天保14(1843)年 宗太郎 19歳

 宗太郎の前で入門簿に名前を書いているのは、せいぜい十歳ぐらいの子どもである。

 身分も学歴も、そして年齢も問わないという噂は本当なのだった。

 係の塾生に促され、宗太郎も記帳した。

 長州藩出身、宗太郎。紹介者、梅田幽斎。

「……」

 習字は苦手だ。

 先ほどの子どもの方が――と思いながら入門簿を見比べていると、係の塾生が、

「こんな歳の離れた子と同期とはご不満かもしれませんが、これが咸宜園ですので」

 と言った。

 宗太郎は誤解を解くのが面倒で、

「いえ」

 とだけ言って済ませてしまった。

 こういうときはきちんと説明しろと、幽斎先生に言われてはいる。


 咸宜園は、戒律の厳しい山奥の寺――行ったことはないが――のようであった。

 はじめに規則の説明があった。

 ――夜間は外出禁止。昼間でも外出の際は事前に舎長に届け出る。外出先で女人と飲食を共にしてはいけない。通行人を指さしたり嘲ったりしてはならない。

 園内でも、身だしなみはきちんとしていなければならない。はち巻き・もろ肌・腕まくりは禁止。

 現金はすべて主簿に預ける。

 討論はしてよいが喧嘩はご法度。

 退塾はいつしてもかまわない。ただし、最低一ヵ月は頑張ること――

 塾生は全員、何らかの「職分」につく。「舎長」や「主簿」、入門の際に応対してくれた「書記」も、みな職分である。

 宗太郎は「履監」をおおせつかった。はきもの係である。全員の下駄が揃っているか、じいっと見た。並びが乱れていればそのつど直した。

 起床は明六ツ(午前五時頃)。全員で掃除をし、全員で朝食。そして、陽が落ちるまで学ぶ。句読は「句読師」、会読は「会頭」が指揮する。夜もほとんどの者が自習に励んでいる。

 物事を真面目にこなすことは、宗太郎にとって苦痛ではなかった。さすがは西国一と称されるだけあると、感心もした。

 ただ、「詩作」だけが苦手であった。詩の心など、ない。興味がない。古の詩人が詠んだという有名な詩も、ただの漢字の羅列にしか見えない。

 四月に入門して半年で三級まで上がったが、詩作で行き詰まった。

 医者が不向きだとしても、詩人よりはまだましだろう……という思いを、宗太郎はうっかり顔に出してしまっていたが、外見上はまったく変化がないので、気づく者は誰もいなかった。


 秋のある晩、句読の復習をしていると、安民という先輩が声をかけてきた。

淡窓たんそう先生のところへ行かないか?」

 求馬先生は、弟さんの手掛ける井路の工事が終わった翌年、考槃楼を増築するとともに、「淡窓」と改名したとのことであった。

 宗太郎が入門したときの書記が安民先輩で、以来、何かと目をかけてくれていた。

 先生のところへ行こうというのは、詩を詠みに行こうということである。先輩は宗太郎が詩作でつまずいていることを知っていた。ありがたい――けれど、正直気は進まないと思いながら、

「はい」

 と言った。

 頭の中の幽斎先生に、

「行きます、お誘いいただきありがとうございます――と、そういう風に、笑顔で答えなさい」

 と叱られたが、もう手遅れだった。

孝之助こうのすけ、お前も行くか?」

 と、安民先輩は、宗太郎の同期にも声をかけた。

 孝之助は八歳。いまは日田の外で私塾を開いているという淡窓先生の養子の子であった。その養子は謙吉といって、もとは淡窓先生の歳の離れた弟だから、孝之助は先生にとって孫でもあり、甥でもある。

 先生の家系は優秀な人ばかりのようで、この孝之助も例外ではなかった。

「行きます。お誘いいただきありがとうございます」

 と、孝之助は元気に答えた。

 頭の中で幽斎先生が、

「ほら、あのように」

 と言った。


 先生と連れ立って四人、中庭へ出た。

 見事な満月だった。

 見事だ、きれいだ、とは思うのだけれど、それをわざわざ詩にする理由がわからない。

 それよりも、あの月が何であるかということの方が、興味を引く。どうして満ち欠けをするのだろう。

「月へ行ってみたいと思いませんか」

 と、淡窓先生が言った。

「月へ、行く?」

「福岡で学んでいた頃、亀井南冥という先生に、そう訊かれたことがあります。あそこにもきっと人が住んでいるだろうと、その先生は言っていました。当時は無邪気に、月の人に会ってみたいと思ったものですが、もしもあちらによからぬ野心があったら、やがては空の戦に備えなければならないでしょうね」

 あまりにも途方のない話で、宗太郎は返事をするのを忘れていた。

「詩作は嫌いですか」

「はい」

 と、あわてて答え、

「いえ、その、未熟です」

 と、さらにあわてて訂正した。

 淡窓先生は優しく微笑んで、

「詩人のような詩を詠めというのではないのですよ。物を見る力を養うために、詩作を課題としているのです。粘り強く、さまざまな角度から、一つの風物をよく見ることです。患者の病を診るという医者の仕事にも、きっと役立つと思いますよ」

