樹の棲家の宴
三人模様のお弁当作戦も、既に軌道に乗り、季節は早くも冬の
今年は、冬の使者の訪れが駆け足で、朝の冷え込みが一段と厳しい。その朝の、透徹した冬空の底を、ひとり占めして他を寄せ付けない、澄まし顔の富士山が、今年も、雄大な着物の裾を翻して、
何もそればかりではなく、慎一は、自身の目に映るもの、耳に届く音、鼻を
……美しいものとは、
有形無形の、かたちを超越した存在に対し、その価値を付与する、刹那の意識世界に於いて、数多の現実的ファクターを、一網打尽に無条件帰納させる、偶像崇拝に
それらの聖像は、どこまでも、さるにても美しく、よって、美しいという一念のみが、自由を許されたドグマティズム、尚以て、この意識を惹き付けてグレードアップする、カリスマ性をも内包する。流儀として、いつも、いつ見ても、いつまでも美しく存在し、たとえかたちが滅びたとしても、その概念を
かたちの超越は、時間軸の観念をも、奔放に操作可能なアビリティを誇り、有形に於ける視覚的観念と、無形に於ける記憶的観念の狭間を、相互に時間移動し、視覚は記憶を、記憶は視覚を喚起する。当然、一度記憶付けられた対象は、正に、いつでも、どこでも、何度でも、自由自在な活動権利を認められ、それを発動した瞬間、再び当該対象の時間識が、伸縮無尽に動き出す。故に、無形の想念に至っては、その価値を
しかし、現実世界に於いて、時間というものは、絶対的な制約の中で、抑圧されつつ存在している。それは時として、慎一の場合、老化なる、動かし難い事実を、筆頭に挙げねばならない。この、心身の拡散的低下、それを補わんばかりの、内面的凝縮の意識は、明らかに本能的に、絶対の美に対する憧憬を拠り所として、たとえば、失われた若さ、要するに時間を、空想の渇望によって癒そうとする。全体的な推進力低下の状況下にあって、かくも絶対性なる観念は、現実と妄想、時間と記憶の狭間を、自由闊達に移動し、
それは、記憶の閉鎖的空間内にて、その時ここで、運命的に巡り逢ったような一瞬で、愛という、波動性の量子エネルギーを獲得すると同時に、真実なる意識に、栄達の可能性を知る所となり、これを、絶対主義として、相対的な運動に専念し、現実世界と妄想空間、つまり時空を超越して存在し続ける。
……そして、寂しさを募らせずには置かない、この冬なる季節は、殊更のように、老いという観念を
〈美しい、化身であり……事の始まりには、愛しかない……〉
省子に出逢ってからというもの、相互に引き寄せられた、素直な感覚によって、世界が一変したからである。それは……
〈やはり……愛しているから……〉
愛の女神が下賜した曙光に、慎一の内省経緯は照らされ、精神世界の風景を変えたのだ。そしてこの内的レジスタンスは、全方向統一のエルドラドを求め、更に拡大したがって
愛すればこそ
愛あればこそ
世界は美しい
あの夏の夕日のように。
厳冬を物ともせす、悠然と鎮座する、
霊峰富士のように。
さるにても、如何にぞこの冬という奴は、
人は、影を作る。
矛盾も、嘘も、無言も、寂しさも、諸々のネガティヴは、並び連なって本流に迎え容れられ、反面教師たる、
それ故の、だからこその光への憧憬、希求は……潜在的無意識の世界にて、今は忘れてしまっている、かたちのない記憶、遡ろうものなら、果てしなく手繰り寄せねばならない過去期に、紛れもなく現実の影は、影という体を経てこそ、再びの光明たり得る事、暁光に繋がっている事が、体験付けられた記憶を遺しており、この領域から、
影ありて、影知りてこそ、光がある。
光ありて、光欲してこそ、矛盾なる影がある。
美しさも、愛も、そして真実も、影を透過する光によって、光となって、本質を現し、本物になってゆく。かたちにこだわらず、濃縮され、濃厚に仕上がる。目に見えぬ、無形物の充実たるが、目に見える、価値ある有形を生み、証左となる。
光は、影に落ち、その影は、光をも掴む。
……冬の気に教えられるように、冬籠もりする間にも、蓄えられた夢は、
夢の続きは、まだまだこれから……である。
「ねえ省子ちゃん。ここでさあ、二階で三人で、忘年会やろうよ! 」
ある日の朝、仕事を終えたばかりのみはると省子の、二階での着替え中のやりとりである。
「えー良いですねえ! でも、本当に良いんですか? ……」
嬉しさを隠せない時でも、遠慮は失くせない省子である。
「もう……当然でしょう、堅い話は抜きにしてさ、ねっ、飲もうよ! 」
「はい! 私、ママと一度飲みたかったんです」
「じゃあ決まりだ。やっぱり、土曜の夜にしようね、今週どうかな? 」
「私はいつでもOKです。その日は慎一さんも日勤だから、多分大丈夫だと想う……」
「連絡しといてね。時間は、えーっと夜七時で……私からもこの
「わかりました! 」
三人共、特にイケる口ではなかったが、大いに盛り上がって、正にイケる飲み会になる事必至である。それぞれがますます
こんなにも、新年が待ち遠しい年末は、人生にそう何回もないだろうと想えるぐらい、今年は三人にとって、重要な意味を持つ一年であったに違いない。 膨らむばかりの新年への期待も、無理からぬ所。忘年会は、
女ふたりに相対する、野郎かひとり。慎一は、如何に料理されるのだろう?
