強い味方である親は、きっと、ずっと……待っている……。


 誰しも、待っていてくれる人がいる……愛とは、待つ事である。忘れてはいけない。決して、忘れてはいけない。愛しているから、待っている。愛し続ける限り、待ち続ける。

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