憂える秋雨
慎一は、みはる初参入の、夕食のお弁当も完食して、全身充実の気が漲り、清々しさの内に、今回の泊まり勤務を終了した。
短い仮眠時間の為、帰途の足取りは重いはずであったが、省子のお弁当を食べるようになってからは、不思議と以前より、疲労感が数段軽い事に、愛の力を確認した次第である。携えているバッグの中には、その愛の力の糧を満載していた、空のタッパーがふたつ、綺麗に洗って
〈きっと、本物の幸せを知るに至るのであろう〉
と、想像し得た。
本日土曜日、午前の渋谷駅の人波は少なめで、東横線への乗り換えもスムーズである。バッグは軽くなったが、その分背負っている、自身を取り巻く人達の愛の重さが、殊の外嬉しい。であるから、ここの所、やけに心が浮き立つ事も、
各駅停車みなとみらい行きの電車は、目黒川を跨ぐ橋梁を渡り、中目黒、祐天寺の順に、学芸大学で停まった。休日の、空疎な人影のホームに降り立ち、駅構内から街へ至り、駅前商店街通りを
もし、明かりが灯いていれば、ふたつのタッパーを返して、みはるへ謝意を
〈もしかしたら、省子だって、中にいるかも知れない……〉
小さな期待は、秋の時雨を予感させる、
そして、小雨が降って来た。
雨の
雨の気を身に纏い、自宅三○二の玄関ドアの前に到着した慎一は、解錠を想い
いつもと、違う。
扉の中から、由美子が誰かと話している声が、
鍵を持ったまま、息を凝らして、耳を
「お兄さん、大丈夫よ、大丈夫。今度横浜へ行くから、もう……そんな事ないんだから……ううん、あんまり心配しないで、ねっ? 」
どうやら、横浜の実家で暮らす、十二歳上の実兄、
「うん、わかってる。うん、それ程でもないし……うふっ」
小さな苦笑? が挿し込まれた。
「うん、うん、はい……わかりました。うん、じゃあまた、何れ、どうもありがとう、お兄さん。お父さんお母さんによろしく伝えて。うん、またね、じゃあ……」
昇からの直電であろうかと想われる。
由美子からは、如何にも掛け
地元横浜で、地方公務員を
〈家の固定電話か、由美子のスマホかは定かではないが、兄さんは、妹を心配する余り、双方が休日の土曜の午前に、電話で直接、由美子の声が聞きたかったのだろうか? 無論、最近ご無沙汰している、横浜のお父さんお母さんの意向も働いた上で、妹の意思を確認したかったのたろうか? 〉
慎一は、想像を易くするものの……
親戚中が、みんな心配しているのである。
何とか打開して欲しい、周囲の切望が、帰宅直後、玄関前で佇立を決め込む、慎一の内部を、振り返るように、
……されど、由美子の心中、如何ばかりか? 万策尽きて、無救済の孤立を深めているに違いない。妹想いの昇は、そんな由美子を案じて、
そして、感受性豊かな由美子にとって、夫たる慎一の存在とは、結婚当初から、
〈いつも、家にいない人……〉
……まだ二十代の頃は、それが
とにもかくにも、慎一の帰宅が待ち遠しかった……堪らなく。一日千秋の想いが、当時の由美子の人格を形成していたといっても、過言ではなく、帰って来たら来たで、そばにぴったりと密着して離れなかった。いつも、くっ付いていたかった。休日が合えば、〝今日はくっ付く日! 〟 と宣言して、一日中へばり付いて、慎一を困らせたものである。それは同様に、たとえ泊まり勤務明け朝帰り直後の、夫婦のベッド上であろうとも。由美子は、甘えたがりの自身を憚らず、どこまでも、夢を見ていたかったのだ。
確かに、由美子にとって一番大切な、そんな慎一は、いつもいなかった。
〈いつもいない……いつもいないけれど、それでも……寂しくはない……〉
控えめで、若いに似ず、落ち着いた人となりの由美子であったが、
〈私に向けられた、私の問題である〉
そう動機付け、意識を成立させていた。
良妻賢母たらんとして。
〈何がしかの縁があってこそ、一緒になった。それを深める歩みに於いて、寂しさしかり、慎しみもまた、しかり。大波小波あり、道はいつも、真っすぐ平坦である訳がない。夫婦の歴史を紡ぐ目線は、いつだって、同じ夢を見ているに違いない。信じている。事実、主人はいつもいない。けれど、だけど、大丈夫。平気。主人の笑顔が浮かぶ。話したい、聞いて欲しい事は山程あるけれど、だけど、我慢する事もまた、楽しいもの……〉