その、土曜当日の夕方、夜の部の店の営業を臨時休業した、定食屋〝みはる〟 の、一階店舗の厨房カウンター内、省子にとっても今では自宅
通常営業時と何等変わらぬ熱気と匂いに、五感を
普段と変わらない顔をして、普段と変わらない料理を拵え、普段と変わらない顔触れに食べて貰う、そんな、別段変わった事もない、奇を
逢いたい人、一緒にいたい人、そして、待っていてくれる人。小坂みはるは、そういう人である。誰しも、至近距離の家族に想える。何れ、忘れられない人に、なる。たとえ、逢えなくなっても……。
「さて、こんな所かな? 省子ちゃん、二階へ運ぼう。気を付けて……」
「はい。三人分ですよね、それにしても凄い! 」
揃って、慎一へ馳せる想いは、
〈今宵は何をしても、終始喜色満面である事……当然! 〉
と、結論付けている。
料理の中心は、慎一の大好物の魚類、あの手この手で、刺身を盛り合わせた舟盛りあり、煮付けあり、唐揚げあり、酒が進む事
……かくして、二階和室の
「乾杯〜っ! お疲れ様でしたあ! 」
中ジョッキが割れてしまいそうな、熱い挨拶によって、その戦端は開かれた。
臆せず喉を鳴らして、美味そうに飲み干した、最初の一杯のビールに、今年一年分の全ての、
「あぁ〜っ……」
を込めた、それを拾わぬ社交辞令を、やっぱり相揃えた三人組である。
みなそれぞれに、
「凄いねえ……、美味しそう、
だの、
「箸が迷う〜」
やら、飛び交わしつつ、ジョッキの空きを相
年も押し詰まり、新年から
〈……ここ〝みはる〟 でお弁当を作ってから、駆けてゆく。忙中に
……不思議ではある。でも、自然な流れに近付きたがる感覚であった。かつての苦心を忘れさせる程の充実を、目の前の現実という証左が、語り掛ける。手にしつつある、掴み掛けているかたち、〝自分らしさ〟 が、まるで洗いたての野菜のように、こんなにも親しみを以て、食欲を充たそうとする。誰彼選ばない、〝生きる〟 という事の平等、その意識を、新鮮な顔をして、格好を付けないで、
〈あの悩ましい時期は、何だったのか? 〉
なる、ひと
〈報われるという事は、こういう事なのか……〉
なる、回答を被せて、優しく納得させる。
この〝らしさ〟 とは、確かに、省子本来の謙虚さに包まれていた。〝らしさ〟 を、如何にして得るかを考えた時、
さればこそ、自身の内面に尋ね尽くした。聞くより他にない。
心象なる風景を眺めると、初めの内は錯綜して、それにしてもわからない。事実、
時に、いつも同じ場所ではなく、立ち位置を変えてみた。
であるから、尚不安にもなろう、差し当たりの解答を求めたがりもしよう。しかしながら、取りあえずというからには、それ以上でも以下でもなく、ましてや勝ち負けでも、多い少ないでも、過剰に比較するものでもない、自分だけのものである。暫定は飽くまで暫定、それを導いたのは自分、その先へ導くのもまた、自分しかいない。自分の中の真実に、触れたような気がした。
小さな喜びを幾つも編み込む内に、集めたデータが豊富になってゆく内に、この風景は、解答を、省子が求めていた回答を、提示するに至ったのである。
本心を知った。
飾り気のない、平時の自身の夢が、ストレートに届けられた。忘れたくない、隠したくない、偽りたくない想いに、再び、向き合う事が出来たのである。原点は、一点の揺らぎもなく、そのまま清適に息をしていた。
その感謝のかむろ坂がくれた、やっぱり普通のものであった夢に仄めく、不思議さ、これも平等意識の一端、加えて、
〈やっとこれで、人並みに追い着く
この、この安堵に、今更
それは、今はもう、逢えなくなってしまった人に……それでも、逢いたいと、人知れず涙し、ただ、その人の幸せを願うばかりの、慎ましやかな想い、ひと
