憂える秋雨


 慎一は、みはる初参入の、夕食のお弁当も完食して、全身充実の気が漲り、清々しさの内に、今回の泊まり勤務を終了した。

 短い仮眠時間の為、帰途の足取りは重いはずであったが、省子のお弁当を食べるようになってからは、不思議と以前より、疲労感が数段軽い事に、愛の力を確認した次第である。携えているバッグの中には、その愛の力の糧を満載していた、空のタッパーがふたつ、綺麗に洗ってしまわれている。そして、ズボンのウエストに、多少の窮屈さを隠せない。満更でもない、ここ最近の体重の増加に併せて、年齢を実感している。どこにでもいる普通のお父さんのような、極く一般的な、小さな悩みを共有する自身に、家庭人としての喜びが蘇り、その先に、


〈きっと、本物の幸せを知るに至るのであろう〉


 と、想像し得た。

 本日土曜日、午前の渋谷駅の人波は少なめで、東横線への乗り換えもスムーズである。バッグは軽くなったが、その分背負っている、自身を取り巻く人達の愛の重さが、殊の外嬉しい。であるから、ここの所、やけに心が浮き立つ事も、っくに自覚している。本来の、ど明るい周藤慎一を、誰よりも、他ならぬ自身が待望していたのだ……そして、街は濃厚な秋を装い、今以上もっと深く、人恋しさをいざない、馳せ流れる秋澄む風が立つであろう。

 各駅停車みなとみらい行きの電車は、目黒川を跨ぐ橋梁を渡り、中目黒、祐天寺の順に、学芸大学で停まった。休日の、空疎な人影のホームに降り立ち、駅構内から街へ至り、駅前商店街通りをそぞろ歩く。みはるへ折れる小径を、横目に収めた時……暖簾のれんが出ていない、引き戸の硝子の中は暗く、ランチタイム営業前の静謐にくくられていた。

 もし、明かりが灯いていれば、ふたつのタッパーを返して、みはるへ謝意をあらわしたかったのだが、照明は灯いていなくても、店にみはる本人はいるであろう事も、承知しているのだが、なぜか気羞ずかしくて、小径へ入っていけない。


〈もしかしたら、省子だって、中にいるかも知れない……〉


 小さな期待は、秋の時雨を予感させる、鉛色なまりいろに沈む空の中へ、吸い込まれていった。学大駅に着いてから、俄かに雲が厚みを増し、雨が降り出しそうである。その所為せいかして、店に寄らなかったのかも知れず、自然に急ぎ足に変わっていた。秋空は、悲秋の趣きに移ろい易く、さりとて、たじろがず、ひるまず、流されず、もう誰が何と言おうと、貫き通す一念こそが、ぶれ続けた過去を超越して、今漸く訪れたこころの平和を、裏付けるように、秋意の悉くをも、静かに、慎一に、受け容れさせる。

 そして、小雨が降って来た。

 雨のすじは、絹糸のように、こまやかに目黒の街を縫い繕いながら、しっとりと濡らしてゆく。破けた、誰かのこころをそっとかばう、優しい吐息交じりの雨音を添えて。都会の、寂然たる秋色しゅうしょくには、雨が良く似合う。しんとして、耳に届くばかりの疎覚うろおぼえの歌は……雨の音が良い。匂い立つような、雨が良い。

 雨の気を身に纏い、自宅三○二の玄関ドアの前に到着した慎一は、解錠を想いとどまった。

 いつもと、違う。

 扉の中から、由美子が誰かと話している声が、かすかに漏れて来る。

 鍵を持ったまま、息を凝らして、耳をそばだてた……


「お兄さん、大丈夫よ、大丈夫。今度横浜へ行くから、もう……そんな事ないんだから……ううん、あんまり心配しないで、ねっ? 」


 どうやら、横浜の実家で暮らす、十二歳上の実兄、のぼると会話しているようである。


「うん、わかってる。うん、それ程でもないし……うふっ」


 小さな苦笑? が挿し込まれた。


「うん、うん、はい……わかりました。うん、じゃあまた、何れ、どうもありがとう、お兄さん。お父さんお母さんによろしく伝えて。うん、またね、じゃあ……」


 昇からの直電であろうかと想われる。

 由美子からは、如何にも掛けづらい。


 地元横浜で、地方公務員を生業なりわいとしている昇は、妻と、既に成人した二人の男の子供がおり、実家を十数年前に建て替えた二世帯住宅で、両親と併せて三世代六人の、賑やかな暮らし振りの人である。気さくで、人の話を良く聞きながら、その流れに無理なく、自らの要旨をちりばめる事の出来る、懐の深さに、慎一とも馬が合った。素直になれる想いは、夫婦共通である。しかし……


〈家の固定電話か、由美子のスマホかは定かではないが、兄さんは、妹を心配する余り、双方が休日の土曜の午前に、電話で直接、由美子の声が聞きたかったのだろうか? 無論、最近ご無沙汰している、横浜のお父さんお母さんの意向も働いた上で、妹の意思を確認したかったのたろうか? 〉