その分、きっと、必ず、報われるはずであった。この、自身の仕事のモチベーションをも兼ねる基本精神の、更なる向上を期して、平穏無事な時間が、愛おしく流れていた。
幸せな、日々であった。
〈主人の留守宅は、妻が、しっかりと守る〉
しかるに、人は時折、理由もなく寝苦しくて、なかなか寝付けない夜がある。
何事かを、考え過ぎている訳でもないのに、目を閉じたまま、何度か寝返りを打って、呼吸も深く平らかにしている内に、なぜかしら、漠然たる意識が、濃厚な色合いに
そして、
朝、目覚めれば、
いつも、慎一はいない。
由美子は、いつも、
目覚めても、ひとりである。
前の夜、もう寝ようとして、テレビのスイッチを切った時の、一瞬にして訪れた静寂、あえて抑え込んで、納得させたような静寂が、そのまま遺っている。それは、良質の睡眠を得られなかった、自身の心象を、丸ごと落とし込んだかの、空気感。漂わない、動きのない、そんなひとりの朝が、いやだった。
それでも、部屋中に散らばる、その矛盾の欠片を、そっと
〈……互いの事が、わかるのだけれど……もっと、わかって欲しい……〉
そんなこころを、無言という、振りをした。してしまった。
慎一は、折々過剰な明るさを、由美子は、控えめなクールさを、常に笑顔に託して、贈り届け合っていた。
〈夢は、まだまだ続いている。この先ずっと……〉
共に、そう想う事が頼りだった。
由美子は、毎朝のように、ひとりで起床して、ひとりでテレビを観て、ひとり分の朝食を作って、食べて……その食器を洗って、片付けて、昨夜慎一の為に作って取り置いた、朝食用のおかず類を確認して、再度冷蔵庫へ保管して、それから自らも仕度を整えるべく、ドレッサーに向かって腰掛ける。起床してから、まだ一言も発していない。そんな、鏡の中の自身と向き合って、一日、また一日、今日も明日も、来週も、月が変わって、季節が巡って、一年が過ぎゆく。そしてまた一年、更に一年と重ねて、気が付けば、揃って三十代に達している。
互いに多忙を極め、
〈疲れた……〉
というワードが、常に眼前にぶら下がり、自ずと笑顔も会話も
由美子は、鏡に映る自身に向かって、本心を打ち明けていたのかも知れない。
〈主人は、いつもいない。いつもいないから、だから……〉
時間の奔流は、自身が眠らせていた矛盾や疑問に対し、抵抗し続けて来た、関係そのものを推進するパワーを、随分低下させていた事は否めない。であるならば、大元の失速を受け、
〈寂しい……〉
それは、愛情が希薄になってしまった為に、心奥に大きな風穴が空き、つまり、喪失感に捉われ始めた、何よりのエビデンスである。由美子は、自身のこころの座りの拙さに、一片の失望を見た。
何かに付けて物悲しく、生来感情移入し易い、エンパスの資質を持ち合わせた、感情の起伏が激しい性格が、そのまま人生に投影されていると、想わざるを得なかった。横浜の両親は、そんな由美子の、熱し易く冷め易い性分を心配して、〝
寂しい理由を、
〈……主人が、いつもいないから……〉
慎一の
愛を失うに至った半分の責任、加えて、その喪失感の露見を怖れる余りの、エクスキューズなる保身、つまり責任転嫁は、誰あろう由美子の、エゴイスティックな側面の仕業に他ならず、ここから更に、自身の全ての思考の起点、前提を、この〝不在〟 という現実に固着して、自らに都合良く利そうとしていた。結局、五臓六腑に空いた穴は、埋めようもない。
そして、由美子の
〈なぜ? 何であなたはいつもいないの? ……〉
正直な、女ごころであったかも知れない。
女性の、孤独に
人生最大の買い物に、その性質上、微に入り細を
『今まで、色々苦労を掛けて、本当に、ごめんね……』
慎一の言葉に、由美子は、黙ったまま、そっと微笑んだ。
晴れて、念願の家を持った。
生活の緩やかな流れが、戻ったようであった。が……埋め戻し切れない、拒んだままの断片が、双方の態度の軟化に先回りして、自重を