たとえば、見たら見たまま、感じたら感じたまま、想ったら想ったままに、中途半端にせず、常に結論というかたちにこだわり、自身のフレームの中だけで展開して区切りを付け、完結させる、結論へ導いたのだ。そのままにして放置すれば、自ずと他へ向けたくもなろう事に、嫌悪があった。自身にも問題があるから、そこに問題がある。自身の周囲で発生した問題は、自身の問題である。よって、自身の責任に於いて、解決する。
そして、このかたちを作る作業には、当然の事ながら、協力者が必要である。省子の周辺には、慎一という問題が発生していたのだ。
〈……慎一さんの、愛の手が欲しい。どうしてもどうあっても、欲しい。一緒に作って欲しい。無数の欠片を、手掛かりを、大意たるは幸せの芽を、育てていきたい〉
……それは慎一にしても、同じ意識を持している。互いに、芽を見つけている。
〈もう、負けない。この人となら、歩んでゆける〉
みはるの力添えを仰ぎつつ、遥かなる旅路は、本心と向き合う辛さを超克し、余計なものとは訣別し、可能性を育てるという、誰が何と言おうと行き着く所、人生なるものが、新たに大きな一歩を踏み出したのだ。
その疑問とは、自身へ向けるか、他者へ向けるか、ふたつにひとつ、要するに五十パーセントの問題であり、さしたる難問ではない。人目や体裁への固執は、危険極まりなく、そしてこの地点が、明暗を分ける、正に
……飲みつ食べつ、そして喋りつ笑いつして、それぞれが、それぞれの愉悦の
「どう? 御両人、今後の展望は」
「ねえ……うん」
省子と慎一は、たまさかタイミングさえ異口同音で、照れながら顔を見合わせる。
「俺の時間が不規則だから、余り逢えないんだけど、お弁当作ってくれるので、本当に、ありがたいと想ってる。気持ちは充分、受け取ってるから、ねっ、そりゃあもう、応えるよ。男として」
〝ねっ〟 のひと言にて念を押すように、相互の理解と決意を、アイコンタクトで確かめ合うふたりである。その様子に、微笑ましく接するみはるは、
慎一は、今夜は無性に酔いたくて、普段はほとんど飲まないロックで、麦焼酎の芳醇な仕業に、身もこころも煙の如く
〈報われつつ、ある……〉
家庭を持つ身の上でありながら、人の道を逸脱した行動に及んだ、中年男の決断によって
〈応援した
と、その慎一の風情から、香り高い満足を得る自然さに、尚、酔い
三人共、こんなに美味い酒を、味わった事があったろうか? 生涯行路を先んじ、幸せなる、ひとつの覚悟たるをも知悉している、みはるはいざ知らず、若いふたりにとっては、初めて知る、酒の旨さであった。時に甘露、時に苦辛、そんな味は、いつでも沁みるに違いない。
〈甘露に沁み渡る、旨い酒に出逢う日は、次はいつ、訪れるだろう……〉
みんな、そう想えて仕方がないくらい、
今夜の酒は、旨かった。
ただ、旨かった。
沁みた。
また、この
飲みたい……。
「ふたり共、
「ママ、ありがとう」
またしても、タイミング込みの異口同音。
「後は、〝繋げる〟 っていう……」
みはるは、感慨深げに、息を吐きながら、自身をも諭すように、台詞の幕を引いた。その
「ねえママ、愛を繋げるには、どうすれば良いの? ……」
一見、子供染みている質問ではある。
しかりと
「うん、
全員、ロックに移行した、そのグラスを持つ手を一時休め、膝を詰め合っている。潤うばかりの酔眼は、この時を待っていたかのように、ますます輝きを発し始め、熱さえ息
尚も、継続する。
「その芽は、まあ、種だね。日常の普通の生活の、たとえば街中の、そこかしこに落ちている。すぐ隣りにも、ある。優しい笑顔で……あなたを待っている。ねっ、そうでしよ? 」
