同年 久兵衛 38歳
井路を作る工事を塩谷代官からおおせつかった。三隈川の上流・玖珠川から取水し、花月川、及び豆田町内を流れる城内川へつなぐ。
かつて田島村の与兵衛が掘っていた穴は、誰にも引き継がれず、自然に崩れるままになっている。ついにあの人の無念を晴らせるのだと思い、久兵衛は武者震いした。
人足の賃金、弁当代、工具・火薬類――予算は整った。が、肝心の人足が足りない。
賃金が出るとは言え、百姓や職人は自分の仕事もある。山を掘削するのだから危険も多い。井路ができたとき、その恩恵にあずかる田島村周辺の住民以外、なかなか手を挙げてくれない。
こんなときに謙吉がいれば、何かよい知恵を出してくれたかもしれない。謙吉は兄に取られた。そこで、塩谷代官が咸宜園に口出しをするよう仕向け、謙吉には独立をすすめた。
必ずしも間違ったこととは言えない。咸宜園は代官の庇護を受けるのだし、謙吉には新しい道が開ける。そんなわけで、久兵衛はさほど心を痛めていなかった。
けれど、腹いせはやはり腹いせだったのだろう。以前は人集めのようなことこそ得意だった。多少条件が悪くても説得する自信があった。なのにいまは、まず話を聞いてもらえない。天罰なのだろう。自分の人相もどうやら昔より悪くなっている。
しかし、いまさら兄に頭をさげる気にはなれない。
「まだか、博多屋」
塩谷代官はあからさまに不機嫌であった。
「期日はとうに過ぎておる。人足はまだ集まらんのか」
「申し訳ございません。どうかいましばしのご猶予を」
「しばしとはいつまでだ」
「それは……」
「待ったところでどうなるとも思えん。請負人のまとめ役を桝屋に変えようかと考えている」
「お待ちください。どうか、この仕事は私めに」
「なぜだ? 儲けにはなるまい。むしろ大変な出費だろう」
公金は経費必要の半分も出ない。大部分は博多屋を含む豪商たちの私財でまかなわれる。
豪商とは、豪快に富を積み上げるから豪商なのではない。身銭を切る豪胆さゆえに豪商なのである。
「なぜ井路を作りたがる。名誉のためか? 俺はそうだがな」
「与兵衛さんの背中を、私は見ているのです」
「よへい? 誰だ?」
「その昔、同じ場所に一人で井路を掘ろうとした男のことです」
「そんな痴れ者のことは知らん。お前の意気込みがどうあれ、工事には人足がいるだろう。それとも、そのよへいとやらと同じように、お前が一人で掘るか?」
「……そんなことはできません」
「ならばさっさと人を集めてこい。三日だけ待つ」
「わずか三日では……せめて十日ほど」
「十日あれば集められるという算段があるなら言ってみろ」
「……」
「では、三日だ」
賃金を上げて、もう一度募った。百姓の家を一軒一軒たずね、頼みこんだ。
こちらが賃金を上げたことで、案の定、もっと吊りあげようとしてくる者もいた。
いちいち応えていてはキリがない。これ以上は上げられないと言うと、ぴしゃりと戸が閉まった。
丸一日駆けずりまわって、一人も色よい返事がもらえなかった。
百姓たちの連帯は強い。よそがやらないのならうちもやめておこうという空気が支配している。
久兵衛は途方に暮れて、夕刻、与兵衛の掘っていた穴の跡にたどり着いた。
こうなったら、本当に一人でやってやろうか――と、穴をのぞき込んだとき、中から巨大な生き物が現れた。
熊――と、尻もちをついたが、熊のような大男であった。
「驚かせてすみません。私は日田義太夫という者です」
「日田、ですか」
「この土地で生まれました。三河田原で仕事をしていたのですが、お役御免になり、こうして帰ってきたのです」
「そうでしたか」
「ただ、恥ずかしながら父と折り合いが悪く、家出だったもので、まっすぐ帰るのもはばかられて、ぶらぶらしていたところ、この穴を見つけたという次第で」
久兵衛は義太夫に、この穴について、そして、いま自分の置かれている状況について話した。
「――ご苦労はお察しします。私は三河田原で農業のやり方を指導する仕事をしていたのですが、人はいますぐ、自分の利益になることしか、なかなかやりたがらないものです」
ハゼの実でろうそくを作れるようになるまで、苗を植えてから十年かかる。苗代の何倍にもなって返ってくるのだと、いくら説明しても、三河田原の役人は受け入れなかった。そして、義太夫は無能とののしられ、放り出された。
「井路をつくるというのは素晴らしいことです。生きた土地が俄然増えます。私で良ければ、喜んで参加しますよ」
「本当ですか。それは助かります。どうかお願いします」
「しかし、私一人ではどうにもなりませんね。会う人には声をかけてみますが、あまり期待はなさらないでください。何しろ三十年以上も昔に日田を飛び出したわけですから、覚えている人がいるかどうか……」
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