そのこころとは、〝一葉落ちて天下の秋を知る〟 の如く、夫婦の将来を予見する前触れ、即ち、周藤家独特の生活スタイルに、楽観視は許されぬとする意見で、暗黙の一致を悟っていたのである。つまり、しっかりとした家を持つには持ったが、それでもやはり、いつも主人はいない、動かし難い現実が、成立を守ったままである。家が新しく変わっても、内容に変更はない。新居の喜びとて、ひと夏の幻のように通り過ぎ、何れ日暮れの早い秋が訪れるだろうと、喜んでばかりはいられないとする、まだ若いにもせよ、
ならば、家を持つ必要はなかったという事か? やり直したくないのか? 変えたくないのか? ……。
そうして、疲れが取れない、余り良く眠れない、だけどそれを押し隠して働く、虚像の生活が、新居の
虚勢合戦は、傷付け合うだけ、負の連鎖は、更に憎しみをも生む。夫婦は大人同士、
〈……そんな事はわかっている。わかっているけれど、わかるんだけど、日頃からの空気というか、流れのようなものに、呑まれてしまう。また、その陰に隠れようとしている、互いがいる。それもわかる、わかるんだけど……動けない……〉
本来の、明朗快活な慎一、清廉潔白な由美子、関係改善の夢は、どこへいってしまったのだろうか? そして、その周藤家を満たす空気は、無言という嘘の優しさが、靴音を響かせ、遠ざかる後ろ姿が消えぬ間もなく、急ぎ足の冷たい匂いが、割り込むように展がってゆき交い、
……その風が、この降り頻る秋雨を連れて来たのだろうか? だから、慎一だって、寂しかった……。
雨の音が、悲しく響いている。
目に見えない、色のない、涙の雫の色をして、言葉にならない、言葉ではないかも知れない、言葉にする必要もない声で、何言かを囁いている。その声の主は、誰であったろう? ……雨は、悉くを濡らして、止みそうもない。
玄関ドアの中の、由美子の話し声が途絶えて、暫時、経っていた。
目黒の街ごと、ノックするような雨音に遮られ、由美子は、扉の直前で待機する慎一の気配など、知る由もないといった風情で、通話に夢中だったのであろう、慎一は、由美子の大きな溜め息の頻回を、聞き逃していない。やけに、頭に遺っている。
さるにても、ドアは、厚く重たく、そして冷たく感じる。いつも、この扉の向こう側に、妻がいる。直線距離にすれば、ほんの、たったの数メートル程であるのに、いつの間にか、向こう側へ隔たった、遠い存在感を、夫婦それぞれの精神性が物語っている。
〈やっぱり……近いのに、それにしても、こんなにも、遠い……〉
溜め息ばかりがバリアになって、慎一を躊躇させていた訳ではなく、それよりも、通話終了直後の帰宅は、余りに話が出来過ぎていて、盗み聞きの汚辱を怖れるが故の、計算である。仮面夫婦は、かくも神経を浪費する。ただ、同階の住人に遭遇しない事を、祈っていた。
〈
帰宅の度に、首を
さて……漸く、玄関ドアを解錠した。
黒い革靴を脱ぎ揃え、洗面所へ直行して、床にバッグを置き、ゆっくり
そして、いつも自らきちんと畳んで、棚に置いてある、部屋着用の、チャコールグレーのスウェット上下を着て、
「ただいま……」
リビングへ入った。
「お帰り……」
いつもながらの、平坦な出迎えの由美子は、やはりいつもながらの、涼しい顔をしていた。
「ねえ」
珍しく、女房が先手を取る。
「んん、何? 」
「最近、少し肥った? 」
「んん、歳だからなあ、知らぬ間に、メタボになってたのかなあ、やっぱ、わかる? 」
「うん。顔が少しポチャッとして来たかな? って」
「じゃあ、食事を気を付けよう」
「それが良いよ。いつまでも若くないんだから」
「ハハハ、そうだね、心配? 」
「妻として、当然です」
「ありがとう。注意するから大丈夫だよ」
「うん、そうしてね」
そして夫婦は、それぞれの自室に戻って、雨の休日を過ごした。
慎一は、入浴も、洗濯物の部屋干しも終え、パジャマ姿で、ベッドのへりに座って、床へ両脚を投げ出している。朝食も、今さっきパン類を
ただ、ぼんやり、雨の音を聞いている。
それは、この上とも眠気を催して、まるで妄想の世界へ
無言とは、
語らない、語れない、語りたくない、人間個々の事情が折節かたち作る、言葉というかたちにこだわらない、時に言葉を越える感情表現、意思表示……。