 慎一は、想像を易くするものの……


 親戚中が、みんな心配しているのである。

 何とか打開して欲しい、周囲の切望が、帰宅直後、玄関前で佇立を決め込む、慎一の内部を、振り返るように、えぐる。残念そうに、叩いた。もう、待ったなしであった。


 ……されど、由美子の心中、如何ばかりか? 万策尽きて、無救済の孤立を深めているに違いない。妹想いの昇は、そんな由美子を案じて、兄妹きょうだいの情愛の温かい手を差し延べている。由美子の年齢的にも、更年期の情緒に想いを致して、可及的その障害物を、排除してやりたいだろう。由美子は、子供時分から、疲労感を訴えがちの人であるが故、横浜の両親も、その体質を慮りつつ、育てて来たと仄聞している慎一であった。心身共に、ストレスを溜め込んでしまうタイプの人間である。

 そして、感受性豊かな由美子にとって、夫たる慎一の存在とは、結婚当初から、


〈いつも、家にいない人……〉


 ……まだ二十代の頃は、それがかえって、その分といおうか、愛を燃焼させるファクターたり得ていたのは事実で、由美子は常に、忙しい夫の事ばかり妄想して、正に虜囚と化していた。魅せられ、酔わされ、かしずいて、実に良く尽くす献身振りに、自身も瞠目どうもくする程の関係を、おんなのほまれとして、内懐うちぶところしまっていた。

 とにもかくにも、慎一の帰宅が待ち遠しかった……堪らなく。一日千秋の想いが、当時の由美子の人格を形成していたといっても、過言ではなく、帰って来たら来たで、そばにぴったりと密着して離れなかった。いつも、くっ付いていたかった。休日が合えば、〝今日はくっ付く日! 〟 と宣言して、一日中へばり付いて、慎一を困らせたものである。それは同様に、たとえ泊まり勤務明け朝帰り直後の、夫婦のベッド上であろうとも。由美子は、甘えたがりの自身を憚らず、どこまでも、夢を見ていたかったのだ。

 確かに、由美子にとって一番大切な、そんな慎一は、いつもいなかった。


〈いつもいない……いつもいないけれど、それでも……寂しくはない……〉


 控えめで、若いに似ず、落ち着いた人となりの由美子であったが、けだし、その為に、自身のこころさえも不在になりそうな、夫の不在という矛盾、疑問を、愛情の絶大なパワーが、寂しからぬ方向へ押し戻していた。職業柄仕方のない事であり、


〈私に向けられた、私の問題である〉


 そう動機付け、意識を成立させていた。

 良妻賢母たらんとして。


〈何がしかの縁があってこそ、一緒になった。それを深める歩みに於いて、寂しさしかり、慎しみもまた、しかり。大波小波あり、道はいつも、真っすぐ平坦である訳がない。夫婦の歴史を紡ぐ目線は、いつだって、同じ夢を見ているに違いない。信じている。事実、主人はいつもいない。けれど、だけど、大丈夫。平気。主人の笑顔が浮かぶ。話したい、聞いて欲しい事は山程あるけれど、だけど、我慢する事もまた、楽しいもの……〉


 その分、きっと、必ず、報われるはずであった。この、自身の仕事のモチベーションをも兼ねる基本精神の、更なる向上を期して、平穏無事な時間が、愛おしく流れていた。


 幸せな、日々であった。


〈主人の留守宅は、妻が、しっかりと守る〉


 しかるに、人は時折、理由もなく寝苦しくて、なかなか寝付けない夜がある。

 何事かを、考え過ぎている訳でもないのに、目を閉じたまま、何度か寝返りを打って、呼吸も深く平らかにしている内に、なぜかしら、漠然たる意識が、濃厚な色合いに塗抹とまつするそばから、今度は一点の動悸が、更にその上を刷毛はけでなぞるように塗り重ねて、ベッド全面に展がり、眠りを妨げる。すると、いよいよ深層からの、眠りたい欲求が、凝り固まった、透明な影の如き無意識もどきを象嵌して、時間を奪い、結局、眠れないという意識を遺す。さりとて、それに疲れてしまってか、いつの間にか、眠りに落ちている。その苦心を、忘れるかのように。


 そして、

 朝、目覚めれば、

 いつも、慎一はいない。

 由美子は、いつも、

 目覚めても、ひとりである。


 前の夜、もう寝ようとして、テレビのスイッチを切った時の、一瞬にして訪れた静寂、あえて抑え込んで、納得させたような静寂が、そのまま遺っている。それは、良質の睡眠を得られなかった、自身の心象を、丸ごと落とし込んだかの、空気感。漂わない、動きのない、そんなひとりの朝が、いやだった。

 気怠けだるく、ひとりの夜と朝は、秘して消耗するのである。

 それでも、部屋中に散らばる、その矛盾の欠片を、そっとすくい上げている自身を、許す事が出来たのは、欠片が、無言という、優しい嘘だったから。夫婦ふたりで埋め尽くした、致し方ないれ違いの空間識であったから。互いの弱さを、虚勢で包み隠して、無言を優しさに置き換えて、触れ合えぬ糸で、繋がるしかなく、定めし冷たい微風にも、慣れる事も出来るだろうと。そして、


