第12話 天然

 二人の間にどれくらい時間が流れただろうか。

 俺は彩を見ているが、彩は下を向いたままだ。


「あのう。怒っています?」

「ああ」

「杉山さんは私の事、どう思っています?」

「彩ちゃんは美人で、すごく女性らしいと思っている」

「いや、そうじゃなくて、別の意味で…、です」


 そうだよ。好きだよ。本音はそう言いたい。だが、それは最終的には彼女を傷つける事になるだろう。

「それ以外の意味って何がある?君はとっても素敵な女性だ」

「分かりました」

 それだけ言うと、テーブルの上に彼女の涙が一粒落ちたのが見えた。


「それでは、失礼します」

「まだ、乾いていないだろう。乾いてから行っても…」

「いえ、完全に乾かなくても問題ありません」

 彩はそう言うと、ベランダから服を取り込み、寝室に消えていった。

 しばらくすると、着替えた彩が出てきた。

「これ、お借りしたバスローブです。ご迷惑をお掛けしました」

 そう言うと、彩はバスローブを差し出した。

 俺はバスローブを受け取るが、なんだかいい香りがする。


「駅まで送ろう」

 俺も部屋着から外出用の服に着替えてきて、二人で部屋を出る。

 エレベータに乗り、1階まで降りる。

 そして、昨日雨に濡れてきた道を駅に向かう。

 二人共会話をしない。駅に着けば別れると分かっていれば、何も会話の話題が出てこない。

 その駅までの時間は、いつもは長く感じられるのだが、彩と別れたくないと心の隅で思っているからだろうか、今日は直ぐに駅に着いたように感じる。

 改札のところで、彩を見送る。

 彩も改札を通って何度もこちらを振り返るが、最後はホームへ降りる階段を降りて行った。


 彩のいなくなった改札の中をしばらく見ていたのは、もしかしたら戻って来るんじゃないかと淡い期待を抱いていたからだろう。

 駅の電光掲示板に表示されている八王子方面に向かう電車の表示が切り替わった。

 彩は電車に乗っただろう。

 俺は自宅のマンションに向かって歩き出した。


 それから、彩からは連絡も来ないし、会社で待っているという事もなかった。

 俺も数日だったが、失っていた恋心というのを思い出して、内心苦笑いをしている。

 あの時、抱いていれば、二人の人生は変わっていただろうか。

 いや、決してそんな事はない。

 これで良かったのだ。彼女にはもっと良い人と出会い、もっと良い人生を歩いて貰いたい。

 第一、あの高橋に何と言えばいいのだ。


 次の日の土曜日、朝10時にジムに行こうと思っていた矢先、来客を知らせるベルが鳴った。

「ピンポーン」

「はい、どなたですか?」

「高橋です。おじゃましてもよろしいでしょうか?」

 その小鳥が囀るような声は彩だった。

「今から出かける用があるから悪いが、またの機会にしてくれないか」

 やっと、1週間経って、こちらも忘れて来たのに、逢えば俺もどうかなってしまいそうだ。

「えっと、私もついて行っていいでしょうか」

「いや、だめだ」

「では、ここで待ってます」


 彩は会社の前で1時間半も待った事がある。

 彩が待つと言えば、それこそ俺が帰るまで待つだろう。

 俺はどうしようか考えたが、結局中に入れる事にした。

 玄関のオートロックを開錠すると、彩が上がってきた。

 玄関の扉を開けてやる。

 彩は大きなバッグを肩から下げていた。


「そのバッグは?」

「今日はカレーを作ろうと思って、食材を持って来ました」

 そう言うと、彩はニコっと笑った。

 その笑顔は天使の笑顔だ。この笑顔には逆らえない。

「あ、ああ」

「あっ、どうぞ、出掛けて下さい。帰るまでには作っておきますから」

「いや、君一人を残して行く訳には行かない」

「えー、デートじゃないんですか?」

「相手がいないからね」

「どこへ行く予定だったんですか?」

「ジムに行こうと思ってた」

「会社ですか?」

「いや、事務仕事じゃなくて、トレーニングのジムだ。そのボケ2度目だな」

「えっ、そうでしたっけ」

「天は二物を与えず」って諺、以外と本当かもしれない。彩はどうやら天然みたいだ。


 彩は持参のエプロンをして、キッチンに立ち、料理の支度を始める。

 ジャガイモの皮を剥く音がする。

「あの、彩ちゃん?」

「あっ、杉山さんは、どうぞジムに行って下さい。お昼には戻ってきますよね」

「ああ、お昼には戻る予定だけど、君にそんな事をさせる訳にもいかないから」

「私は大丈夫です」

「いや、そうじゃなくて、もう来ないんじゃなかったのかい」

「誰もそんな約束はしていません」

 たしかに約束はしていない。

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