そして、その想いの結晶体こそ、寂しさである。
かたちのない言葉は、誰だって……本当は語りたい! 無口な人程、
故に、雨に喚ばれ、雨に癒されるのだろうか?……。
隣室同士。由美子とて、窓を叩く雨音に、センシティヴな想いを馳せていた。
本当は語りたいのに語れない、解錠さえ
〈手を延ばせば、すぐそばにいるのに、その手は、温かい愛を差し延べる、こころを持った手であるかも知れないのに。そして、優しく、抱き締める事だって……出来るのに……そんな手に、変える事だって、いつかは、出来るはずである事も、わかっているのに……〉
インドア派の人間にありがちな、自らの思考に固執する、いわゆるマニアックな思考回路は、何事に対してでも、主体性の火光を照射して、追及の手を深める。それは折々、精査という概念の基本精神たる客観性に、疑問なきを得ない場面を繰り返す、単調な作業である。どこをどう考えても、納得出来ない事というものがある。周藤家の場合も、その例に漏れず、確かにそれが存在していた。聞き棄てならない話ではあるが。
それは、何を今更いうまでもないが、やはり、食事の問題である。
いつもいないから
〈……いつもいないなら……〉
さりながら、こればかりは、「無理して作らなくても良いよ」 と、言い出しっぺの慎一は、
〈
失望を膨らませて、自身の
しかし……それは飽くまで、表向きの、建前として由美子が用意した、エクスキューズであった。内実は、
〈いつもいないなら……あり得る話〉
という思考、エゴイズムの好都合な産物に、物を言わせたのである。愛をほとんど喪失した妻のプライドを、ある意味コントロールして、同意を見せて置きながら、内心の失望を匂わせ、詰まる所、妻としての体面を主張する形に整えるという、手の込んだ自己保身の道順を辿ったのである。
なので、実際は、心中比較的なだらかであった訳で、
有名無実な、大人振った妻のプライドなど、折れても構わないだろうが、女としての誇り、生き方、
生きる為には、覚悟が要る。排他的ではないプライドを装備してこそ、幸せに生きられる。この幸せが、仮初めのものであったとしたら、そのプライドたるや、如何なる意味を、理由を以てするのか? 事実、プライドにも、
〈それでも、いつかは、いつか……きっと必ず、本当に欲しかったもの、気が遠くなる程、どんなにか遥か彼方へ隔たってしまった、幸せ……愛……〉
脆弱な、大人のロジックの細い糸で、危うく間に合わせたかのように、繋がっている関係を、時の神の降臨の、ゴッドハンドを賜わり、麗しい復活へ導かれる夢、一縷の望みを、棄て切れぬ自身がいる。女の未練と
……その、慎一とて同様の、言葉に出来ない、可能性を語るも憚られる、夫婦の想いを、この雨が、知ってか知らずか、優しく、慰藉する。壁一枚隔てた隣室同士、相通じる悲しみを、この雨が成り代わって、歌唱しているかの、自然の営みは、時に意地悪のように、互いの大切なものを、奪い去ってしまったのかも知れない。
優しいけれど冷たくて、強がっているけれど寂しがり屋の、その涙を
それぞれの境界を守るように、一面の雨色、一色の雨音のブリッジが、重た気な空から、
何言かを刻むように叩く、
橋の両詰の堤上に、ひとりずつ、
だけど、それでも、雨は降り続いて、止まない。互いに投げ掛ける疑問のように、止みそうもない。他者へ疑問を向けている内は、意味のない事に意義を与えている内は、雨は、止まない……自らを、自らの手によって、悲しい立場に追い込んでしまった者同士の、そんな涙だった。悲しい立場にいる人間が、悲しい立場にいる人間に向けて、悲しい言動の、冷たく沁み渡る雨を降らせてしまった。大人振るばかりで、まるで聞き分けのない子供が、
他者に抵抗、自らに無抵抗な偽善者達のこころを、びっしょり濡らす、無意味
〈お互いのこころは、わかっている。わかっているからこそ、言葉にしない、出来ない……したくても、出来なかった……〉
背中合わせの夫婦関係は、想い想いの方向へ、歩き出している。静かに振られた両の手は、何を意味しているのだろう?