 と言った。

 気持ちがするするとほどけていくようであった。

「そういうときこそ笑顔です」

 と、頭の中の幽斎先生に言われたが、左頬がひくついただけであった。

「医者に、なるのでしょうか、私は」

 と、つい言ってしまった。

「梅田幽斎先生からの紹介状には、蘭方医を目指していると書いてありましたが、違うのですか?」

 この頃の蘭語は、漢文の返り点の要領で読解されている。ゆえに、漢文は一般教養であると同時に、蘭語の基礎でもあった。

「実は、医者になると、はっきり決めているわけではないのです。ひとまず蘭語を読めるようになろうと、それだけを考えているのですが」

「……」

「淡窓先生、私は、何に見えますか?」

「こんなことを言っては、ご両親に叱られてしまうかもしれませんが……あなたには武道が向いていると思います」

「武道、ですか」

 それは思ってもみなかった言葉であった。

「何を考えているかわからない、と、よく言われるでしょう」

「はい」

「武道ではそれが強みだと聞いたことがあります。こちらの考えを相手に読ませないことが肝要なのだと」

「……しかし私は、いままで竹刀を握ったことすらありません。だいいち、武家の子ではありませんし」

「剣ばかりが武道ではありませんよ。兵法も武の道です。あなたは長州の出でしたね」

「はい」

「いま、異国との窓口は長崎となっていますが、海防の意味でより重要なのは長州です。本州と瀬戸内海、どちらにとっても西の玄関口に当たります」

「兵法も学ばれていたのですか?」

「独学でかじった程度ですが」

 と、淡窓先生は懐から将棋の駒を取り出し、月に透かすように見た。

 安民先輩が、

「先生、その駒、まだお持ちだったのですね」

 と言った。

「約束しましたからね……考えてみる、と」


 高野長英と淡窓は、あれ以来、会うことはなかった。

 江戸で長英は、渡辺崋山――永常を三河田原に紹介した人物――と組んで、蘭学の研究を始めた。そして、幕府の異国船打払令を批判し、獄につながれた。火災に乗じて脱獄したが、やがて隠れ家を突き止められ、最期には脇差で自ら喉を突いた。


「優秀な兵法家が長州に必要です。その人物は、最新の兵学書、すなわち蘭書が読めなくてはなりません。蘭書の研究で名を知られれば、きっとお声がかかるでしょう」

「……ですが、やはり、戦は武士にお任せすべきでは」

「武士が蘭語を学んで、大砲の弾道が計算できるようになるなら、それでよいかもしれません」

「……」

「宗太郎くん、私は――兵法家に限らず、兵一人一人も、家柄にこだわることはないと考えています。戦などめったに起こるものではない、もとい、起きてはいけないものなのですから、戦しかできない人間を大量に抱えておくのは非効率的です。手に職を持つ人々が定期的に訓練を受けて〝民兵〟となれば、いまより年貢はずっと安く済み、しかも兵の数は大幅に増やせます」

「戦に出るのを嫌がる人もいるのではないでしょうか」

 と、宗太郎は気づいたことを率直に言った。

 安民先輩が驚いた顔で宗太郎を見た。

 淡窓先生は、本当に悩んでいる様子で、

「そこが難しいところです。準備は万端だと見せつけさえすれば交戦は避けられると思うのですが……武器を手にする以上は、覚悟が必要ですからね」

 と言った。

「勝ち目がないと承知のうえで突っこんでいく、という美学もあるかもしれません」

 と、宗太郎はまた気付いたことを言った。

 安民先輩はひどくあわてていたが、淡窓先生は、

「ありがとう。人の命がかかっているのですから、穴は必ず指摘されるべきです。宗太郎くんはやはり兵法家に向いていると思いますよ」

 と、ほめてくれた。

「とは言え、これはあくまで私の意見です。これから蘭書をたくさん読むのですから、興味のわいた方向へ進めばよいでしょう」

「はい」

 そのとき、孝之助があくびをかみ殺したことに、どうやら三人とも気づいた。そして、微笑を見せあった。この瞬間は宗太郎も、わりと自然な笑顔ができたという実感があった。


 宗太郎は在籍二年、四級で咸宜園を辞去し、良庵りょうあんと名を変えて、今度は大坂の適塾に入門した。

 そこは何もかもが咸宜園と好対照をなしていた。

 似ているのは昇級の仕組みぐらいで、素行に関する決まりなどない。掃除の習慣も時間割もない。乱れた服装で、めいめいが勝手に勉強している。夏などふんどし一丁である。

 食事の用意をする女性たちがいたせいでもあっただろう。咸宜園では日常のあらゆる仕事を分担していたが、他人に世話を焼かれているうちは自治の精神など芽生えない。

 塾主の緒方洪庵おがたこうあん先生は「勝手にやれ」という方針らしかった。「らしい」というのは、姿さえめったに見せず、直接話を聞く機会がほとんどなかったからである。

 ただ、適塾が咸宜園より劣っているかと訊かれれば、そうは思わない、と良庵は答えるだろう。

 規律はめちゃくちゃである。ただし、誰もがめちゃくちゃに勉強する。書物を読みながら眠り、目覚めるとそのまま続きを読む。辞書が少ないので、取り合いになる。

 咸宜園は人間を育てる塾という気風があったが、適塾には当代随一の蘭学塾という自負があった。

 良庵は、必修の教科書である『和蘭文典前編ガラマンチカ』と『後編セインタキス』を読み終えると、主に医学書を読みつつ、ときおり兵法書も開いていた。


 適塾で四年学んだのち、故郷の鋳銭司村へ帰って診療所を開いたが、おそれていた通りの結果となった。無愛想ゆえ、評判が悪く、患者が来なかったのである。

「やはり骨格ですね。あきらめなさい」

 と、頭の中の幽斎先生がいった。

 そして、淡窓先生が予言した通り、蘭語で書かれた兵法書の翻訳家・研究家として、宇和島藩よりお呼びがかかった。

 長州が瀬戸内海の西の玄関なら、宇和島は南の玄関である。この地で良庵は、

「軍艦を建造せよ」

 という突然の無理難題を、持ち前の地道さで突破し、兵法家としての頭角をめきめきとあらわしていった。

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