〈……互いの事が、わかるのだけれど……もっと、わかって欲しい……〉


 そんなこころを、無言という、振りをした。してしまった。

 慎一は、折々過剰な明るさを、由美子は、控えめなクールさを、常に笑顔に託して、贈り届け合っていた。


〈夢は、まだまだ続いている。この先ずっと……〉


 共に、そう想う事が頼りだった。

 由美子は、毎朝のように、ひとりで起床して、ひとりでテレビを観て、ひとり分の朝食を作って、食べて……その食器を洗って、片付けて、昨夜慎一の為に作って取り置いた、朝食用のおかず類を確認して、再度冷蔵庫へ保管して、それから自らも仕度を整えるべく、ドレッサーに向かって腰掛ける。起床してから、まだ一言も発していない。そんな、鏡の中の自身と向き合って、一日、また一日、今日も明日も、来週も、月が変わって、季節が巡って、一年が過ぎゆく。そしてまた一年、更に一年と重ねて、気が付けば、揃って三十代に達している。

 互いに多忙を極め、


〈疲れた……〉


 というワードが、常に眼前にぶら下がり、自ずと笑顔も会話もかげり、体の交わりとて、例外ではない。手指のささくれが、目立ち始める年代の、皮膚の乾燥は、内部疲労の自覚症状か? こころという、深い内部の。慎一も由美子も、心身共に疲労の色を隠せなかった。時の移ろいが、夫婦に何を遺したのか? 尋ねられても、果たして回答する事が出来ただろうか?

 由美子は、鏡に映る自身に向かって、本心を打ち明けていたのかも知れない。


〈主人は、いつもいない。いつもいないから、だから……〉


 時間の奔流は、自身が眠らせていた矛盾や疑問に対し、抵抗し続けて来た、関係そのものを推進するパワーを、随分低下させていた事は否めない。であるならば、大元の失速を受け、つづまる所、そのまま平静が保たれても良さそうではあるものの、その場にとどまろうとせず、〝ひとり〟 という現実について、順接的な矛盾、疑問の表出に及んだのである。愛は、矛盾の抑止力であったのか?


〈寂しい……〉


 それは、愛情が希薄になってしまった為に、心奥に大きな風穴が空き、つまり、喪失感に捉われ始めた、何よりのエビデンスである。由美子は、自身のこころの座りの拙さに、一片の失望を見た。

 何かに付けて物悲しく、生来感情移入し易い、エンパスの資質を持ち合わせた、感情の起伏が激しい性格が、そのまま人生に投影されていると、想わざるを得なかった。横浜の両親は、そんな由美子の、熱し易く冷め易い性分を心配して、〝はらにある事は、言ってはいけない〟 とした慎しみの教育を、幼少期から施した。そのお陰で、余計な事は口にしない、それでいて一見クールな女性に出来上がったのだろう。であるが故、家庭内失恋の痛手を、夫に、その弱みを見せたくなかったのだ。

 寂しい理由を、


〈……主人が、いつもいないから……〉


 慎一の所為せいにして、かつての自身の責任から逃げ出してしまった。

 愛を失うに至った半分の責任、加えて、その喪失感の露見を怖れる余りの、エクスキューズなる保身、つまり責任転嫁は、誰あろう由美子の、エゴイスティックな側面の仕業に他ならず、ここから更に、自身の全ての思考の起点、前提を、この〝不在〟 という現実に固着して、自らに都合良く利そうとしていた。結局、五臓六腑に空いた穴は、埋めようもない。

 そして、由美子のうちなる揺らぎは、この回避行動を貪欲にあらわし、主体性を増幅させてゆく。いいにくい事ではあるが、現実に対する矛盾の鉾先ほこさきを、完全に慎一に転じてしまったのである。


〈なぜ? 何であなたはいつもいないの? ……〉


 正直な、女ごころであったかも知れない。

 女性の、孤独にさいなまれる寂しいこころ程、可哀想なものはない。慈悲憐憫じひれんびんの情が、放っては置くまい。夫婦である。現実問題、秋風が吹く関係に滞ってしまってはいたが、正にこの時、このタイミングこそ、関係修復へ向けた、千載一遇の好機チャンスであった訳で、慎一は、由美子の、いわばニュートラルな心胆を読んで、この機を捉えて、ここ学大のマンション購入を提案したのであった。

 人生最大の買い物に、その性質上、微に入り細を穿うがつ内容の話に及び、先ず何よりも、慎一の、このひと言から始めねばならない、「ごめんなさい」 なる謝意だけでなく、お互いの、言いたい事もあろうに、でも言えない気持ちまで、悉くこの計画に呑み込ませて、一気の解決を期待した。よって、言葉としてのごめんなさいは、住宅ローン返済計画完成後になった。


『今まで、色々苦労を掛けて、本当に、ごめんね……』


 慎一の言葉に、由美子は、黙ったまま、そっと微笑んだ。


 晴れて、念願の家を持った。

 生活の緩やかな流れが、戻ったようであった。が……埋め戻し切れない、拒んだままの断片が、双方の態度の軟化に先回りして、自重をそそのかす。

 そのこころとは、〝一葉落ちて天下の秋を知る〟 の如く、夫婦の将来を予見する前触れ、即ち、周藤家独特の生活スタイルに、楽観視は許されぬとする意見で、暗黙の一致を悟っていたのである。つまり、しっかりとした家を持つには持ったが、それでもやはり、いつも主人はいない、動かし難い現実が、成立を守ったままである。家が新しく変わっても、内容に変更はない。新居の喜びとて、ひと夏の幻のように通り過ぎ、何れ日暮れの早い秋が訪れるだろうと、喜んでばかりはいられないとする、まだ若いにもせよ、や老後の守備固め然とした、拙速な変化は望まぬこころが、相変わらずの多忙に言寄せし始め、改善修復したい、その英断の証左たる転居について、価値付けを躊躇するのである。