遠くにある真の目的は、差し当たりの、目先の充足に埋没している内に、その姿を消してしまった。ふたりは、
〈いつか、いつかきっと、でも、どこまで? どこまでゆけば、それは見えるのだろう? ……出逢えるのだろう? 何を話せば、何を聞けば、そして、あとどれだけ泣けば、良いのだろう? ……〉
漠然とした将来の不安は、取りあえずの回答に
虚勢。それは、自身の過ち、弱さを知ろうとしない精神。何れ真実や本心を隠し、真に大切なものであるべき、幸せ、自由さえ、時に遠ざけ、そして、失くす。こころのロジック、文化人間学、その可能性としての愛、その核を成す、喪失感への深慮、それらの拡充を以てこそ、ベテランはベテランたり得る。報われる時は、いつやって来るのだろう?
無言という、優しい嘘は、この悲しみの雨を降らせた、夫婦
それを癒すのは、どの道、やはり雨、雨が良いかも知れない。何ものをも拒んだりしない、季節とは無関係に暖かく、優しい雨ならば……良い。そんな雨ならば、良い。
かたちを成さぬ無言の中には、かたち以上の想いが、寂しさが籠もっている。だから、積もる。積もってゆく。目には見えずとも、膨らみ、抱え切れなくなって、一杯一杯の器の中の大切なものが、居場所を失くし、逃げていってしまう。寂しさが、大切なものを追い出す。
器の中に、大切なものをたくさん詰め込む訳ではない、忙しさ、それでも、疲れの傷、そして、、喪失感なる、
慎一と由美子。
ふたりの
〈もう壊れそうで、限界まで達しているのに、その時間が長くて、それにしても終わらない。窓を全開にして、美味しい空気を吸って、深呼吸して、美味しい水をたくさん飲みたいけれど……そんな事を考えていても、そんな自身の弱さを許せるのは、空っぽになってゆく、自身しかいない……〉
その空虚な感覚を、ふたり別々に部屋中に
傷の痛みに、魔物の手によって、時間という、遅効性の鎮静剤を投与され、静寂なる、明識意欲の半麻痺状態に嵌まり込み、孤独を宣告されたのである。よって静寂とは、こころの疲労の代表的な自覚症状との、不名誉な別言をも、併せて引き受けざるを得ない。そして、静寂との共存に明け暮れ、天の水入りの如き、爪痕を
本当は大きなものと繋がっていたい、細い糸は、どんなに苦心をして、疲れてしまっても、所詮、細い糸。その大きさに、耐え切れるものではない。一方で求め合い、他方では隠し合う、そんな好都合な糸は、天網
かくなる嘘の、有言無言の常套手段は、無言ならば優しさが伴い、悪口の有言実行に至っては、如実に虚勢の領域の仕業ではあるものの、直言による実行には、最早病的な
虚勢の寂しさを、無言という嘘で埋めた所で、何れにせよ、悲しみが募るだけ、尚々膨満して、手に負えない。終わりも、見えて来よう。さりとても、この不安までをも、更に虚勢で覆い隠し、平気な振りをし、それぞれに都合良く守ろうとするだけで、時間を虚しくして、癒えぬ傷口、埋められぬ穴は、
〈このまま、寂しいまんまの、それぞれひとりという存在は、どこへ流れてゆくのだろう? いつも、いつまでも、ひとりの、寂しいまんまの、何もない時間は……そして、抜け出せない、変わらないひとりひとりが、そこにいる。何をしていても、ひとりである。たった、ひとりである。ひとりだけの時間に、自身が癒される。逃げ込むように、そんな自身と巡り逢い、こんな、孤独という、癒しを知ってしまった。だから……いつもひとりでいる……そっとして置いて欲しいだけなのに。何も動かないけれど、今は、ただ、こうしていたい、だけなのに……〉
虚勢で得た傷を
時を刻む、壁掛け時計の針の音が、眠らせている不品行を、
孤独なる魔物には、
折から聞こえる、魔物の無言のモノローグ。
〈……だから、出来る事なら、それだけに、いつまでも、このまま引っ切りなしに、降り続いて欲しい。雨よ、屈せず、妥協せず、止まないで欲しい。雨よ……私の想いは、この雨と共に降り注ぎ、たとえ白く煙って、風に吸い込まれようと、どこかへ流されようと、降り止まぬ雨に、また
