第3話 ミラカン
俺は自分の席に戻ると、遅れた事を課長に詫びて、執務をこなす。
俺自身は課長クラスではあるが、厳密な課長ではない。
「エグゼクティブマネージャー」という肩書がついている。
会社も1年にたくさんの人を雇用するが、全員を全員出世させる訳にはいかない。
出世するのは一部だけだ。
では、出世の見込みがない人は、そのままにしておくと他の会社に技術を持ったまま転職したりするので、留めるためにも何か役職を与える必要がある。
もちろん役職が付けば給料も増える。
それでできたのが、「エグゼクティブマネージャー」という課長待遇の役職だ。
正直、この役職は出世コースから外れた役職と言わざるを得ない。
このまま定年を迎えるか、上がっても部長級の「マネージャー」となるだけだ。
「エグゼクティブマネージャー」の方が上のように思えるが、実は「マネージャー」の方が役職的には上位である。
「エグゼクティブマネージャー」は社内では「エグマネ」と下卑たように言われている。
うちの課には課長一人と「エグゼクティブマネージャー」が5人居るが、出世の見込みのない「エグゼクティブマネージャー」は覇気がないのも仕方ないことかもしれない。
そして、今一番ドキドキしているのが係長連中である。
課長級に上がる時、「課長」という辞令を貰うのと「エグゼクティブマネージャー」という辞令を貰うのとでは、その後の出世コースが違うからだ。
「課長」の辞令を貰うと、「部長」や役員だって夢ではない。
40代半ばで出世コースが左右されるのは大きい。
そして、その特急券を手にできるのは、同期入社の中で一人か二人。
彩の父親で同期の高橋はその特急券を手にした一人と言う事だ。
「杉山エグゼクティブマネージャー、確認の方をお願いします」
係長から設計確認の図面が回されてきた。
「エグゼクティブマネージャー」の仕事は設計の確認だ。担当者が設計した図面をチェックし、良ければそのまま次の部署に回す。
ダメならどこがダメか設計者に指導し、再設計を促すのが仕事だが、簡単な構造物は既に設計モデルがあるので、入社後数年もすれば、ほぼ問題なく設計する。
それに係長だって確認しているので、俺の所に回って来る頃には問題となるような不具合はほとんど無い。
こんな仕事で高い給料を貰っているのも気が引けるが、貰える物は貰いたい。
夕方6時半、社員もまだ半分ほどは残っているが、退社する。
課長待遇なので、時間外は付かない。時間外が付かないので、さっさと帰ればいいのだが、課長待遇だからと言われるのが嫌で、毎日1時間はこうやって時間外をしている。
会社の玄関を出たところで、リクルートスーツを着た彩が立っていた。
「あれ?どうしたの?」
「あっ、いえ、朝のお礼にと思いまして…」
「ははは、律儀だな。そんな事、別に気にしなくてもいいのに」
「私の気が済まなかったので」
「そうか、お父さんも待っているか?」
「いえ、父はいいです。多分そんなに早く帰らないと思いますので」
たしかに、勝ち組になると、その先が見えているだけに、がむしゃらに働く。
中には毎日終電という強者も居る。
それが会社の思惑なのかもしれないが…。
「それで、どうする?飯でも食いに行くか?奢ってやろうか」
「ええ、本当ですか、ヤッター」
「相手がオジサンで今一だろうけど」
「杉山さんはオジサンじゃありません」
「いや、君の父親と同い年だからな、オジサンでも否定しないよ。もし、小さいときに会っていたら、『オジサン』と呼ばれていただろうしね」
「そんな事はありませんよ」
しばらく、彩と二人で歩いていたが、オフィス街のはずれにあるイタリアンレストランに来た。
ここに来るのは久しぶりだ。若い頃は同期の女の子も居たので、同期会とか言って、良くこの店には来たが、同期の女の子が一人、また一人と結婚していくに従って、この店にも来なくなった。
俺の勤務する会社は建設会社なので圧倒的に女性の数が少なく、入ってくる女性はあっと言う間に誰かの奥さんになってしまう。
去年新入社員で入った子なんかは、そう美人という訳でもなかったが、1年したら寿退社して行った。
政治家のお偉い方は「女性の地位獲得を」と言ってはいるが、大多数の女性は平凡な主婦の座が望みなのかもしれない。
レストランは夕食の時間と重なっているためか、仕事帰りの若いカップルが目立つが、混んでいて待ち時間があるという程ではなかった。
テーブルに向かい合わせで座って、差し出された1つのメニューを二人で眺める。
「私はミートソースで」
彩が注文するが、ミートソースだと服に飛び散らないか?
「では俺はミラカンかな」
そう、名古屋出身の俺がここに来るのは、あんかけスパがあるためだ。
もっとも、あんかけスパは名古屋ではサラリーマンのランチといった位置づけだが、ここ東京では高級料理になっている。
「ミラカンって何ですか?」
俺はミラカンが名古屋のあんかけスパであり、俺自身が名古屋出身であることを説明した。
「えっー、私も『ミラカン』にすれば良かった」
「じゃ、変更しようか?」
「ええ、『ミラカン』でお願いします」
「では、『ミラカン』のセットを2つで」
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