 ならば、家を持つ必要はなかったという事か? やり直したくないのか? 変えたくないのか? ……。


 そうして、疲れが取れない、余り良く眠れない、だけどそれを押し隠して働く、虚像の生活が、新居の澄明ちょうめいなアトモスフィアを、一点の如き刹那で、やはりの方向へ分岐させ、塗り潰そうとしていた。この頃から、完全にセックスレスに陥る。

 虚勢合戦は、傷付け合うだけ、負の連鎖は、更に憎しみをも生む。夫婦は大人同士、


〈……そんな事はわかっている。わかっているけれど、わかるんだけど、日頃からの空気というか、流れのようなものに、呑まれてしまう。また、その陰に隠れようとしている、互いがいる。それもわかる、わかるんだけど……動けない……〉


 本来の、明朗快活な慎一、清廉潔白な由美子、関係改善の夢は、どこへいってしまったのだろうか? そして、その周藤家を満たす空気は、無言という嘘の優しさが、靴音を響かせ、遠ざかる後ろ姿が消えぬ間もなく、急ぎ足の冷たい匂いが、割り込むように展がってゆき交い、かさず一色に取って代わり、執拗な向かい風を誘引する。夫婦の温度差が、空気の対流、即ち風を生んだ。この風は、きっと、何かを吹き集めようと、大人しい振りをしているだけに違いない。片肺飛行の向かい風は、致命的な結論をも、運んで来るかも知れない。陰徳陽報なる言葉が、それぞれの芯に、深く沁み込むであろう。



 ……その風が、この降り頻る秋雨を連れて来たのだろうか? だから、慎一だって、寂しかった……。

 雨の音が、悲しく響いている。

 目に見えない、色のない、涙の雫の色をして、言葉にならない、言葉ではないかも知れない、言葉にする必要もない声で、何言かを囁いている。その声の主は、誰であったろう? ……雨は、悉くを濡らして、止みそうもない。


 玄関ドアの中の、由美子の話し声が途絶えて、暫時、経っていた。

 目黒の街ごと、ノックするような雨音に遮られ、由美子は、扉の直前で待機する慎一の気配など、知る由もないといった風情で、通話に夢中だったのであろう、慎一は、由美子の大きな溜め息の頻回を、聞き逃していない。やけに、頭に遺っている。

 さるにても、ドアは、厚く重たく、そして冷たく感じる。いつも、この扉の向こう側に、妻がいる。直線距離にすれば、ほんの、たったの数メートル程であるのに、いつの間にか、向こう側へ隔たった、遠い存在感を、夫婦それぞれの精神性が物語っている。


〈やっぱり……近いのに、それにしても、こんなにも、遠い……〉


 溜め息ばかりがバリアになって、慎一を躊躇させていた訳ではなく、それよりも、通話終了直後の帰宅は、余りに話が出来過ぎていて、盗み聞きの汚辱を怖れるが故の、計算である。仮面夫婦は、かくも神経を浪費する。ただ、同階の住人に遭遇しない事を、祈っていた。


姑息こそくな、中年男に成り下がったものだ……〉


 帰宅の度に、首をすくめる始末である。

 さて……漸く、玄関ドアを解錠した。

 黒い革靴を脱ぎ揃え、洗面所へ直行して、床にバッグを置き、ゆっくり盥漱かんそうを済ませた。服を脱ぎ、バッグの中の、つい先刻まで現場で着用していた制服と一緒に、洗濯機の槽内に収めた。スイッチを入れ、運転が立ち上がり、静かにうなる機械音が、この、狭い無機質な空間に蓋をする。

 そして、いつも自らきちんと畳んで、棚に置いてある、部屋着用の、チャコールグレーのスウェット上下を着て、

「ただいま……」

 リビングへ入った。

「お帰り……」

 いつもながらの、平坦な出迎えの由美子は、やはりいつもながらの、涼しい顔をしていた。

「ねえ」

 珍しく、女房が先手を取る。

「んん、何? 」

「最近、少し肥った? 」

「んん、歳だからなあ、知らぬ間に、メタボになってたのかなあ、やっぱ、わかる? 」

「うん。顔が少しポチャッとして来たかな? って」

「じゃあ、食事を気を付けよう」

「それが良いよ。いつまでも若くないんだから」

「ハハハ、そうだね、心配? 」

「妻として、当然です」

「ありがとう。注意するから大丈夫だよ」

「うん、そうしてね」

 そして夫婦は、それぞれの自室に戻って、雨の休日を過ごした。

 慎一は、入浴も、洗濯物の部屋干しも終え、パジャマ姿で、ベッドのへりに座って、床へ両脚を投げ出している。朝食も、今さっきパン類をかじって、そのままの姿勢である。やれやれ、寝ようとしていた。

 ただ、ぼんやり、雨の音を聞いている。

 それは、この上とも眠気を催して、まるで妄想の世界へいざなうかの、むしろ小気味良いリズムを刻むように。時として乱れる事を止め、しかと規則正しい調べは、秋のマエストロが奏でる、形のない、言葉として表現する事が極めて困難な、それなのにあえて伝えたいこころ、紙一重で言葉に届きそうであった想いを、それでもわかって欲しいこころ、言葉の手前で立ち止まり、形を成さなかったこころ、「無言」 なる、こころのありように対する深慮を諭す、流体の芸術を想像させる。