魔物は、諦め、忘却、そして解離なる同族の、粛清の追っ手を
無風無彩色の空間識、時間識は、感情の躍動の片鱗をも窺わせない、無機質で、半ば機械的な空気が貯留したような感覚を、夫婦に教え込み、日常的な相互意識を、麻痺へ追い
それでも、無駄だとわかっていても、雨に、愛を感じる、慎一と由美子であった。
魔物は、感情バイアスの意思決定から、受容と拒絶の二者択一、それに対する、必要以上の意義動機付けによって、差別隔絶化を促進するのだが、さればこその雨への思慕、急進であったかも知れず、加速するばかりの静寂に伍して、健闘するサンクチュアリをも、抱擁するかのように降り注ぐ雨に、ただ、想いを馳せてゆく。
夫婦の絆は、暗い輝きを増すばかり、個々に陶然として、為す術もなく、前世からの因縁の如き、不遜な、上からの目線に立脚している事に、気付く由もない。この立脚地には、良い意味でアンテナを張り巡らせた、交換意識を、遮断する事を選択した、環境に甘んじ、新たなる挑戦を排し、その時間が長い程、愚神礼讃の幻影に手が付けられない、正しく孤独なる魔物が棲んでいたのだ。
故に、そこに集まる知識も経験も、自ずとネガティヴの産物である。現実とは必然であり、断じて偶然ではないという理屈が、全く信じられず、
〈ただ、弱かった、逃げていた……矛盾を矛盾で埋めようとするこころを、どうする事も出来なかった……互いのこころをわかっているような、理解者の仮面を脱がざるを得なくなった時には、もう、既に……〉
人間とは、
美しくもあり、また、汚くもある、双極の可能性を内包する、独立生命体である。余りに格好ばかりを気に掛けるのは、如何なものか? 異心が空っぽの無形物が、時を経て、尊い有形物に姿を変える。
楽観でも悲観でもなく、その出発点とは、要するに、「過去」 なる概念といって憚らない。
たとえ、不運な境遇に生まれ育ったとしても、先ず、自身の過去を素直に愛し、謝意を手向ける所から始めなければ、それに連なる何ものとて、愛し、大切にし、築き繋げる事は叶わず、第一、余りに救いがなさ過ぎる。現実なる必然に、充分に感謝たり得るなら、その始まりの過去についても、同質同等に接すべき事は、何も偶然に非ず、過去の必然のまま、その上に現実なる必然が成立している、極く当たり前の、子供にもわかるシンプルなロジック、道理である。ましてや、それを誤魔化そうとしても、到底無理が生じ、自他共に不信を招く。過去を熟成し、過去への多謝あってこその、そんな幸せを夢見たいものである。
そして更に、過去の熟成を阻害する、最強の魔物たるは、いうまでもなく、「恨み」 なる情念、そこから派生した寂しさであろうか。百パーセント完璧な人間など、存在しないように、百パーセントのクオリティを誇る幸せとて、存在し得ない。しかし、この精度にこだわり、その
反骨精神という奴は、一旦目先に走ろうものなら、その情熱が
人生は、一度切りしかない。
様々な出来事、想い。殊の外、悪しきそれらについて、前例として割り切る、いわば現実的な論理を越えんとする計算、〝創造性〟 なる精神が、必要であるように考える。創造とは、夢である。拡大と集中を適宜反復する、こころの目の焦点、夢と現実、妄想と理念、直観と合理性の、アンビバレンスの繊細な視点を、透過する事によって得た、無関係の事象同士の関連性、法則性、これらを起点としたイノベーティヴな発想、これ即ち創造、であるだけに、夢といえようか。食事を摂る事も忘れる程の、専心を必要とする、創造力を働かせるという精神行動。人生を、この創造性のフィルターで透過すれば、本物に出逢える事は、決して夢ではない、そう想えてならない。
……今はひたすら、雨の陰の世界に、暮れ
他者へ疑問を向ける無意味
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