今度はみはるが単独で、ねっを押し出し、
その通り、小さいなりをして、
「その種は、やがて芽生えて、大きな一本の樹に育つ。だから、その樹の努力に応えるように、優しい言葉を投げ掛けながら、大切に、水を与え、肥やしをやり、光と風に当たらせ、丈夫な根を張らせ、大きく太く、どんな風雪にも耐えられる、強い樹に育てて欲しい……これがその存在の、全ての〝根っ子〟 になる。すると、きっと必ず、美しい花を咲かせ、立派な実を付ける事でしょう。だけど、忘れないで……この樹にだって、こころがある。花も咲かせたい、実も欲しがる。樹らしさがある。どうか、わかってあげて……そして、その実の種が、いつかまた芽生えて、樹になる事でしょう……」
こんなに、素晴らしい事はない。
大切にしなければいけない。
親子の目頭の熱さは、酔余に非ぬ、年末のひと夜の夢語りであった。それでも、夢のままにしたくない想いもまた、人の
〈……ふたりらしさを、ふたりだけのかたちを、如何に
かかる声の主は、誰あろう、酩酊の独語であったのか、定かではない。
みんな結構酔っている。いや……そう? でもなく、まだ、充分に余力を遺しているようである。料理も良く売れ、冷めても問題のない、サラダ類の一品が何点か、半分程の量を持したまま、依然待機中である。
この、
〈良い一年であった! 〉
と総括して疑わないはず、併せて、三人の絆とて、深まるより道筋はあり得ないとする、
「じゃあ、この辺でおしまいにしますか? ……」
みはるの、その機を心得た言葉が、一線を引く。
「はーい、ご馳走様でしたあ! ……」
本日三度目の、省子と慎一のタイミング込みの異口同音で応えた。三度目は、かなり間延びしていたが。
三人で手分けをして、使用した食器類やビールの空き瓶やらを、階段に気を付けて、一階の厨房の調理台に降ろすと、みはるが、
「私が明日洗うから、そのままで良いよ」
「ママ、すみません」
省子がみはるを気
「何か、私ばっかり喋っちゃったみたいで、ごめんね。いつもひとりだからさあ、ごめん……」
みはるは、酔っていてもこういう人である。
「ひとりじゃないでしょう! 今夜は良い話たくさん聞けたから、ママ、どうもありがとう。またよろしく! 」
息子は母に
「ママ、どうもありがとう、私、幸せになるから……」
「……」
みはるは、深く頷いた。
この、母の無言には、一ミリの嘘もない。
これだけ気脈を通じる間柄で、嘘を
引き戸の向こう側に展がる、冬の夜空は、どこまでも冷たく、理由なく閉ざされた、秘密が
その、染め替えのプロセスを、みはるは、
〈私は、知っている……〉
されば、言葉に出来なかった。
謙虚という、末頼もしい枢軸の周りで、極く極く微力を供するみはるの心根とて、正に謙虚以外の何ものによらず、涙の色をも共通である。
そして……根っ子の脆弱な樹が辛うじて育て、リミット一杯で繋がっていた、細い糸、相身互う喪失の情念の細い糸は、いつか、切れてしまう事も、知った。
それだけではない。
慎一の場合、始末に困窮していた、手も足も出なかった、喪失感なる魔物、自身の内省世界の視野の
さばかりみはるは、逞しいまでの愛の充実と、げにも表裏一体の相を成す、愛の喪失なる、消し難い感情、この、
〈ちょっぴり、羨ましい……〉
女ごころを覗かせる。
帰する所、親子揃って、
愛は、どこまでも深く、
深更の街頭に、店の小さな明かりが、眠い目を
省子と慎一は、根っ子を全力で守り切る覚悟を固めた。守るべきものが、そこにあった。傷付き、空虚になった器を、埋め戻すように……。
今年が、暮れてゆく。
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