 無言とは、

 語らない、語れない、語りたくない、人間個々の事情が折節かたち作る、言葉というかたちにこだわらない、時に言葉を越える感情表現、意思表示……。

 そして、その想いの結晶体こそ、寂しさである。

 寂寥感せきりょうかんが、ふと沈黙させ、寡黙な人格をも育成する。この精神行動は、やはり、こころの疲れの自覚症状として認められるべきで、さればこその深慮を供さねばならない。静かなる主張には、それに見合う、それだけに礼儀を重んじる必要がある。

 かたちのない言葉は、誰だって……本当は語りたい! 無口な人程、はらの中に、言いたい想いをたくさん溜め込んでいて、吐き出す機会を待ちながら、密かに通じ合える他人ひとを探している。いつかは、いつかきっと、わかり合えると……

 故に、雨に喚ばれ、雨に癒されるのだろうか?……。

 隣室同士。由美子とて、窓を叩く雨音に、センシティヴな想いを馳せていた。

 本当は語りたいのに語れない、解錠さえ躊躇ためらうこころは、愛の流通の疎らな夫妻共通である。実は由美子も、気が重かった。


〈手を延ばせば、すぐそばにいるのに、その手は、温かい愛を差し延べる、こころを持った手であるかも知れないのに。そして、優しく、抱き締める事だって……出来るのに……そんな手に、変える事だって、いつかは、出来るはずである事も、わかっているのに……〉


 インドア派の人間にありがちな、自らの思考に固執する、いわゆるマニアックな思考回路は、何事に対してでも、主体性の火光を照射して、追及の手を深める。それは折々、精査という概念の基本精神たる客観性に、疑問なきを得ない場面を繰り返す、単調な作業である。どこをどう考えても、納得出来ない事というものがある。周藤家の場合も、その例に漏れず、確かにそれが存在していた。聞き棄てならない話ではあるが。

 それは、何を今更いうまでもないが、やはり、食事の問題である。

 いつもいないから云々うんぬんとの、逃亡癖の爪痕は、更に深く、


〈……いつもいない……〉


 窮鼠きゅうそ猫を噛むの如き存意を、呈するに及んだのである。

 さりながら、こればかりは、「無理して作らなくても良いよ」 と、言い出しっぺの慎一は、自縄自縛じじょうじばくに陥り、その結果、由美子の、妻としてのプライドを傷付けてしまったのだ。妻を慮る余りの、こころの先読みに、同意した由美子は、


かえって、信頼されていない……〉


 失望を膨らませて、自身のうちの柱が折れてしまったのである。その胸の内を、さり気なく、慎一へ伝えていた。

 しかし……それは飽くまで、表向きの、建前として由美子が用意した、エクスキューズであった。内実は、


〈いつもいない……あり得る話〉


 という思考、エゴイズムの好都合な産物に、物を言わせたのである。愛をほとんど喪失した妻のプライドを、ある意味コントロールして、同意を見せて置きながら、内心の失望を匂わせ、詰まる所、妻としての体面を主張する形に整えるという、手の込んだ自己保身の道順を辿ったのである。

 なので、実際は、心中比較的なだらかであった訳で、しこうして、大きな波風を立てずに、周藤家に於ける、差し当たりの生活スタイルが動き出し、平和な、我が家の幸せを知りつつ、時が流れゆくのであった……この時は……

 有名無実な、大人振った妻のプライドなど、折れても構わないだろうが、女としての誇り、生き方、さがは、如何にして繋げば良いのだろう。

 生きる為には、覚悟が要る。排他的ではないプライドを装備してこそ、幸せに生きられる。この幸せが、仮初めのものであったとしたら、そのプライドたるや、如何なる意味を、理由を以てするのか? 事実、プライドにも、真贋しんがんが存在する。


〈それでも、いつかは、いつか……きっと必ず、本当に欲しかったもの、気が遠くなる程、どんなにか遥か彼方へ隔たってしまった、幸せ……愛……〉


 脆弱な、大人のロジックの細い糸で、危うく間に合わせたかのように、繋がっている関係を、時の神の降臨の、ゴッドハンドを賜わり、麗しい復活へ導かれる夢、一縷の望みを、棄て切れぬ自身がいる。女の未練と揶揄からかわれても、致し方ない想いが、由美子に、くすぶっている。

 ……その、慎一とて同様の、言葉に出来ない、可能性を語るも憚られる、夫婦の想いを、この雨が、知ってか知らずか、優しく、慰藉する。壁一枚隔てた隣室同士、相通じる悲しみを、この雨が成り代わって、歌唱しているかの、自然の営みは、時に意地悪のように、互いの大切なものを、奪い去ってしまったのかも知れない。

 優しいけれど冷たくて、強がっているけれど寂しがり屋の、その涙をちりばめる風と共に、まだ、止まない、雨……


 それぞれの境界を守るように、一面の雨色、一色の雨音のブリッジが、重た気な空から、さっと慌てて彷徨い落ちながら、いっそ遮り、他の侵入には寛容ならざる態度で、見通せない橋を、架け渡す事頻りである。街は、その代償として、冷静に振る舞って濡れそぼり、かすかに白く煙って、休日の人影を消しても仕方がない。

 何言かを刻むように叩く、規矩きく正しい雨音は、ベースたる低音域の柱となり、人々の心肝に意見を求めるかたわら、そわそわした雨打ち際が、その不機嫌な面様おもようを想わせる、神経質振った風情を崩そうとせずに、両々この上ともじらい、静寧の寒流に宥めている。

 橋の両詰の堤上に、ひとりずつ、わだかまっている、慎一と由美子。声にならない、届かない声で、伴侶への疑問を投げ合っている最中さなか矢庭やにわに降り出した雨は、似た者同士が呼応して、視程不鮮明な橋諸共もろとも、呑み込み、流し、遺されたものは、曖昧、無言、寂しさ……そのままの夫婦ふたり。

 だけど、それでも、雨は降り続いて、止まない。互いに投げ掛ける疑問のように、止みそうもない。他者へ疑問を向けている内は、意味のない事に意義を与えている内は、雨は、止まない……自らを、自らの手によって、悲しい立場に追い込んでしまった者同士の、そんな涙だった。悲しい立場にいる人間が、悲しい立場にいる人間に向けて、悲しい言動の、冷たく沁み渡る雨を降らせてしまった。大人振るばかりで、まるで聞き分けのない子供が、駄々だだねるような、如何ともし難い、無知蒙昧むちもうまいな、そして、本心に盲目な雨であった。

 他者に抵抗、自らに無抵抗な偽善者達のこころを、びっしょり濡らす、無意味もどきの冷たい空っぽの雨には、どの道、虚像の匂いしか感じられない。誰にも言えない、言いたくない、このまま隠し通したい、触れて欲しくないこころには、非常識が生んだ、常識の涙の匂いが入りじっていた。


〈お互いのこころは、わかっている。わかっているからこそ、言葉にしない、出来ない……したくても、出来なかった……〉


 背中合わせの夫婦関係は、想い想いの方向へ、歩き出している。静かに振られた両の手は、何を意味しているのだろう?

 遠くにある真の目的は、差し当たりの、目先の充足に埋没している内に、その姿を消してしまった。ふたりは、


〈いつか、いつかきっと、でも、どこまで? どこまでゆけば、それは見えるのだろう? ……出逢えるのだろう? 何を話せば、何を聞けば、そして、あとどれだけ泣けば、良いのだろう? ……〉


 漠然とした将来の不安は、取りあえずの回答にすがり付き、大切なものを覆い隠してしまった。身もこころも、疲れ切っていた。

 虚勢。それは、自身の過ち、弱さを知ろうとしない精神。何れ真実や本心を隠し、真に大切なものであるべき、幸せ、自由さえ、時に遠ざけ、そして、失くす。こころのロジック、文化人間学、その可能性としての愛、その核を成す、喪失感への深慮、それらの拡充を以てこそ、ベテランはベテランたり得る。報われる時は、いつやって来るのだろう?

 無言という、優しい嘘は、この悲しみの雨を降らせた、夫婦相渉あいわたる、さりとて、個人に封じられた、涙。積もりに積もり、大きく膨らみ、膨らみ過ぎて、もう抱え切れなくなっても、それでも無言の、秘密の冷たさにふるえる雨は、尚も降り頻って、止みそうもない。そして、相憐れみ、冬の寒さの先触れを任じられたのであろう。

 それを癒すのは、どの道、やはり雨、雨が良いかも知れない。何ものをも拒んだりしない、季節とは無関係に暖かく、優しい雨ならば……良い。そんな雨ならば、良い。

 かたちを成さぬ無言の中には、かたち以上の想いが、寂しさが籠もっている。だから、積もる。積もってゆく。目には見えずとも、膨らみ、抱え切れなくなって、一杯一杯の器の中の大切なものが、居場所を失くし、逃げていってしまう。寂しさが、大切なものを追い出す。

 器の中に、大切なものをたくさん詰め込む訳ではない、忙しさ、それでも、疲れの傷、そして、、喪失感なる、り減って失くしてしまった残痕の、引きった空虚な傷、人間のプライドを濫用した為に空けた、罪と罰に呻吟におう穴を韜晦とうかいする、虚勢の冷たさを、雨に、降り止まぬ雨に、そっとかばって欲しい……。

 慎一と由美子。

 ふたりの胸裡きょうりしまわれた、悲しみの氷塊は、情念の業火ごうかに炙られ、溶解して流れ出し、あるいは涙にとどまるものの、あるいは部屋中に気化して、漂うままに充溢し、やおら生じた温度差に、別々の層を成して風を喚び、その風が雲を運び込んで降らせた、今日のこの雨……自身を自身で慰藉する、寂しいけれど匂い立つような、優しい雨。涙へ別れた悲しみをもいざない集め、一緒になって泣いてくれる、耳を傾けて、痛みの理由わけをわかってくれる、だから崩壊を想いとどまらせてくれる、抑止の拠り所かくあるべき、優しい雨だった。


〈もう壊れそうで、限界まで達しているのに、その時間が長くて、それにしても終わらない。窓を全開にして、美味しい空気を吸って、深呼吸して、美味しい水をたくさん飲みたいけれど……そんな事を考えていても、そんな自身の弱さを許せるのは、空っぽになってゆく、自身しかいない……〉


 その空虚な感覚を、ふたり別々に部屋中に散蒔ばらまき、尚も無力であったのは、無意識下に於いて、麻痺という酩酊状態に陥っていたのだろうか? ともすれば、それこそがサンクチュアリ、矛盾の川から、果てしない解離の海にでぬよう、さらわれぬよう、防衛本能の無反応、静寂、つまり無言の抵抗、汲み取ってくれない、儚い抵抗であったのか?

 傷の痛みに、魔物の手によって、時間という、遅効性の鎮静剤を投与され、静寂なる、明識意欲の半麻痺状態に嵌まり込み、孤独を宣告されたのである。よって静寂とは、こころの疲労の代表的な自覚症状との、不名誉な別言をも、併せて引き受けざるを得ない。そして、静寂との共存に明け暮れ、天の水入りの如き、爪痕をかばう雨であった。たまさか目黒の街さえ、生きとし生けるもの悉くが、静かに泣き濡れ、その一段落を、一途に染め尽くすだけである。

 本当は大きなものと繋がっていたい、細い糸は、どんなに苦心をして、疲れてしまっても、所詮、細い糸。その大きさに、耐え切れるものではない。一方で求め合い、他方では隠し合う、そんな好都合な糸は、天網恢々かいかい疎にして漏らさぬ神の、劫罰ごうばつに怯え、とにかく自然になりを細め、恭順の意をひょうし、そのかすかな呼吸に許されたものが、無言、無関心。それは、無理を通して道理を引っ込めた、無茶を通してもネガティヴな道理は引っ込まない、嘘で埋めるしかない、空っぽの寂然顔をした、強かな風を招こうものなら、立ち所に切れてしまう、危うく生き永らえている、細い糸だった。

 かくなる嘘の、有言無言の常套手段は、無言ならば優しさが伴い、悪口の有言実行に至っては、如実に虚勢の領域の仕業ではあるものの、直言による実行には、最早病的なごうの深さが見え、かの領域を逸脱せんとばかりである。

 虚勢の寂しさを、無言という嘘で埋めた所で、何れにせよ、悲しみが募るだけ、尚々膨満して、手に負えない。終わりも、見えて来よう。さりとても、この不安までをも、更に虚勢で覆い隠し、平気な振りをし、それぞれに都合良く守ろうとするだけで、時間を虚しくして、癒えぬ傷口、埋められぬ穴は、かばえない。誰も、かばってはくれない。


〈このまま、寂しいまんまの、それぞれひとりという存在は、どこへ流れてゆくのだろう? いつも、いつまでも、ひとりの、寂しいまんまの、何もない時間は……そして、抜け出せない、変わらないひとりひとりが、そこにいる。何をしていても、ひとりである。たった、ひとりである。ひとりだけの時間に、自身が癒される。逃げ込むように、そんな自身と巡り逢い、こんな、孤独という、癒しを知ってしまった。だから……いつもひとりでいる……そっとして置いて欲しいだけなのに。何も動かないけれど、今は、ただ、こうしていたい、だけなのに……〉


 虚勢で得た傷をうちに秘め、虚勢に助けを求めて、一体、何になるというのか?


 時を刻む、壁掛け時計の針の音が、眠らせている不品行を、いたずらに煽るのだが、しくも雨の品行方正が、薄情けと知りつつも、それでも一切構わずに、被せるように降り頻る。無数の雨の糸の陰に隠れた夫婦は、刹那の休息に、それぞれ自身の悉くを、委ねるしかないのか?

 孤独なる魔物には、贅言ぜいげんを費やすまでもなく、無関心という魑魅魍魎ちみもうりょうが、寄生するかの如くへばり付き、相互関係を保ちつつ共生して、正にイコールで結ばれている。濃厚な事この上ない、さるにても暗々あんあんとした、後ろ影を引き摺っている。


 折から聞こえる、魔物の無言のモノローグ。彫心鏤骨ちょうしんるこつの技巧。


〈……だから、出来る事なら、それだけに、いつまでも、このまま引っ切りなしに、降り続いて欲しい。雨よ、屈せず、妥協せず、止まないで欲しい。雨よ……私の想いは、この雨と共に降り注ぎ、たとえ白く煙って、風に吸い込まれようと、どこかへ流されようと、降り止まぬ雨に、またぞろこの身を焦がすだけの、すがり付くだけの私を、この上とも許して欲しい。矛盾を成立させる為に、虚勢を必要とした私を、どうか、見逃して欲しい。雨と共に、諦めと忘却の、同じ血で繋がる一族の、怖い夢から、解離という、夢であって欲しい、非道ひどい夢から、消えてしまいたい……助けて欲しい! 雨よ! 全てを清算するが如く洗い流し、再び、出発点へ導いてくれ! どんなに時間が掛かろうと、忘れてしまった素顔を、想い出したい。取り戻したい……どれだけの時間が、経ったのだろう? これから、どれだけの時間が、掛かるのだろう? その時間は、あとどれだけ、遺されているのだろう? そして、待っていてくれるだろうか? ……〉


 魔物は、諦め、忘却、そして解離なる同族の、粛清の追っ手をくらますように、ひたすら静まり返り、内憂外患こもごも至る内情に、耐え忍ぶしかなく、ネガティヴな感情の共同体は、そのままのかたちとしての関係を、約束するものではない非情を知るに付け、その前途を予見するに、充分過ぎる程のファクターを、認めざるを得ない。

 無風無彩色の空間識、時間識は、感情の躍動の片鱗をも窺わせない、無機質で、半ば機械的な空気が貯留したような感覚を、夫婦に教え込み、日常的な相互意識を、麻痺へ追いるのだが、それが、なぜか心地良く、あながち嫌いとはいい難い、その不思議さを、疑う余地もない。

 それでも、無駄だとわかっていても、雨に、愛を感じる、慎一と由美子であった。

 魔物は、感情バイアスの意思決定から、受容と拒絶の二者択一、それに対する、必要以上の意義動機付けによって、差別隔絶化を促進するのだが、さればこその雨への思慕、急進であったかも知れず、加速するばかりの静寂に伍して、健闘するサンクチュアリをも、抱擁するかのように降り注ぐ雨に、ただ、想いを馳せてゆく。

 夫婦の絆は、暗い輝きを増すばかり、個々に陶然として、為す術もなく、前世からの因縁の如き、不遜な、上からの目線に立脚している事に、気付く由もない。この立脚地には、良い意味でアンテナを張り巡らせた、交換意識を、遮断する事を選択した、環境に甘んじ、新たなる挑戦を排し、その時間が長い程、愚神礼讃の幻影に手が付けられない、正しく孤独なる魔物が棲んでいたのだ。

 故に、そこに集まる知識も経験も、自ずとネガティヴの産物である。現実とは必然であり、断じて偶然ではないという理屈が、全く信じられず、虚静恬淡きょせいてんたんの欠片もない、偽善者の恥辱にまみれる自身を、想像したくもなかった。


〈ただ、弱かった、逃げていた……矛盾を矛盾で埋めようとするこころを、どうする事も出来なかった……互いのこころをわかっているような、理解者の仮面を脱がざるを得なくなった時には、もう、既に……〉


 人間とは、

 美しくもあり、また、汚くもある、双極の可能性を内包する、独立生命体である。余りに格好ばかりを気に掛けるのは、如何なものか? 異心が空っぽの無形物が、時を経て、尊い有形物に姿を変える。

 楽観でも悲観でもなく、その出発点とは、要するに、「過去」 なる概念といって憚らない。

 たとえ、不運な境遇に生まれ育ったとしても、先ず、自身の過去を素直に愛し、謝意を手向ける所から始めなければ、それに連なる何ものとて、愛し、大切にし、築き繋げる事は叶わず、第一、余りに救いがなさ過ぎる。現実なる必然に、充分に感謝たり得るなら、その始まりの過去についても、同質同等に接すべき事は、何も偶然に非ず、過去の必然のまま、その上に現実なる必然が成立している、極く当たり前の、子供にもわかるシンプルなロジック、道理である。ましてや、それを誤魔化そうとしても、到底無理が生じ、自他共に不信を招く。過去を熟成し、過去への多謝あってこその、そんな幸せを夢見たいものである。

 そして更に、過去の熟成を阻害する、最強の魔物たるは、いうまでもなく、「恨み」 なる情念、そこから派生した寂しさであろうか。百パーセント完璧な人間など、存在しないように、百パーセントのクオリティを誇る幸せとて、存在し得ない。しかし、この精度にこだわり、その剴切がいせつなこころという求めに応じなければ、たとえペシミストであっても、一パーセントの幸せにすら、追い付く事が出来ないのではないか? 縛られたまま、立ち止まったままではないのか?

 反骨精神という奴は、一旦目先に走ろうものなら、その情熱があだになり、たったの、個人的な恨みに堕ちる、意趣返しを受けがちである。誰もいないのに、頬を膨らませ、口をんがらせ、額を深く皺立たせるのが関の山の、ただ、くすぶり、呻吟におう。

 人生は、一度切りしかない。

 様々な出来事、想い。殊の外、悪しきそれらについて、前例として割り切る、いわば現実的な論理を越えんとする計算、〝創造性〟 なる精神が、必要であるように考える。創造とは、夢である。拡大と集中を適宜反復する、こころの目の焦点、夢と現実、妄想と理念、直観と合理性の、アンビバレンスの繊細な視点を、透過する事によって得た、無関係の事象同士の関連性、法則性、これらを起点としたイノベーティヴな発想、これ即ち創造、であるだけに、夢といえようか。食事を摂る事も忘れる程の、専心を必要とする、創造力を働かせるという精神行動。人生を、この創造性のフィルターで透過すれば、本物に出逢える事は、決して夢ではない、そう想えてならない。


 ……今はひたすら、雨の陰の世界に、暮れなずんでいた、慎一と由美子であった。ともすれば、うにその先へ、創造という夢の世界を、それぞれに先見しているのかも知れない。寂しさの共同体の、関係維持の気運は、人知れず待っていたかのような、雨に喚ばれ、それなりに雨に語られ、癒され、その妥結という儚い夢を、運命の悪戯に言寄せしようとしていたのかは、知る由もなかった。


 他者へ疑問を向ける無意味もどきの雨は、自身のこころに降り頻る、孤独という、涙雨である。嘘の陰には、無茶が隠れている。若い時代の主張は、ベテランになった時、あるいは嘘、あるいは嘘のような無言をも、生みもしようか。

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